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第陸頁:泡沫のゆりかご


***

 夜の帳が降りた街の外れに、取り壊し予定の古い団地が立っていた。昭和の匂いを残した鉄筋コンクリートの建物は、窓という窓に板が打ち付けられ、まるで目を閉じた死人のような佇まいを見せている。街灯の光も届かない暗闇の中で、ただ一つだけ、三階の角部屋に薄っすらと明かりが灯っているのが見えた。


 斑と紺は、その建物の前で立ち止まった。


「こんな場所に、まだ住んどる人がおるんか」


斑が呟くと、紺は首を振った。


「いや、電気は止まっとる。あの明かりは……別のもんやろうな」


 二人は錆びついた階段を静かに上がっていく。足音が妙に響く廊下を歩きながら、斑は胸の奥で帳面がざわめいているのを感じていた。何かが、この場所で待っている。


 問題の部屋の前に着くと、ドアは半開きになっていた。中から漂ってくるのは、古い畳と湿気の匂い。そして、どこか甘ったるい腐敗臭が微かに混じっている。


「誰かおるか?」


 斑が声をかけると、部屋の奥から小さな気配が動いた。押し入れの辺りから、かすかな衣擦れの音。しかし返事はない。


 部屋に足を踏み入れると、畳の上に小さな手形がいくつも残されているのが見えた。子供の手だ。しかも、同じ場所を何度も何度も触ったかのように、汚れが蓄積している。


「ここで……待っとったんやな」


 紺が低い声で呟いた。その瞳には、哀れみと怒りが入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。



***


 斑が帳面を開くと、ページが勝手にめくれて、ある一頁で止まった。そこには、薄いインクで書かれた文字が浮かび上がっている。


『母に愛されたかった子供たち』 『依頼内容:母の元に帰りたい』


 名前の欄は空白だった。この子供たちには、名前すら与えられていなかったのだろうか。それとも、名前を呼んでくれる人がいなくなって、自分たちでも忘れてしまったのだろうか。

帳面の文字は続いている。


『母は帰らず。待ち続けた日々。飢えても、寒くても、『いい子』でいようとした。最後まで。』


 斑の手が微かに震えた。こんな幼い子供たちが、どれほどの孤独と絶望を抱えていたのか。想像するだけで胸が締め付けられる。



***


 その夜、斑たちが団地の一階で休んでいると、上の階から小さな声が聞こえてきた。


「おかあさん……」


 か細い声が、夜の静寂を破って響く。続いて、もう一つの声。


「おなか、すいた……」

「ママ、いま、どこ……?」


 斑が立ち上がろうとすると、足音が階段を降りてくるのが聞こえた。しかし、その音は異様に軽い。まるで羽毛が舞い落ちるような、そんな頼りない足音。


 振り返ると、廊下の向こうに小さな影が二つ、寄り添うように立っていた。手を繋いだ子供たちの影。月明かりに透けて見えるその姿は、あまりにも小さく、あまりにも儚い。


「……待っとったんか」


斑が静かに声をかけると、影の一つが小さく頷いた。


「ママが……帰ってくるって……いったの……」

もう一つの影が続ける。


「だから……いい子で……まってた……」


 その声には、諦めと悲しみが混じっていた。しかし同時に、最後まで母親を信じ続けた純粋さも感じられる。



***


帳面がひとりでにページをめくり、そこに新しい文字が浮かび上がった。まるで子供たちが語りかけているかのように、その真実が綴られていく。


 母親は三日間帰らなかった。冷蔵庫の中身は最初の日になくなった。上の子は、下の子に残っていたパンの欠片を全部分けてあげた。四日目、五日目。下の子は泣くことすらできなくなった。


 上の子は、押し入れの布団の中で下の子を抱きしめながら言った。


「もう、ここにいても、ママ帰ってこないかもしれない」 

「じゃあ、ママの中に帰ろうか」


 それは、母親の記憶の中に。愛された瞬間の記憶の中に。お腹の中にいた時の、あたたかくて静かで、何の心配もなかった場所に。


 二人は手を繋いだまま、その幻想の中に沈んでいった。母親に愛されていた、短い短い記憶の中に。



***


 斑は三階の部屋に戻り、押し入れの前に座った。そこには今も、小さな気配が潜んでいる。


「ようがんばったな……」


 斑の声は、いつもの荒っぽさを失って、母親のように優しく響いた。


「もう十分や。アタシが迎えにいったる」


 帳面がページを開いたまま、青白く光り始めた。その光は部屋全体を包み込み、やがて空間そのものが変質していく。


 部屋の中が、まるで羊水に満たされた子宮の中のような、あたたかく静かな水に包まれた。光は水の中でゆらゆらと揺れ、まるで母親の心音のようなリズムを刻んでいる。


 小さな影が二つ、手を繋いだまま現れた。今度ははっきりと見える。上の子は4歳くらい、下の子は1〜2歳くらいだろうか。どちらも痩せ細っているが、顔には安らかな笑顔が浮かんでいる。


「ありがとう……」


上の子が斑に向かって小さく頭を下げた。


「やっと……帰れる……」


 二人は笑顔のまま、その温かい水の中にゆっくりと沈んでいく。まるで母親の胎内に戻っていくかのように、穏やかに、静かに。


 光が徐々に薄れていき、水も消えていく。部屋は元の古い団地の一室に戻った。



***


 すべてが終わった後、部屋の壁には手を繋いだ二人の影だけが薄っすらと残っていた。まるで焼き付いたかのように、その影は壁に溶け込んでいる。


帳面の該当ページには、新しい文字が記されていた。


『帰る場所を求めた子供たちの記録』

『愛を信じ続けた純粋な魂たちが、ついに安らぎの場所を見つけた』

『彼らの願いは叶えられた』


 斑は帳面を閉じると、部屋を出た。廊下を歩きながら、胸の奥で何かが静かに鳴いているのを感じた。悲しみでも怒りでもない、もっと複雑な感情。


「また一つ、終わったな」


紺が斑の隣を歩きながら呟いた。


「ああ。でも……」


斑は振り返ることなく答えた。


「こんな子供たちが、他にもまだおるんやろうな」


 夜風が団地の間を吹き抜けていく。明日もまた、異界依頼帳は新しい依頼を運んでくるだろう。救いを求める魂たちの声を載せて。


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