狐、外に出る
春というのに暑いなぁ。
今年は一段と暑くなった気がするが、毎年同じ事言ってるような気もした。
空から照らし出される正午の太陽に長袖を着る杉糸は薄い長袖の服を買おうかなと考えながら汗を服で拭った。
信号は死ぬほど嫌いだ。
杉糸は町中の長い横断歩道の信号をずっと待ち続けながら、そう言えばここの信号はボタンを押さねば色が変わらぬ仕様であった事を思い出す。
久しぶりにこの地に来たものだからうっかりしてしまっていた。
しかしこの自分が生まれ育った田舎町も変わってしまった。好きだったゲームセンターは潰れて、近所の福本さんは引っ越してしまったらしい。田舎では少ない娯楽であったデパートは大手のデパートと実質吸収という名の合併。色も町も徐々に自分の知らないものになっていくのが悲しくなっていく。
おっと、そんなことを考えていたら信号はもう青だ。
杉糸は白線を歩いてこうと足を前に出すのだが、
ぐいっ。
背中から服を引っ張るような力を感じ後ろを向く。
「しゅ、しゅぎと……しょ、そんな道を歩いて行けば、まま、ま、また、またいつ鉄の塊が走り出すかわからぬぞ……?」
杉糸の後ろに子供のように服を掴みながら青ざめた顔をするのは黒い和服美人、頭に耳は生えておらず尻尾もない。
だがそれは人に扮した狐露である。
「僕は信号が嫌いなんだ、だからさっさと行こうよ」
だが一歩も動く気配はない。
無理矢理引っ張ろうとしてもびくともしない。力には自信が多少なりにはあるからか少しショック。
どうしてこうなったのか、杉糸は役一時間ほど前の事を思い出す。
φ
狐は札が取れた事実に驚愕し、固まっていた。
あれほど恥ずかしがっていた肌の露出や胸の谷間までくっきり見えるくらい硬直していたのだ。
「取れたよ?」
杉糸は役目を終えたので彼女の腕を離して札を持ったまま後ろに下がっていく。
封印の札を捨てるのも何処か気が引けたので服のポケットに押し込みながらも杉糸自信本当に取れるとは思わなかったと内心驚いている。
力を持った者しか狭間には入れない。
力を持たぬ者しか封印は解けない。
そして杉糸は力を持ってないただの呪い持ち、ここに入れたのもイレギュラーに近いと認識していた。
ならもしかすると、の勢いで触ってみたのだが本当に自分は力を持ってない者として認識されていたようだった。
ある意味初めて自分の呪いが誰かの役に立った場面かも知れない。それでも呪いを好きになれる事など一生あり得ないだろうが。
封印が解けたというのに静かだ。
杉糸はチラリと横目に狐を見る。彼女は白く燃え尽きたかのように放心していた。水着の胸部分が少しズレかけている事にも気づかず、ただぶつぶつとぽかんとした口で呟く。
「あ、呆気なさすぎる……わ、わ、わらわの生涯は一体なんじゃったのだ……わ、わらわはどう反応すればよいのだ……笑えばいいのか? 泣けばいいのか? 怒ればいいのか?」
「怒る必要ある?」
「大いにある! もっと雰囲気を大事にしてわらわは解かれたかった!」
「うわーめんどくさい」
杉糸は笑いながら狐の喜怒哀楽する姿を愉しむように見ていた。
「いやしかしだ、わらわはこれで晴れて自由の身であるのだな?」
「うん、君の言う事が正しければ」と杉糸は返したが、狐が勝手に一人でぶつぶつ喋っているのでさっきのはただの自問自答らしい。
「今はただこの自由を愉しみ、これからの事は後で考えればよいのではないか!」
七変化する喜怒哀楽は喜で定着したようで狐は高いテンションのまま立ち上がった。
「あははははははは!!!! 外だー! 外だー!」
そう言って狂気染みた笑い声のままバタバタと駆け出していく狐。過ぎ去る前に顔を見るとぐるぐるした目をしていたのでどうやら喜んでいるのではなく正しくは錯乱。
まあ大丈夫だろうと適当に考えながら杉糸は「行ってらっしゃい」と手を振っていた。
数十分後。
「うっぐすっ、ぐえっええっうう……」
「よしよし、怖かったんだね」
杉糸は涙を堪える狐の頭をよしよしと撫でていた。
「なんなのだあの右往左往する鉄の塊は……何度もわらわを轢こうとしてくるしそれに騎乗する輩はわらわを怒鳴りつけるのだ……」
「ああうん、多分君が悪いと思う」
「何故!? わらわはただ白線の敷かれた道を歩こうとしただけだ!」
恐らく赤信号を歩こうとしたのだろう。そりゃあ怒られる。
「外の世が恐ろしいのはこれだけではない! 三人の男衆が戸惑うわらわに声をかけてくれたのだが」
「親切な人達じゃない」
「違う! 奴らはわらわを舐めまわすような助平な目で見ていた! うう……やめろと言っても中々やめてくれぬのでわらわは逃げたぞ?」
まあ容姿だけを見れば恐怖を感じるほどの別嬪さんだ。個人的には着物美人は声をかけづらい雰囲気があるとは思うがそれを帳消しにするほどの美しさなのだろう。
「まだまだある! 見慣れぬ建物に見慣れぬ服装! もうわらわの夢見る外の世界ではなかった! もうわらわは一生ここに引きこもる!」
「まあ数百年も経てば、ねえ」
「ううう……外など嫌だ!」
そう言って狐は僕の膝に顔をうずめて視界を遮断しようとしていた。
そんな様子を見て困ったなと苦笑い、彼女がこのまま外の世界に適応して自分は用無しにでもなってくれれば良かったのだが簡単にはいかないらしい。
仕方ない、こうなってしまっては自分が手を差し伸べる必要がある。
「狐露、今度は僕も一緒に行くからさ。もう一度だけ外に出てみない?」