第伍頁:夜が燃える刻
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夜が深まる頃、帳面の頁がひとりでに捲れた。
いつものように、紺の手が触れたわけでも、風が吹いたわけでもない。ただ静寂の中で、古い紙が囁くような音を立てて開かれていく。
「……また、や」
斑が呟いた声に、かすかな困惑が滲んでいる。帳面を覗き込んだ紺も、眉をひそめた。
頁に浮かび上がった文字は、これまでとは違っていた。死者からの依頼を記すはずの文面に、生々しい体温が宿っているように見える。まるで書き手がまだ息づいているかのような、湿り気を帯びた筆跡。
『私の心を、返して』
短い一行の下に、住所らしきものが薄く浮かんでいる。都心部の、雑多なビルが立ち並ぶ一角だった。
「生きてるんちゃう? これ」
斑の言葉に、紺は静かに首を振る。
「分からない。でも、帳面が反応している以上……」
「行かなアカンっちゅうことか」
二人は無言のまま支度を整えた。夜の街へ向かう足取りは、いつもより重い。死者の願いを叶えることには慣れていても、生者の情念が異界に滲み出すという事態は未知だった。
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指定された住所は、小さなワンルームマンションの一室だった。外壁には雨染みが走り、廊下の蛍光灯がちらちらと明滅している。
ドアの前に立つと、中から微かな音が聞こえてきた。テレビの音声ではない。誰かが、同じ言葉を繰り返し呟いているような、途切れ途切れの声。
「……レンくん、ごめん……また、お金……」
紺と斑は顔を見合わせた。
「入れるんかな」
斑がドアノブに手をかけると、鍵がかかっているはずなのに、すんなりと開いた。異界の法則が働いているのだろう。
部屋の中は薄暗く、窓のカーテンが固く閉ざされている。床には雑誌やコンビニ弁当の空き容器が散乱し、生活感というより荒廃の匂いが漂っていた。
ベッドの上で、一人の女性が眠っている。
二十代後半と思われるその女性は、頬がこけ、唇が乾いている。栄養失調の兆候が見て取れた。けれど彼女の表情には、眠りながらも何かを探し求めるような、切迫した焦燥が刻まれている。
「夢、見とるんやな」
斑が小さく呟く。
女性の枕元には、スマートフォンが置かれていた。画面には、華やかな内装の店の写真と、スーツ姿の男性の写真が表示されている。ホストクラブの宣伝ページだった。
その時、女性が寝言を漏らした。
「レンくん……今度こそ、ナンバーワンにしてあげる……だから……」
紺の手の中で、帳面がぼんやりと光る。
「この人の、心の一部が……」
「異界に迷い込んどるんか」
女性の傍らに、薄い靄のようなものが立ち上っているのが見えた。それは彼女の輪郭をなぞるように揺らめき、やがて人の形を成していく。けれど、その姿は不完全で、まるで自分自身を見失っているかのように曖昧だった。
靄の女性――情念の化身は、ふらふらと部屋の中を歩き回り始めた。壁に手をつき、床に膝をつき、何かを探している。
「返して……私の心を、返して……」
それは、帳面に記された依頼の言葉と同じだった。
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紺と斑は、情念の化身を追って異界へと足を踏み入れた。
現実の部屋から一歩踏み出すと、そこは薄暗い廊下だった。両側に無数の扉が並び、どの扉からも甘い香りと、くぐもった笑い声が漏れている。ホストクラブの店内を模したような、けれど現実よりもはるかに歪んだ空間だった。
情念の化身は、扉を一つずつ開けて回っている。
「レンくん? レンくん、いる?」
彼女の声には、子供のような無邪気さと、同時に大人の女性の絶望が混じっている。
扉の向こうには、同じ顔をした男性が何人も座っていた。全員が同じ笑顔を浮かべ、同じ言葉を口にする。
「ありがとう」
「君のおかげだよ」
「今度、二人で食事でもしない?」
決まり文句のような台詞が、機械的に繰り返される。
情念の化身は、一つ一つの扉に飛び込んでいく。けれど、男性たちは彼女を見ようともしない。透明人間のように扱われ、彼女は次の扉へ、また次の扉へと向かっていく。
「あの子、自分がもう見えへんことに気づいてへんのやな」
斑の声に、哀れみが込められている。
情念の化身は、現実の自分が存在していることを忘れてしまっているのだろう。異界で彼を探し続けることが、唯一の現実になってしまっている。
廊下の奥で、ひときわ大きな扉が開いた。
そこには、他とは違う男性が座っていた。同じ顔をしているが、表情に生気があり、目に光が宿っている。
「おかえり」
その男性は、情念の化身を見つめて微笑んだ。
「レンくん……」
化身は安堵の表情を浮かべ、男性に駆け寄ろうとする。けれど、手を伸ばした瞬間、男性の姿が崩れ始めた。
「君が、僕を作ったんだ」
男性の声が、どこか空虚に響く。
「君の願いが、君の想いが、僕を形作った。でも、それは本当の僕じゃない」
「違う……違うよ、レンくんは……」
「本当の僕は、君のお金が欲しかっただけ。君の心なんて、どうでもよかった」
男性の輪郭が、煙のように薄れていく。
「でも、君だけは僕に嘘をつかなかった。君だけは、本当に僕を愛してくれた」
最後の言葉とともに、男性の姿が完全に消えた。
情念の化身は、その場に崩れ落ちた。
***
異界の廊下に、静寂が戻った。
情念の化身は床に座り込み、空になった手を見つめている。
「……もう、何も残ってない」
彼女の呟きは、諦めと安堵が入り混じっていた。
「あの人は、私のお金が欲しかっただけだった。でも、私だけは……私だけは、本当だった」
紺が一歩前に出る。
「それで、満足なんか?」
情念の化身は顔を上げた。初めて、紺と斑の存在に気づいたようだった。
「満足って……」
「あんさんが探していたのは、本当の彼なんか? それとも、本当の自分か?」
化身は答えに窮した。
斑が静かに口を開く。
「あんたの心は、まだ向こうで生きとる」
現実の部屋で眠る女性の姿が、化身の瞳に映った。
「あの人は、まだ諦めてへん。あんたが帰るのを待っとる」
「でも、もう何も……」
「何もないからこそ、やろ」
斑の言葉に、化身が振り返る。
「今度は、あんた自身のために生きてみぃ」
情念の化身の輪郭が、ゆっくりと光を帯び始めた。異界の法則が、彼女を本来の場所へ戻そうとしている。
「……ありがとう」
化身は立ち上がり、光の中に包まれていく。
「私、帰る」
光が収束し、異界の廊下が崩れ去った。
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現実の部屋に戻ると、ベッドの女性がゆっくりと目を開けた。
彼女は天井を見つめ、深く息を吸い込む。
「……夢、終わった?」
女性は起き上がり、散らかった部屋を見回した。スマートフォンの画面に映るホストの写真を、静かに消去する。
「もう、いいや」
彼女の声には、重いものを下ろしたような軽やかさがあった。
紺の手の中で、帳面のページがゆっくりと燃え上がった。依頼が完了した証だった。
二人は音もなく部屋を後にした。
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マンションを出ると、夜風が頬を撫でていく。
街灯の下を歩きながら、斑がぽつりと呟いた。
「……火ぃってな、ほんま不思議やで」
紺が振り返る。
「どういう意味や?」
「誰かのために灯したはずが、気ぃついたら、自分がいちばん、燃えてたりする」
斑は立ち止まり、夜空を見上げた。
「見たらアカン顔まで、見えてまうんや。誰にも見せへんような、あの顔まで……な」
その横顔に、いつもとは違う翳りが差している。
紺は何も言わず、ただ斑の隣を歩き続けた。
帳面を抱いた腕に、微かな温もりが宿っている。それは、今夜助けた女性のものか、それとも――
夜は静かに更けていく。
二人の影が、街灯の光に長く伸びながら、やがて闇に溶けていった。