第壱頁:狐と女と、最初の依頼
この帳面に記されるのは、誰にも知られず、何も残らない──
けれど、確かにそこに在った、ある依頼の記録です。
灯火を手に、どうかそっと、覗いてみてください。
夜の帳が降りる頃、風のない路地裏で、ひとりの青年が立ち尽くしていた。
古びた手帳を胸に抱え、目を閉じる。
そこに──一陣の風もなく、ふたりの影が現れる。
「さて。今日の依頼人、あの子で間違いないようやな」
男の声は柔らかくも、どこか胡散臭さを纏っていた。
銀青の髪が風もないのに揺れている。狐面を頭にかけ、和装にも似た法被の裾が光を反射する。
その名は──紺。
「……間違いない。彼の声が、帳に届いた」
女は簡潔に応じた。白を基調とした衣の裾から赤がのぞき、長い髪が夜に揺れる。
表情は動かないが、その足元には、淡く燃える焔がひとつ。
斑。
声なき声を拾い、帳に記す女。
現世と異界の狭間を渡り歩く“灯し手”だ。
依頼は、
『声を失った妹の真実を知りたい』
青年が訴えたのは、失語となった妹に関する不可解な出来事。
数ヶ月前、山奥の神社に参拝して以降、彼女は言葉を発さなくなった。
医者も原因を特定できず、心の病と断定されたが──彼は信じなかった。
「彼女は、何かを見てしまったんだ。俺には、わかるんだ……!」
その“わからなさ”の中に真実があると信じ、彼は帳面に願ったのだ。
紺は静かに目を細め、斑の方を見た。
「わいが調べたところ、その神社──灯燈稲荷っちゅう場所やったかいな、そこやな。妙な記録が何代も残ってて、失声の報告もちらほら……どないする?」
斑はただ一度、頷いた。
「現地へ赴く。灯し手として、確かめる」
数日後。
ふたりはその神社を訪れ、そこに留まる“残滓”──声にならなかった想念──を視る。
失ったのは言葉ではなく、「語ることを許されなかった記憶」だった。
妹はかつて、神社の祭祀に関わる忌まわしい真実を偶然知ってしまい、それを口にした瞬間、神職に「祓われかけた」のだ。
それ以降、彼女の心は“封じ”られた。
語ることが、恐怖と同義になっていた。
斑は焔を掌に宿し、妹の心に静かに火を灯す。
その焔は過去を赦すものではない。
けれど、
「それでも前に進め」と囁くための灯火だった。
妹は、ひとことだけ口を開いた。
「──ありがとう」
その声が空にほどけていった瞬間、斑と紺の姿は消えていた。
「また、ひとつ」
紺は空を見上げる。
「灯ったんやな」
斑は答えない。ただ、掌に残ったぬくもりを確かめていた。
誰かの声が、また帳に届く。
それはまだ、言葉にならない想い──。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
誰かの胸に、小さな火が灯っていたなら嬉しいです。
次の依頼も、また静かにお届けします。