第漆頁:静かな海で声を待つ
雨上がりの夜は、街の骨格を磨き直す。排気のざわめきも看板のネオンも、冷えた雨水に薄められて沈黙し、石畳に灯る月白が小さな水鏡を揺らしていた。高台へ続く坂を上る紺と斑の足取りは夜気の軽さに押し上げられるようにゆるやかだ。胸の底、灯芯の奥で微かな拍子がこん、と鳴る。耳に届かぬが、確かに誰かが呼ぶ。
「……妙に静かやな」
斑がつぶやく。
「静かやけど、えらい遠くで声がするわ」
紺が夜空へ目を凝らす。雲の裂け目に星群が滴り、その右隣り、満ちかけの月。その縁を守るように、針の頭ほどの青白い灯がふたふた漂っていた。
吐息ほどの囁きが胸底へ滑り込む。
――誰か。私の番号を……
狐火がひゅっと痩せ、紺の灯芯が青味を帯びる。斑は袖を伸ばし、そっと灯を支えた。焔が紫の火粉を撒き、藍を取り戻す。月脇の淡光は輪郭を寄せ、人とも焔とも知れぬ姿を結ぶ。
『……わたしの番号は PRN‑10。“十号” と呼ばれていた』
淡い声が糸のように繋がり、空を巡った兄弟衛星の記憶を語り始める。十一の灯。七番目は軌道へ届く前に散り、末弟の十一号は短命ののち沈黙。呼ぶ者を失った自分だけが二万キロの高さで孤り漂った、と。
「呼ばれへん番号ほど切ないもんはないな」
斑が呟く。
灯はかすかな笑みをこぼすが、その底に寂寥が透ける。
『もう一度だけでいい。“十号” と呼んでほしい』
紺が帳面を抱き直す。その視線を読んだ斑が軽く首を振る。
「ここはうちの役目や」
斑は息を整え、掌に色素を集める。指の間から七色の靄が洩れ、夜気に溶けた。
「十号、耳を貸せ」
斑の声が夜の骨組を震わせる。
両の掌を合わせ、弓を引く所作――指先から放たれた虹の糸が空を裂く。七色の弦は月へ向かい、やがて柔らかな橋を架けた。
『……虹……?』
灯が揺れる。
「橋や。地上へ戻らんでええ――空へ帰る道や」
斑はそっと灯へ片手を重ね、指で色を撫でる。青白い輪郭に七色の霧が滲み、番号の線がやわらかく溶けた。呼び名の重さが軽くなる。灯は安堵したように膨らみ、虹道を辿って昇りはじめる。
紺の灯芯がかすかに揺れる。斑はもう片方の手で紺の肩を支えた。狐火は安定し、二人は息を合わせて昇る光を見上げる。
「――十号」
斑が呼ぶ。
続けて紺が胸の奥で同じ音を鳴らす。声にはせずとも、呼び名は確かに届いた。十号の灯は満ち足りた金色を孕み、月前でひときらりと瞬いて消えた。
その光が斑の掌に残り、白い斑模様の火傷を刻む。斑は拳を握り、袖に隠す。
夜が淡く明ける。東雲の気配で星がひと粒ずつ溶け、昼月となった月影に針のような残光がひと揺れだけ閃いた。別れの返事のように。
「最後の番号、忘れへんよ」
紺が囁く。
斑は微笑み、痛む指を背中に隠す。
「……うちもや」
鳥の初音が並木を揺らし、濡れた舗道の月白は朝の朱へ映り替わる。
二人の足音が石畳を下り、高台をあとにした。背後の昼月には、呼び名を得た灯の余韻が淡く残っている。
十号と呼ばれた航法星は、静かな海で眠る。
だが番号を覚える者がいるかぎり、見えぬ軌道でそっと瞬き続ける。