第16話 風向き
風が変わった、と思った。
──薬草園の話ではない。
毒混入事件の分析結果がブラント伯爵の名で各領に届いてから一週間。噂の色が変わり始めていた。「辺境の薬は危険だ」が「じゃあ誰が毒を入れた」に。
事実は、少しずつ──しかし確実に、噂を塗り替えていく。
その間もわたしは、伯爵領で治療を続けていた。農夫の腰痛。老婆の関節炎。子供の慢性的な咳。一人ずつ診て、一人ずつ薬を調合して、一人ずつ記録をつける。
地味な作業だ。地味で、泥臭くて、華やかさのかけらもない。
(でも、こういう数字がいちばん強い)
三つの領で治療した患者は、合わせて四十名を超えた。クロエさんの手帳に、一つずつ増えていく数字。反論できない実績。
◇
「リーネ殿、今日は北の岩場をご案内しますよ」
ディルクが、朝日の中で笑っていた。
伯爵領の北側に、薬草の自生地がもうひとつある。前回の案内では南の斜面だったから、今日は反対側。
「ありがとうございます。銀葉草に近い品種がないか、確認したいんです」
「銀葉草ですか。あの──辺境で最初に見つけた薬草でしたっけ」
「よく覚えていますね」
「父の膝を治した薬の主成分ですから。忘れませんよ」
ディルクの笑い方は──素直だった。裏がない。父親譲りの実直な目で、まっすぐこちらを見る。こういう人が、わたしは少し苦手だ。まっすぐ見られると、どこを見ればいいか分からなくなる。
三人で丘を登った。ディルクが先頭、わたしが真ん中、クロエさんが少し離れた後方。いつもの隊列。クロエさんは手帳を持って、自生地の分布を記録しながら歩いている。
岩場に差しかかった。
北側の斜面は南より険しい。苔むした岩が積み重なって、足場が悪い。前回、辺境の山道で銀葉草を探しに行った時のことを思い出した。あの時もこんな岩場で──クロエさんが前を歩いてくれた。
「ここ、少し滑りますから。手を」
ディルクが振り返って、手を差し出した。
大きな手だった。日に焼けて、指先にまめがある。伯爵の嫡男だけれど、領地の仕事を自分でやる人の手。
「あ──すみません、ありがとうございます」
手を取った。ディルクの手は温かくて、力が強くて、ぐいっと引き上げてくれた。岩の上に足が着く。
──風が吹いた。
丘の上からの風。冷たくて、髪が顔にかかりそうになった──けれど、かからなかった。
(あれ)
髪が乱れない。風は確かに吹いているのに、顔の周りだけ──風が弱い。
ちらりと横を見た。
クロエさんが、いつの間にかわたしの風上に立っていた。
手帳を閉じて、外套の裾が風にはためいている。さっきまで後方にいたのに──気づかないうちに位置を変えていた。わたしとディルクの間──というより、わたしと風の間に。
「……君」
ディルクの声がした。
岩の上からクロエさんを見下ろして──ディルクが、小さく笑った。困ったような、感心したような笑い方。
「風向きまで計算してるのか」
クロエさんは──無言だった。
灰色の目が一瞬だけディルクに向いて、すぐに手帳に戻った。何事もなかったように、ペンを走らせ始める。
(……何の話?)
風向き? 計算?
意味が分からなかった。護衛の人が風上に立つのは──まあ、自然なことだろう。風で砂や埃が飛んでくるのを防ぐとか、そういう理由で。
「ディルクさん、向こうの岩陰に群生が見えるんですけど」
「ああ、行きましょう」
ディルクが手を離した。さっきまで握っていたわたしの手を──何の未練もなさそうに、すっと放した。
(あれ)
前回の案内では、ディルクはもっと近い距離にいた。花をくれて、身を乗り出して話しかけてきて。今日は──少し、距離がある。
気のせいだろうか。
◇
午後。
伯爵邸に戻って、作業室で軟膏の在庫を確認していた。
ディルクが茶を持ってきてくれた。
「リーネ殿、少し休憩しませんか」
「ありがとうございます」
茶碗を受け取りながら、ふと──ディルクの様子がおかしいことに気づいた。
笑顔は変わらない。声も穏やかだ。でも──目が、少し寂しい。
「ディルクさん、何かありましたか」
「いいえ。──ただ」
ディルクが茶碗を置いて、わたしを見た。あの実直な目。
「僕は、リーネ殿を応援しています。薬草院のことも、巡回のことも。──それだけ、お伝えしたくて」
言葉が──軽くなっていた。
前回の訪問では、もっと──何というか、熱があった。花をくれて、「きれいでしょう」と言って、わたしの話を身を乗り出して聞いてくれて。
今日の「応援しています」は──友人に向ける声だった。
(何かあったのかな)
「ありがとうございます。ディルクさんの案内がなければ、北の自生地は見つけられませんでした」
「いえ。──あ、それと」
ディルクが、少しだけ声をひそめた。
「あのクロエさんって方。大事にしてあげてくださいね」
「……え?」
「いい人ですよ、あの方。──不器用だけど」
意味が分からなかった。なんでディルクが、クロエさんのことを。
「あの方から頼まれたんですか、何か」
「いいえ。僕が勝手に思っただけです」
ディルクは笑った。あの素直な笑い方。でも──目の奥に、何かを飲み込んだような影があった。
(何があったんだろう)
聞こうとしたけれど、ディルクはもう立ち上がって「では、午後の患者さんの準備を」と作業室を出ていった。
◇
夕方。
伯爵邸の作業室で、クロエさんと二人きりになった。
手帳を開いたクロエさんが、いつもの抑制的な声で言った。
「調査の進捗を報告します」
「はい」
「毒の調達ルートが特定できました。王都近郊の薬種商──三軒のうちの一軒で、トリカブト系原料の購入記録がありました。購入者は──モルゲン子爵家の使用人」
モルゲン子爵家。
あの手帳に書かれていた名前。レギーナ・モルゲン。
「使用人が購入した毒を、辺境から各領への輸送経路上で──中継地点のひとつ、南部丘陵地帯の宿場で薬草の荷に混入した。宿場の帳簿にモルゲン家の名前がありました」
「……モルゲン子爵家が、わたしの薬草に毒を」
「正確には、モルゲン子爵家の使用人が。──ただし」
クロエさんの灰色の目が、わたしを見た。
「使用人が単独で動いたとは考えにくい。指示系統があるはずです。まだ──その先が見えていません」
その先。
使用人に指示を出した人物。モルゲン子爵夫人──レギーナ本人か、あるいはさらにその上か。
「証拠は」
「薬種商の取引記録と、宿場の帳簿の写し。伯爵閣下の名前で入手しました。ただし──まだ公開はしません」
「なぜ」
「指示系統の先が見えていない段階で公開すれば、証拠を隠滅される可能性があります。──もう少し、泳がせます」
冷たい声だった。使者を追い返した時と同じ──切れ味のある声。
(この人は、調査員だったんだ)
思い出す。辺境に来た時の名目は「実態調査」。国王の密命で動いていた人。証拠を集めて、事実を積み上げて、最後に一気に突きつける──そういう仕事をしてきた人。
「……分かりました。クロエさんの判断に任せます」
「もうひとつ」
クロエさんの声が──少しだけ低くなった。
「王都から噂が届いています。『元王太子アルヴィンも、聖女の偽りの託宣の被害者だった』と」
──何。
「被害者? あの人が?」
声が裏返った。
アルヴィン・ルクレシア。元王太子。わたしを断罪した人。聖女の託宣を根拠に、弁明の機会も与えず、わたしを辺境に追放した人。
その人が──被害者?
「噂の発信源を辿ると、神殿の周辺に行き着きます。神官長ヴェルナー猊下の──」
「あの人が被害者なわけないでしょう」
遮った。声が震えていた。怒りだ。
「あの人は──弁明も聞かずに断罪した。聖女の託宣ひとつで、わたしの二十年を全部消した。それを──被害者?」
拳を握った。爪が掌に食い込む。
(落ち着け。落ち着け、わたし)
深呼吸した。一回。二回。
「……ごめんなさい。取り乱しました」
「いいえ」
クロエさんの声は──穏やかだった。さっきまでの冷たい「調査員」の声ではなく、辺境でお茶を淹れてくれる時の、あの低い声。
「噂は噂です。事実とは違う。──あなたが一番、よく知っている」
わたしを見る灰色の目が──少しだけ温かかった。
(……そうだ)
わたしには議事録がある。あの日の記録が。王太子が何を言ったか、一字一句残っている。
噂は噂だ。事実は──わたしの懐にある。
「アルヴィンが被害者かどうかは、議事録が証明します。あの人は自分の意志で断罪を行った。聖女の託宣に乗っただけだとしても──弁明を許さなかったのはあの人の判断です」
「ええ。その通りです」
「……ありがとうございます。冷静になれました」
クロエさんは小さく頷いて、手帳に視線を戻した。ペンが走り出す。
──ふと、言った。
「もうひとつだけ」
「はい」
「王都で動きがあります。──近いうちに、向こうから仕掛けてくるでしょう」
向こう。
神殿か。レギーナか。あるいは──もっと大きな何か。
「どんな仕掛けですか」
「まだ分かりません。ただ──毒混入が不発に終わった以上、次の手を打つはずです。追い詰められた側は、必ず大きく動く」
クロエさんのペンが止まった。
「備えてください」
低い声。静かな声。でも──その奥に、硬いものがあった。
(この人は、わたしを守ろうとしている)
護衛の義務。勅命で決まった役割。──それだけだろうか。
風向きを計算して、一晩中窓の外に立って、毒の調達ルートを辿って、噂の発信源を突き止めて。全部──「護衛の一環」で説明がつくのだろうか。
(……考えるな。今は)
目の前のことがある。患者がいる。薬草がある。証拠を積み上げて、事実で戦う。
それがモブのやり方だ。
作業室の窓から、夕焼けが見えた。ブラント伯爵領の丘陵が赤く染まって、風が──北に変わっていた。




