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断罪されたモブ令嬢ですが、放置されていた辺境で気づいたら聖域を作っていたらしいですよ?  作者: 九葉(くずは)


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第13話 聖女の涙

「あなたが、辺境の薬師リーネ様ですね」


 白い衣を纏った少女の声は、思ったより小さかった。


 二番目の訪問先──南部丘陵地帯の小さな町の診療所。石壁の古い建物の前で、わたしは馬車を降りたばかりだった。


 少女が立っていた。


 淡い亜麻色の髪。白と銀の聖衣。胸元に神殿の紋章の刺繍。年はわたしより若い──十七か十八くらいだろうか。大きな青い目が、こちらをまっすぐに見上げている。


 聖女。


 新聖女エリーゼ・フォーゲル。


(──ミリアーナの、従妹)


 あの断罪の日、わたしに微笑んでみせた聖女の。


 背筋が強張った。


「……はい。リーネ・ヴァレンシュタインです」


「わたしはエリーゼ・フォーゲルです。巡回治癒でこの町に参りました」


 声が──震えている。


 いや、震えているのとは少し違う。緊張だ。この子は──わたしに会うのを、緊張している。


(なんで)


 聖女がモブの薬師に緊張する理由が分からなかった。でも、その大きな目には敵意はなかった。むしろ──何かに怯えているような。


「……あの」


 エリーゼが唇を噛んだ。


「実は、今──どうしても治せない患者がおりまして」



 診療所の中に入ると、寝台に少女が横たわっていた。


 十二か三の子供。頬がこけて、唇に血の気がない。ぜえぜえ、と胸が上下するたびに、細い笛のような音が鳴る。


(──ルカと同じだ)


 あの日の記憶が蘇った。辺境の薄暗い部屋で、トマスの孫が咳に苦しんでいた日。


「この子はマルテ。この町の靴屋の娘です」


 町の医師らしい白髭の老人が説明した。


「三年前から発作が繰り返しておりまして。聖女様に二度、治癒をお願いしたのですが……」


「二度とも、一時的には楽になりました」


 エリーゼが引き継いだ。声が沈んでいる。


「でも、三ヶ月と持ちませんでした。先週また発作が起きて──今回は、わたしの治癒でも呼吸音が改善しないのです」


 エリーゼの手が、膝の上で握りしめられていた。白い聖衣の裾を掴んで、指先が白くなっている。


(この子は──悔しいんだ)


 治せないことが。聖女の力で、救えないことが。


「診せていただいてもいいですか」


 寝台の傍にしゃがんだ。マルテの額に手を当てる。微熱。


「マルテちゃん、息を吸って。──ゆっくり吐いて」


 少女がぎこちなく従った。吸気時にひゅう、と高い音。呼気時にぜえ、と低い音。


(気管支の慢性炎症。ルカより重い。気道のリモデリングが進んでいる可能性がある)


 前世の知識が回る。三年間の繰り返す発作。治癒魔法で一時的に炎症が抑えられても、気道壁の構造変化──リモデリングは進行し続ける。放置すれば気道が不可逆的に狭窄する。


 ──銀葉草。


「銀葉草の蒸気吸入を行います。それと──」


 薬箱を開けた。辺境から持ってきた銀葉草の生葉がある。カノコソウの根。フユハッカ。


「吸入で気道の急性炎症を抑えて、煎じ薬で気管支の筋肉を弛緩させます。それから──」


 もうひとつ。ルカの時にはなかった手札。


「ヨモギギクの精油を胸に塗ります。気道のリモデリング──壁が厚くなって狭くなる症状を、遅らせる効果があります」


 エリーゼが息を呑んだ。


「リモデリング……壁が、厚くなる?」


「治癒魔法は炎症を消しますが、炎症によって変化した気道の構造までは戻せないんです。だから──炎症が消えても、根っこの問題が残る」


 エリーゼの目が、大きく見開かれた。



 銀葉草を湯に浸して、布で覆いをかけた器を作る。辺境でルカにやったのと同じ手順。ただし今回は、ヨモギギクの精油を数滴加える。


「マルテちゃん、すうっとする匂いがするよ。ゆっくり吸ってね」


 少女の細い肩を支えて、蒸気を近づけた。


 エリーゼが──寝台の反対側に膝をついていた。聖衣の裾が床に広がっている。聖女の格好のまま、床に膝をついて、マルテの手を握っている。


(……この子、いい子だ)


 直感がそう言った。偽りの託宣でわたしを断罪したミリアーナとは──違う。


 蒸気吸入を続ける。五分。十分。


 マルテの呼吸音が──変わり始めた。


 ひゅう、という笛の音が薄くなっている。胸の上下が穏やかになっていく。


 煎じ薬を飲ませた。苦い顔をするマルテに「もう少しだけ」と声をかけて、ヨモギギクの精油を胸元に薄く塗り込んだ。


 二十分。


 三十分。


「……あ」


 マルテが──深く息を吸った。


 ぜえぜえという音が、消えていた。


「息が……楽」


 少女の目に涙が浮かんだ。三年間、苦しかったのだ。夜も眠れないほどの発作が──止まった。


「マルテ!」


 診療所の入口から、母親らしい女が駆け込んできた。娘を抱きしめて、泣いている。


 わたしは立ち上がって、一歩下がった。


 ──エリーゼは、まだ膝をついていた。


 マルテの手を握ったまま、動かない。青い目が──濡れていた。


「わたしの治癒では、無理でした」


 小さな声だった。わたしにだけ聞こえる声。


「二度も治癒をかけて──二度とも、この子を救えなかった。わたしは聖女なのに」


 声が震えていた。悔しさと、安堵と、それから──何か、もっと深いものが混じった震え方。


 診療所の入口の影に、神殿の紋章入りの上着を着た男が立っていた。エリーゼの随行の神官だろう。その男が──今の場面を、見ていた。


 聖女が「無理でした」と言った場面を。


(あの人、報告するんだろうな。神殿に)


 聖女の治癒で治せなかった症例を、辺境の薬師が治した。──その事実が、神殿にとってどういう意味を持つか。


 考えると、胸がざわついた。



 日が傾いてきた頃、エリーゼがわたしを呼び止めた。


「リーネ様──少し、お話できますか」


 診療所の裏手に小さな庭があった。痩せた草地に、木の長椅子がひとつ。秋の風が冷たくて、エリーゼの亜麻色の髪が揺れた。


 二人きりだった。


「……あの」


 エリーゼは長椅子に座って、膝の上で手を組んでいた。指先が震えている。


「わたし──神官長猊下に、命じられていることがあります」


「神官長……ヴェルナー猊下ですか」


「はい。猊下は──薬草院について、否定的な報告を書くようにと。『薬草は未検証で危険な手段であり、聖女の治癒こそが唯一の正しい医療である』と」


 ──やっぱり。


 グラーフ侯爵の屋敷に来た神殿の密使。「様子を見たい」と態度を変えた侯爵。全部──繋がっている。


「でもわたしは……」


 エリーゼの声が、かすれた。


「今日、見てしまいました。マルテちゃんが息を吸えるようになった瞬間を。わたしが二度かけても治せなかった子を、リーネ様が──」


 青い目から、涙がこぼれた。


 ぽたぽたと、膝の上の白い聖衣に落ちている。


「嘘の報告なんて書けません。書きたくない。でも、神官長猊下の命令に逆らったら──わたしは聖女でいられなくなるかもしれない」


 わたしは──黙って聞いていた。


 この子は、板挟みにされている。聖女としての義務と、自分の目で見た真実の間で。


「エリーゼさん」


「はい」


「治癒魔法と薬草は、敵じゃないです」


 エリーゼの目が──わたしを見た。涙で濡れた大きな目が。


「治癒魔法は急性の症状を抑えることに長けています。痛みを消す、炎症を鎮める──それは、薬草にはできない速さです」


「でも──根本が」


「そう。根本治療は苦手。でもそれは『ダメ』じゃなくて、『役割が違う』んです」


 言いながら、自分でも──これは大事なことだ、と思った。


「治癒魔法で急性期を支えて、薬草で根本を治す。二つが補い合えば──マルテちゃんのような子を、もっと早く楽にできる」


 エリーゼが──泣き笑いの顔をした。


 涙が頬を伝っているのに、口元が少しだけ上がっている。


「……敵じゃないって、本当にそう思いますか」


「思います」


「薬草があれば聖女はいらない、とは思いませんか」


「思いません。わたしが今日マルテちゃんを治せたのは、エリーゼさんが二度の治癒で発作を抑えてくれていたからです。あの子の気道がまだ保たれていたのは──聖女様の治癒があったからですよ」


 エリーゼの目から、また涙がこぼれた。


 でも今度は──笑っていた。


「ありがとうございます。わたし……もう少し、考えます」


 立ち上がって、深くお辞儀をした。白い聖衣が風に揺れた。


「リーネ様にお会いできて、よかったです」


 足早に去っていった。角を曲がる直前に、一度だけ振り返って──小さく手を振った。


(……いい子だ。本当に)


 あの大きな青い目に、嘘はなかった。



 宿に戻ると、クロエさんが作業机に向かっていた。


 今日の訪問先の記録をまとめているらしい。ペンが紙の上を走る音が、静かな部屋に響いている。


「クロエさん」


「はい」


「エリーゼさんと──新聖女様と、少しお話しました」


 ペンの音が止まった。


「治癒魔法で治せない患者のことで悩んでいるようでした。……いい子だと思います」


 クロエさんは手帳から目を上げて、わたしを見た。


 それから──言った。


「あの子は信用できます」


 低い声。いつもの抑揚の少ない話し方。でも──いつもと違った。


 「信用できます」。


 この人が、人を評価するのを聞いたことがほとんどない。数字は並べる。事実は伝える。でも、「信用できる」「信用できない」という個人的な判断を口にすることは──。


「目が澄んでいた」


 クロエさんが、付け加えた。


(──目が澄んでいた)


 この人が、人の目を見て「澄んでいた」と言った。


「クロエさんが人を褒めるの、珍しいですね」


 思わず口から出た。


 クロエさんの灰色の目が──一拍、止まった。


「……珍しいですか」


 低い声。語尾が少しだけ──柔らかくなった。それとも、わたしの気のせいだろうか。


 一拍の沈黙の後、クロエさんは手帳に視線を戻した。ペンが走り出す。


 ──ふと、気づいた。


 今、この人はわたしのことを何と呼んだだろう。いや──呼ばなかった。名前を呼ばずに会話していた。


 でも、さっき診療所の前でエリーゼと話している時、クロエさんがわたしを紹介する場面があった。


 「こちらは薬草院院長、リーネ殿です」


 リーネ殿。公式の呼び方。


 その後、宿に戻ってきて二人きりになった時──クロエさんがわたしの名を呼んだ瞬間があった。荷物を運び入れる時。


 「リーネ……殿、こちらを」


 一拍──遅れた。


 「リーネ」の後に、ほんの僅かな間があって、「殿」がついた。


(……呼び捨てしかけて、止めた?)


 いや。考えすぎだ。


 絶対に考えすぎだ。



 夜。


 精製ノートを書いていた。今日のマルテの治療記録。銀葉草の蒸気吸入の分量と時間。ヨモギギクの精油の塗布量。カノコソウの煎じ薬の配合比。症状の変化を時系列で記録する。


 ──目の前に、湯気の立つ茶碗が置かれた。


 顔を上げると、クロエさんが立っていた。


「休んでください」


「……まだ書き終わって」


「お茶を飲んでください」


 有無を言わせない語調。辺境で何度も聞いた、あの声。


 仕方なく茶碗を受け取った。両手で包む。温かい。


 一口。


 ──あの味だ。


 甘くて、少し青くて、喉を通った後に花のような余韻が残る。辺境で飲んだ味と、同じ。


 辺境にいた時は──たまたまだと思っていた。この土地の薬草で作ったら、偶然こういう味になったのだろうと。


 でも。


 今は辺境じゃない。南部丘陵地帯の宿だ。手に入る薬草も、水も、違う。


 なのに──同じ味がする。


(偶然じゃなかった)


 ずっと前に──わたしが何気なく言ったのだ。「前世で好きだったんですよ、こういうハーブの味。甘くて青い感じの」って。


 この人は、それを覚えていた。


 覚えていて──どの土地に行っても、手に入る薬草を組み合わせて、同じ味を作っている。


(……偶然じゃ、なかったんだ。ずっと前から)


 茶碗を持つ指先が、ほんの少しだけ震えた。


「……おいしいです」


「そうですか」


 クロエさんは壁際に座って、手帳を開いた。いつもの姿勢。いつもの無表情。


 ──でも。


 この人の手が作るものは、いつも正確で、丁寧で、わたしのことを知っている。毛布の折り返し。棚の角。そして──茶の味。


(全部、手で伝えてるんだ。この人は)


 何を。


 ──何を、伝えているの。


 聞けなかった。聞く勇気がなかった。聞いたら「お茶の配合の話ですか」とか返されるに決まっている。


 ノートに視線を戻した。ペンを持ち直す。マルテの治療記録の続き。


 茶碗から立ちのぼる湯気が、薬草の匂いと混ざって──秋の夜の宿を、甘く、温かく満たしていた。


 エリーゼの涙を思い出す。あの子の震える声。「嘘の報告なんて書けません」。


 神殿の闇が、少しだけ見えた。エリーゼを通じて──もっと大きな何かが動いている気配がする。


(でも、今夜は)


 お茶が温かい。それだけで──もう少し、頑張れる気がした。

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