第三節:路地裏に、神の匂い
カフェを出ると、太陽がほんの少し傾きかけていた。ビルの谷間に切り取られた空はやたら高くて、まるで何かがそこから覗いているような気がして、ちょっとだけ肩がすくんだ。
「……で、ウサギたちよ。いったい私に何を求めてるの?」
「お、やっと話を聞いてくれる気になった?」
「別に聞く気になったわけじゃないけど。ただ、カフェの床にウサギが二匹もしゃべりながら跳ね回ってたのに、誰もツッコまなかった時点で、こっちの常識が崩壊した感じがして」
「まあまあ、ようこそ“視えてしまう”世界へってことで」
ユキはぽてぽてと私の横を歩く。どこか無防備で人懐っこい動き。でも言葉の端々から、ただの可愛いウサギじゃないことは嫌でも伝わってくる。
キリは私の後ろ、やたら警戒した様子で跳ねずに歩いていた。黒光りする毛並みに新宿の雑踏の光が反射して、やたら存在感がある。
「ちょっと、目立ちすぎない? 普通に犬の散歩と間違えてもらえない?」
「気配はある程度抑えてるよ? 視える人にしか、はっきりとは見えないから」
「その“視える人”が、今は私ひとりだけ……じゃないよね?」
私は立ち止まり、後ろを見た。
雑踏の中に、一瞬だけ“いる”と感じた。輪郭の曖昧な、黒い影のような何かが、遠巻きにこちらを見ていた気がした。
「今の……何?」
「……来てるな、ユキ」
キリが低く、唸るような声でつぶやく。その目が真っ直ぐ、私の背後を睨んでいた。
「まいったなあ、まだ話してる途中なのに……」
「おい、何が来てるのよ。私はまだ“言霊の力”がどうとかって話もちゃんと聞いてな——」
その瞬間、世界が一瞬だけ、ぐにゃりと歪んだ。
目の前の歩道が、音もなくゆらいだ。アスファルトの隙間から、黒い靄がゆらゆらと立ち上っている。誰も気づかない。通行人はスマホを見たり、友達と笑いながら通り過ぎる。でも私には見えてしまう。
——見えてしまう、“異物”が。
「ミコト!」
キリが跳んだ。その黒い体が空気を裂く。
私の目の前、靄が突然、形を持ち始めた。人のような、そうでないような——顔のない、のっぺりとした何かが、私の足元に影を落としていた。
「なっ……!」
一歩、後ずさる。だが足がすくんだ。
その瞬間、私の胸元に何かが光る。
「えっ……!?」
服の下——肌に直接下げていた、古びた小さな御守りが、熱を帯びるように脈打った。
「間に合った!」
ユキが跳ねる。白い稲妻のように、靄に飛びかかる。柔らかそうなその体から、光の弾けるような衝撃波が生まれた。
「——退けッ!」
キリの叫びとともに、靄の形はかき消えた。音もなく、塵のように散っていく。
ほんの数秒の出来事だった。周囲の誰も、何も気づいていない。ただ私だけが、その“何か”を見て、その温度を感じていた。
「っ……なに、あれは」
息が荒い。心臓が、いやにうるさい。
「穢れの影だよ」
ユキが、静かに言った。
「最近、やたら出没してる。視える人の近くに集まってきてる。ミコト、君もそのひとりなんだ」
「はぁ……」
息を整えながら、私は思う。
わりと本気で、抹茶スモークチーズの方がマシだった。
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