ヴィラン
『【速報】13歳の少女、姉を刺殺』
3月25日未明、高校三年生の秋汐優里香さん(18)が刺殺された。事件発生当時、被害者の血がついた包丁を持ってその場にいた被害者の妹(13)が容疑を認めており、警察は殺害動機などの詳しい背景を調べている。
「ただいまー」
薄暗い玄関で、声を張り上げる。けれど、聞こえてくるのは沈黙ばかり。
明かりのない玄関ほど、見捨てられた気分になる場所はない。あたしに帰ってきてほしくないから、あたしなんていらないから、出迎える人もいなければ返事もなく、電気もついていないんじゃないかって。
実際、この想像は間違ってはいないのだろう。
そんなものなんだよな、あたしなんて。
「――遥楓、帰ってきたなら『ただいま』ぐらい言いなさいよ」
ぼんやりと立っていたら、いつの間にかお母さんがいた。片手にはキッチンペーパーがあって、ああ、そうか、無くなったから取りに来たのか。階段下の押し入れは、玄関とダイニングキッチンのちょうど間にある。
「言ったよ。――ただいま」
「聞こえなきゃ意味ないでしょ」
聞くつもりがないだけじゃないの――なんて、言えない。
余計な言葉がのどまで上がってきても、押しとどめて口を閉ざす。それが、この家で波を立てずに生きていく方法。
「返事がないけど?」
「……はい」
少し重たくなった荷物を背負いなおして、目の前の階段に足をかける。ぎしぎしと鳴るのは、この家がぼろいから。
「静かにしなさいよ」
別に音を立てたくて立ててるんじゃない――そう思いつつも、口にするのは「分かった」だけ。口答えなんて、してはいけない。できない。
慎重に段を上り、二階の子供部屋に向かう。ドアの開いた部屋の奥に、人の影がひとつ。
「――あ、遥楓。おかえりなさい」
その手にシャーペンを持ったまま、机に向かいあっていたその人影――お姉ちゃんは笑った。あたしを見て、まっすぐに存在を認めてくれる、唯一の人。
思わず、あたしも笑みを浮かべていた。
「ただいま。進んでる?」
「まあね。春の公募に向けて書いてるところ。出来上がったら読んでよ」
「うん。お姉ちゃんの小説、大好きだもん」
荷物を下ろして、お姉ちゃんの隣に立つ。ルーズリーフは黒々とした文字で埋まっていた。
「大学生になってからも書くんでしょう?」
「もちろん。そのために受験頑張ったんだもん」
お姉ちゃんは、今年の四月から大学生になる。あまり詳しくは知らないけれど、偏差値が六十三の、誰もが知っているような有名な私立大学に入るんだって。文学部、執筆・思想専攻ってところらしい。小説を書く人が集まるんだよ、これからは小説を書く機会が増えるよ――これはお姉ちゃんが繰り返し言っていたから、いつの間にか覚えてしまった。
「でもよかったよ、センター利用でも一般でも合格できたんだから」
「なんかよく分かんないけど、お姉ちゃんってほんとに昔から頭いいよねえ」
というか――お手本みたいなんだよなあ。
そう、お手本。理想を具現化したような、そんなひと。
小学校の頃から頭がよくて、中学校の定期テストでは常に学年一〇位以内。通っている高校はこの市のトップ校で、成績も上の方。お母さんもお父さんも、テストの結果を見るたびににこにこと笑って「優里香は偉いわねえ」「本当にすごい」とほめていた。友達もいっぱいいるし、今は引退してしまった部活ではけっこう活躍の場面が多かった。まさに文武両道。名前に『優』の字があるからなのか、誰にでも――こんなできそこないのあたしにも優しい、そんなお姉ちゃんは、受験を終えて自由な時間を謳歌している。
「――はあ」
いいなあ、お姉ちゃんは。それに比べてあたしは――。
「どうしたの、遥楓」
「あ、いや……もうすぐ期末だから」
嘘ではない。あと数日で、憂鬱な行事が始まる。学年末の、集大成となるテストが。
「たしかに、最近帰り早いもんね。そうだ、勉強教えてあげようか?」
「……いいの?」
「もちろん。ここ最近は暇を持て余してるようなもんだしさ、お母さんも文句言わないと思うよ」
「それじゃ、あの、数学を教えてほしいんだけど」
いいよ、とシャーペンを片手に持ったまま席を立つお姉ちゃん。あたしも部屋の入り口近くにある自分の椅子に座って、鞄の中から数学のワークを取り出した。
「範囲は?」
「空間図形とか、平面図形とか……全然できないんだけど」
「大丈夫だって、一緒にやってみようよ」
お姉ちゃんがルーズリーフに引いていく線や書き記す公式を追いかけながら、語られる解説を取りこぼさないようにメモを取っていく。
「公式が分からなくなったら、自分の分かりやすい言葉でかみ砕きながらやって覚えるといいよ。例えば――」
「遥楓」
ふいに、背後から降りかかってきた怒り声。振り返ると、そこにいたのは。
「――お母さん」
「優里香の時間を取っちゃダメでしょう!」
「お母さんいいの、私が教えたいって言い出したんだから」
「優里香は気にしなくていいのよ。小説、公募に出すんでしょう? 小説家になりたいって夢を邪魔してるだけだから、遥楓は。気にせず書いていればいいじゃない」
お姉ちゃんが間に入っても、お母さんはどこ吹く風という感じだ。
「にしても、自分でまずは努力しようとか思わないの? 最初から人に助けを求めてどうするのよ。自力でテストの点も取れないなんてねえ。優里香は教えてくれる人なんていなかったのに」
「お母さん」
咎めるような声だった。二人とも。ちくちくと針の飛び出た言葉を口にしている。
ああ、悪いことしちゃったな。
「――ごめんなさい、お母さん。お姉ちゃんも。あたしは大丈夫だから、ね? 小説、書けたら読ませてよ」
深く頭を下げてから口角をあげてみせれば、お母さんは眉間に皺を寄せながらも「分かってるじゃない」と言ってその場を立ち去っていく。お姉ちゃんはへにゃりと笑ってわたしに数学を教えようとしてくれるけれど、あたしは「いいの、自分で勉強する」とお姉ちゃんを部屋の奥の席へと押し戻した。
――あたしが我慢すれば、みんな笑顔でいられる。
そんな簡単なことくらい、昔から分かっているから。
教科書と向き合う。謎解きをする探偵のように、公式を読み解いて問題を解いていく。
どうせテストのときも助けてくれる人はいないんだから、最初から教えてもらわないほうがよかったんだ。
これでいい、はずなんだ。
「――やっと終わった!」
テスト最終日。数学の解答用紙回収後、つい、叫んでしまった。
憂鬱が吹き飛べば、見渡す教室内もなぜか明るく見える。ざわめくクラスメートたちの表情はみんな明るい……とは言い難かったけど、でも、どこか嬉しそうだ。
「はーい、静かにー」
教壇でぱんぱん、と先生が手を叩く。プリントが配られて、ちょっとした連絡事項がいくつか。今日は部活終わりが早いから気をつけるように――。そんな話を聞きながら、今日の部活について、思い出そうとしていた。
私の所属する吹奏楽部が最近練習しているのは、三月にある演奏会で演奏する予定の曲。今日は久々の活動だし、パートごとの練習だったかな。いや、外部講師の先生がいらっしゃって合奏をやるんだったかな……。
「――おい、秋汐、聞いてるかー?」
先生の声に引きずられるようにして、辺りを見回す。クラスメートは全員立っている……つまり、ホームルームが終わる、ということで。
ああ、またやってしまった。
がたり、慌てて立ち上がると、みんながちらりとこっちを見て肩を震わせた。くすくす、という声が隣のクラスのざわめきに混ざって聞こえてきて――あたしを嗤ってるんだろうな。
頰が熱い。知ってる。いつも通りだ。
「気をつけ、礼」
「さようならー」
一瞬間が空き、わっと騒がしくなる教室の中。どうでもいいことのはずなのに、話す内容がいちいちすべて耳の中に飛び込んでくるものだから、本当に困る。
「――ねえ、さっきのマジで笑ったんだけど」
「あー、ね。あの子っていつもさあ……」
遠くから囁き声が聞こえてくる。私と同じ吹奏楽部の子たちが集まって弁当をつついている、その場所から。
あの中に、入れたことは一度もない。
誘ってくれたっていいのに。そう思うけど、そうしたくない気持ちもなんとなくわかってしまう。
あたしだって、あたしが嫌いなのだ。みんながあたしを嫌うのも、避けるのも、当たり前だ。
それでもまだ、秋休みの前くらいまでは頑張っていた。前期の終わる、そのころまでは。
「一緒に食べようよ」と弁当を片手に部員の皆に声をかけた。静かに、空気みたく紛れ込んでみたりもした。さりげなく通り過ぎるときに「なんの話してるの?」と話しかけてみたりも。
そのたびにゴミを見るような目で見下されたり、無視されたり、あたしが知らない流行の話を早口で繰り広げたり……。
『え、近付かないで?』
『なんで来たの?』
『遥楓といると、こっちまで馬鹿になっちゃいそう』
『一人で食べてりゃいいじゃん』
『ねー?』
ありとあらゆる手段で遠ざけられたから、もう諦めている。
独り、弁当箱をぱかりと開ける。彩りなんてない、冷凍の揚げ物ばかりの、味気ないおかず。ご飯はただの白米だ。
お姉ちゃんの弁当とは、全然違う。
朝、ちらりと見たそれは、とても色鮮やかだった。混ぜご飯と野菜に、冷凍食品が少し。そして、お母さん謹製の卵焼き。焼いているときからふわりと甘い香りが漂っていた、あの――。
私も、お母さんの作った卵焼きを食べてみたい。
それでもまだ弁当があるだけましだと思おう。そう考えなおして、適当におかずを選んで一口。
「――っ!」
じんと舌に広がる冷たさ。まさか冷凍食品を解凍せずに入れられているなんて……。
『ねえ、またあの子が……』
『おっかしいよね、ほんとさ!』
耳の奥で響く笑い声と全身に染みていくような震えに、わけもなく惨めになっていった。





