第14話 花と果実
薬草の花を見て「きれい」より先に薬効を答えてしまうのは、たぶん一生治らない。
ブラント伯爵領の丘陵地帯は、辺境とは土も光も違っていた。赤みがかった粘土質の土壌。日当たりのいい南斜面に、見たことのない野草が群生している。風が吹くたびに、甘い花粉の匂いが立ちのぼった。
「この辺りは薬草の宝庫なんですよ。父が言うには、昔は薬草を摘む専門の農婦がいたとか」
隣を歩いているのは、ディルク・ブラント。伯爵の嫡男。栗色の髪に、父親譲りの実直そうな目。わたしより二つ年上で、肩幅が広くて、よく笑う。
「リーネ殿が来ると聞いて、案内役を買って出たんです。父の膝を治してくださった方ですから」
「ありがとうございます。伯爵閣下のお膝は、その後いかがですか」
「すこぶる快調です。杖を捨てて、毎朝散歩するようになりまして。母が『若い頃に戻ったみたい』と」
嬉しかった。素直に。
ブラント伯爵領に着いた時、伯爵自身が門まで出迎えてくれた。杖なしで。あの重厚な石の階段を、自分の足で下りてきた。「リーネ殿、よく来てくれた」と──わたしの手を、両手で握ってくれた。
(帰ってきた、みたいな気持ちだった)
勅命を受けてから三つの領を巡った。グラーフ侯爵は「様子を見たい」と後退した。南部丘陵地帯の町では治療は成功したけれど、契約の話にはならなかった。
ここが──三つ目。そして、一番の味方がいる場所。
「あ、リーネ殿。見てください、あそこ」
ディルクが斜面の先を指さした。
黄色い花が咲いていた。小さな五弁の花が、風に揺れている。茎が細くて、葉は対生で──。
「セイヨウオトギリソウの近縁種ですね。この花の浸出油は、軽度の火傷や擦り傷の治癒に使えます。成分的にはヒペリシンとヒペルフォリンが──」
言いかけて、止まった。
ディルクが──笑っていた。困ったような、でもどこか楽しそうな笑い方。
「僕は『この花の名前を知っていますか』と聞こうとしたんですけど」
「え」
「花の美しさを聞いたんですけどね」
ディルクが、その黄色い花を一輪摘んで──わたしの方に差し出した。
「きれいでしょう。秋に咲く花は、少し寂しげで──でも、だからこそ目を引く」
受け取った。
指先に、花弁の柔らかさが触れた。
(……あ、これ)
褒められているのか、花の話をしているのか、判断がつかなかった。前世でも今世でも、こういう場面への対処法をわたしは知らない。
「あ、ありがとうございます。きれいですね」
「ええ。きれいです」
ディルクの目が──花ではなく、わたしを見ていた。
(え、ちょっと)
顔が熱い。絶対に赤くなっている。まずい。
「あ、あの、向こうの斜面にも自生地がありそうなので、行ってみませんか」
早足で歩き出した。ディルクが「あ、待ってください」と笑いながらついてくる。
──丘の少し離れた場所に、クロエさんが立っていた。
手帳を開いて、何かを書いている。薬草の自生地の分布を記録しているのだろう。わたしたちの方は見ていない──ように見えた。
◇
伯爵邸に戻って、作業室に籠もった。
旅の間に溜まった記録を整理する。各領の治療実績。患者数、症例の種類、使用した薬草、治療の経過、改善率。
クロエさんがまとめた数字を、わたしが精製ノートの形式に書き直していく。
「グラーフ侯爵領で七名。南部丘陵地帯で十二名。ブラント伯爵領では到着初日だけで五名」
クロエさんが手帳を読み上げた。
「三領の合計で治療患者二十四名。うち慢性症状の改善が十九名。治癒魔法で再発した症例の根本治療が六名」
数字。
一つ一つは小さい。でも──積み上がれば、反論できない重さになる。
「これ、全部記録に残していたんですね」
「はい」
「……いつから」
「辺境にいた頃から」
手帳を持つクロエさんの指先が、紙の上を滑った。あの分厚い手帳には──辺境の診療所の記録から、今回の巡回の記録まで、全てが入っているのだろう。
(この人は、わたしの仕事を──ずっと数えてくれていたんだ)
わたしが患者を診ている間、この人は数字を書いていた。わたしが薬草を精製している間、実績を記録していた。
辺境の棚も、薪も、茶も──全部「手」だった。そして、この数字も。
「ありがとうございます。これがあれば──いつか、証拠になる」
「ええ」
短い返事。でも──クロエさんの口元が、ほんの僅かだけ緩んだ気がした。
気がした、だけだ。蝋燭の影のせいかもしれない。
◇
翌朝。
目が覚めると、竈の上に粥が湯気を立てていた。
辺境と同じだ。伯爵邸に滞在していても、クロエさんは朝食を自分で作る。伯爵邸の調理場を借りて──いや、たぶん申し出て使わせてもらっているのだろう。
匙を入れた。
「……今日のは甘いですね」
口の中に、乾燥果実の甘みが広がった。いつもより明らかに多い。杏のような酸味と、干し葡萄の蜜のような甘さが、粥の塩気と混ざっている。
クロエさんは向かいに座って、自分の椀を持っていた。
「……そうですか」
低い声。平坦な抑揚。
わたしはもう一匙すくった。甘い。おいしい。でも──なんで今日だけ。
(伯爵領だから、手に入る果実の種類が違うのかな。たまたま甘いものが多かったんだろう)
そう結論づけて、粥を全部食べた。
おいしかった。
◇
午後。
伯爵邸の作業室で、明日の治療の準備をしていた。軟膏の配合を確認して、銀葉草の在庫を数えて──。
廊下を走る足音が聞こえた。
扉が開いた。伯爵邸の使用人が、息を切らして立っていた。
「リーネ殿──辺境から、急報です」
手紙を受け取った。封蝋もない、急いで折り畳んだだけの紙。トマスの字だ。大きくて、不揃いで──震えている。
『先生、大変だ。
辺境から各領に送った薬草の中に、毒が入っていた。
南部の町で煎じ薬を飲んだ患者が二人、体調を崩した。命に別状はないが、腹痛と嘔吐が続いている。
薬草の荷の中から、見たことのない粉が出てきた。
先生の薬じゃないと、わしは分かっている。でも、噂はもう広がっている。
「辺境の薬は危険だ」と。
トマス』
──手紙が、震えていた。
わたしの手が。
(わたしの薬草が──人を傷つけた?)
違う。トマスが書いている。「先生の薬じゃない」と。見たことのない粉。外から持ち込まれた何かが、薬草の荷に混ぜられた。
でも──患者が苦しんでいる。わたしの名前がついた薬で。
膝が震えた。椅子の背を掴んで、立っている。
(落ち着け。落ち着け。わたしは植物学者だ。分析ができる。成分を特定できれば──)
「リーネ殿」
クロエさんの声がした。
いつの間にか、作業室の入口に立っていた。トマスの手紙のことは──使用人から聞いたのだろう。わたしの顔を見て、手紙を見て、全てを理解した目をしていた。
「分析しましょう」
低い声。揺れていない。
「あなたの知識なら原因を特定できます。毒の種類、混入経路、出所。──全て」
冷静だった。
わたしが震えている時に、この人は──震えない。感情ではなく事実で、不安ではなく計画で、わたしを支える。
いつもそうだ。
「辺境に現物を送ってもらいます。毒が混入された薬草の実物があれば、わたしが──」
「はい。手配します。最速で届くように」
クロエさんが手帳を開いた。ペンを取る。もう段取りを組み始めている。
「ブラント伯爵閣下にも報告を。伯爵領の伝令馬を借りれば、辺境まで五日で届きます」
「……はい」
息を吸った。
震えが──少しだけ、おさまった。
(わたしは植物学者だ。毒も薬草も──わたしの領分だ)
手紙を畳んで、懐にしまった。議事録の写しの隣に。
窓の外に、秋の夕暮れが広がっていた。ブラント伯爵領の丘陵が赤く染まって、風が冷たく吹いている。
昨日まで穏やかだった景色が──同じはずなのに、違って見えた。




