異界依頼帳録外伝 『帳面が生まれた日』
プロローグ 夜の底の神話
世界がまだ輪郭を持ちきれていなかった太古、夜は今よりもずっと深く、静寂は今よりもずっと重かった。
星も月も、人の心に名前を与えられる前のことである。光と闇の境界は曖昧で、全ては記憶の霧に包まれていた。
その霧の中には、無数の声が漂っていた。呼ばれることのない声、気づかれることのない影、誰の胸にも届かない祈りが、まるで深い水の底に沈む泡のように、静かに沈黙の海を漂っていた。
一章 消えていく声
雨音に似た、小さな呼び声があった。
「誰か……」
「ここに……いる……」
「わたしは……わたしは確かに……」
それらは風の音とも、遠くで鳴く鳥の声とも、水滴が石を打つ音ともつかない、曖昧で儚い音だった。
しかし耳を澄ませば、確かにそれは「声」だった。
何かを求め、何かを訴え、何かを伝えようとする、切実で必死な声だった。
声の主たちは、誰もいない道を歩いていた。足音はなく、体温もなく、影さえも薄い、希薄な存在として、この世界を彷徨っていた。彼らは皆、かつては確かな存在だった。ある者は人に愛された人形だった。ある者は大切にされた本だった。ある者は家族に愛された動物だった。ある者は誰かの心の中で大切に育まれた思い出だった。
しかし今や、彼らを愛した人々の記憶から、彼らは消えつつあった。愛した人が年老いて記憶を失ったり、愛した人が亡くなったり、あるいは単純に時間が経って忘れられたり。理由は様々だったが、結果は同じだった。忘れられることで、彼らの存在は薄れていく。
「忘れられる」ということが、この世界において唯一の「死」だった。しかしそれは、一瞬で訪れる死ではなかった。ゆっくりと、じわじわと、まるで霧が朝日に溶けるように、彼らは薄れていくのだった。その過程で、彼らは最後の力を振り絞って声を上げる。自分がここに在ることを、自分にも名前があったことを、自分も愛されていたことを、誰かに伝えたくて。
しかし、その声を聞く者はいなかった。人間には聞こえない周波数で響く、魂の最後の叫びを聞く者は、この世にはいなかった。
そんな中で、一つの影が立ち止まった。
他の消えゆく存在たちよりも少し濃く、少し確かな輪郭を持った存在が、小さな声に耳を傾けていた。その影の正体は定かではない。かつて人だったのか、動物だったのか、それとも全く別の何かだったのか。しかし確かなことが一つだけあった。その影もまた、名を呼ばれたことのない者だった。
影には記憶があった。温かな手に触れられた記憶、優しい声をかけられた記憶、大切にされた記憶。しかしそれらの記憶には、肝心の「名前」がなかった。愛してくれた人が誰だったのか、自分が何と呼ばれていたのか、それが思い出せない。いや、もしかすると最初から名前などなかったのかもしれない。
だからこそ、影は他の存在たちの痛みが分かった。名前を失う痛み、忘れられる寂しさ、存在が薄れていく恐怖。それらが自分のもののように感じられた。
「このまま消えていくのか」
影は初めて、意味のある言葉を発した。声は小さく、風に消えそうだったが、確かに言葉だった。
「このまま、誰にも知られずに」
周りでは、他の存在たちが一人、また一人と消えていっていた。最後に小さな光の粒を残して、静かに、音もなく。その光も、やがて夜の闇に吸い込まれて見えなくなる。
雨が降り始めた。それは涙のような雨だった。世界中の悲しみを集めたような、静かで優しい雨だった。雨粒は影の体を通り抜けたが、影にはその冷たさが感じられた。まるで、消えゆく存在たちの最後の涙が、空から降ってきているかのようだった。
影は歩き始めた。どこに向かうのかは分からなかった。ただ、このまま立ち止まっていては、自分もまた消えてしまうような気がした。そして何より、まだ聞こえてくる小さな声たちを、このまま見捨てることはできなかった。
二章 灯しの契り
影は長い間歩き続けた。時間の概念が曖昧な世界で、それがどれほどの時間だったのかは分からない。しかし確実に言えることは、その間に影は数え切れないほどの存在が消えていくのを見たということだった。
ある時は、使い古された本が、最後の文字を風に散らしながら消えていくのを見た。ある時は、忘れられた歌が、誰もいない空間で最後のメロディを奏でながら消えていくのを見た。ある時は、愛された玩具が、子供の頃の笑い声を最後に響かせながら消えていくのを見た。
影はその度に立ち止まり、消えゆく存在の最後の声に耳を傾けた。しかし、声を聞くこと以外に、影にできることはなかった。「がんばれ」と言葉をかけても、「忘れない」と約束しても、結局は消えてしまう。それが世界の理だった。
しかし、影は諦めなかった。たとえ無力でも、最後まで見届けることが、せめてもの供養になると信じていた。
そんなある日、影は一人の小さな存在に出会った。
それは子供の形をした、薄い影だった。人間の子供だったのか、人形だったのか、それとも別の何かだったのか、今となっては判別がつかないほど薄れていた。しかし、その存在からは、他の消えゆく存在たちとは違う何かが感じられた。それは、強い意志だった。消えたくないという、強烈な意志。
「わたしの名前は……」
小さな影が呟いた。声は蚊の鳴くような小ささだったが、その中には確かな意志が込められていた。
「わたしの名前は……“ナゥラ”……でも、忘れられて……もう、誰も呼んでくれない……」
影は小さな存在の前にひざまずいた。相手の目を見つめようとしたが、顔の輪郭さえ曖昧になっている。しかし、確かにそこに存在があることは感じられた。
「ナゥラ、か」
影が名前を呼ぶと、小さな存在が震えた。喜びの震えだった。久しぶりに名前を呼ばれた喜びの震えだった。
「そう……ナゥラ……それがわたしの名前……」
「いい名前だな」
「うん……でも、もう誰も呼んでくれない……わたしを愛してくれた人も、もういなくなっちゃった……」
小さな存在の輪郭が、さらに薄くなった。話しているうちにも、消失は進んでいる。
「なら、俺が覚えていよう」
影は手を差し伸べた。その手もまた薄く、透けて見えるような手だったが、確かに温かさがあった。
「でも、あなたも……」
「俺も消える。それは分かってる。でも、それまでの間は覚えていよう。ナゥラという名前を」
その時だった。
二人の前に、一冊の帳面が現れた。
それは突然現れた。まるで空気の中から生まれたように、音もなく、光もなく、ただ静かに存在した。古ぼけているようでいて新しく、使い込まれているようでいて真っ白な、不思議な帳面だった。表紙には何も書かれていない。装丁も地味で、どこにでもありそうな、しかし何となく特別な雰囲気を持った帳面だった。
しかし最も不思議だったのは、その帳面が微かに光を放っていることだった。月明かりのような、蛍の光のような、淡く優しい光。それは暗闇の中で、小さな希望のように輝いていた。
影は恐る恐る帳面を手に取った。手に触れた瞬間、帳面から温かさが伝わってきた。それは生きているような温かさだった。
「これは……」
影が呟くと、帳面がひとりでに開いた。最初のページが現れる。そこには何も記されていなかった。真っ白なページが、まるで何かを待っているかのように、静かに影を見つめていた。
「君の名前を、ここに記してもいいか?」
影は小さな存在に尋ねた。ナゥラと名乗った、消えゆく存在に。
「わたしの名前を?でも、わたしはもう……」
「消える前に。最後に、ここに残しておこう」
小さな存在が頷いた。その瞬間、涙のような光の粒が、薄い頬を伝って落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。安堵の涙、喜びの涙、そして感謝の涙だった。
影は、帳面に文字を記し始めた。
筆も鉛筆も持っていなかった。しかし指で空中に文字を描くと、その文字がページの上に現れた。それは魔法のようだったが、この世界では不思議なことではなかった。意志があれば、文字は現れる。思いがあれば、記録は生まれる。
「ナ」
最初の一文字が、ページの上に現れた。それは美しい文字だった。影が丁寧に、祈りを込めて書いた文字だった。
「ゥ」
二文字目。小さな線だったが、その中には大きな意味が込められていた。
「ラ」
最後の文字。これで、ナゥラの名前が完成した。
文字が完成した瞬間、ページが光った。淡い、優しい光。それは小さな存在を包み、暖かな灯となって彼女を照らした。光に包まれた小さな存在は、久しぶりに鮮明な輪郭を取り戻した。幼い女の子の姿。愛らしい顔立ち。きっと、生前は多くの人に愛されていたに違いない。
「ありがとう……」
ナゥラが微笑んだ。満ち足りた、穏やかな微笑みだった。そして光と共に、彼女は消えていった。
しかしそれは「消滅」ではなかった。それは「昇華」だった。悲しみや恐怖を伴うものではなく、安らぎと満足感を伴うものだった。彼女は消えたが、同時に永遠になった。帳面の中に、彼女の名前は確かに残っていた。忘れられても、失われても、ここには在り続ける名前として。
影は帳面を見つめた。「ナゥラ」という文字が、小さく光り続けている。それは彼女の存在の証だった。彼女が確かに愛され、確かに生きていたことの証だった。
三章 帳面の誕生
それから、影は帳面を持ち歩くようになった。
帳面は不思議な存在だった。重さは普通の帳面と変わらないのに、中を見るといつも新しいページがあった。どれだけ記録しても、決してページが尽きることはなかった。まるで無限にページが存在するかのようだった。
影は消えゆく存在を見つけるたび、立ち止まった。彼らの話を聞き、彼らの名を尋ね、彼らの記憶を受け取った。そして帳面に、一つ一つ、丁寧に記録していった。
ある時は、森の奥で朽ち果てようとしていた古い祠の記録を取った。祠には名前がなかったが、地元の人々に「月の祠」と呼ばれていたことを記録した。ある時は、捨てられた仔猫の記録を取った。仔猫は「シィ」という名前だった。短い生涯だったが、確かに愛された記録を残した。
ある時は、戦で亡くなった若い兵士の記録を取った。彼の名前は村の記憶からも消えかけていたが、母が最後に呼んでくれた名を記録した。ある時は、廃棄された人形の記録を取った。人形は「リィラ」と呼ばれ、一人の少女に深く愛されていたことを記録した。
動物の魂、植物の魂、人の魂、そして物に宿った魂、さらには名前もない小さな思い出や感情まで。影は全てを分け隔てなく、帳面に記録した。愛されたという記録、大切にされたという記録、そして最後に忘れられたという記録も含めて。
帳面に記録された存在たちは、皆同じように光に包まれて消えていった。しかしその消え方は、記録される前とは全く違っていた。記録される前は、恐怖と寂しさに震えながら消えていった。しかし記録された後は、安らぎと満足感に包まれて消えていった。
それは救済だった。完全な救済ではないかもしれないが、少なくとも彼らにとっては十分な救済だった。忘れられても、自分たちの名前が確かに記録され、自分たちが愛されていたことが証明される。それだけで、彼らは満足だった。
影は記録を続けた。日も夜も関係なく、季節も気候も関係なく、ただひたすらに記録を続けた。帳面のページは増え続け、記録された名前たちは小さな光となって、暗い世界を照らし続けた。
しかし、永遠に続くものはない。
長い間、他の存在たちの記憶を受け取り続けた結果、影自身の輪郭が曖昧になってきた。他者の記憶を抱え込みすぎて、自分自身が何者だったのかが分からなくなってきたのだ。鏡を見ても、そこに映るのは不定形の影だけ。声を出しても、それが自分の声なのか他者の声なのか判別がつかない。
「俺も、消える時が来たか」
影は静かに呟いた。恐怖はなかった。これまで数え切れない存在の最期を見届けてきた影にとって、消えることは自然な流れだった。
しかし一つだけ心配なことがあった。帳面のことだった。自分が消えた後、この帳面はどうなるのだろうか。きっと新しい記録者が現れるだろうが、それまでの間、消えゆく存在たちはどうすればいいのだろうか。
その時、影は気づいた。自分自身も、記録されるべき存在なのではないかと。
影は帳面の新しいページを開いた。そして最後の力を振り絞って、自分自身の記録を書き始めた。
名前はなかった。いや、正確には思い出せなかった。だから影は、自分を「最初の記録者」として記録した。彼がどこから来たのか、何者だったのか、それは分からない。しかし確実に言えることは、彼が無数の存在の最期を見届け、彼らの名前を記録に残したということだった。
記録を書き終えると、影もまた光に包まれた。これまでに記録した全ての存在たちの光が、影を包んだ。ナゥラの光、シィの光、名もなき兵士の光、リィラの光。全ての光が一つになって、影を優しく包み込んだ。
「ありがとう」
誰かの声が聞こえた。いや、全ての存在たちの声が聞こえた。記録された全ての魂たちが、最後の記録者に感謝の言葉を送っていた。
影は微笑んだ。そして光と共に、静かに消えていった。
帳面だけが、そこに残った。風もないのに、ページが一枚めくられる。新しいページが現れる。次の記録者を待つページが。
四章 継がれる記録
帳面は様々な手を渡った。
最初の記録者が消えてからしばらくして、帳面は一人の老人の手に渡った。老人は学者だった。古い文献や遺跡を研究する学者で、ある日廃墟となった図書館で帳面を見つけた。最初は古い日記かと思ったが、中を読んで驚いた。そこには、歴史書にも記録されていない、無数の小さな存在たちの記録があった。
老人は帳面の意味を理解するのに時間がかかった。しかし、ある夜、彼は消えゆく存在の声を聞いた。それは彼が昔愛していた飼い猫の声だった。もう何十年も前に死んだ猫の魂が、忘れられる恐怖に震えていた。老人は帳面を開き、猫の名前を記録した。猫は安らかに消えていった。
それから老人は、帳面の真の記録者となった。研究の合間に、消えゆく存在たちの記録を取り続けた。古い戦場跡で名もなき兵士たちの記録を、廃村で忘れられた人々の記録を、古い墓地で無縁仏たちの記録を。老人が記録した存在の数は、最初の記録者に匹敵するほどだった。
老人が亡くなると、帳面は次の記録者の手に渡った。今度は若い女性だった。彼女は職人で、古い道具や民具を修復する仕事をしていた。古い道具には魂が宿ると信じていた彼女にとって、帳面の役割を理解するのは容易だった。
女性は工房で、古い道具たちの最後の記録を取った。使われなくなった鋸、忘れられた糸車、役目を終えた農具。全ての道具には歴史があり、それを使った人々の記憶があった。女性はそれらを丁寧に記録し、道具たちを安らかに送った。
その次は子供だった。まだ十歳にもならない少年で、他の人には見えないものが見える特殊な能力を持っていた。両親は心配したが、少年は帳面と出会ってからその能力の意味を理解した。彼は主に、同年代の子供たちが忘れた玩具や人形の記録を取った。
そうして帳面は、時代と共に様々な記録者の手を渡っていった。
ある時代には、戦場で戦死した兵士たちの記録を専門にする記録者がいた。ある時代には、災害で亡くなった人々の記録を取る記録者がいた。ある時代には、病気で早世した子供たちの記録を取る記録者がいた。
記録者は皆違っていたが、皆同じ心を持っていた。忘れられるものを記録したいという、静かで強い願いを。そしてその願いは、帳面によって確実に実現された。
帳面自体も、時代と共に少しずつ変化していった。外見は古びていったが、機能は向上していった。記録できる情報の量が増え、記録された存在たちがより安らかに消えていけるようになった。まるで経験を積むように、帳面は成長していった。
ある記録者は、帳面に意識があるのではないかと考えた。実際、帳面は時々自発的にページをめくったり、特定の記録を光らせたりした。まるで記録者に何かを伝えようとしているかのように。
しかし、帳面の真意を知る者はいなかった。帳面は決して語らなかった。ただ静かに、新しい記録を受け入れ続けるだけだった。
記録者たちの中には、帳面の起源を探ろうとする者もいた。最初の記録者は誰だったのか、帳面はどこから来たのか、なぜこのような力を持っているのか。しかし、そうした疑問に対する明確な答えは見つからなかった。
いつしか人々は、帳面の始まりを忘れた。最初の記録者が誰だったかも、帳面がいつ生まれたかも、全て伝説となり神話となった。学者たちは様々な仮説を立てたが、真実に辿り着く者はいなかった。
しかしそれでよかった。帳面にとって大切なのは起源ではなく、今この瞬間に記録されるべき名前や記憶だったから。過去よりも現在、理論よりも実践。それが帳面の哲学だった。
月が満ち欠けを繰り返し、季節が巡り、時代が変わった。王朝が興り、王朝が滅び、新しい国が生まれ、古い国が消えていった。技術が進歩し、人々の暮らしが変わり、価値観が変化していった。
しかし帳面は変わらずそこにあった。新しい記録者の手の中で、新しい名前を記録し続けた。時代が変わっても、忘れられる痛みは変わらない。愛される喜びも、失われる悲しみも、人間の本質的な感情は変わらない。だから帳面の役割も変わらない。
記録者たちは皆、いつかは消えていった。老いて死ぬ者、事故で亡くなる者、病気で倒れる者。しかし彼らが記録した無数の名前は、帳面の中で永遠に輝き続けた。そして新しい記録者が現れ、また新しい記録が始まった。
ページをめくる音だけが、静かな夜に響いていた。それは永遠に続く音だった。世界が存在する限り、忘れられるものがある限り、その音は響き続ける。
五章 現代への継承
時代は流れ、世界は大きく変わった。
かつて影たちが彷徨っていた曖昧な世界は姿を消し、明確な境界線を持つ現実的な世界が生まれた。科学技術が発達し、人々の生活は豊かになった。しかし、それと引き換えに失われたものもあった。
現代の世界では、忘れられることはより残酷になった。情報が氾濫し、全てが高速で流れていく時代において、一度忘れられたものが再び思い出される可能性は、昔よりもずっと低くなった。人々は忙しく、感傷に浸る時間もない。過去を振り返る余裕も少ない。
だからこそ、帳面の役割はより重要になった。
現代の記録者たちは、新しい種類の忘れられた存在と向き合わなければならなかった。廃棄される電子機器に宿った魂、取り壊される建物の記憶、デジタル化される前に失われた古い写真の思い出。時代の変化と共に、忘れられるものの種類も変わっていった。
しかし本質は変わらない。愛されたものが忘れられる痛み、大切にされていたものが見捨てられる悲しみ。それらは太古の昔から変わることがない。
現代の記録者たちは、しばしば疑問を感じることがあった。この行為に意味があるのだろうか、と。忘れられたものを記録したところで、それが世界を変えるわけではない。社会問題を解決するわけでもない。経済的な利益を生むわけでもない。
しかし、そんな疑問を抱いた記録者たちが、記録された存在が光に包まれて消えていく瞬間を見ると、全ての疑問が消えた。その光は、ただ美しいだけではなかった。それは安らぎの光であり、満足の光であり、感謝の光だった。
記録することの意味は、記録される側にあった。忘れられても、自分の存在が確かに記録され、自分が愛されていたことが証明される。それだけで、彼らには十分だった。
そして、帳面は今――紺と斑の手の中にある。
紺は帳面と共に、静かに声なき声を拾い続けてきた最後の記録者。
斑は帳面が自ら呼び寄せた、新しい時代の灯し手。
二人は“忘れられる痛み”を知り、“救いの意味”を問いながら、
今宵もまた、消えゆく存在たちの名を、静かに帳面へと記していく。
――それが、異界依頼帳録のはじまりであり、終わりのない物語の続きである。