表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/9

第参頁:呼ぶ声は、花の下より

***


雨が上がった夜だった。

老女は縁側に腰を下ろし、庭の桜を見つめていた。枝垂れた花房が、風もないのにふわりと揺れ、月明かりに白く浮かび上がっていた。どこか、この世のものではないように。


「来てくれたのね」


ツキノは振り返らずにそう呟いた。足音ひとつ立てずに現れた二人の気配を、まるで初めから知っていたかのように。


「ツキノさんやな」


声をかけたのは、銀青の髪をした男だった。狐の耳がぴくりと動く。法被を思わせる衣に身を包み、片手には古めかしい帳面を抱えている。


「わい、紺いうもんや。こっちは――斑や」


隣に立つのは、白髪の毛先に赤を滲ませた女。まなざしには静かな火が宿っていた。


「……あんたらが、帳面の人たちなんやね」


ツキノはすっと立ち上がると、深々と頭を下げた。


「お願いします。もう、どうしたらええか分からへんの」


***


座敷に通された紺と斑の前で、ツキノは震える手で茶を注いだ。湯気が静かに立ち上り、畳の上には古い線香の匂いが染みついている。


「……息子の声が聞こえるんです」


ツキノの声は意外にも、しっかりとした響きを持っていた。


「夜になると、桜の下から。最初は風の音やと思ってたけど……だんだん、はっきりしてきて」


「なんて言うとるんや?」


紺が帳面に視線を落としながら、やわらかく問う。


「聞き取れへんの。でも……」


ツキノは手を小さく震わせた。


「返事をしてしまいそうになるの。怖いのよ。返事をしたら、何かが起こる気がして」


斑がわずかに身を乗り出す。


「おばあさん。息子さん、どうして……?」


「二十年前や。あの子は……恋人を殺して、自分も死んだって、そう言われてる」


ツキノの声が途切れる。茶碗を持つ手が微かに揺れていた。


「心中事件って言われたけど……アタシには、どうしても信じられへん。あの子が人を殺すような子やなかった」


紺の指が帳面の上で止まった。


「けど、警察はそう断定したんやろ?」


「証拠があったから。血の付いた包丁を握ってて……でも、あの子の目。死んだ時の目、アタシ、見たんや」


ツキノの瞳が揺れる。


「怖がってた。……何かに、ひどく怯えてた」


***


桜の木の下に立つと、確かに何かが聞こえた。


風はない。それでも、花びらはひとひら、またひとひらと音もなく舞い落ちる。

その音に混じって、かすかに人の声のような気配がした。名を呼ぶような、何かを訴えるような――。


「ああ……」斑が息を呑んだ。「これ、ほんまに……」


「なんや?」


「火が、土の中でずっと燃えてる。冷たい火や」


斑は桜の幹に手を当てた。樹皮の内側、流れる樹液に混ざるように、脈打つ何かがある。


「根っこが深いんやな、この木……」


「桜の根は浅いもんやけどな」


紺が帳面を開き、ぱらぱらと数ページをめくる。そこに記されていた古い記録が、目に留まった。


『愛する者に裏切られ、刃を向けられ、恐怖の中で死んだ青年の記録』


「これや……息子さんの記録や」


「え?」斑が振り返る。


「被害者として記されとる。加害者やない。……恋人に、殺されたってことや」


ツキノが声を震わせる。


「やっぱり……やっぱり、あの子は……」


***


翌日、紺は町の図書館で古い新聞の縮刷版を調べていた。


『恋人殺害後に自殺 青年(当時二十三) 包丁握り心中か』


記事は短く、事実だけが淡々と綴られている。

だがその中に、一文だけ異質なものがあった。


『現場の状況から、激しい争いがあったものと推定される』


「……争い、か」


紺は眉をひそめた。心中であれば、争いなど起きるはずがない。


一方、斑は桜の根元で静かに土を掘っていた。


「……ここやな」


手が何かに触れる。骨だった。


その瞬間、斑の意識に激しい情念が流れ込んでくる。


──恐怖、裏切り、悲しみ。


『なんで……なんで俺だけやったらあかんの……?』

『他にも男、おったん知ってるんやで! なんで俺だけ……』

『やめて! お願いやから……』

『死ね! お前なんか、死んでまえッ!』


叫びと共に、突き刺さるような痛みが斑の胸を打つ。


それは、土の奥深くでなお燃え続けていた、冷たい火の記憶だった。


***


「見えた」


斑は土まみれの手を震わせながら、静かに立ち上がった。


「彼女に刺されたんや……息子さんはな」


夕暮れ時、三人は再び桜の木の下に集まっていた。


「恋人は、複数の男と付き合っとったんや」


紺が口を開く。声は穏やかだが、帳面をめくる指先に迷いはない。


「息子さんだけが、それを知らへんかった。けど、ある日気づいて、問い詰めたんや」


「それで……?」


ツキノの声がかすかに揺れる。


「逆上した彼女が、刃物を持ち出した。息子さんは抵抗したけど……」


斑が続ける。


「最後、彼女は息子さんの手に包丁を握らせて、自分の腹に突き立てた。心中に見せかけるためにな」


「……なんてことを」


「それでも、息子さんは生きてたんや」


斑の声が低く落ちる。


「恐怖と絶望の中で、誰にも気づかれず、ただひとり……死んでいった」


そのとき、桜の花がひとひら、またひとひらと舞い落ちる。

そして、声が届いた。


『……母さん……母さん……』


「タケシ……!」


ツキノがその名を呼ぶ。


『母さん、怖かった……ひとりで死ぬん、ほんまに怖かった……』


斑の髪の赤い房が、夕闇のなかで情念を映すように揺れた。


「……わかった。わかったからな。もう、大丈夫や」


斑は静かに土に手をついた。

ひとつ、深く息を吸い――そっと、火を灯す。


土の奥から、青白い炎がふわりと立ち上がる。


『……ありがとう……』


声が、すこしずつ遠ざかっていく。


『母さん……もう心配せんでええよ……』


炎は桜の花びらと共に夜空へと舞い、やがてすうっと、消えていった。


***


翌朝、ツキノは桜の木の下で静かに線香を手向けていた。


「返事せんで、よかったんやな……」


彼女の声は、どこかほっとしたように、やわらかく滲んでいた。


「あの子の声はな、返事を求めとったんやない。……ただ、わかってほしかっただけなんや」


花はもう、音もなく散っていた。

それでも、ツキノの背はまっすぐに伸びていた。


紺と斑は何も言わず、それを見守っていた。


やがて、斑がそっと帳面を開き、静かに指を走らせる。

そこには、こう記されていた。


『真実を知り、安らぎを得た母と子の記録』


ページを閉じ、二人はゆっくりと歩き出す。

遠ざかる足音とともに、春の風が桜並木を渡っていった。


──もう二度と、あの声が聞こえることはない。

けれど、それでよかった。


花は散っても、また来年咲くのだから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ