第13話 聖女の涙
「あなたが、辺境の薬師リーネ様ですね」
白い衣を纏った少女の声は、思ったより小さかった。
二番目の訪問先──南部丘陵地帯の小さな町の診療所。石壁の古い建物の前で、わたしは馬車を降りたばかりだった。
少女が立っていた。
淡い亜麻色の髪。白と銀の聖衣。胸元に神殿の紋章の刺繍。年はわたしより若い──十七か十八くらいだろうか。大きな青い目が、こちらをまっすぐに見上げている。
聖女。
新聖女エリーゼ・フォーゲル。
(──ミリアーナの、従妹)
あの断罪の日、わたしに微笑んでみせた聖女の。
背筋が強張った。
「……はい。リーネ・ヴァレンシュタインです」
「わたしはエリーゼ・フォーゲルです。巡回治癒でこの町に参りました」
声が──震えている。
いや、震えているのとは少し違う。緊張だ。この子は──わたしに会うのを、緊張している。
(なんで)
聖女がモブの薬師に緊張する理由が分からなかった。でも、その大きな目には敵意はなかった。むしろ──何かに怯えているような。
「……あの」
エリーゼが唇を噛んだ。
「実は、今──どうしても治せない患者がおりまして」
◇
診療所の中に入ると、寝台に少女が横たわっていた。
十二か三の子供。頬がこけて、唇に血の気がない。ぜえぜえ、と胸が上下するたびに、細い笛のような音が鳴る。
(──ルカと同じだ)
あの日の記憶が蘇った。辺境の薄暗い部屋で、トマスの孫が咳に苦しんでいた日。
「この子はマルテ。この町の靴屋の娘です」
町の医師らしい白髭の老人が説明した。
「三年前から発作が繰り返しておりまして。聖女様に二度、治癒をお願いしたのですが……」
「二度とも、一時的には楽になりました」
エリーゼが引き継いだ。声が沈んでいる。
「でも、三ヶ月と持ちませんでした。先週また発作が起きて──今回は、わたしの治癒でも呼吸音が改善しないのです」
エリーゼの手が、膝の上で握りしめられていた。白い聖衣の裾を掴んで、指先が白くなっている。
(この子は──悔しいんだ)
治せないことが。聖女の力で、救えないことが。
「診せていただいてもいいですか」
寝台の傍にしゃがんだ。マルテの額に手を当てる。微熱。
「マルテちゃん、息を吸って。──ゆっくり吐いて」
少女がぎこちなく従った。吸気時にひゅう、と高い音。呼気時にぜえ、と低い音。
(気管支の慢性炎症。ルカより重い。気道のリモデリングが進んでいる可能性がある)
前世の知識が回る。三年間の繰り返す発作。治癒魔法で一時的に炎症が抑えられても、気道壁の構造変化──リモデリングは進行し続ける。放置すれば気道が不可逆的に狭窄する。
──銀葉草。
「銀葉草の蒸気吸入を行います。それと──」
薬箱を開けた。辺境から持ってきた銀葉草の生葉がある。カノコソウの根。フユハッカ。
「吸入で気道の急性炎症を抑えて、煎じ薬で気管支の筋肉を弛緩させます。それから──」
もうひとつ。ルカの時にはなかった手札。
「ヨモギギクの精油を胸に塗ります。気道のリモデリング──壁が厚くなって狭くなる症状を、遅らせる効果があります」
エリーゼが息を呑んだ。
「リモデリング……壁が、厚くなる?」
「治癒魔法は炎症を消しますが、炎症によって変化した気道の構造までは戻せないんです。だから──炎症が消えても、根っこの問題が残る」
エリーゼの目が、大きく見開かれた。
◇
銀葉草を湯に浸して、布で覆いをかけた器を作る。辺境でルカにやったのと同じ手順。ただし今回は、ヨモギギクの精油を数滴加える。
「マルテちゃん、すうっとする匂いがするよ。ゆっくり吸ってね」
少女の細い肩を支えて、蒸気を近づけた。
エリーゼが──寝台の反対側に膝をついていた。聖衣の裾が床に広がっている。聖女の格好のまま、床に膝をついて、マルテの手を握っている。
(……この子、いい子だ)
直感がそう言った。偽りの託宣でわたしを断罪したミリアーナとは──違う。
蒸気吸入を続ける。五分。十分。
マルテの呼吸音が──変わり始めた。
ひゅう、という笛の音が薄くなっている。胸の上下が穏やかになっていく。
煎じ薬を飲ませた。苦い顔をするマルテに「もう少しだけ」と声をかけて、ヨモギギクの精油を胸元に薄く塗り込んだ。
二十分。
三十分。
「……あ」
マルテが──深く息を吸った。
ぜえぜえという音が、消えていた。
「息が……楽」
少女の目に涙が浮かんだ。三年間、苦しかったのだ。夜も眠れないほどの発作が──止まった。
「マルテ!」
診療所の入口から、母親らしい女が駆け込んできた。娘を抱きしめて、泣いている。
わたしは立ち上がって、一歩下がった。
──エリーゼは、まだ膝をついていた。
マルテの手を握ったまま、動かない。青い目が──濡れていた。
「わたしの治癒では、無理でした」
小さな声だった。わたしにだけ聞こえる声。
「二度も治癒をかけて──二度とも、この子を救えなかった。わたしは聖女なのに」
声が震えていた。悔しさと、安堵と、それから──何か、もっと深いものが混じった震え方。
診療所の入口の影に、神殿の紋章入りの上着を着た男が立っていた。エリーゼの随行の神官だろう。その男が──今の場面を、見ていた。
聖女が「無理でした」と言った場面を。
(あの人、報告するんだろうな。神殿に)
聖女の治癒で治せなかった症例を、辺境の薬師が治した。──その事実が、神殿にとってどういう意味を持つか。
考えると、胸がざわついた。
◇
日が傾いてきた頃、エリーゼがわたしを呼び止めた。
「リーネ様──少し、お話できますか」
診療所の裏手に小さな庭があった。痩せた草地に、木の長椅子がひとつ。秋の風が冷たくて、エリーゼの亜麻色の髪が揺れた。
二人きりだった。
「……あの」
エリーゼは長椅子に座って、膝の上で手を組んでいた。指先が震えている。
「わたし──神官長猊下に、命じられていることがあります」
「神官長……ヴェルナー猊下ですか」
「はい。猊下は──薬草院について、否定的な報告を書くようにと。『薬草は未検証で危険な手段であり、聖女の治癒こそが唯一の正しい医療である』と」
──やっぱり。
グラーフ侯爵の屋敷に来た神殿の密使。「様子を見たい」と態度を変えた侯爵。全部──繋がっている。
「でもわたしは……」
エリーゼの声が、かすれた。
「今日、見てしまいました。マルテちゃんが息を吸えるようになった瞬間を。わたしが二度かけても治せなかった子を、リーネ様が──」
青い目から、涙がこぼれた。
ぽたぽたと、膝の上の白い聖衣に落ちている。
「嘘の報告なんて書けません。書きたくない。でも、神官長猊下の命令に逆らったら──わたしは聖女でいられなくなるかもしれない」
わたしは──黙って聞いていた。
この子は、板挟みにされている。聖女としての義務と、自分の目で見た真実の間で。
「エリーゼさん」
「はい」
「治癒魔法と薬草は、敵じゃないです」
エリーゼの目が──わたしを見た。涙で濡れた大きな目が。
「治癒魔法は急性の症状を抑えることに長けています。痛みを消す、炎症を鎮める──それは、薬草にはできない速さです」
「でも──根本が」
「そう。根本治療は苦手。でもそれは『ダメ』じゃなくて、『役割が違う』んです」
言いながら、自分でも──これは大事なことだ、と思った。
「治癒魔法で急性期を支えて、薬草で根本を治す。二つが補い合えば──マルテちゃんのような子を、もっと早く楽にできる」
エリーゼが──泣き笑いの顔をした。
涙が頬を伝っているのに、口元が少しだけ上がっている。
「……敵じゃないって、本当にそう思いますか」
「思います」
「薬草があれば聖女はいらない、とは思いませんか」
「思いません。わたしが今日マルテちゃんを治せたのは、エリーゼさんが二度の治癒で発作を抑えてくれていたからです。あの子の気道がまだ保たれていたのは──聖女様の治癒があったからですよ」
エリーゼの目から、また涙がこぼれた。
でも今度は──笑っていた。
「ありがとうございます。わたし……もう少し、考えます」
立ち上がって、深くお辞儀をした。白い聖衣が風に揺れた。
「リーネ様にお会いできて、よかったです」
足早に去っていった。角を曲がる直前に、一度だけ振り返って──小さく手を振った。
(……いい子だ。本当に)
あの大きな青い目に、嘘はなかった。
◇
宿に戻ると、クロエさんが作業机に向かっていた。
今日の訪問先の記録をまとめているらしい。ペンが紙の上を走る音が、静かな部屋に響いている。
「クロエさん」
「はい」
「エリーゼさんと──新聖女様と、少しお話しました」
ペンの音が止まった。
「治癒魔法で治せない患者のことで悩んでいるようでした。……いい子だと思います」
クロエさんは手帳から目を上げて、わたしを見た。
それから──言った。
「あの子は信用できます」
低い声。いつもの抑揚の少ない話し方。でも──いつもと違った。
「信用できます」。
この人が、人を評価するのを聞いたことがほとんどない。数字は並べる。事実は伝える。でも、「信用できる」「信用できない」という個人的な判断を口にすることは──。
「目が澄んでいた」
クロエさんが、付け加えた。
(──目が澄んでいた)
この人が、人の目を見て「澄んでいた」と言った。
「クロエさんが人を褒めるの、珍しいですね」
思わず口から出た。
クロエさんの灰色の目が──一拍、止まった。
「……珍しいですか」
低い声。語尾が少しだけ──柔らかくなった。それとも、わたしの気のせいだろうか。
一拍の沈黙の後、クロエさんは手帳に視線を戻した。ペンが走り出す。
──ふと、気づいた。
今、この人はわたしのことを何と呼んだだろう。いや──呼ばなかった。名前を呼ばずに会話していた。
でも、さっき診療所の前でエリーゼと話している時、クロエさんがわたしを紹介する場面があった。
「こちらは薬草院院長、リーネ殿です」
リーネ殿。公式の呼び方。
その後、宿に戻ってきて二人きりになった時──クロエさんがわたしの名を呼んだ瞬間があった。荷物を運び入れる時。
「リーネ……殿、こちらを」
一拍──遅れた。
「リーネ」の後に、ほんの僅かな間があって、「殿」がついた。
(……呼び捨てしかけて、止めた?)
いや。考えすぎだ。
絶対に考えすぎだ。
◇
夜。
精製ノートを書いていた。今日のマルテの治療記録。銀葉草の蒸気吸入の分量と時間。ヨモギギクの精油の塗布量。カノコソウの煎じ薬の配合比。症状の変化を時系列で記録する。
──目の前に、湯気の立つ茶碗が置かれた。
顔を上げると、クロエさんが立っていた。
「休んでください」
「……まだ書き終わって」
「お茶を飲んでください」
有無を言わせない語調。辺境で何度も聞いた、あの声。
仕方なく茶碗を受け取った。両手で包む。温かい。
一口。
──あの味だ。
甘くて、少し青くて、喉を通った後に花のような余韻が残る。辺境で飲んだ味と、同じ。
辺境にいた時は──たまたまだと思っていた。この土地の薬草で作ったら、偶然こういう味になったのだろうと。
でも。
今は辺境じゃない。南部丘陵地帯の宿だ。手に入る薬草も、水も、違う。
なのに──同じ味がする。
(偶然じゃなかった)
ずっと前に──わたしが何気なく言ったのだ。「前世で好きだったんですよ、こういうハーブの味。甘くて青い感じの」って。
この人は、それを覚えていた。
覚えていて──どの土地に行っても、手に入る薬草を組み合わせて、同じ味を作っている。
(……偶然じゃ、なかったんだ。ずっと前から)
茶碗を持つ指先が、ほんの少しだけ震えた。
「……おいしいです」
「そうですか」
クロエさんは壁際に座って、手帳を開いた。いつもの姿勢。いつもの無表情。
──でも。
この人の手が作るものは、いつも正確で、丁寧で、わたしのことを知っている。毛布の折り返し。棚の角。そして──茶の味。
(全部、手で伝えてるんだ。この人は)
何を。
──何を、伝えているの。
聞けなかった。聞く勇気がなかった。聞いたら「お茶の配合の話ですか」とか返されるに決まっている。
ノートに視線を戻した。ペンを持ち直す。マルテの治療記録の続き。
茶碗から立ちのぼる湯気が、薬草の匂いと混ざって──秋の夜の宿を、甘く、温かく満たしていた。
エリーゼの涙を思い出す。あの子の震える声。「嘘の報告なんて書けません」。
神殿の闇が、少しだけ見えた。エリーゼを通じて──もっと大きな何かが動いている気配がする。
(でも、今夜は)
お茶が温かい。それだけで──もう少し、頑張れる気がした。




