ソラは全てを知りたい
あたしは『ソラ』と呼ばれている。『ソラ』はご主人があたしにくれた名前だ。
あたしはご主人に拾われ、命を救われた。
あたしはずっとご主人と一緒に暮らしていけると思っていた。
だが、そんな当たり前と思っていた日常は突如崩れ去る。
荒らされた部屋、帰ってこないご主人。
あたしは確信する。ご主人に何かがあったことを。
そして、あたしは気づく。ご主人のことを何も知らないことに。
だから、私はご主人のことを知りたい。あの人のすべてを知りたい。
その決意があたしを動かす。
あたしは『ソラ』と呼ばれている。『ソラ』はご主人があたしにくれた名前だ。
ご主人曰くあたしは『猫』と呼ばれる生き物らしい。
らしいというのはあたしにその実感が無いからなのだけれど、あたしと同じ姿の奴らも人間達からは猫と呼ばれるので、合っているんだろう。
あたしは両親の顔を知らない。というか生まれたときのことを覚えていない。気がつけば空が見える箱の中に転がっていた。
周りには誰もいなくて寂しくて、通りかかるもの全てに話しかけたのだが誰もあたしのことなんて見向きもしない。
――ああ、寒い。お腹が空いた。喉が渇いた。
頭の中がそんなことで一杯になりかけたそんな時だった。しょぼくれた人間の男が箱の上からあたしを見つめた。
「誰だよ。こんなところに猫捨てたの……」
あたしが聞いた最初のまともな声がそれだった。
こんな冴えない人間の男に媚びるなんてと思ったけれどこいつに助けてもらわなきゃあたしの命が危うい。
あたしは必死に「助けて。助けて」と声を上げる。
「な、鳴くなって。……困ったなぁ」
頬をかきながら慌てる男を見て、これは可能性があるぞと思った。当時の幼いあたしでもこれはチャンスだとわかったぐらいなのだから相当なのだと思う。精一杯の可愛い顔をしつつ声を上げる。あたしも命がかかっているのだから必死だ。
「仕方ないか……」
ため息を付いてから彼は箱ごとあたしを持って自分の家まで優しく運んでくれた。
これがあたしとご主人との出会いだ。あの日の夜に食べたミルクとトロトロのキャットフードの味は今でも忘れられない。
ご主人によってあたしには『ソラ』という名前がつけられた。あたしの目の色がお外の上にある空に似ているからだそうだ。
ご主人につけてもらった空色という色の首輪にはあたしの名前が入っててこれがあたしが『ソラ』である証になっている。
ご主人との生活は実に良いものだった。
あたしが少々運動したいと思って動き回っても怒らないし、定期的に餌もくれる。ご主人と一緒に寝ると暖かくて心地よい。
今まで怒られたのは三回だけだ。最初はトイレをする場所を指示されたのだけれどそんなところでやるの嫌だ! って拒否して違う場所でしたら凄い怒られた。
次に窓が開いてて、外に遊びに行来たくなって飛び出したのだけれど、なんだかんだあって日が昇ってから帰ってきたら泣きながら心配したんだぞって抱きしめられつつ怒られた。
それ以降はちゃんとトイレは指示された砂の上でやるし、たまに外へ行って帰ってくる時も夜遅くならないようにするようにした。
一応命の恩人だし。ご主人だからだ。だからある程度の言うことは聞いてあげようと思ってたりする。
ご主人はあたしを見てるとよく笑うし、よくあたしを板のようなもので撮影する。どうやらスマホっていうらしい。
あたしはそのスマホでつながっている周りの人からよくかわいいと褒めてもらえるらしく、それをきっかけにご主人は一人の人間の雌と親しくなっていった。あっちも猫を飼っていてそれがお付き合いのきっかけになったらしい。ちなみに何度かあたしも一緒に連れて行ってもらっている。
あっちの猫はミーシャっていってあたしとは違って長い毛の女の子なんだけれどあたしと比べると大人しくてのんびりとしてる。外に出たことが殆どないらしくあたしが外の話をしてあげると実に楽しそうに話を聞いてくれるのだ。
ミーシャとあたしはご主人達が早く一緒に住めばいいのになんて人間たちには聞こえない願望を二人で話し合っていた。
今日だっていつもの通りに夜になる前に家に帰ってくるまではあたしとご主人はそういう変わらない日常が待っているはずだと思っていた。
でもその妄想は帰ってきた家の中を見て崩れ始めた。
――なんで? どうしてこんなことになっているの?
部屋の中はあたしが暴れまわったとき以上にいろんなものが散乱していて今まで見たことがない状態だった。
――ご主人はどこ?
あたしは家の中を探したが誰もいなかった。
ご主人が見つからなかったことにあたしは少しほっとしてしまった。
もし、ここでご主人が倒れていたりなんかしてしまったら……。そう思うと不安で仕方なかったのだ。
少し落ち着いた後、あたしはこのぐちゃぐちゃの部屋をどうしようと途方に暮れてしまった。
ご主人はあたしがやったのではないかと思ってご主人はきっとあたしのことをやさしく怒るだろう。
とはいえ、あたしには怒られないように部屋を片付けることなんて出来ない。
いっそのこと、ご主人が帰ってくるまでこの部屋を見なかったことにして外にいようかと思ったところでおかしいことに気がついた。
――これは、誰がやったの?
ご主人だとしたら、ここまで部屋を荒らすなんてことをするわけがない。あたしは部屋の中をぐるぐる回りながら考える。
そうだ、ご主人以外の誰かが家に入ってきて荒らしたのだ。
よく見ると、テーブルの上に置かれていたはずのパソコンとかいうご主人が大事にしているものがまっぷたつに割れてしまっている。
あたしの知らない誰かが勝手にご主人とあたしの家に入ってきて手当たりしだいに暴れてご主人の大事なものを壊してそのまま姿を消したのだ。
――ねぇ、早くご主人帰ってきて。怖いよ。ご主人の声が聞きたいよ。怒られてもいいから早く帰ってきて。お願いだから。
あたしはそんな事を考えながら少しでも散らかっていない場所を探して、棚の上に登ったところで丸くなる。
お外をうろついていたこともあり疲れていたのだと思う。あたしの頭は徐々にぼんやりとしてきた。
気がつくと、部屋は真っ暗だった。
どうやら眠ってしまっていたらしい。外の奴らにこんな状況で寝れるなんてと皮肉を言われるのだろうなと思いながらゆっくりと部屋を見回す。
部屋の様子は何も変わっていなかった。それはご主人が帰ってきていないことを示している。
あたしには人間たちが使っている細かい時間に関してはわからないが、もう夜だということぐらいはわかる。
となればご主人がすでに帰ってきているはずだ。
もしなにか理由があって家に帰ってこれない時はあたしに「今日は帰ってこれないから」と言ってでかけていくのだ。
今日はそんなことがなかったからすでに帰ってきていておかしくはないはずだ。
ご主人になにかあったのだろうか。いや、あったと考えるべきだ。
ご主人に何かがあったからこそ帰ってこないし、それ故に家も荒らされていたのだ。
でも、どうすればいいのだろう。
あたしは人間の言葉を理解できるだけのただの猫だ。
あたしが人間であったならば、ご主人の役に立てたのに。ご主人を守ることだって、ご主人の居場所だって調べられるはずなのだ。
そんな事を考えているとグルグルグルグルとお腹から音が鳴り始めた。
その音であたしは朝から何も食べてないことを思い出した。
こんな大事なときですらお腹が空く自分に情けなさを感じながらもいつも餌が置かれているキッチンの方へ向かう。
キッチンも引き出しの棚が引き出されてたり、中身が散乱してたりとひどい状態だった。
それでも餌皿には餌がしっかりと残っていたのが幸いだった。
あたしのお気に入りであるトロリとした餌まで用意されていた。
我慢できなくてあたしは餌皿に飛びかかってそのご馳走を食べ始める。
ネズミや虫なんかも悪くはないのだけれど、ご主人たち人間が作る餌は下手なエグみがなくてうまいのだ。
あっという間に皿の中にあった餌がなくなってしまい、物足りなさを感じていると、皿の先にあるラックの下に何かが光るのが見えた。
何だろと思い、頭を突っ込んでみると細長い板のようなものが奥に転がっていた。
更に手を突っ込み、それをひっかき出す。
――なんでこれがここに?
それはご主人が大切にしているパソコンで使うものだった。
確かUSBメモリ? とかいうやつだ。
ご主人が言うにはこれはあたしによく似た姿をしているらしい。でもあたしはこんな四角くはないと思うのだけれど。
そしてこれはあたしがご主人に怒られた三回目の出来事に関わっている。
ご主人があたしにかまってくれないときに、すねたあたしがこれを持っていったのだ。その時のご主人は「それはとても大事なものが入ってるんだ」と言って慌ててあたしを追いかけて怒ったのを覚えている。
それがどうしてここにあるかはわからないがきっとご主人が隠したのだと思った。
何から隠そうとしたのかはわからない。考えてみれば、あたしはご主人のことを知らない。命を助けてもらった恩人なのに何も知らないのだ。
――あたしはご主人のことを知りたい。ご主人のことを全て知りたい。そしてそれはきっとこの中にそのヒントが有る。
でもあたしにはこれの中身を調べることは出来ない。ただの猫なんだから。
だからあたしはあの人間の雌を頼るしかない。
あたしはこのUSBメモリを口に咥えようとしたところで首を振る。
ダメだ、これはとても大事なもので壊れやすいと言っていた。このまま口で咥えたら汚れてしまう。
なにかないかと辺りを探すと、透明で小さい袋を見つけた。
ビニール袋とか言うそれに慎重にメモリを押し込み、袋ごと口に咥える。
うん、これなら大丈夫だ。
早速あたしは駆け出した。あの人間の家へ一刻も早くたどり着けないといけない。そう思うとあたしの脚が早まっていく。
待っててね、あたしの――大切なご主人様。きっとあなたを助けてみせるから。