第参頁:呼ぶ声は、花の下より
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雨が上がった夜だった。
老女は縁側に腰を下ろし、庭の桜を見つめていた。枝垂れた花房が、風もないのにふわりと揺れ、月明かりに白く浮かび上がっていた。どこか、この世のものではないように。
「来てくれたのね」
ツキノは振り返らずにそう呟いた。足音ひとつ立てずに現れた二人の気配を、まるで初めから知っていたかのように。
「ツキノさんやな」
声をかけたのは、銀青の髪をした男だった。狐の耳がぴくりと動く。法被を思わせる衣に身を包み、片手には古めかしい帳面を抱えている。
「わい、紺いうもんや。こっちは――斑や」
隣に立つのは、白髪の毛先に赤を滲ませた女。まなざしには静かな火が宿っていた。
「……あんたらが、帳面の人たちなんやね」
ツキノはすっと立ち上がると、深々と頭を下げた。
「お願いします。もう、どうしたらええか分からへんの」
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座敷に通された紺と斑の前で、ツキノは震える手で茶を注いだ。湯気が静かに立ち上り、畳の上には古い線香の匂いが染みついている。
「……息子の声が聞こえるんです」
ツキノの声は意外にも、しっかりとした響きを持っていた。
「夜になると、桜の下から。最初は風の音やと思ってたけど……だんだん、はっきりしてきて」
「なんて言うとるんや?」
紺が帳面に視線を落としながら、やわらかく問う。
「聞き取れへんの。でも……」
ツキノは手を小さく震わせた。
「返事をしてしまいそうになるの。怖いのよ。返事をしたら、何かが起こる気がして」
斑がわずかに身を乗り出す。
「おばあさん。息子さん、どうして……?」
「二十年前や。あの子は……恋人を殺して、自分も死んだって、そう言われてる」
ツキノの声が途切れる。茶碗を持つ手が微かに揺れていた。
「心中事件って言われたけど……アタシには、どうしても信じられへん。あの子が人を殺すような子やなかった」
紺の指が帳面の上で止まった。
「けど、警察はそう断定したんやろ?」
「証拠があったから。血の付いた包丁を握ってて……でも、あの子の目。死んだ時の目、アタシ、見たんや」
ツキノの瞳が揺れる。
「怖がってた。……何かに、ひどく怯えてた」
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桜の木の下に立つと、確かに何かが聞こえた。
風はない。それでも、花びらはひとひら、またひとひらと音もなく舞い落ちる。
その音に混じって、かすかに人の声のような気配がした。名を呼ぶような、何かを訴えるような――。
「ああ……」斑が息を呑んだ。「これ、ほんまに……」
「なんや?」
「火が、土の中でずっと燃えてる。冷たい火や」
斑は桜の幹に手を当てた。樹皮の内側、流れる樹液に混ざるように、脈打つ何かがある。
「根っこが深いんやな、この木……」
「桜の根は浅いもんやけどな」
紺が帳面を開き、ぱらぱらと数ページをめくる。そこに記されていた古い記録が、目に留まった。
『愛する者に裏切られ、刃を向けられ、恐怖の中で死んだ青年の記録』
「これや……息子さんの記録や」
「え?」斑が振り返る。
「被害者として記されとる。加害者やない。……恋人に、殺されたってことや」
ツキノが声を震わせる。
「やっぱり……やっぱり、あの子は……」
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翌日、紺は町の図書館で古い新聞の縮刷版を調べていた。
『恋人殺害後に自殺 青年(当時二十三) 包丁握り心中か』
記事は短く、事実だけが淡々と綴られている。
だがその中に、一文だけ異質なものがあった。
『現場の状況から、激しい争いがあったものと推定される』
「……争い、か」
紺は眉をひそめた。心中であれば、争いなど起きるはずがない。
一方、斑は桜の根元で静かに土を掘っていた。
「……ここやな」
手が何かに触れる。骨だった。
その瞬間、斑の意識に激しい情念が流れ込んでくる。
──恐怖、裏切り、悲しみ。
『なんで……なんで俺だけやったらあかんの……?』
『他にも男、おったん知ってるんやで! なんで俺だけ……』
『やめて! お願いやから……』
『死ね! お前なんか、死んでまえッ!』
叫びと共に、突き刺さるような痛みが斑の胸を打つ。
それは、土の奥深くでなお燃え続けていた、冷たい火の記憶だった。
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「見えた」
斑は土まみれの手を震わせながら、静かに立ち上がった。
「彼女に刺されたんや……息子さんはな」
夕暮れ時、三人は再び桜の木の下に集まっていた。
「恋人は、複数の男と付き合っとったんや」
紺が口を開く。声は穏やかだが、帳面をめくる指先に迷いはない。
「息子さんだけが、それを知らへんかった。けど、ある日気づいて、問い詰めたんや」
「それで……?」
ツキノの声がかすかに揺れる。
「逆上した彼女が、刃物を持ち出した。息子さんは抵抗したけど……」
斑が続ける。
「最後、彼女は息子さんの手に包丁を握らせて、自分の腹に突き立てた。心中に見せかけるためにな」
「……なんてことを」
「それでも、息子さんは生きてたんや」
斑の声が低く落ちる。
「恐怖と絶望の中で、誰にも気づかれず、ただひとり……死んでいった」
そのとき、桜の花がひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
そして、声が届いた。
『……母さん……母さん……』
「タケシ……!」
ツキノがその名を呼ぶ。
『母さん、怖かった……ひとりで死ぬん、ほんまに怖かった……』
斑の髪の赤い房が、夕闇のなかで情念を映すように揺れた。
「……わかった。わかったからな。もう、大丈夫や」
斑は静かに土に手をついた。
ひとつ、深く息を吸い――そっと、火を灯す。
土の奥から、青白い炎がふわりと立ち上がる。
『……ありがとう……』
声が、すこしずつ遠ざかっていく。
『母さん……もう心配せんでええよ……』
炎は桜の花びらと共に夜空へと舞い、やがてすうっと、消えていった。
***
翌朝、ツキノは桜の木の下で静かに線香を手向けていた。
「返事せんで、よかったんやな……」
彼女の声は、どこかほっとしたように、やわらかく滲んでいた。
「あの子の声はな、返事を求めとったんやない。……ただ、わかってほしかっただけなんや」
花はもう、音もなく散っていた。
それでも、ツキノの背はまっすぐに伸びていた。
紺と斑は何も言わず、それを見守っていた。
やがて、斑がそっと帳面を開き、静かに指を走らせる。
そこには、こう記されていた。
『真実を知り、安らぎを得た母と子の記録』
ページを閉じ、二人はゆっくりと歩き出す。
遠ざかる足音とともに、春の風が桜並木を渡っていった。
──もう二度と、あの声が聞こえることはない。
けれど、それでよかった。
花は散っても、また来年咲くのだから。