罰の世界で虜囚はただ救いに焦がれる
発展の中でいつしか驕り、自然界に溢れる超常の存在たちへの畏敬を捨て去った人間。
怒れる神は裁きを下し、人類の世界は抵抗すらままならぬうちに滅び、そして神の分身たちによって玩弄されることとなった。
荒廃した世界で、青年カインは旅立つ。
その旅の中で彼が求めたものとは、そして旅の行く末に待ち受けているものとは……? 旅先で出会った絆、思い出、繋いだ想いは、神の罰をも超えるのか……!?
これは、傲岸なる神に抗う英雄の物語ではない。
神の支配する世界に生きる、ただの人間の物語である。
かつて、繁栄と発展を極めた人類は神への畏敬を忘れ、ただひたすらに享楽に耽った。森を焼き、山を崩し、戯れに野山の獣を殺し、海を腐敗させ、更には神々の領域の言われていた空すらもその手に収めんとした。
故に、神は裁きを下した。
災いあれ、その一言で事足りた。
神に抗いうる神秘のない世界を滅ぼすのに、7日などかかりようもなかった。
神は、人の集まる都市を起点に、世界各地に災害を起こした。
文明は潰え、国は滅び、人々を繋いでいた電波や交通網、情報などその何もかもが意味を成さなくなった。気候の厳しさに耐えきれず、または恐慌状態の中で巻き起こる争いによって人類の多くが落命し、裁きからすぐに世界は一変した。
そして神は、残った僅かな命にすら慈悲を与えなかった。
今は少なかろうと、人は殖える。繁殖し、発展し、再び繁栄する――その可能性すら潰すために、自らの身体をいくつかに分割して世界の各所へ送り込んだのである。
それらは、神の分身たる高次生命体。
気紛れに人を惑わし、籠絡し、この世のものとは思えぬ快楽でその魂を屈服させる。その魔手に絡め取られれば二度と抜け出せず、そのまま緩やかな最期を迎えることになるのだという。それらの高次生命体は、目撃して生還した者の語った姿から、かつて姿の似たものを表すのに使われた名称――『メスガキ』と呼ばれている。
神の裁き、そして神の分身たるメスガキたちによって、人類は滅亡の危機に瀕していた。彼らにできたのは、ただ近隣住民同士で寄せ集まって築いた居住区で日々を生き残れるよう祈ることばかり。
これは、傲岸なる神とメスガキに立ち向かう英雄譚ではない。裁きにより荒廃した世界で生きるただの人間が、至るべき場所へと辿り着く物語である。
* * * * * * *
メスガキにわからされたい。
いつからか、僕の生きる希望はそれだけになっていた。
小さな女の子に似た姿をした神の分身。本当なら僕らにとって忌むべき存在であり、抗わなくてはならない存在なのかもしれないけど、それでも僕は、メスガキにわからされたかった。
もちろん、それが尊厳も自我も捨てて緩やかに死んでいくのを意味していることは、いろいろな噂話で知っている。だけどもし伝承通りなのだとすれば『この世のものとは思えぬ快楽』を与えられるっていう話じゃないか。
死ぬ直前だとしてもそんなものを得られるというなら……、それなら、僕はそのまま命を終えたって構わない。
もう、疲れたんだ。
目を閉じると思い出すのはシェルターでの暮らし。
いや、暮らしと呼べるようなものだったかはわからない。
シェルターに築かれたコミュニティでリーダーに目をつけられた両親は、僕の物心がついた頃にシェルターを追い出された。それからいつも優しく笑って僕を励まし、守ってくれていた、そしていつか僕が支えて守りたいと思っていた姉は、同じリーダーによって『公共の娯楽』として召し上げられた。すぐ帰ってくるからと僕でもわかる作り笑いで出て行った姉は数日後、あまりに少ない礼品と共に、廃人同然になって帰って来た。
何が起きたのか想像するのも嫌だったけど、正直姉の泣き叫ぶ声はずっと聞こえていた。それを嘲笑う民衆の声も、思い通りにしようとする罵声も、悲痛だった姉の声がだんだん理性を感じさせないものに変わっていく様も……。
帰ってきてからの姉は、もう僕の知っている姉ではなかった。それまでの包容力も優しさも感じられない、言葉を発することはなく、ただ小さい子どもみたいに意味もなくニコニコ笑い、そのくせ何がどう気に入らないのか、突然火が点いたように泣き出すんだ。
違う、違う、何もかもが違う。
僕の知っていた――守りたかった姉は、いちいちご飯を床にこぼしたりしない。トイレ以外の場所で排泄なんてしないし、お風呂の入り方だって自分でわかってたし、寝る前にグズって泣いたりもしなかった。危険な場所へも近寄らないし……違うんだ、もう僕の知っていた姉とはまるで違っていたんだ。
昼夜問わずいきなり泣くから、隣近所からの目が気になって仕方なかった。配給品も多く取ろうとして叱られたり、そのたびにまた泣いて、僕は毎回居たたまれない気持ちにさせられてしまう。大声で泣いて、うるさいと叩かれてはまた泣いて、こそこそと隠すように家に連れ帰って。その繰り返しだった。
手がかかることだらけなのに、それでも姉の顔をしている彼女を見捨てることなんてできなかった。食事の世話もしたし、生活を支える気もあった。そうするうちに、少しずつでもいいからかつての姉に戻ってくれたらという希望もどこかにあった――けど、そんなの叶いっこなかった。姉はずっと幼い子どもみたいなまま何もできないし、その後始末に奔走している僕を見て、何が面白いのかケタケタ笑うときもあったのだ――いつのことだったか、ひどく疲れたときにそれを見てしまったのがよくなかった。
初めて姉の頬を叩いたとき、笑っていた顔がキョトンと固まったかと思うと数秒後には泣き出したのだ。
胸は、たぶん少し痛かったと思う。
けれどそれ以上に、こんな簡単なことで姉の無神経な笑顔を崩せるんだと知ってしまった暗い興奮が上回っていた。幼い子どものように泣く姉を見ているうちに心が軽くなっていくように感じて、体内を何かが駆け巡ったような気がして。たとえ叩くたびにその後の自己嫌悪が酷いことになるとわかっていても、もう僕にはそれしか姉と向き合う方法がなくなっていた。
そして姉は最期まで、姉には戻らなかった。
* * * * * * *
姉がいなくなった以上、もう生きている意味なんて感じられなかった。いや、最後の数ヵ月は姉を姉として扱っていたかすら、もう僕自身曖昧ではあったけど。
泣き止まないから殴った、手が汚れていたから殴った、疲れているときに笑いかけてきたから殴った、食事を落としたから殴った、他人の好奇の目を誘ったから殴った、手慰みに殴った、気晴らしに殴った、殴って、殴って、そのたびに胸の痛みをごまかすために殴って、胸が痛むのは目の前で泣いているやつが姉の顔をしているからだと殴って、胸が痛いのか手が痛いのか心臓を刺され続けるような日々を繰り返しているうちに、姉は動かなくなっていた。
瞬きすらしない姉をテーブルに座らせて数日暮らし、用意した食事に全く手をつけないことに苛立って、それでも待って、しばらく待って、食事が腐り始めるまで待って、ようやく僕はシェルターを出る決心をした。もう、姉がいないならあんな地獄のようなシェルターにいる理由なんてなかったから。
メスガキがいると言われている場所に向かう途中、いろいろな人々を見た。
人類の罪深さをことさら強調してメスガキに全てを委ねようなどと言いながら他人の金品をせしめようとしているやつや、逆にメスガキにわからされることを人類の誇りを捨てる行為だと罵り、そういう考えを持った人間を見つけたら公開処刑にするような集団、そんな風にどちらとも決められずに迷っている人、そもそもメスガキになんて構っていられないほど日々の生活に追われている人――シェルターの外にもたくさんの人が生きていた。
そういう人たちを見ているうちに、メスガキにわからされることが救いだと考えているのは僕だけじゃないと知って、少しずつ僕のなかのメスガキへの渇望は勢いを増していた。逆に反メスガキ主義者の家族を失いたくないという切実な訴えやそう思うが故の弾圧なども目にして。
彼と出会ったのは、そんな頃だった。
僕は反メスガキ派集団に捕まり、何日も寝かせてもらえずに『説教』をされ続けていた。ストレス解消も兼ねていたのかもしれない、関節は何度も外されたし、他人に言えないようなこともたくさんされた。据えた体液の臭いが鼻をもぐような暗い部屋に足枷付きで囚われていた僕の前に現れたのが、彼だったのだ。
「お前か、メスガキにわからされたいカインってのは。それがどういうことか、本当にわかってるのか?」
その包み込むように低く重さのある声が耳に触れた途端鳥肌が立ち、声が漏れた。
猛禽類のような、それでいて海の底にも似た鋭く深い眼差しは目に見えないところまで貫くようで、パッと見はゴツゴツと岩のようなのに意外とシャープな輪郭を覆う無精髭からは、独特の色気を感じずにはいられなかった。
心臓がうるさい、呼吸が苦しい。吐く息に異様な熱が籠っているのが自分でもわかって、それを目の前の彼には知られたくなくて。だけど、目を背けたら顎を掴まれて真正面を向かされてしまった――そして、また目に入る。
直前まで何かの作業をしていたのか、彼はツナギのような服を着ていた。そして僕の方へと身を乗り出していたからだろう、今にもツナギを突き破らんばかりに発達した胸板の形がはっきり浮き出てとても卑猥だ。雄々しい雰囲気に反して長い睫毛や、少しかさついて見える唇からも、目が離せない。大樹の幹のような頼もしさと力強さを感じさせる腕は、その中に捕まった時の温もりを想像せずにいられなくて……
「おい。お前はさんざん拷問された今でも、わからされたいのか?」
「――――――、」
即答できなかったのは、答えるのが怖かったからではない。ほんの一瞬だけ、彼になら屈服させられてもいいと思ってしまったから。
それでも、メスガキは僕の最後の希望だったから。
「……はい」
「そうか」
頷いた僕に、彼は満足げに微笑んでみせた。





