武神八鳥伝
神代の昔、魔獣との戦いにおいて戦神は命を落とした。その戦神の骸から生まれ出た八羽の神鳥を、武神八鳥と呼ぶ。武神八鳥の八羽は地上に降り立つと、それぞれ力ある人間を見いだして、その身に宿した戦神の技を教え与えた。そうして生まれた八つの門派を、八鳥門派と呼ぶ。
時は流れて幾星霜。すっかり平和になった世で、武神八鳥と八鳥門派の人々は穏やかに暮らしていた。神から授かった武技を披露する機会が無いほど、平和な世の中。だが、突如太平の世を乱す不届き者が現れる。邪教に染まったその不届き者は、武神八鳥をすべて食らって神技を取り込み、その戦神の力で世を支配する、という野望を持っていた。
当然、そんな輩を放っておくことはできない八鳥門派。武神八鳥を守るため、そして不遜な野望を打ち砕くために立ち上がる。
鳥と人が織りなす中華活劇ファンタジー、ここに開幕!
神というものは、日向ぼっこが好きだ。今日も川縁に転がる岩の上に陣取って、黒い翼をおっ広げては、燦々と降りしきる陽光を一心に浴びている。
川の流れは穏やかだ。凪いだ川面はまさしく鏡面、新緑まぶしい山々や白雲たなびく青空が映り込んでいる。明媚な山水を背に、神が岩の上にちょこんとおわす光景は、なんとも絵になった。童俊が詩人であれば一つ詩を読んだだろうし、絵師であれば絵を描いただろう。
しかし、あいにく童俊はこの晃辰江で細々と暮らす漁師であった。得物は筆ではなく、網や釣り竿だ。身にまとうものもゆったりとした深衣ではなく、簡素な麻の上衣と丈の短い袴である。
童俊は釣り竿片手に、まっ黒い神の隣まで近付いた。
「どうだい、今日の陽の具合は?」
童俊が尋ねると、神は黒い翼をはためかせた。細かい飛沫が飛び散る。
「気持ちがいいな。この天気なら、体もすぐに乾く」
「そうだな。少し暑いくらいだ」
「うむ」
渋い声で神は頷くと、もう一度翼をはためかせた。それから改めて羽の先までぴんと伸ばして、胸を反らす。遠目には風情ある光景の一端を担っている神であるが、間近から見てみればだいぶ印象が変わる。そのあけっぴろげの格好は随分と無防備で、少々間抜けだ。
しかし、間抜けであっても体を乾かさねばならないのだ。神といっても、鸕鷀(=鵜)なのだから。鈎のように先の曲がったくちばし、細長い首に翠玉のような瞳、それから大きな水かきのついた足。潤んだ黒い体は陽の光を受けて、ところどころ青磁に似た緑を帯びる。間違えようもないほどに、鸕鷀である。だからこそ、彼はよく全身を乾かさねばならない。なんでも、彼らの羽毛は水をあまりはじかないらしく、濡れたままでは水の重みでろくに飛べないとのことだった。日向ぼっこ好きの由縁はここにある。
おそらく、童俊が街に出掛けて留守にしている間に、川で泳いでいたのだろう。だから、今こうしてたっぷりと陽を浴びているのだ。
鸕鷀の姿をしたこの神は、武神八鳥のうちの一羽であり、名を玄游君と言う。
武神八鳥とは、神代に戦神が命を落とした際、その戦神の骸から生まれ出た八羽の神鳥のことである。武神八鳥であるからには、玄游君は戦神の力の片鱗をその身に宿す。戦神は水中でも百戦錬磨だったといわれ、玄游君が受け継いだのは、そのような水の中での戦いの力であった。そこは泳ぎを得意とする鸕鷀らしい。されど、もちろんただの鸕鷀ではない。玄游君は、虎が大地を駆ける速さと同じ速さで自由自在に泳ぎ回り、また七日七晩水中に潜っていられる。加えて体も立派だ。普通の鸕鷀よりも一回りは大きい。
そして童俊は、玄游君に認められその神技を受け継いだ門派、黒浪派に属する武人、それも二十代目の長であった。
童俊は釣り糸に毛針を取りつけると、川面めがけて釣り竿を振った。兎の毛で作った毛針は、ぱしゃりと音を立てながら水面を裂き、水中へと沈んでいった。
「大物がかかるとよいな」
「ああ、そうだな」
童俊が頷くと、玄游君は気持ちよさそうに目を細めて、ぱかりとくちばしを半分開く。
童俊は喉の奥で笑った。こうなると、もう神としての威厳など欠片もない。なんとも気持ちよさそうだが、気が抜けすぎだ。
しかしながら、威厳のなさでは童俊も負けていなかった。神の技を受け継ぐ黒浪派の長であるが、今現在の生業は漁労だ。十九で長を継いで七年経つが、武器を手にした時間よりも、釣り竿やら網を持っていた時間の方が長いだろう。今日も朝一番に魚を獲り、それを街まで売りに行ってきた。そして帰って来た今は、自身や一門の人間が食べる分の魚を獲っている。
武神八鳥が生まれて幾星霜。長い時を経て、武神八鳥や神鳥にまつわる人々の立場や生き方は変わった。群雄割拠の乱世であればいざ知らず、太平の続く今世では武の力だけで食っていくのは難しい。それでも、武神八鳥の技を受け継ぐ門派の中には、用心棒としてその武技を駆使し、今も天下に名を轟かせている者たちもいる。だだ、玄游君と黒浪派はそのような道を選ばなかった。
爽やかな風が吹き抜ける。水面がかすかに波立ち、雲母のようにきらきらと輝く。気持ちの良い初夏の日和である。
童俊は深呼吸をした。緑と水の瑞々しい香りが鼻腔を満たす。そうして初夏の香りを味わった後、おもむろに玄游君に尋ねた。
「そろそろ香魚は遡ってきたか?」
「まだ見ていない」
玄游君は渋い声で答えると、翼を広げたままくちばしの先で胸のあたりを掻きはじめた。
釣り竿の仕掛けから離れたところで、魚がぱしゃりと跳ねた。鱗がひらめいて、光の粒が散る。
童俊は、竿を左右に振りながら言った。
「毎年言っていることだが、多少は食ってもいいんだぞ」
「香魚は好きではない」
玄游君は抑揚のない口調で答えると、再び胸元をくちばしでまさぐる。まるで香魚には興味がないらしい。
童俊は笑った。
「あっはっはっ。今年もつれないねぇ」
玄游君が香魚に興味を示さないのは、毎年のことだった。いくら童俊が誘っても、一切食おうとしないのだ。漁の手伝いはするくせに。
玄游君は、童俊たちに気を遣っているのだった。若い香魚は、ひと夏のご馳走。故に、高く売れる。漁で暮らす黒浪派の人々にとっては、金の山に等しい。だから、玄游君は香魚を獲る手伝いだけはして、自らは食べない。香魚は鸕鷀にとってもご馳走だろう。実際、普通の鸕鷀は香魚が遡ってくる時期になると、川に大挙してやって来る。しかし、玄游君は素知らぬ顔で、ご馳走に群がる仲間を追っ払うのである。
神技を振るう機会はめっきり減ったものの、玄游君と黒浪派の絆は一片たりとも変わらない。形は変われど、力を合わせて共に暮らしているのであった。
香魚は食わぬというのなら鰻でも獲ってやろうかと、童俊は考える。鸕鷀は鰻も好きだ。
そのとき、仕掛けの周辺の水面がかすかに揺れた。はっとして、童俊はすぐさま釣り竿を立てた。竿がしなり、手元がぐんと重たくなる。魚が掛かった。ぴんと張った釣り糸を緩めないように、童俊は釣り竿を引いた。だが次の瞬間、糸の先で魚が跳ねた。途端、手ごたえはすっかり消え、張りつめていた糸もだらりと緩む。黒い魚影が、すうっと向こう岸へと泳いでゆくのが見えた。物の見事に逃げられた。
童俊は苦笑しながら釣り竿を振り上げると、毛針を手に取った。
玄游君が翼をたたみ、空っぽの釣り針をじっと見つめる。
「……魚、追い込むか?」
玄游君は情に厚い。そういう点においても、あまり神らしくないかもしれない。
そんな優しい神の申し出に対して、童俊はおもむろに頭を振った。
「いや、いいよ」
「なんだ、遠慮するでない」
「遠慮なんかしてないさ。ほら」
そう言いながら、童俊は腰からさっと飛刀を取り出した。
すると突如、一匹の大きな魚が高々と跳ねた。すかさず、童俊はその魚めがけて飛刀を投げる。黒々とした刃は瞬く間に風を切り、水中から躍り出た魚の頭に突き刺さった。
一発必中。魚はずり落ちるようにして、川へと帰った。荒々しく水飛沫が舞う。おそらく、上手く仕留められた。童俊は玄游君にいたずらっぽく笑いかけた。
「な? 獲れただろう?」
「うむ、見事」
「ありがとうよ。それじゃ悪いが、あの魚を持ってきてくれるか?」
「頼まれよう」
玄游君が、軽やかに岩から川へと飛び下りた。そして、悠々と泳ぎ出す。玄游君は、滑らかな水面に澪を引きながら泳いでゆく。背景には新緑萌える山々。これまた風情のある光景だ。童俊はついつい見入ってしまう。
吸い込まれるように、玄游君は頭からつるりと水中へ潜る。それからしばらくすると、玄游君が川面から顔を出す。彼は飛刀が突き刺さった大きな魚を、しっかりとくわえていた。
童俊は釣り竿を地面に置くと、鏡のような水面にそっとわり入った。そのまま数歩進み、玄游君を出迎える。
「ありがとう」
そう言いながら、童俊がくちばしからはみ出た魚の尾を掴めば、玄游君は獲物をすぐさま離した。仕留めたのは鯉であった。遠目にも大きく見えた魚であったが、その目測に間違いはなく、かなりの大物である。童俊は両手で鯉を抱えて、体を翻す。そのとき、気がついた。
「どうした?」
玄游君が、じっと上流の方を見つめている。翠玉の瞳に、鋭い光が宿る。
「何か流れてくるぞ」
そう言うやいなや、玄游君は音もなく潜る。水面に透ける黒い鳥影は、一直線に川を遡ってゆく。
「おい、一体……」
言いかけて、すぐに童俊は口をつぐんだ。川の流れに、赤い糸のようなものが一筋混じる。その糸は、上流の方から伸びてきている。ぴり、と肌が痺れるような感覚を覚えながら、童俊はさっと赤い糸を視線で辿った。
いつの間にか、川上の一帯が真っ赤に染まっていた。そこから赤い糸が二本三本と次々と伸びてきては、あっという間に寄り集まって太い帯となった。生臭いような、嫌な臭いが漂う。川面にたゆたう赤色の帯は、疑うまでもなく血であった。
玄游君が水中から顔を出し、叫ぶ。
「童俊、船を出せ! 人間だ! 血まみれの人間が浮いている!」





