第1話 断罪されたモブ令嬢は泣かない
「──その令嬢に、いかなる弁明の機会も与えない」
冷たい声が、白亜の広間に落ちた。
わたしの目の前に立っているのは、この国の王太子アルヴィン・ルクレシア殿下。金糸の刺繍が施された礼服。まっすぐにこちらを見下ろす碧眼。その美しい顔に浮かんでいるのは、義憤──だと、本人はきっと思っている。
「聖女ミリアーナの託宣により、ヴァレンシュタイン男爵家令嬢リーネが王国に仇なす悪徳の者であることは明白である」
広間の左右にずらりと並ぶ貴族たちが、ざわりとさざめいた。
扇で口元を隠す夫人。顔を見合わせる文官たち。けれど誰一人、異議を唱える者はいない。
──ああ。
知っている。
わたしは、この光景を知っている。
頭の奥で、何かが弾けた。水面に石を投げ込んだみたいに、記憶が波紋となって広がっていく。
大学の研究室。薬草の標本。乙女ゲームの画面。徹夜明けにコントローラーを握ったまま寝落ちした、あのワンルームの部屋──。
(『聖光のエルディア』)
乙女ゲーム。聖女がヒロインで、王太子が攻略対象で、悪役令嬢が断罪されるシナリオ。
わたしはその世界にいる。しかもモブ。名前すら覚えていない、断罪イベントに巻き込まれるだけの、ただの背景キャラ。
(……いや、ちょっと待って)
王太子殿下の隣に控えている女性に目をやる。淡い金髪に、柔和な微笑み。聖女ミリアーナ・フォーゲル。慈悲深き救い手。
──あの顔。あの笑い方。
ゲームのヒロインだ。間違いない。
そして今、わたしを「悪徳令嬢」と断じたのは、ヒロインの託宣。神の声を聖女が伝えたもの──ということに、されている。
ミリアーナの唇が、ほんの少しだけ弧を描いた。わたしだけに見える角度で。
(……あぁ、そういうことね)
「被告リーネ・ヴァレンシュタイン」
王太子殿下の声が、広間の天井に反響する。
「汝は聖女の託宣に基づき、極北辺境管理困難領への追放を命じる。社交界からの永久追放、ヴァレンシュタイン男爵家からの勘当を併せて宣告する」
追放。
この一言が、わたしの二十年の人生を全部消した。
足元が冷たい。白い石の床から這い上がってくる冷気が、薄い靴底を通り抜けて骨まで届く。
──泣くと思っているのだろう。
王太子殿下も、ミリアーナも、広間の貴族たちも。みんな、わたしが泣き崩れて許しを乞うのを待っている。それが「断罪イベント」の筋書きなのだから。
泣かない。
泣いたところで、この場の誰一人としてわたしの味方にはならない。それは前世の記憶がなくたって分かることだ。
代わりに、口を開いた。
「──殿下」
声が震えていないことを、自分でも不思議に思った。
「被告人には宮廷裁判の議事録の写しを請求する権利がございます。成文法第七十二条に基づき、本日の議事録の写しを一部、いただきたく存じます」
しん、と。
広間が凍りついた。
王太子殿下の眉が、ぴくりと動く。ミリアーナの微笑みが、ほんの一瞬だけ──固まった。
ざわめきが、さざ波のように広がる。扇の陰で何かを囁き合う夫人たちの声。「あのモブ令嬢が」「議事録を?」「弁明でなく?」
「……くだらん」
殿下が低く吐き捨てた。苛立ちを隠さない声。けれどその目は、一瞬だけ泳いだ。
「好きにせよ。書記官、議事録の写しを交付しろ」
成文法に明記された被告人の権利。いくら王太子でも、公の場で法を踏み躙るわけにはいかない。
書記官が慌てたように羊皮紙を広げ、写しの準備に取りかかる。
その間、わたしはまっすぐ前を見ていた。泣かない。震えない。この広間にいる誰よりも静かに、立っている。
(これが、わたしにできる唯一の反撃)
議事録が手渡された。丸めた羊皮紙の感触が、冷えた指先にざらりと触れる。
──ふと、視界の隅に。
父の姿が見えた。
ゲオルク・ヴァレンシュタイン男爵。わたしの父。広間の壁際に立って──視線を逸らしていた。
娘が断罪されている。弁明の機会すら与えられず、追放される。
なのに、この人は黙っている。家名を守るために、わたしを切り捨てた。
(ああ、この人も"モブ"なんだ)
不思議と、怒りは湧かなかった。ただ胸の奥が、しんと冷えた。冬の朝の窓ガラスみたいに。触れたら指先がくっついてしまいそうな、あの冷たさ。
もう、いい。
振り返らなかった。
◇
護送の馬車は、思ったより揺れた。
木製の硬い座席に、古びた毛布が一枚。窓は小さくて、外には灰色の空と、延々と続く街道の土埃だけが見える。護衛兵は馬車の外。わたしは一人だった。
膝の上に、議事録の写しを広げた。
インクの匂い。羊皮紙の端がまだ少し湿っている。急いで書き写したのだろう、文字が何箇所か滲んでいた。
目で追う。断罪の宣告。聖女の託宣の内容。出席した貴族の名前。証拠──と呼ぶには薄すぎる、託宣の一言だけ。証人の証言はなく、真偽の魔法石による検証も行われていない。
(……杜撰だ)
託宣さえあれば有罪にできる、という慣例に乗っかっただけの裁判。
もっとも、モブ令嬢一人を追い出すために、わざわざ丁寧な手続きを踏む理由もない──王太子殿下にとっては。
ページを繰る。最後の方に、宣告後のやり取りが記録されていた。
わたしが議事録を請求した場面。殿下が「好きにせよ」と言った場面。
そして──。
『なお、被告の追放先である極北辺境管理困難領については、あの荒野に再び人が栄えることは到底あり得まい。万が一──あの辺境の地が再び栄えることがあるならば、余の不明を天下に認めよう』
読み返した。もう一度、読み返した。
余の不明を天下に認めよう。
つまり──辺境が栄えたら、自分の判断が間違っていたと公に認める、と。
公の場での、公式な発言。議事録に残っている。
(殿下、あなた……それ、本気で言ったの?)
きっと本気じゃない。あり得ないと思っているから言えたのだ。追放先の荒野が栄えるなんて、誰も想像しない。だから安心して大言を吐いた。
──でも。
言葉は、言葉として残る。
議事録の羊皮紙を、丁寧に丸め直した。
「……覚えておきます、殿下」
馬車の揺れに、小さな声が吸い込まれて消えた。
◇
十四日の旅路の果てに、辺境はあった。
馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を叩いた。
護衛兵たちは荷物をぞんざいに降ろすと、振り返りもせずに馬車を走らせた。砂利道に轍の跡だけが残って、あっという間に見えなくなる。
目の前に広がるのは──荒野。
灰色の空。痩せた土。遠くに低い山脈の稜線。そしてぽつんと佇む、小さな石造りの小屋。壁の漆喰が剥がれて、屋根の端が崩れかけている。旧管理官の小屋。ここがわたしの新しい家、ということらしい。
風が吹くたびに、足元の草がさわさわと揺れた。
──草。
足元を見た。
小屋の周囲に、緑が広がっている。荒野に見えたのは、草がまばらに生えた土地だった。その草が──。
しゃがみ込んだ。指先で葉に触れる。ぎざぎざの縁。裏返すと、銀色の細かい毛が生えている。茎を折ると、かすかに清涼感のある匂いが鼻を突いた。
(……嘘でしょ)
立ち上がって、周囲を見回す。目を凝らすと、あちこちに違う種類の草が見えた。地面に這うように広がる丸い葉。背の低い木に絡みつく蔓。風に揺れる、穂先が紫色の細い草。
前世の記憶が、叫ぶ。
フユハッカ。スベリヒユ。カノコソウ。ヨモギギク。
全部──薬草だ。
精製すれば解熱剤になるもの。鎮痛に使えるもの。傷口の炎症を抑えるもの。慢性疾患の緩和に効くもの。
大学院で二年間研究して、学会で発表して、温室で大事に育てていた植物たち。それが──この荒野に、雑草みたいに生えている。
風が吹いた。薬草の群生が一斉に揺れて、かすかに甘い香りが立ちのぼった。
膝の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
笑った。
泣いたんじゃない。笑ったのだ。
王都を追われて、父に見捨てられて、名前も名誉も居場所も全部失って。極北の荒野にたった一人で放り出されて。
──なのに。
やれることが、ある。
膝に土がついた。手のひらも泥だらけ。みっともない格好だと思う。断罪されたモブ令嬢が、辺境の荒野でひとり笑っている。
でも──不思議と、心は凪いでいた。
羊皮紙を懐に確かめるように手を当てて、立ち上がる。
空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、ほんの少しだけ、光が差していた。




