恋愛ゲームの攻略法
自らを出来損ないだと信じている者がいた。
その人は、座学だけはよくできたが、運動も表現もできず、他人とのコミュニケーションにも難がある人物だった。
高校までは人間を評価する術が「成績」であったから、その人には居場所がかろうじて存在した。しかし、その人は大学、社会人と挫折を繰り返す。
いつしか諦めることを知ったその人は、束の間の平安を揺るがすある人物と出会う。
心に細波がたつ。何もかも諦めていたかったのに。
飴玉ひとつ舌の上で転がして、そういえば六日も日記を書いていないと思い出す。
日記は、毎日書こうと思うと続かない。だから、気が向いたときに書くことに決めている。一ヶ月に数回しか書かないこともあり、何の役に立っているのか見当もつかない。
ただ、出来損ないの人間がこれ以上損なわないための、現状維持には役立つと思っている。
電車が毎日同じレールの上を走るのにも、点検が必要でしょう? 人類未踏の空間を自由に走り回る、宇宙ロケットにはなれなかった、ただそれだけ。
父にねだって実家から取り寄せてもらったのに結局クリアできなかった昔のファミコンのRPGは、今までの行動を「セーブ」することができた。持ち物や能力を一覧にして眺めることができた。自分には何があり、何がないのか把握するだけでも、危険なダンジョンの中をうろつく理由くらいにはなる。ということを、クリアできなかったゲームで学んだ。
どうやら、作家を志すにしては結末がある物語が馴染まないらしい。クリアすることに意欲を見いだせない。現状、私には今のスマホゲームが性に合っている。メインストーリーとは別の、新しいイベントストーリーが次々と供給されるソーシャルゲームが。
思えば今までも、私はだらだらと問題を先送りしがちで、目標を設定し、その到達度を確認して進んできたことがない。私の人生は階段ではなくてスロープなのだ。小さい目標をたててそれをクリアしていくことが成功のための唯一の道とされる世の中で、こんな異端がよく生きてこられたと思う。スロープにだって登りようはあったのだと思うが、試行錯誤してスロープで自己実現する方法を見つけ出せるような時間はもう使い果たしてしまった。いま、私は二十五歳である。
自慢ではないが、地頭だけはよかったのでなんとか周りには合わせられた。お察しの通り合わせられたのは学力だけで、休み時間には海洋を漂うプラスティックゴミのように本人も手持ち無沙汰で、周囲からは邪魔モノ扱いであった。
私にとって、目標と夢の区別はつかないままで。私が「目標」だと思っていたことは、全て「夢」であったらしい。ステップを踏んで到達するものではない「夢」が、容易には叶わないのはいわば当たり前である。
高すぎるものを見上げて歩き続けたら、誰でも疲れ果ててしまう。見上げることをやめて、目の前の地面しか向かなくなるだろう。信仰さえあれば山をも動かせると聖書は説くが、こんなことで神様とやらを試したくはない。
ずっと、自分は作家になるのだと思っていた。本が好きだから、その資格があると思っていた。高二のときに物理に出会って、そこからは科学者になる気でいた。疑うこともなかった。大学で挫折した。次々と提供される知識を吸収することだけに長けていた私は、試行錯誤しなければたどり着けない知識を掴み取れなかった。結局、理系なのに大学院にも行けず、科学者になる夢は絶たれた。
自分は実は馬鹿だったのだと思い知ったから、サラリーマンとして慎ましく生きようと心に決めた。エンジニアとして色々なことを学びたくて、どんな現場に出会っても根性でついていくつもりだった。なのに、いつのまにか心が壊れてしまい、私は一年も経たずにエンジニアでなくなった。
望めば望むほど堕ちていくなら、いっそ何も望まない。置かれた場所で咲けというのはきっと諦めの訓戒なのだろう。
上を目指そうと思っても現状維持が関の山だとすれば、現状維持しようと思えば堕落するのが世の常である。だからこそ、その「堕落」を少しでも遅らせる道を選んだ。末期患者が病の根源を取り除くのではなく、モルヒネで痛みをとり日々を生きることに注力するように。出来ることがなくなっていく悲しみを少しでも少なくする、命の終焉が近い者の思考。
そんなわけで、私の「夢」は大小問わず、何も叶わなかった。思い描いたことは叶わないと思い込んでしまうほどだった。いつだって描いたものの逆に落ちていく気分。だったら何も願わなければいいとさえ思った。けれど、このままでは、死ぬまで生きていたことがわからないくらい、空虚なまま、私は死んでいなくなる。そのことに危機感を抱いたのは、仄かな恋心を抱いた人が去ってしまうときだった。
なにも言えずに、いつものように、勤怠カードを切ってしまった。昼から客足がよくなって、十二時までの契約だけど少しだけ残業できたと喜んで。本当は夕方の四時まで残っていたかったのに、その気持ちに蓋をした。
あの人は今日、このスーパーを出ていってしまう。
栄転であることはわかっている。彼は魚を捌くことができる。魚を短冊までおろせる人間は、十二人在籍する水産部門で一番エライ。彼は系列店のスーパーで、水産部門のサブチーフとなるのだ。いずれチーフになれる人材だと、今のチーフが話しているのを聞いた。本人がいない場所でのいい噂は「本当」に決まっている。悪い噂は尾ひれがつくけれど。
人が少ないことで、昇進させてもらえずこの店の水産の三番手に甘んじていた。チーフともサブとも呼ばれない捌き手だった。シフトに余裕ができたから、ずっと前からそうなってしかるべきだった道へ行くだけのこと。私の、ただの勤続十ヶ月のパートの出る幕ではない。ただの上司と部下、あるいはそれ以下の関係性。
開店は朝九時丁度。それまでに、定番の大衆魚、短冊、お造りに「本日のおすすめコーナー」、特売の平台のセッティング、朝の荷受けと塩干類の陳列。切り身担当からは切り身や丸魚がが盛り付け担当に回り、盛り付け担当からトレイに盛られた切り身が回ってくる。お造り担当からはお造り単種盛りや盛り合わせがどんどん回ってくる。お寿司担当からはお寿司がどんどんくる。どんどん、どんどん、どんどんどんどん……
最初の頃は全然さばききれなくて、どうにも仕方なくって、本来の業務をないがしろにさせてまで先輩や同僚に手伝わせたりした。
お造りや短冊は生で食べるものだから、包装と値打ちに時間がかかって常温の作業場に長く放置してはいけない。特売やチラシ掲載は開店直後からお客様が目当てに来るから早く陳列しろ、おすすめコーナーのものを後回しにするな——
無理ィィィィィ! と叫びながら。
——やっと、なんとかサマになってきました。十ヶ月かけて、今度は周りを手伝えるようになりました。さぞかし手の掛かる新人だったでしょう? でも、嬉しかった。値打ちと陳列ならこの子にやらせれば問題ない、そう思わなければ、総力戦で当たらなければいけない節分商戦にこの持ち場を任されたりしない、そうでしょう?
ノートの端を切ったような紙に書かれた激励の文字。まだ私が間違いばかりで、恐らくは皆さんを苛立たせていただろう頃に、引き出しに入っていた手紙。あれ、まだ私、持っているんですよ。いつも持ち歩く、ショルダーバッグに入れて。気持ち悪いでしょう? 普通、自分が未熟だった頃の思い出なんて捨ててしまうでしょうに。
わかってる。わかっているけれど、問うてしまう。
いっそ、あの頃のようなドジでバカな私の方が、貴方はペンを走らせてくれたのだろうか。
ドジでドジで、出来損ないで、なにをやらせてもイライラさせて、結果的にみんなの脳裏に残っていた方が、貴方はここにずっといてくれたのだろうか。
私が習熟したから、貴方は去ったのですか?
出来損ないが出来損ないであることを望むようになったらお終いだ。現に、私は日記を全く書かなくなってしまっていた。





