狐の依存
「大丈夫?」
声をかけようとするが帰ってくるのは、くかーくかー、という安らかな寝息。
杉糸は苦笑いしながら零れた酒を近くに置かれていた雑巾でふき取ってつまみも一緒に片付けていく。すると周囲に漂っていた人魂が容器や皿を片付けるのを手伝ってくれた。便利な人魂だ。
しかしまあ、話は中途半端な所で終わってしまったが興味深い話ではあった。
つまり狐は人間と妖が混じったイレギュラーな存在、とは言っても自分からすればそうか、で終わってしまう話題ではあるが。
「布団は何処にあるのかな? 彼女をこのままにさせておくわけにもいかないだろう」
杉糸は人魂にそう話しかけるのだが人魂はこちらを向こうとしない。ただ卓の上を片付けていく。一瞬、無視されたのかと思ったがそうじゃなさそうだ。
畳の上のガラクタには一切手を触れず台の上を片付けた途端、さっきのようにライト代わりとして宙にまた浮かび続ける。無防備に眠る主人には一切気にかけない様子だった。
機械的な存在なのか、そう思い杉糸は仕方なく自分で探す事にした。するとあっさりと隣の部屋の押し入れに敷布団と布団を見つけたのでそこに敷き狐露を連れて行こうとする。
軽く揺らしても軽く叩いても唸るだけで起きる様子はない。仕方ない、引きずっていこう。でも尻尾があちこちに引っかかるので持ち上げる事にした。
「軽」
尻尾が九本もあるのでもう少し重いかと思ったが軽々とお姫様抱っこできるくらいには軽かった。
最初からこうしてあげれば良かったと思いつつも杉糸は布団の上にゆっくり彼女を寝かせたのだが、こうしてみると眠っていれば騒がしくなくやはり美人だと再認識させられたと同時に男の前で酔いつぶれるのは無防備だとも認識した。
杉糸はため息交じりに布団をかぶせた。
「おやすみ」
そっと起こさぬように言い、このまま立ち上がろうとしたが。
がしっ。
音がして服が引っかかる。
だが周囲にそんな服を引っかける物など存在しない。
「狐露?」
杉糸はその服が引っかかる、いや服を掴んでいた存在に声をかけ首を動かそうとする。
その瞬間背中に暖かいぬくもりを感じた。
それは狐が顔を僕の背中にうずめて隠していたのだ。
そして腕を杉糸の腰まで回し、まるで離さないと言わんばかりに抱きしめてくる。
「狐露? ねえ狐露?」
夜這いか何かかと思ったが雰囲気からして違う、杉糸はどうかしたのかと優しく声をかけたがただ抱きしめる力が強くなっていく。
そして彼女は泣いた。
「ううっ……ああ……あああっ……」
狐の泣き声に何か言おうとした杉糸の声は掻き消されてしまう。悟られぬよう声を押し殺すように泣いていたようだが徐々に壊れていき、彼女はただひたすら子供のように同じことを繰り返す。
「嫌……もう嫌だ……一人は嫌じゃ……嫌、だ……嫌、嫌だ、もう嫌だ、嫌……! もう……っ! もう……う……あ……あ……あ! 行かないでおくれ……! わらわをこれ以上待たせないでくれぇ……!」
杉糸はへたりと尻餅をつく、酔っているのもあるのか狐は錯乱したかのように泣いている。
彼女が一人ぼっちで寂しがっていたのは知っていたのだ。だが見て見ぬふりをしようとしていた。
「わらわは何でもする……其方が望めば何でもする!! だから一人には……一人にはさせんでくれ……! 一人は嫌だ……一人は……一人は……一人は……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁっぁぁあぁぁぁぁぁっぁあ!!!!!」
そして狐は壊れるように泣き叫んだ。
杉糸はそんな彼女を見てただ無感情に見ていた。
これから死のうと思っている人間にとって枷はあまり作りたくなかった。なのに自分は踏みとどまる事を選んだ、貸し借りなど無視すれば良いだけの話である。もし帰り道を聞けず、永年に狭間を彷徨う事になったとしても自分にとってはそれでも良かった。
だから杉糸はそっと狐の手を放そうとする。
これ以上関わっても自分を苦しめるだけであると。
「……!」
その行為が拒絶と思われたのだろう。杉糸が体をねじって後ろを見ると涙を流すのをやめ衝撃的に目を大きく開いている狐の姿がそこにはいた。
「あ……あ……す、ぎ……と?」
中途半端は自分を苦しめる事にしかならない。今は良くてもツケが溜まった未来は悪化した絶望しか帰って来ない。
誰かを救えるのは心に余裕のある救われた人間だけだ。僕には余裕なんてない、だから救えない。
なのにそんな目をするなよ。どうして僕に救いを求めるんだ?
僕は自分の意思とは違う行動をしていたのだ。
狐を正面から見て、ただぎゅっと落ち着かせるように抱きしめていた。
僕は彼女に同情してしまったのだ。
「大丈夫、もう……もう大丈夫だから」
「うっ……うっ、うう……うう……杉糸……杉糸……杉糸」
杉糸はただそう呟き、また自分の胸の中で啜り泣く狐露の背中を擦り、兎に角安心させたい一心だった。
この行動が後悔に繋がると知りながら手を伸ばしてしまっていた。
そしてその時、この行動を監視するかのように誰かが僕を見ていた。
隣の居間にただ無言で立ち尽くしてこちらを見る老婆。
何故ここに老婆かと何も知らない者は思うだろう、だが杉糸はその老婆を知っていた。
心臓が握りつぶされたかのように酷い吐き気と嫌悪感が体に走る。狐を抱きしめる力が少し強くなる。
息が詰まる、心が苦しくなる。
いつの間にか狐を安心させる抱擁が苦しいほど力を込め理性を落ち着かせる自分の為だけの行為と変わっていた。
そして笑う事をやめ、ただ無表情に居間の方を見ていた。
だが一度、瞬きをすると老婆、いや僕が殺したお婆ちゃんの姿は消えていた。
また死ねと声がする。
「わかってる……わかってるよ」
ただぼそりと一人事を呟き、静かになっている事に杉糸は気づく。
狐は瞳を閉じ、ただ涙を流しながら眠りについていたのだ。
だからあれだけ力を込めても気づかなったのか。
杉糸は少し冷静さを取り戻した顔で狐の眠る顔を見る。綺麗な眠り姫だ。だけど彼女を起こす役は誰かに任せたい。
「どうしてなんだろうな」
杉糸は手で狐の涙を拭う。
「僕は君の事が可哀想だと思えても」
そして乾いたように笑う。
「孤独である事に羨ましいと思ってしまうんだよ」
杉糸は彼女が孤独に苦しんでいる事が理解できず、心底妬ましく思えてしまったのだ。