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第弍頁:在りしものは声だけで

声は、風と似ている。

かつて誰かに届いたはずの音は、時とともにかすれていく。


けれど、忘れたいわけではなかった。

忘れてしまっただけだった。


これは、記憶に宿る声を巡る、小さなひとつの物語。

 夜の帳が落ちる頃、ひとりの老人が静かに戸を叩いた。


 細い指先。しわがれた呼吸。沈黙に似た歩み。


 斑は帳面を伏せ、目を上げる。隣にいる男──紺は、いつも通り、微笑とも皮肉ともつかぬ表情で客を迎えた。


「声が、思い出せないのです」


それが最初の言葉だった。


 男は静かに語る。亡き妻か、あるいは幼くして逝った娘か。顔は覚えている。仕草も、髪の香りさえも。


ただ──声だけが、どうしても思い出せない。


 朝起きて、茶を沸かす。誰もいない食卓に、ひとり分の湯気だけが立ちのぼる。


 昔は、そこに声があった。

笑う声。叱る声。名前を呼ぶ声。


 けれど今は、そのどれもが掠れ、まるで最初から存在しなかったかのように遠い。


「夢の中で、誰かが呼ぶのです。“おとうさん”と。でも、その声が──本当に、あの子のものだったのかどうか……」


 夢は夜ごと、男の耳を震わせた。目覚めるたびに胸が軋み、そしてまた、その声は記憶から逃げていく。


紺は言った。


「声は、最初に失われる。けれど、最後に残るのも、声なんや」


斑はただ、帳面を開く。紙の上に、音もなく筆が走る。


男の夢の記憶が、過去の情念が──静かに記されていく。


その筆致に誘われるように、空気が揺らぎはじめた。


 ひとつの光景が浮かぶ。

白いスカート。風に遊ばれる髪。

小さな手が差し出され、「おとうさん」と口が動く。


けれど音はない。


声がない世界に、色だけが残っていた。


 斑は眉をひそめる。紺は、ゆっくりと手を伸ばし、帳面の角を持つ。


 やがて、帳面が音を立てた。ひとりでにめくられた頁の奥から、微かに、呼ぶ声がした。


「……おとうさん」


男は震えた。


 けれどその目に涙はなかった。ただ、深く、長く──息をついた。


「ありがとう……あぁ、そうか。おまえの声は、こうだったな……」


紺は何も言わず、斑はそっと帳面を閉じた。


記憶は風にさらわれる。声は空気に溶けて消える。


けれど──誰かの胸に、今も響いているなら。


それは、確かに“在った”のだ。


 男は帰り支度を整えながら、小さく笑った。

懐から古びた鍵を取り出し、手のひらで握りしめる。


「この鍵、あの子が小さい頃に落として、泣いて……私が見つけてやったんです。

 声よりも先に、それを思い出してしまうんだから、不思議ですね」


 斑はふっと目を伏せた。紺は何も答えず、ただ目を細めて見送った。


 夜の町へ戻る細道。

男は背を丸めながら、ゆっくりと歩く。

その背に、ほんの僅か──迷いが晴れたような、光が宿っていた。


 風が吹いた。

遠くで木々が揺れた。


 その音の向こう、確かに、もう一度だけ──声が、した気がした。


(了)

声は、最初に消えていく記憶だという。


それでも、思い出そうとするたびに、胸の奥で何かが揺れるのは、

きっと、その瞬間が本当に大切だった証なのだと思う。


聞こえなくなっても、届かなくなっても──

心のどこかで灯っている想いがある。


そんな余韻が、誰かに届いていたなら幸いです。

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