第肆頁:魚は空を泳いだ
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夜の水族館は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように消え去り、展示フロア全体を深い沈黙が包んでいる。非常灯だけが廊下を照らし、その薄明かりが大小様々な水槽のガラス面を青白く浮かび上がらせていた。ポンプの駆動音が規則正しく響く中、ひとつの水槽だけが他とは違う光を宿していた。
熱帯魚たちは皆、水草の陰や岩場の隙間で眠りについている。しかし、その奥に、ひとつ、かすかにゆらめく影があった。生きている魚とは明らかに違う、透明で淡い光を纏った何かが、狭い水槽の中を行ったり来たりしている。
「……この気配。火がまだ、残っとるな」
斑がつぶやき、その水槽の前にゆっくりと歩み寄った。足音を立てないその足取りは、まるで水面を歩いているかのようだった。白髪の毛先に赤を滲ませたその姿が、青い水面にぼんやりと映り込む。水槽の中の影が、彼女の接近を感じ取ったのか、動きを止めてじっとこちらを見つめていた。
「うちの魚さんが、何か言うてはるんかもしれへんなぁ」
隣で軽く笑ったのは紺だった。銀青の髪に狐耳を揺らし、手にした古い帳面を指先でなぞっている。夜目の利く狐の瞳が、水槽の奥の影をしっかりと捉えていた。帳面の表紙に刻まれた文字が、かすかに光っている。
「ほな、ちょっと――聞かせてもらおか。あんさんの夢の続きを」
紺の声に応えるように、水槽の中で小さな光がひとつ、また、ひとつと瞬いた。
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水族館の昼間は生命力に満ち溢れていた。
平日の午後、修学旅行らしい小学生の一団が館内を駆け回り、彼らの興奮した声が高い天井に反響している。イルカショーの時間を知らせるアナウンスが流れ、大水槽の前では恋人同士がデートを楽しんでいる。そんな賑やかな光景の片隅で、ひとりの少女が小さな水槽の前で足を止めていた。
その水槽は他と比べて目立たない場所にあった。色とりどりの熱帯魚たちが泳ぎ回る大きな展示の陰に隠れるように置かれた、手のひらほどの小さな容器。中には数匹の地味な魚が泳いでいるだけで、観光客の注目を集めることはほとんどない。
少女は母親の手を離れ、そっと水槽に近づいた。七歳か八歳くらいだろうか。茶色いお下げ髪を揺らしながら、ガラス越しに魚たちを見つめている。
「この子、元気ないね」
水槽の隅で、一匹だけ小さな魚がじっと浮いていた。体長三センチほどの銀色の魚で、仲間たちが元気に泳ぎ回る中、まるで眠っているかのように動かない。時々、かすかにひれを動かすだけで、水流に身を任せるままだった。
少女の目に、その魚は寂しそうに見えた。
「プニって名前にしよう」
少女は水槽のガラスに小さな手のひらを当てた。温かい体温がガラスを通じて水に伝わったのか、魚がわずかに反応を示す。
「プニ、今度は海に連れて行ってあげるね。お父さんと海に行く約束してるの。もっと広いところで、いっぱい泳げるよ」
その声は純粋で、約束の重さなど知らない子どもらしい無邪気さに満ちていた。小さな魚は、その時初めてゆっくりとひれを動かし、少女の手のひらに向かって泳いできた。
しかしそれから一週間後、魚は静かに水面に浮かんだ。飼育員が気づいた時には既に冷たくなっており、そっと取り上げられて処分された。少女が再び水族館を訪れることは、二度となかった。
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「あの子、覚えてるわ」
水族館の飼育員だった老人が、紺の質問に答えた。
「毎日来とったんや、あの魚を見に。プニって名前をつけて、いつも話しかけてた」
「どんな話を?」
「海の話が多かったなぁ。『今度お父さんと海に行くから、一緒に連れて行ってあげる』って」
老人は遠い目をした。
「あの子も、その後すぐに引っ越してもうて。魚が死んでることも知らんままやろうなぁ」
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夜が深くなると、静寂に包まれた水族館で不思議な現象が起きていた。
日中の喧騒が遠い記憶のように感じられる午前二時過ぎ、熱帯魚水槽の一角に異変が生じる。水温は一定に保たれ、フィルターは正常に作動している。魚たちは皆、水草の陰や流木の隙間で穏やかな眠りについている。しかし、その水槽の中央部分だけが、他とは違う気配を纏っていた。
透明な影が、ゆらりゆらりと泳いでいる。肉眼では捉えにくいその姿は、かつてここに住んでいた小さな魚の記憶そのものだった。死してなお、狭い水槽の中を行ったり来たりしている。影は水槽の壁にぶつかると向きを変え、また同じ軌道を辿って泳ぎ続けた。まるで、見えない檻から出る方法を探しているかのように。
水面に映る蛍光灯の明かりが揺れ、影の輪郭をより鮮明に浮かび上がらせる。それは確かに魚の形をしていたが、どこか人間の感情を宿しているようにも見えた。焦燥感、寂しさ、そして何かを求める強い願い。
「狭い……もっと広いところを……」
かすかに聞こえる声は、水泡が弾けるような音に混じって耳に届いた。斑が振り返ると、その声の主である透明な魚影が、まるで彼女の存在に気づいたかのように動きを止める。
「あんた、海を知らんのやね」
斑の言葉に、魚の影がゆらりと揺れた。それは驚きの表現なのか、それとも期待なのか。長い間、誰からも気づかれることなく泳ぎ続けていた存在にとって、初めて交わされる会話だった。
「海って、なあに?」
声には純粋な好奇心が込められていた。海という概念を知らない魚にとって、それは未知の言葉でしかない。
「とても広くて、果てしない水の世界や。空みたいに青くて、どこまでも泳いでいける」
斑の説明を聞いて、魚の影が小刻みに震えた。それは喜びの震えだった。
「そんなところがあるの……?」
魚の声が震えた。想像もつかないほど広い場所があるということ、そこでは自由に泳げるということ。その可能性だけで、透明な体が淡い光を帯び始める。
「あの子が、連れて行ってくれるって言った。『もっと広いところで泳げるよ』って」
魚の記憶の中で、少女の声が蘇る。温かい手のひらをガラスに当てて、優しく語りかけてくれた声。その約束だけが、死後の世界でも魚を支え続けていた。
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斑は水槽に手を当てた。
ガラス越しに感じる小さな命の残滓。海を知らず、狭い水槽で一生を終えた魚の、ささやかな夢。
「あんたの名前、プニって言うんやって」
「プニ……?」
「あの子がつけてくれた名前や」
魚の影が、嬉しそうに揺れた。
「名前……ぼくの名前……」
その時、他の水槽からも影が現れ始めた。かつて同じ水槽で泳いでいた仲間たちだった。
「みんな……」
プニの声が弾んだ。
「一緒に、広いところへ行こう」
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紺が帳面を開いた時、古い羊皮紙のページがかすかな光を放った。
帳面の表紙には複雑な文様が刻まれており、それらが今、青白く発光している。ページを捲る音が静寂を破り、その響きは水族館全体に不思議な共鳴を生み出していた。新しいページが現れると、そこには既に薄い文字が浮かび上がり始めている。
『海への憧れを抱き続けた小さな魚と、その約束を記録する』
文字がページに定着すると同時に、斑の髪の赤い房が青白く光を帯びた。それは炎のような光でありながら、水の中でも消えることのない、不思議な輝きだった。光は彼女の指先に集まり、やがて水槽全体を包み込んでいく。
「さあ、プニ。みんなで泳ぎに行こう」
斑が灯した火が、水槽の中の水を静かに変化させ始めた。最初は水面にさざ波が立ち、次第にその波紋が広がっていく。水の分子一つ一つが光の粒子に変わり、青い水が透明な光に溶けていく様は、まるで魔法のようだった。
青い水が光に溶けて、やがて透明な空間に変わった。水槽のガラス壁が霞のように薄れ、天井が遥か彼方まで広がっていく。床も壁も消え去り、そこにはただ、無限に広がる青い空間だけが残された。それは海でもあり、空でもある、プニが夢見た理想の世界そのものだった。
水族館の建物は消え、夜空に星が瞬いている。その星明かりの下、青い光の海が無限に広がっていた。
「わあ……」
プニの声に込められた驚きと感動が、空間全体に響き渡る。透明だった魚影が、今度は美しい銀色の光を纏って現れた。生前よりもずっと大きく、ずっと美しい姿で。
仲間たちも次々と光の中から現れ、本当の魚のように、自由に、どこまでも泳ぎ始めた。青い光の中を縫って、魚たちの影がくるくると舞い踊る。水槽という檻から解放された彼らは、初めて知る自由の中で歓喜の舞を踊っていた。
「これが……海?」
プニの声は純粋な驚きに満ちていた。
「そうや。あんたの海や」
斑が微笑んだ。その笑顔は、魚たちの歓喜を見守る母親のような優しさを湛えていた。
「あの子との約束、果たせたね」
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やがて光が薄れ、魚たちの影もゆっくりと消えていく。
最後に、プニの小さな声が聞こえた。
「ありがとう……海、とっても広くて……きれいだった……」
「あの子にも、ありがとうって伝えたかったなぁ……」
声は風のように消えて、水族館に静寂が戻った。
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翌朝、水族館の清掃員が不思議がった。
一晩で水槽の水が驚くほど澄んでいて、まるで空気のように透明だった。
「まるで魚たちが喜んどるみたいや」
紺と斑は、もうそこにはいなかった。
帳面の新しいページには、こう記されている。
『海を夢見た小さな魚と、その仲間たちの記録。子どもとの約束は、違う形で果たされた』
遠くで波の音が聞こえるような気がした。
本当の海からではなく、誰かの心の奥から響いてくる、やさしい波の音が。
魚は空を泳いだ。
それは、きっと海よりも美しかった。