第10話 辺境の空と、お茶と、ただいま
辺境の空は、秋になると信じられないほど高くなる。
雲がない。青が深い。吸い込まれそうなほどまっすぐな空の下を、馬車が砂利道を揺れていく。窓の外に見慣れた丘陵が広がって──薬草園の緑が見えた時、息が漏れた。
帰ってきた。
◇
村に着くと、騒がしかった。
「リーネ先生、おかえり!」
「院長先生だ!」
「偉い人になったんだってな!」
村人たちが診療所の前に集まっていた。トマスが腕を組んで、しわくちゃの顔で笑っている。ルカが走ってきて、わたしの腰にしがみついた。
「リーネ先生、偉い人になったんだよね!」
「偉くなんてないよ。今までと同じ」
本当にそう思っている。「王国薬草院」の院長になった。辺境は「管理困難領」ではなく、正式な王国機関になった。
──でも、やることは変わらない。薬草を育てて、薬を作って、患者を診る。
「名前が変わっただけだよ。明日も診療所は開けるからね」
ルカが嬉しそうに笑って、トマスが「せっかくだから今夜は宴だ」と言った。村人たちが歓声を上げる。
(……温かい)
ここが、わたしの場所だ。
◇
宴の後片付けを終えて、一人になった昼下がり。
診療所の机の上に、二通の手紙が置いてあった。
一通目は公式の通知書。王都からの報せ。
王太子アルヴィンは王太子位を辞し、地方領の管理官に降格。ミリアーナ・フォーゲルは聖女認定を取り消され、子爵家に戻された。
それだけのことが、淡々と書かれていた。
(……終わったんだ)
断罪の日から、ずっと。あの日から始まった全てが──終わった。
王太子は王太子でなくなった。聖女は聖女でなくなった。
わたしは──辺境の薬草院の院長になった。
(ざまぁみろ、とは思わない)
本当に、思わなかった。あの人たちがどうなろうと、わたしの薬草は育つし、患者は来る。
──二通目の手紙を開いた。
見覚えのある筆跡。少し右に傾いた、几帳面な文字。
父だ。
『リーネへ
許してくれとは言えない。あの日、お前を庇えなかったことは、一生の恥だと思っている。
だが、お前が無事で──誇らしく思う。
ゲオルク・ヴァレンシュタイン』
──短い手紙だった。
父らしい。いつも言葉が足りない人だった。
涙が出た。
ぽたぽたと、手紙の上に落ちた。インクが少し滲んだ。
(……ばか。泣くなって言ったのに)
自分に言い聞かせても止まらなかった。断罪の日にも泣かなかった。辺境に来た日にも泣かなかった。クロエが去った夜にだけ泣いた。そして──今、父の手紙で泣いている。
許すかどうかは──今は、決めない。
いつか、わたしのペースで決める。今は、泣くだけ泣いたら──薬草の収穫に行こう。
手紙を丁寧に畳んで、鞄の奥にしまった。議事録の写しの隣に。
◇
夕方。
診療所の前で薬草を整理していた。
銀葉草の束を乾燥棚に掛けて、ヨモギギクの葉を選別して、カノコソウの根を洗って。秋の風が冷たくて、指先がかじかむ。
──ふと、顔を上げた。
村の入口の道に、人影が見えた。
夕日を背にしている。逆光で顔が見えない。でも──輪郭が、分かった。
背が高い。肩幅が広い。まっすぐに伸びた背筋。
──執事服。
白と紺ではない。金の飾緒ではない。王子の正装ではない。
あの日と同じ──黒い上着に、白い襟。辺境の泥道を歩いていた時の、あの服。
(……嘘でしょう)
薬草が手から落ちた。
人影が──近づいてくる。一歩、二歩、三歩。夕日の光が顔を照らし始める。
灰色の髪。灰色の目。無表情──に見えるのに、どこか、いつもと違う。
あの人が──道の途中で、足を止めた。
わたしとの距離は、五歩。領主会議の廊下と同じ距離。
あの時は、何も言えなかった。
今も──クロードは、しばらく黙っていた。唇が動きかけて、止まって、また動いて。
この人はいつもそうだ。言葉を持たない人。手で話す人。棚を作り、薪を割り、茶を淹れ、外套をかけ、石を蹴り退け──全部、手で。
でも。
「調査は──とうに終わっています」
声が出た。低い声。抑制的な──でも、微かに揺れている声。
「それでも──」
言葉が途切れた。
クロードの手が──震えていた。
あの夜、壁越しに聞こえた拳の音。使者の前に立ちはだかった時の、かすかな声の震え。同じ震えが、今──五歩先で、むき出しになっている。
「ここに居ても──いいですか」
──あぁ。
(この人は、初めて──言葉で、言った)
手ではなく。行動ではなく。棚でも薪でも茶でも外套でもなく。
言葉で。
震える声で。
わたしに。
目頭が熱くなった。泣くな。今日はもう泣いた。これ以上泣いたら、目が腫れて明日の患者の顔が見えなくなる。
──でも。
返事は、もう決まっていた。
「……お茶、淹れますから」
声が、少しかすれた。
「中に入ってください」
クロードの目が──見開かれた。
雪で出来た彫像に日が差したような、と思ったことがある。伯爵邸の帰り道で、ほんの一瞬だけ見えた笑みの欠片。
今──それが、完全な形になった。
クロードが──笑った。
口元が緩んで、目が細まって、灰色の瞳に温度が宿った。少し不器用で、少しぎこちなくて、でも──紛れもない笑顔。
この人が笑うと、こんな顔になるのか。
(……なんだ、笑えるんじゃない)
くすっと笑ってしまった。泣きながら笑うのは、あんまり格好よくない。でもいい。
薬草を拾い上げて、診療所の扉を開けた。
「散らかってますよ。あなたがいなくなってから、棚の整理がめちゃくちゃで」
「……直します」
「あと、薪。あれ、あなたでしょう」
「…………」
沈黙。肯定の沈黙。
(やっぱり)
クロードが扉をくぐった。執事服の肩に、秋の夕日の光が残っていた。
◇
辺境の薬草院は、王国の医療を静かに変え始めている。
──らしい。
らしい、というのは、わたしはそういうことに詳しくないからだ。王都の貴族がどう思っているかなんて知らない。ブラント伯爵が「お前の薬草は国を変えるぞ」と手紙をくれたけれど、大げさだと思う。
わたしはただ、目の前の薬草を育てて、目の前の患者を診ているだけ。
今日も薬草の収穫で忙しい。秋は銀葉草の最盛期だから、朝から晩まで畑にいる。ルカが手伝いに来てくれて、トマスが「先生、昼飯を食え」と怒鳴る。
でもこっちは──。
隣にいる人の淹れるお茶が、少しだけ甘くなった気がする。
あの味だ。甘くて、少し青くて、喉を通った後に花のような余韻が残る。前世で好きだったハーブティー。偶然だと思っていた味。
……偶然じゃなかったんだ。ずっと前から。
「……おいしい」
茶碗を両手で包んで、隣を見た。
クロードは壁際に座って──いや、もう壁際ではない。わたしの隣の椅子に座って、同じ茶碗を持っている。手帳は閉じている。ペンは置いてある。
「……気のせいかな」
呟いたら、クロードが──ほんの少しだけ、口元を緩めた。
笑った、とは言い切れないくらいの。でもわたしには分かる。この人の表情の変化を、わたしはもう、見逃さない。
窓の外には、辺境の夕焼け。信じられないほど高い秋の空が、橙と紫に染まっていく。
お茶が、温かい。
──人生ままならない。本当に、ままならない。
でも、たまに──ほんのたまに、思いがけず甘いことがある。
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