第零頁:帳面の目覚め
狐火が導く“未練と贖罪”の幻想譚、始まります。
静かに読みたい夜に、そっと灯してください──
それは、火のようであり、風のようでもあった。
夜が完全に沈む直前、世界と世界の隙間にだけ立ち上がる小さな灯火。
それが“始まり”の合図だった。
──帳面が、目を覚ます。
古びた和紙に、かすかな光が滲む。
誰の手も触れていないのに、一文字、一文字が滲み、燃え、記されていく。
それは依頼でもあり、呪いでもあり、ただの叫びのようでもあった。
「……また、燃えてますなあ」
声がした。
月も雲に隠れた夜の路地裏。
何の気配もないはずの場所に、一人の男が立っていた。
灰色の着物に、顔の半分を覆う狐面。
瞳は眠たげで、笑っているのか、試しているのか、判断がつかない。
足元には淡く揺れる小さな火──
それが“狐火”だと知っている者は、現世にはほとんどいない。
「今度は……ずいぶん、切実そうや。これは“誰か”が泣いとる音や」
男の名は、紺。
この帳面の“読解者”であり、“案内人”でもある。
そして、帳面を開くのは彼ではない。
すぐ傍に立つ一人の女が、ゆっくりとその火を受け取るように、帳面を開いた。
真っ赤に燃えるような髪。
瞳は静かに揺れる焔。
その立ち姿には、怒りも悲しみも映っていない。
だが、彼女の存在そのものが、“火”だった。
名は、斑。
彼女は“帳面の主”であり、“依頼の執行者”である。
紺が言葉で読み解き、斑が行動で応える。
それが、この帳面に課せられた役目だった。
「……依頼、確認。記名はなし。内容は……“戻りたい”?」
その声には、重みも感情もなかった。
まるで燃え残った灰が、まだ形を保っているのを確かめるような響きだった。
「名前のない依頼は……風か、亡者か。どっちにせよ、ろくな結末はないやろなあ」
紺が肩をすくめる。
それでも斑はなにも答えず、帳面をそっと閉じた。
まるでその行為そのものが、静かな合図のようだった。
風が吹いた。
狐火がふわりと舞い、帳面の端に、ふっと火を灯す。
けれど、燃え広がることはない。
その火はただ、そこに灯るためだけに存在していた。
──依頼、受理。
世界のどこにも記録されず、誰の耳にも届かない。
それでも確かにそこにある、誰かの叫び。
帳面はそれを受け取り、静かに灯を宿す。
「……さて、どんな炎になりますやら。なあ、斑」
紺が口元に笑みを浮かべる。
それは軽口でも皮肉でもない。
彼にとって“依頼”とは、未知を覗く行為であり、それを見届ける儀式でもあった。
斑は視線を夜空に向けた。
雲の切れ間から、欠けた月がのぞいている。
その冷たい光さえ、狐火の揺らめきの前ではどこか遠く、淡かった。
「……また、ひとつ、燃えるだけ」
誰に向けるでもないその言葉が、風に溶けた。
今日もまた、ひとつの魂が燃やされる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
言葉にならない想いが、少しでも届けば嬉しいです。
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