僕の彼女はシングルマザー
僕が父親になります。普通なら、そんなのあり得ない言葉だ。比呂先輩の事が好きだったのは間違いない。魅力的な先輩だったし、とっても可愛い先輩だった。「赤ちゃんに必要な物って何かな」家に帰るなり僕は母さんにこの質問をし、緊急家族会議が開催された。「それで、今妊娠何ヶ月目?」母の言葉に、姉と妹が反応する「か、母さん!? え、なに、壮太彼女いたの!?」「おめでただぁ~! お兄ちゃんおめでとう~!」「め、めでたくない! 鈴は黙ってて! ねぇ壮太! 相手は誰なの!?」姉妹が驚愕する中、僕は「もう出産した」と告げる。母は失神し、姉の佐奈は叫び、妹の鈴は拍手で祝福してくれた。けれども話がトントン拍子に進むはずがない、そもそも比呂先輩が出産した赤ちゃんは僕の子供でも何でもないのだから。けど、僕は彼女の父親になりたいと願った。そして僕達は付き合う事になる。赤ちゃんの為の家族として。
僕の名前は柊壮太、十八歳。高校三年生。
僕にはお付き合いしている彼女がいる。
二つ年上の同じ学校の先輩だった人。
望月比呂、二十歳、大学生。
同じ文芸部の先輩として、一緒に活動したのは二年前。
僕が一目惚れしたのも二年前。
そして、失恋したのも二年前だ。
一緒に月報(月一で発行している壁新聞)を作ったり、部内だけの活動報告を作ったり。
小説を書き始めたのも、ちょうどその頃だった。
「どうせやるんなら、何か爪跡を残したいよね」
元気な彼女はそう言いながら、毎日部室に来ては安物のパソコンのキーボードを叩く。
一心不乱に見つめる先はモニターじゃなくて、手元。
ブラインドタッチがどうしても覚えらえないって言う比呂先輩。
誤字が多いですよって伝えると、後で直すからって苦笑する。
一つ一つが思い出だった。
一緒にいる時間が終わりを迎えようとした、高校一年生の冬。
僕は比呂先輩に告白したんだ。
付き合って下さいって。
返事は冒頭の通り、失恋だ。
冒頭の通りだったら付き合ってるんじゃないのかってツッコミが来そうだけど、失恋は失恋。
「ごめん、彼氏と結婚する事が決まってるんだ」
大学に進学して、卒業と同時に結婚する約束なんだと、比呂先輩は僕だけに教えてくれた。
キスもハグも、手を繋ぐこともないままに、僕の初恋は綺麗に消え去った。
失恋したけど、大恋愛をした訳じゃない。
そもそも付き合ってすらいないのだから、傷跡は……それなりに大きかった。
高校二年生の時は、何もなかったので割愛。
変化が起きたのは高校三年生の秋、つまり今。
大学受験を間近に控えた十月半ば。推薦での受験だから、面接だけ。
偉そうに受験間近なんて言ってるけど、勉強なんかほとんどしていない。
動画視聴とゲーム、たまに勉強。
中間試験もそれなりの点数で終わり、完全に気が抜けた十月半ば。
新しいゲームでも購入しようかと自転車をこぐと、寒気と暖気が混じった空気の十月半ば。
たまたま見かけたお腹の大きい女性に、僕は視線を奪われる。
断言するが、僕は妊婦さんに一目惚れはしない。
既に他の人の女性なのは確定しているし、恋と愛と性が最大限に交わった結果が妊娠なんだ。
僕が見てしまったのは、それが比呂先輩だったから。
大学に行って文学部に入ったはずの先輩が、どうしてお腹を大きくしてるんだと。
しかも相当に大きい、臨月って呼ばれる状態なんじゃないのだろうか。
でも、もう、関係ないか。比呂先輩の人生なんだ、僕がとやかく言う必要は無い。
その後は彼女の悲鳴を耳にして、自転車を乗り捨てて駆け寄って、救急車を呼んで、比呂先輩に付いてきて欲しいって言われて、彼女の分娩室の前で数時間待って、今まさに彼女の子供が誕生した。元気な女の子だ。
「……あれ、どうしてこうなったんだろう」
たった三行にまとめられた内容がインパクト凄すぎて、自分の置かれた状況を理解するのに一行は消費しないといけなさそうだ。僕は新作ゲームを買いに行こうと思ってたのに。
でも……赤ちゃんは見てみたいと思った。
比呂先輩の赤ちゃんを世界で一番最初に見るのが、僕。
比呂先輩の彼氏……じゃないか、旦那さんでもなく、僕。
初恋の人の赤ちゃんを見るのが、僕。
意味、あるのかな。
でも、何か、とても大切な何かを壊せてしまいそうで、何だか気分的には良かった。
どうせなら初めて触るのも経験してしまおう。
アルコール消毒は手に掬えるぐらいの量でバッチリ消毒済みだ。
分娩室横の保育器が並べられた待合室で、僕は一人比呂先輩を待つ。
既に彼女が出産した女の子の赤ちゃんは、足にマジックで『モチヅキ』と書かれていて。
ああやって取り違いが無いようにするんだなって、ちょっと感心した。
生まれたての赤ちゃんはおサルさんの顔って、何かで読んだ事あるけど。
おサルさん……かな、思えば猿の顔なんか詳しく知らないや。
でも、可愛いのは何となく分かる。
きっと僕は自分の赤ちゃんじゃなくても、赤ちゃんを可愛いと思える人間なんだろうな。
電車の中で大声で泣く赤ちゃんを耳にするけど、それで不快感を感じたことは一度もない。
むしろ「ああ、元気なんだな」って思う程度。
それって、多分普通の感性なんだよね? うるさいって思う人の方が普通なのかな。
そんな事を思い眺めながら、僕は比呂先輩が来るのを待った。
そして、初の赤ちゃんお触りの時間も待った。
「……ごめんね」
カラカラと車椅子で運ばれてくる比呂先輩は、お化粧もしてなくて。
出産を終えたばかりの比呂先輩は、僕を見るなり謝罪した。
精も魂も疲れ果てた彼女は、二年前とは全然違う、まるで別人。
けれど、根っこの部分は変わってないなって、そんな感じがした。
看護師さんと共に僕は比呂先輩の病室へと向かう。
六人部屋の、随分と大きい部屋だ。
あらやだ若いわね、そんなささやきが聞こえてきた。
ああ、僕がお父さんだと思われているのかな。
それとも、比呂先輩の事を言っているのかな。
どちらにしても、若いのは間違いない。
間違いがあるとしたら、僕がお父さんと思われてる点だ。
けれど、是正する必要はない。
した所でもう二度とここには来ないのだろうし、僕の目的は初の赤ちゃんお触りだ。
彼女の初めてを二個ももらえてしまう、なぜか悪を感じる自分の所業に、少し興奮する。
ベッドに横になった比呂先輩は、もう一度ごめんねを言う。
なんで謝罪するのかな? って思ったけど、聞かなかった。
そして僕は赤ちゃんお触りを心待ちにしていたのだけど、初日はダメらしい。
「翌日の一時間くらいなら大丈夫ですよぉ」
看護師さんの命令は絶対だ。
また来てもいいか比呂先輩に訊こうとしたけど、既に彼女は寝息を立てていた。
そして、僕はそのまま彼女の横の丸椅子に座る。
何故なら出産で疲れ果てた比呂先輩の寝顔が、とても可愛かったから。
周囲から僕は父親だと思われているのか、彼女の側にいても何も言われない。
このままキスでもしてしまおうか、なんて気はさらさら起きないが、可愛いのは可愛い。
旦那さんが来たら帰ればいい、別に用事なんて何も無いに等しいのだから。
何をするでもなく、僕はスマホをいじる。
付近のベッドから赤ちゃんの声や、授乳している音が聞こえて来て。
なんだか、いけない場所にいるんじゃないかって、ここでもまた少し興奮してしまった。
結局、僕は彼女の側に一時間も居座ってしまう。
寝顔を見て、スマホを見て、聞き耳を立てて。
立派な不審者だ。
けれど、今だけは許される。
なぜなら僕は父親だから。
安らかな寝息を立てていた比呂先輩が、ん、って艶めかしい声と共に瞳を開ける。
長い睫毛が絡まりを解いて、卵肌の様な頬が光沢を丸く作り上げた。
けれども寝汗で額に張り付いた前髪を手櫛でかき上げると。
彼女は僕を見てもう一度「ごめんね」って言った。
さっきから謝ってばかり。昔の先輩は、無駄に周りを明るくして、ブラインドタッチが出来ない事に悲しみもしない、謝罪とは無縁の人だったはずなのに。
無言のまま比呂先輩を見ていると、彼女は訊きもしないのに喋り始める。
出産を終えた解放感からか、積もり積もった何かなのか。
それとも、ただ単に聞いて欲しいだけなのか。
多分、三番目の選択肢だろう。
僕という存在に何を喋っても、比呂先輩のプライバシーに変化が訪れる事はないのだから。
「私、シングルマザーなんだ」
シングルマザー。
未婚の母。また、離婚・別居・死別などの理由で子どもを一人で養育している母親。
頭の中にふわっと辞書の言葉が思い浮かんだけど、そんなの調べなくても知ってる。
「馬鹿だよね、文芸の世界で生きるんだって言ってたのに。相手の男は私が妊娠したって言ったらいなくなっちゃったし、両親からはシングルマザーで生きてくのは無理だからおろせって言われてたのに。でもね、出来ちゃった赤ちゃんに罪はない。だから、絶対に産むって産婦人科にも一人で通って、一人で新しい家に住んで、一人で生きてきたんだ……全部、一人」
思えば、違和感が多い事になぜ気付かなったのか。
彼女の苗字は望月だ、夫婦別姓とか同じ苗字だったとかは抜きにして。
赤ちゃんに書かれた苗字が『モチヅキ』なのはちょっと不自然だ。
それに、なぜ出産して数時間が経過したのに誰もお見舞いに来ない。
赤ちゃんが生まれたのに、何故誰も祝福しない。
赤ちゃんとは、この世で一番尊い存在なんだ。
それを生み出した母体である彼女は、もっと労わってあげないといけないのに。
「僕は、先輩が間違っているとは思いません」
間違っていない、新たに宿った命を勝手に奪う権利なんて、誰にもありはしないのだから。
生死を分かつ出産というイベントを、比呂先輩はどんな気持ちで挑んだのか。
その決意たるや、いかに。
大いなる比呂先輩の痕跡に、僕は感動したのかもしれない。
だから、僕はこんな事を言ってしまったのだろう。
「僕が比呂先輩の赤ちゃんの父親になります」





