変化
狐露はただ一人畳の上でゴロゴロと転がっていた。
最初は尻尾のノミ取り等の毛づくろい、そして櫛でといたりしたが尾の多さに嫌気がさして炎で浄化させた。
頭の方の耳掻きは杉糸にやってもらうとして、暇だった。
テレビも今は面白い番組などやっておらず、昼寝でもしようかと思ったがそんな気分でもない。
この居間はこんなに広かったのだろうかと一人である事に違和感を覚えた。
経った数カ月の思い出が数十年の孤独に勝っていたのだ。
仰向けに転がり、天井を見る。
何処か胸騒ぎがした。いや胸騒ぎがしていたのはずっとだ。
杉糸は嘘をつき自分を偽る事が多い。彼は感情を隠すのが上手い方ではあるがそれでも感の鋭い狐からすればすぐわかる。
杉糸は今にもひび割れてしまいそうな歪さを備えている。
しかし知っていても触れる事は出来ない。怖いから、自分が彼の心を壊してしまいそうだから。どう助ければいいのかわからない。
ずっとこんな時間が続けば良いと思っている。それでも一生などは存在しない。今も杉糸の心は崩壊していき狐はただそれを知りながらじっと見る事しか出来なかった。
それなのに自分だけずっと助けて貰っているのが現状だ。
「抱いてやれば……少しは変わるのだろうか……」
狐は体を丸めながら息を吐く。肉体関係になど陥ればわらわが余計杉糸に依存するだけになる。
逆効果だ。
ため息を吐く、それに一瞬自分が抱かれている姿の事を想像してしまい頭を何度か畳の上に叩きつけて落ち着かせた。
頭から血が出た。
うううと涙目になりながらまた寝転がるが胸騒ぎは止まらない。
「はぁ……」
ため息をしてもう一度ゴロンと横になる。
するとふわふわと浮いていた青い火が何か持っていたのだ。
基本ゴミは勝手に処理するよう設定しているがそれ以外はわらわの方へ持ってくるようになっている。ちなみに火のゴミか否かの判断基準は召喚術を使うわらわと同じである。
「む、確かこれは……」
狐は火の持ってきたものには見覚えがあった。確か通帳と印鑑、後は何か紙が挟まれていたのだ。
紙を開くと数字が書かれていただけ。
銀行の事は杉糸から聞き知識として蓄えている。自分が持つ必要などないのに何故か杉糸は金を下ろす方法を狐に教えようとしていた。
「数字を残すとは不用心であるな」
そしてその数字も【ぱすわーど】である事も狐は理解していた。
しかし理解してしまった瞬間、嫌な想像が頭に浮かんだ。
何故数字を残す必要がある? 今まで教えてくれなかったくせに今更書き残すとは、これではまるで自分に使ってほしいと言っているようなものだ。
胸騒ぎが悪化していく。
その瞬間、狐は鬼も怯える恐ろしい形相で駆け出した。
φ
「ああ……」
また死ねなかった。
杉糸は喉にナイフを刺したはずだった。
はずだったのだが__
ナイフは違う肉を切り裂いていた。
「君か」
この時、初めて彼女の事を本気で恐ろしいと思ってしまった。
今の彼女は人の形をした化物だ。彼女の隠しきれない殺気にも似た威圧が大気を震わせ、息を詰まらせる。
彼女を失望させてしまったんだろう。
そんな彼女は掌で刃を突き刺して止めていた。
そしてナイフだけ青い炎で燃え瞬時に散りと化しナイフを握っていた感触が消えた。
「手……大丈夫?」
杉糸はそれでも優し気に心配する顔をして狐露の手を見る。
だが狐はそんな心配などいらんと言わんばかりに血が流れる手を舌で一舐めする。
すると傷は無くなっていた。
そしてこちらを強く睨んだ。
「其方は何をしている?」
静かに怒っているのが聞いてわかった。
しかし杉糸はいつものような笑顔を取り繕った。
「ごめん、こんな所で死んだら他の人に迷惑だよね」
だがそれが逆効果になった。言い終えた後、これは怒らせてしまうと理解した。
彼女は腰を低くしたまま僕の胸倉を掴んだ。
「何故だ……何故其方はそこまで自らの命を粗末に出来る!? 何故だ! 言え!」
狐は頭に血が上っているようで冷静な判断が出来ないようだった。しかし怒るのは当然の感情だった。
ああ、怒らせてしまった。謝らないと。
杉糸自身、思考が全く追い付かずただ狐に謝らないと、と考えるだけだった。
「ああ、ごめん……」
「其方は……其方は……!!」
狐はまだ自分に何か言いたそうだった。だが必死に言葉を飲み込み、自分を落ち着かせていた。
その時、彼女に対する杉糸の別の思考が働いていた。
幻聴とは違う、まるでもう一つの感情が声を上げているような声。
これも自分の本音の一つ。否定と肯定が渦巻く感情。それは、
狐の言葉が何一つ心に響かない。
「わかれば……良い」
狐も下唇を噛みしめながらも僕に手を差し伸べてそれを掴んで立ち上がる。
僕が命を粗末にしている? 確かにそうかもしれない。
「帰るぞ」
ただそれだけ言い、狐は手を引っ張って歩いて行こうとする。
でも同時に僕が生きている事が命の冒涜なんだよ。今死ななきゃ今まで死んだ人達の命はどうなる? それこそ粗末ではないのか。
初めて、狐に対しドス黒い憎悪にも似た感情が芽生えていた。
だけど言うな、隠せ、口を開けば彼女を傷つける。隠せ、自分を殺してでも絶対に言っては__
なんで、彼女は僕を邪魔するんだ?
足が止まる。
心が叫べと告げている。
「ふざけるなよ」
不思議と声に出ていた。
そしてそれは狐にも聞かれていた。
「杉糸?」
彼女が振り返り、一瞬怯えたような顔をした。
ああ、今の僕はそれくらい酷い顔をしているんだろうか、それくらい怒っているのだろうか。実際そうだ、今は憎い感情しか彼女に抱けない。
「君に一体、僕の何がわかるんだ?」
そして一度漏れた怒りは抑える事は出来ない。ダメだと思っていても言ってやれという声が背中を押す。
狐の悲しい目を見てもなお徐々に声が荒くなっていく。
「何が……何がわかるんだよ!!」
杉糸は狐の手を振りほどいた。
押し留めていたものは全て壊れた。口から溢れ出るのは溜め込んだ負の感情。
「君に一体何がわかる!? 君は……自分のせいで誰かが死んだ事があるか? 君は……自分のせいで周りが不幸になっていくのを見た事があるか? 僕が殺した人の家族を見た事があるか!? 答えろよ!! いいから答えろよ!! 答えろぉぉぉ!!!」
もう止められない。
息を荒げ、ただ言葉を見失う狐に憎悪をぶちまけていく。
「それでも僕は……自分のせいで死んだなんておこがましい、世界の中心に立ってるわけがない! そう何度も言い聞かせて生き続けた! それでも……僕のせいで他の人が死んでいた……みんながこの呪いを治せないって雁首揃えて言った時の気持ちがわかるか……?」
杉糸は哀愁漂う表情で笑って見せた。
「寧ろ……寧ろ、安心したよ。これで僕が死ななきゃいけないんだって、僕は生きてちゃダメなんだって安心したんだよ! なのにどうして……どうして僕を否定する!?」
「わらわが悪かった……頼む……一度落ち着いてくれ……」
腕を掴んで必死に止めようとする狐の声など一切聞こえず、ただ自分の言いたい事だけしか杉糸は言わない。
いや、寧ろ既に何処から何処までが自分の本心なのかわからなくなってきた。もう思った事だけを口に出しているだけだ。
「どうしてみんな僕に死ねと言わないんだ……! 君はどうして僕を肯定してくれないんだ……どうして僕の邪魔をする……死にたいのに、こんな気持ちになるのなら__」
杉糸はただ狐の目を見て枯れたようにして口を開いた。
「君に出会わなければ__」
だがその言葉は最後まで何故か言えなかった。狐の失望や絶望に満ちた顔を見てしまったからだろうか、最後まで言わずとも意味は伝わってしまうというのに。
彼女は泣くと思った。だが泣く事はなく冷静に冷たい目でこちらを見ていた。
「そうか」
感情の篭ってない口ぶりだった。
「其方はそこまでして……死にたいのだな」
狐は笑っていた。だがその笑みは妖艶で恐怖を感じさせる恐ろしいものであった。そしてぞくりと喉元に冷たい刃を突きつけられたような死が実感させられた。
恐らく自分を殺すのを一瞬、蟻を潰すよりも容易いのだろう。
だからこそ不思議と心が安心できた。
「わかった、わらわが望み通り死なせてやる」
そして狐の姿が変わる。尾と耳を生やして杉糸の喉元をガっと手で掴んだ。
「安心しろ、せめてものよしみだ。苦しまず一瞬で死なせてやろう。望み通りな」
死の恐怖はあった。だけどそれ以上にやっと楽になれる気持ちの方が圧倒的に勝っていた。
だからこそもう狐に全てを委ねるように命を任せた。
「ごめん、ありがとう」とだけ告げた。
彼女を傷つけたのは悪いと思っている。でももう誰かの心を配慮する余裕なんてない。
これからはもっと良い人でも見つけて幸せに暮らしてほしい。
そう願い、生きることを諦めた。
諦めた。
死ねる。
楽になれる。
助かる。
罪を償える。
もう誰も傷つく事なんてない。
はずなのに。
聞こえていた死の足音は遠のいていく。そして自分は死なないのだと本能的に理解して圧力の無くなった喉に触れる。
狐は泣いていた。
「嫌じゃ……わらわは其方を失いたくない……これ以上大切な者を失いたくはないっ……」
狐は瞳から涙を流していた。そして縋るように自分の手を握ろうとする。
「わらわは其方の手が必要だ……隣を歩いてくれる其方が必要だ……」
なんでなんでだよ。
「君は僕なんかいなくても一人で生きていけるだろ!」
「無理だ無理だ無理じゃ!!」
狐は子供のように駄々をこね首を大きく横に振る。
「ならなんで死のうとしないんだ……? 君は不老でも不死じゃないんだろう!? なら死ねばいいじゃないか!! 辛いなら!! 辛いのなら!!」
杉糸の狐に対する目が怒りや憎悪から困惑、罪悪感に変わろうとしていた。
「何故……何故其方は……そう、酷い事を言う?」
そう儚げに見つめる彼女の姿を直視できなくなってくる。
僕自身何故かわからなくなっていた。心残りを失くす為に狐に嫌われたかったのだろうか、単に自暴自棄になっているからか、それの両方か、それですらない何かか。
もうまともに判断する冷静さは杉糸に残っていなかった。あるのは目の前の状況から浮かび上がる感情でしかない。
希望に縋って惨めに生きては駄目なのか?
其方が、其方のような者があの地に来ると信じて待つのは駄目なのか?
狐印が問う。
駄目なわけがない、僕も彼女も何一つ間違ってはいない。
だが生を僕に押し付けるな。
でも僕も彼女に死を押し付けようとしていた。
あれ? 僕が嫌がってた事を僕も彼女にやっているじゃないか。
僕も同じ事をやらかしてるじゃないか。
「杉糸」
頭がカフェオレのように混ざる最中、涙を流した狐印が手を握ろうとしてくる。
あれだけ酷い事を言ったというのに、まだ僕に縋るのか、見捨てないのか、助けたいと思うのか。
杉糸は狐の手を振り払った。
「あぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!!!!」
そして既に壊れてしまっているのに心が崩壊する事を恐れ、その場から逃げていってしまう。




