第11話 勅命と再出発
銀葉草の葉を摘むと、指先に冷たい朝露が残った。
秋も深まって、朝の空気が肌を刺す。辺境の薬草園は露に濡れて、銀色の細かい毛に覆われた葉が朝日を受けてきらきら光っている。
──あの荒野に一人で立った日から、一年と少し。
(信じられないな、ほんとに)
薬草園は三倍に広がった。乾燥棚は八つに増えた。診療所には村人だけじゃなく、隣領からも患者が来る。王国薬草院。そんな名前までついた。
わたしは相変わらず、朝から薬草を摘んでいる。
膝の泥を払って立ち上がると、診療所の軒先で、しゃりしゃりと小さな音がしていた。
クロード──クロエさんが、乾燥棚のひとつに紙やすりを当てている。
棚の角だ。板の端がほんの少し尖っていたのを、丁寧に削り取っている。しゃり、しゃり。指先で角を撫でて、もう一度削って、また撫でる。
(……几帳面だなぁ)
この人はいつもそうだ。棚を作れば板と板の隙間を均等に揃え、薪を割れば断面を揃え、粥を作れば乾燥果実の種類を毎日変える。全部、手で。全部、黙って。
あの領主会議から二週間。
クロードは──第二王子クロード・ルクレシア殿下は、執事服に戻って辺境にいた。王族の正装を脱いで、あの日と同じ黒い上着と白い襟で、朝から薪を割り、水を汲み、棚を修繕している。
わたしたちは、まだぎこちなかった。
正体を知った。王族だと知った。領主会議で何をしてくれたか、知っている。でも──あの日の廊下で、結局何も言えなかった。五歩の距離のまま、言葉が見つからなかった。
辺境に戻ってきたクロードを、わたしは「中に入ってください」と言って迎えた。お茶を淹れた。それだけだ。
それから二週間、わたしたちは──以前と同じように暮らしている。薬草を摘み、患者を診て、夜はそれぞれノートと手帳を書く。会話は少ない。でも、音がある。薪を割る音。水を汲む音。紙やすりで棚を削る音。
(以前と同じ、なのかな。本当に)
──分からない。
「クロエさん」
呼んだ。
しゃり、と紙やすりの音が止まった。灰色の目がこちらを向く。
「銀葉草、今朝の分はこれで足りると思います。あとは午後に──」
「リーネ殿」
遮られた。
クロエさんの視線が、わたしではなく、村の入口の方に向いていた。
──砂利を踏む蹄の音が聞こえた。
◇
馬車は二頭立てだった。
王都から来たことは紋章で分かる。ただし、ルクレシア王家の双翼の獅子ではない。行政府の鶏冠の鷲。公的機関の正式な馬車だ。
(……また王都から)
胸がきゅっと縮まった。
前に王都から馬車が来た時は、管理権を奪いに来た使者だった。あの時はクロエさんが──クロード殿下が、国王の署名入りの令状で追い返してくれた。
(今度は何)
馬車の扉が開いて、中年の文官が降りてきた。禿げ上がった額に汗を光らせて、辺境の泥道に足を取られながら。手には筒に入った巻物を大事そうに抱えている。
「王国薬草院院長、リーネ・ヴァレンシュタイン殿はいらっしゃいますか」
「……わたしです」
文官はわたしの泥だらけの手と膝を見て、一瞬だけ眉を上げた。でもすぐに居住まいを正して、巻物の封蝋を丁寧に──割った。
「国王オーギュスト・ルクレシア陛下の勅命を伝達いたします」
勅命。
巻物が開かれた。文官の声が、辺境の朝の空気を切った。
「『王国薬草院の成果を全領に普及せよ。院長リーネ・ヴァレンシュタインは全領を巡り、薬草医療の導入を推進すること。なお、第二王子クロード・ルクレシアを護衛兼連絡役として同行させる。旅費は国庫より支出する。──国王オーギュスト・ルクレシア』」
──全領。
足の裏から、じわりと冷たいものが這い上がってきた。
全領を巡る。辺境から出て、各領の領主に会い、薬草医療を広める。貴族の前に立って、交渉して、説明して──。
(わたしが? 薬草しか取り柄のないモブが?)
社交の経験なんてない。貴族の暗黙のルールも知らない。わたしは薬草を育てて患者を診ることしかできない。それを、全領で──。
「あの……これは」
声が震えそうになった時、隣から低い声がした。
「畑の現在の生産量から見て、三領分の薬草供給は可能です。乾燥棚の回転率を上げれば、半年以内にさらに二領を追加できます」
クロエさんだった。
いつの間にか紙やすりを置いて、わたしの横に立っている。文官ではなく──わたしに向けて、数字を並べていた。
「各領の人口比と疾病傾向は、事前にわたしが調べておきます。訪問先の優先順位も、資料にまとめます」
感情ではなく、事実。不安ではなく、計画。
──この人は、いつもそうだ。
わたしが揺れると、手で支えてくれる。言葉じゃなくて、数字で。行動で。
(……そうだ。わたしは計算が得意な研究者だったじゃないか)
前世では大学院で二年間、論文を書いて、学会で発表していた。聴衆の前で話すのは怖くなかった。データがあれば。証拠があれば。
──薬草が、わたしの証拠だ。
文官の方を向き直った。
「……お受けいたします」
◇
翌日から、準備に追われた。
薬草の在庫を確認して、留守中の管理手順をまとめて、トマスと村人たちに引き継ぎを行う。
「先生がおらん間は、わしらが薬草園を守る」
トマスは腕を組んで、しわくちゃの顔で言い切った。
「乾燥棚の管理はルカの母ちゃんに任せた。畑の水やりはわしと隣の集落の連中で回す。心配するな」
「……ありがとうございます。すみません、ご迷惑を」
「迷惑なもんか。先生の薬草が国中に広がるんだろう。わしらの村から出た薬が、よその子供の咳を止める。──こんな誇らしいことがあるか」
トマスの声が少しだけ震えたのを、わたしは見逃さなかった。
(この人にも、ルカの咳が止まった日のことが──まだ残っているんだ)
出発は三日後と決まった。
その間、クロエさんは訪問先の資料をまとめていた。各領の領主の名前、爵位、家族構成、持病の有無。以前から手帳に書き溜めていたのだろう、恐ろしい量の情報が整然と並んでいた。
(調査員の時から、ずっとこうやって記録していたんだ)
夕方、作業場で薬草の梱包をしていたら、ふと聞きたかったことが口から出た。
「クロエさん──いえ、殿下、と呼んだほうがいいですか」
手帳から目を上げたクロエさんの灰色の瞳が、一瞬だけ──揺れた。
あの領主会議の廊下で「殿下」と呼んだ時と同じ揺れ方。痛そうに細まるような。
「……旅の間、外ではどうお呼びすれば」
「公式の場では、クロードと名乗ります」
低い声。いつもの抑揚の少ない話し方。でも──次の言葉が、ほんの少しだけ遅れた。
「ただ──ここでは」
一拍の間。
「ここでは、クロエです」
──あぁ。
心臓が、一回だけ強く鳴った。
同じ言葉だ。あの日──辺境に戻ってきた夕方に、五歩の距離で。「ここに居てもいいですか」と言ったあの日から二週間。まだぎこちなくて、まだ距離が掴めなくて。
でも──この一言で。
(嘘じゃなかった。あの半年も。この二週間も)
全部が全部、分かったわけじゃない。この人が何を考えているのか、まだ半分も分からない。密命で来たのか、自分の意思で来たのか、その境界線はたぶんこの人自身にも曖昧で──。
でも、「クロエ」と名乗ることを選んだ。
王族ではなく。殿下ではなく。
「……ありがとうございます。クロエさん」
声が少しだけかすれた。
クロエさんは何も言わず、手帳に視線を戻した。ペンが紙の上を走る音が戻る。
──静かな作業場に、薬草の匂いが満ちていた。甘くて、少し青い匂い。
◇
出発の朝は、よく晴れていた。
辺境の空は秋が深まるほど高くなる。雲がない。風が冷たくて、吐く息がうっすら白い。
診療所の前に、馬車が一台。王都から手配された、質素だけれど頑丈そうな馬車。薬草の箱と旅の荷物を積み込むと、荷台が少し沈んだ。
「リーネ先生!」
ルカが走ってきた。
八つだった少年は、この一年で少しだけ背が伸びた。咳はもう出ない。頬に赤みがあって、声が大きい。
「先生、帰ってきてね」
「帰ってくるよ。ルカ、薬草の水やり、頼んだからね」
「うん! 銀葉草は朝と夕方でしょ。フユハッカは三日に一回。カノコソウは──」
「ちゃんと覚えてる。えらい」
頭を撫でた。柔らかい髪。この子の咳を止めた日から──もう、一年。
トマスが歩いてきた。腕を組んで、いつもの仏頂面。
「留守は任せろ。──ただし、先生」
「はい」
「ちゃんと飯を食え。あんた、放っておくと食べるのを忘れる」
(……バレてる)
「は、はい。気をつけます」
「隣のあの兄さんが見とるから大丈夫だとは思うがな」
トマスの視線が、馬車の荷物を積んでいるクロエさんに向いた。
クロエさんは聞こえていないふりをして、黙々と箱を固定していた。
(聞こえてるでしょう、絶対)
村人たちが集まってきた。畑を手伝ってくれていたおばさん。隣の集落から通っていた老人。手荒れを治した少女。
一人一人が声をかけてくれた。「先生、気をつけて」「困ったことがあったら手紙をくれよ」「わしらの先生を、よその連中にも自慢してやってくれ」
(……泣きそう)
泣かない。出発の朝に泣いてどうする。
馬車に乗り込む直前、ふと──懐に手を当てた。
議事録の写し。
あの断罪の日に請求した一枚。擦り切れて、折り目が深く刻まれた羊皮紙。
──まだ、ここにある。
(これが、わたしの原点だから)
泣かなかった。代わりに議事録を請求した。あの日のわたしは、たった一枚の紙で──自分の足で立つことを選んだ。
今日もそうだ。
馬車の扉を開けて、乗り込んだ。薬草の箱の匂いがする。乾いた木と、甘い銀葉草の香り。
クロエさんが向かいの席に座った。手帳を膝に置いて、窓の外に目を向けている。灰色の髪が朝日を受けて、少しだけ光って見えた。
「……行きましょうか」
「はい」
馬車が動き出した。
車輪が砂利を噛む音。馬の蹄の規則的なリズム。窓から辺境の丘陵が流れていく。薬草園が遠ざかって、診療所の屋根が小さくなって──。
村人たちが手を振っているのが見えた。ルカが跳ねている。トマスが腕を組んだまま、ぴくりとも動かない。でも──口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
(帰る場所がある)
それだけで、胸の奥が温かかった。
馬車の窓から手を振り返して──前を向いた。
これから、全領を巡る。知らない貴族に会い、知らない領地で薬草の話をする。社交の経験はない。政治のことは分からない。
でも──薬草がある。証拠がある。数字がある。
それと──向かいの席に、手帳を開いた人がいる。
◇
馬車が辺境の村を出て、しばらく経った頃。
入れ違いに、一頭の早馬が辺境の道を上がってきた。
馬には乗り手が一人。神殿の紋章入りの上着を着た男が、村の入口で馬を止めた。
トマスがまだ村の広場にいた。
「何の用だ」
「神殿よりの通達です。辺境発の薬草製品は、未検証であり──」
男は巻物を一通、トマスの手に押し付けた。
「──全領での使用を差し控えるよう、勧告いたします」
トマスの顔が、強張った。
馬が砂利道を蹴って、来た方へ去っていく。
通達を握りしめたトマスの手が──震えていた。
辺境の空は、まだ高く、まだ青かった。




