サイバー閻魔帳
閻魔帳。
死者が裁きを受ける際に閲覧される帳簿であり、生前の行為や罪悪が全て書き付けられている。
そんな名前が付けられた監視網とデータベースが出来上がった近未来、人は窮屈さを感じつつも社会システムを利用してそれなりに上手く生きていた。
主人公もそんな中で普通のサラリーマンをしていたが、ある日出会った少女に不可思議な情緒を呼び起こされる。
疑問に思いつつ自分の閻魔帳を確認してみる主人公だが、何故か少女の声や姿といったデータは残っていなかった。
そうした出来事と前後して、「閻魔帳に載らない幽霊」の噂がネットで流れ始めるが……。
「だからよ、お前が突っ込んで来たんだろ!?」
「いえ、私は青信号で発進しました。そこに左折してきたのがあなたです」
そこまで交通量が多くない交差点で、初老の男と青年が傷ついた車を前に言い争っている。
通報を受けて駆けつけた警官コンビも困り顔だ。
「埒が明きませんね。閻魔帳に接続してみます。構いませんね?」
そう言って了解を取った警官が端末を取り出し、いくつかの必要事項を記入する。
結果はすぐ画面に現れた。
「ああ、これは確かに無茶な左折ですね」
画面に出ているのは、車の運転席から見た映像だ。青信号で発進している視界に、急な左折で突っ込んでくる車が映っている。
「あぁっ!? こんなもんが証拠になるかよ! 大体、俺から見た映像が出てねぇ!」
「なりますよ。そのための閻魔帳でしょう。あなたから見た映像が欲しければ、チップを埋め込んでください」
その後も怒鳴る初老の男を連れて、警察は厳しめの事情聴取を続けている。
「もっと昔はドラレコなんてもんがあったらしいけど、時代は変わるよなぁ」
青年は車の傷を撫でつつ、そう呟いた。
◇
西暦20××年。この時代の人間は、若年層を中心に脳にある種のバイオチップを埋め込んでいる。
それは、目や耳から入った情報やその時々の生体情報を記録し、特定のサーバーに送信するものだ。
「いや、脳に異物入れるとか怖すぎる」
「そこまでして記録が必要か? 監視カメラや録音機でいいじゃん」
「クラッキングとかされたらどうなるの?」
当初はそんな反発が多々あったものの、医療事故がほぼ起きず有用性も認知されるに連れて、普及は徐々にに進んでいった。
「手術が何百万件あって、事故は数例だけか。それならまぁ」
「身一つでも記録できるってのは便利だな。突発的な事件にも対応できる」
「クラッキングは一度も無し……一応認めてもいい、かな?」
今や人間の五感そのものが監視カメラになり、人の生涯の全てを記録する。裁判の証拠提出も楽になり、仕事で言った言わないの水掛け論になることもない。
そんな社会の根幹を成す諸々の機能は、地獄の裁判官が人生のあらゆる行為を書き連ねた帳簿にちなみ、『閻魔帳』と呼ばれている。
◇
「そんなことがありまして」
「そりゃまた内藤君も大変だったねぇ!」
都内の高級料亭において、内藤逢為は上司と共に接待を行っていた。
先ごろ経験した事故に少し色をつけて、面白おかしく喋ってみせる。相手方の小太りの中小企業社長も、それなりに機嫌よく聞いてくれた。
「うちの内藤はそういう場面でも冷静な奴でして。自慢するようですが、こいつがいる弊社営業一課ならどんなトラブルにも対応できます」
「いや羨ましい! 僕の部下もこうであって欲しいなぁ!」
上司も逢為を褒めつつ、営業一課そのものを売り込んでいく。
弁舌の効果はそれなりにあったようで、社長も商談に前向きな姿勢になってきた。
「内藤君のアドリブ能力は分かったよ。なら、知識の方はどうかな?」
そう言って社長が手を鳴らすと、仲居が盆に乗せた燗を持ってきた。それを受け取った社長は猪口に酒をつぐと、逢為の前に置く。
「利き酒、というやつでしょうか?」
「察しがいいね。君はこれがどんな銘柄か分かるかな?」
「ちょっと失礼します」
逢為は猪口を手に取り、匂いをかいでみる。更に舌先で表面を舐めてみてから、少し喉に流し込んだ。
「新発田の大吟醸ですね。この苺みたいな香り、やや辛めの後味、喉越しの良さ。間違いありません」
「……驚いたな、大正解だ」
「内藤は酒にも強いんです。この体格の通り、体育会系で鍛えられてまして」
「今のは運に助けられた部分もありました。私も全ての酒を知っている訳ではありませんし」
そう言って、上司は逢為の分厚い胸板を拳で軽く叩いてみせた。
逢為も短めの黒髪をかきながら謙遜してみせる。実際、今回の利き酒は以前に飲んだ経験があったから対応できた。
社長が酒好きであることを知り、事前に閻魔帳で酒の味や香りの詳細を追体験した結果だ。
「いやいや、それでも十分だって! これなら僕も安心して仕事を任せられる」
ただし、昔ながらの経営をしている社長に、ここ二十余年の間に普及した閻魔帳を利用したことまでは分からない。そして、種や仕掛けを明かす必要もない。
そんな裏を社長に悟らせることなく、接待は雰囲気良く成功させることができた。
◇
先の接待が終わってから数日後、逢為は自室で次の準備を行っていた。
「あちらさんは小説好き。その実写映画も評判だったか」
そう言ってパソコンを立ち上げ、画面に映画を表示させて4倍速で観る。原作となった紙の本も速読すれば、30分程で内容は掴むことができた。
「後は感想だな」
ネットで他人のレビューを流し読みながら、今把握した内容に合っている意見をピックアップしていく。
「これは偏り過ぎ。これは分かりにくい。おっ、良い感じに考察してるのがある。もう数パターン欲しい」
淡々と感想を処理していく。熱を持った文章を取り込み、微妙に改変し、接待の場では自分の意見のごとく発信する。
「みんな案外騙されてくれるんだよなぁ」
先日の酒もそうだった。味覚も嗅覚もあるし、詳細な部分を判断することもできる。
ただし、それらに興味を惹かれないし感動を覚えることもない。映画や小説のような娯楽でも同じことだ。
感性が仮死しているような状態を、逢為はずっと抱えていた。
「でもいいよな。それで一応社会人として働けてるんだし」
不定形のブヨブヨした生き物が、皮を被って人に化けているようなものだ。本性が知られれば気持ち悪がられるだろうが、今の所ボロは出していない。
いつからこうなったのかは覚えていない。物心ついた時には、普通に泣いたり笑ったりしていた筈なのだが。
「母さんが言うには、過去に何かあったらしいけど……」
逢為自身も既に忘れていることだ。閻魔帳にアクセスすれば分かるだろうが、いちいちトラウマを掘り返そうとは思わない。
そんな風に独り言を呟いている間に、感想のまとめは終わった。後はちょっと改変すれば『内藤逢為の意見』の出来上がりだ。
「何だかんだ今まで通じてきた生き方だし、これからもこうやってくんだろうな」
「それは流石に悲しい生き方だと思うな」
「いいじゃんよ、誰に迷惑かけてる訳でもない」
「私が見てて悲しいし、寂しいんだよ」
一拍遅れて、逢為は異常に気づいた。
このアパートは逢為の一人暮らしだ。電話で誰かと話している訳でもないのに、応答があるのはおかしい。
「誰だっ!?」
振り返った先には誰もいない……ように一瞬見えた。そう思えるくらい存在感が薄い。
小学校中学年くらいの体格に、白いワンピース。長い黒髪の奥にあるのは茫洋とした焦げ茶の瞳。幼くも整った顔立ちだが、向こうが透けそうなくらい儚く脆い印象のせいで可愛さよりも不安感が先に来る。
幽霊のような雰囲気を纏った少女がそこにいた。
「お前、一体……」
「蓮花だよ。忘れちゃったの?」
「忘れるも何も、そもそもお前なんて知らな――」
声を荒らげそうになり、逢為は自分のその行動やさっきの心理に驚いた。
(俺がこの女の子を見て、不安がってる? そんで怒りそうになる? この俺が?)
情緒というものを丸きり忘れてしまったような逢為にとって、自身の心がここまで乱されるのは想定外だ。
この少女を前にすると、どうも平静でいられない。まるで、失った感情を目の当たりにしているような……。
「ヅッ!?」
「大丈夫!?」
何かを思い出しそうになった瞬間、頭に鈍い痛みが走った。たまらず膝をつき、頭を押さえる。目も開けていられない。
少女は心配そうに駆け寄り、逢為の頭を優しく撫でた。
「おま、え……は」
「だから蓮花。思い出して欲しいけど、逢為辛そうだねぇ」
彼女はしばらく思案すると、断言してみせる。
「ちょっと待ってて。その頭痛何とかするから!」
少女がそう言ってしばらくすると、逢為の頭痛は嘘のようにスッと消えた。
目を開けてみてもそこに少女はおらず、戻ってくる気配も無い。
「一体何だってんだ……いや、思い出してみるか。閻魔帳で」
すぐにパソコンを立ち上げ、『ついさっき自室であった出来事』を思い出すことを閻魔帳に申請する。
自室というプライベート空間であり、デジタル万引きや盗撮にも引っかからない条件だ。不法侵入の少女を映すだけならハードルは低い。
そんな目論見は、半分当たり半分外れた。申請自体はすぐに通ったのだが、そこに出てきた映像や音声は……。
「俺だけ、だと?」
そこには少女の姿も声もなく、見事なパントマイムを披露する逢為だけが映っていた。
◇
それからしばらくは平穏な日々が流れた。蓮花と名乗った少女が再び現れることもなく、いつも通り接待に駆り出される。
今日も接待は成功だ。逢為が心から熱を持っている訳でもない感想でも、相手方は満足してくれた。帰りのタクシーの中で上司からお褒めの言葉を貰った。
「いつもお前には助けられるよ」
「それもこれも、酒や本を用意してくれる課長のおかげですよ。閻魔帳で予習できますから」
「そこで勤勉に予習するのが偉いのさ。ああそうだ、閻魔帳といえばこんな噂を知ってるか?」
「閻魔帳……ついにクラッキングでもされましたか?」
「近いっちゃ近い。何でも、最近は『閻魔帳に載らない幽霊』があちこちに出没してるんだとよ。見えるし聞こえるのに、いざ閻魔帳を覗いてみると映らない幽霊みたいな存在がいるって噂」





