第9話 古来防衛とはスポーツである
ゼークトが引退して、後任のハイエ統帥部長は1927年2月、内閣に陸軍秘密予算の中身を説明する妥協に踏み切った。1928年9月にまとまった、後年「第1次[再]軍備計画」と呼ばれる5ヶ年調達計画が、政府と陸軍の共謀を象徴するものであった。これは調達計画としてはなかなかの規模で、ヴェルサイユ条約で持っていいのは重機関銃792丁、軽機関銃1134丁と定められているところ、1931年4月、国防軍はすでに重機関銃・軽機関銃あわせて20000丁以上を持っていた。歩兵7個師団に抑えられているところ、16個師団分の武器弾薬を備蓄することを目指していた。
しかしそろそろ第1次大戦の応召者が兵役適齢を過ぎようと言うのに、その対策はなかった。新統帥部長ハイエと新任の国防大臣グレーナー、国防省国防課をさらに改称して大臣官房長となったシュライヒャー、そしてブロンベルグ軍務局長が、この軍備計画と並行して兵士確保策を推進していた。だいたいハイエが政府と妥協したのも、ミュンヘン蜂起がまさにそうだったように、「黒い国防軍」が民族主義者と結びつくリスクを軍さえ意識していたからだった。もう少し無害な代替品が欲しいのは軍も同じだった。
東部国境は敗戦間もなくポーランドとの紛争を経験したこともあり、プロイセン州政府も合意の上で、青壮年男子の名簿を用意して有事の召集を可能にする制度があった。このころの軍の要求は、この制度を全国に広げることだった。訓練召集などは一切しないから、名簿だけを軍にくれというのである。
SPDは中央では政権から出たり入ったりしていたが、国土の6割を占めるプロイセン州においては与党であり続けていた。軍と妥協するには、政界は四分五裂に過ぎた。
ルーデンドルフたちと決別して初めてNSDAPが迎えた1928年の総選挙は、あまり目覚ましい結果ではなかった。NSDAPのような極端な主張を持つ政党にとって、最も恐ろしく抗いがたい敵は好況だった。そして世界を平和というキーワードが覆っていた。1928年のパリ不戦条約にはまだ元気だったシュトレーゼマン外務大臣が署名したし、その年末には厭戦気分あふれる「西部戦線異状なし」が雑誌に掲載され、翌年初頭に出た単行本はドイツでベストセラーになった。
この状況でドイツ軍はまったく別のことを喫緊の問題ととらえていた。すでに戦後10年を迎え、軍にとってもNSDAPにとっても重要な人材プールであった、軍歴のある若者はいなくなろうとしていた。その反面、国際的な軍人と軍備への逆風を、ドイツ軍人たちは今さら実感などしなかった。それは英仏の対独軍備を著しく遅らせることになったのだが、秘密ゆえに天井のない軍備増強は、穏便に再軍備を認めてもらう道を閉ざし、ドイツを外交的な袋小路に追い込んでしまうことになったのであった。しかしそれがはっきりしたのは、ずっと後のことである。
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「あの、閣下、まことに残念に存じます」
「長い付き合いになったな。あのゼネストの時からか(第7話参照)。あれももとはと言えば、我が大蔵省が起こしたことだったな」
1929年5月、イスメイはチャーチル大蔵大臣の離任を惜しんでいた。1925年にイギリスが敢行した金本位制復帰について、チャーチルはその責任者だった。そのとき固定しようとした通貨レートが高めであったため、当時は輸出産業であったイギリス石炭産業が行き詰まり、賃金を切り下げようとして労働組合の総反発を食らったのが1926年のゼネストだった。ゼネストも失敗したが、チャーチルは憎まれ役になった。そして労働党が選挙で大勝したのである。
チャーチルはイスメイに仏頂面をさらした。政治家が身内にしか見せないたぐいの表情だった。
「ネヴィル(チェンバレン保健大臣)がうまくプレイした。スタン(ボールドウィン首相)はネヴィルを大蔵大臣にするつもりだったが、奴が断ったのだ。それでこちらに回ってきた」
ネヴィルの父、ジョゼフ・チェンバレンはグラッドストーン首相の下で閣僚を務めた大物政治家だったが、ビジネスには運がなく、ネヴィルは21才のとき父の仕事を任されて、バハマのアンドロス島で農園経営を始めた。7年粘ったが、石灰岩でできた島には高く売れるサイザル麻は結局育たず、無名の青年としてイギリスに戻って来なければならなかった。ネヴィル・チェンバレンとウィンストン・チャーチルに似たところはほとんどないが、父の財政難で余計なものを背負ったところは似ている。
しばらくイギリスでビジネスマンをやったが、著名政治家の次男として、父の選挙区にあるバーミンガム市議会で議員を務めるようになり、やがて市長に選ばれた。1918年に下院へ初当選し、1922年に当選1回議員であったがボナー・ロー内閣の郵政大臣で初入閣した。これには事情があって、保守党首で自由党との連立内閣を解消したかったボナー・ローと、連立内閣維持派のオースティン・チェンバレン(年の離れた異母兄)が対立し、ボナー・ローは「持ち駒が少ない」状態だったのである。新内閣の信を問う選挙に勝って、ネヴィルは当選2回となった。病身のボナー・ローをボールドウィンが引き継いだ内閣で、ネヴィルは1923年に大蔵大臣に大抜擢を受け、いいことも悪いこともする間もなく総選挙になって、負けて政権が代わった。最初の労働党内閣ができたがすぐ倒れ、1924年にボールドウィンが再び立ったのが、今までチャーチルが参加していた内閣だった。
「奴め、見抜いておったのだ。いまは保健大臣が花形で、大蔵大臣が外れくじだということをな」
保守党は労働党への対策として、後世で言う「ゆりかごから墓場まで」の福祉政策を推進しなければならなかった。次々に予算を使い事業を起こしていく、内閣の番頭役をチェンバレンはつとめたわけである。だから政治家としての実績も人気も盤石になった。
「必ず戻って来られることを信じております、閣下」
「お前さんもな。そろそろ転任だろう」
「はい、前線勤務を希望しております」
「すまんがもう、ラクダ部隊に予算はつけてやれん。だがお前さんはこういう仕事がなかなか向いておる。そういう軍人は案外少ないものだぞ。幸運をな、中佐」
言葉に詰まったイスメイの肩をポンと叩くと、チャーチルは急な階段を下りて行った。
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1930年3月、SPDから出た戦前最後の首相、ミュラーが退陣した。ヒンデンブルク大統領が法の代わりになる大統領令を出してやれば、おそらく防げた総辞職だった。大統領官邸では、グレーナーとヒンデンブルク、そして例によってシュライヒャーが会談していた。
「ブリューニングは受けてくれるかな」
「受けねば、議会を基礎としない者を任じる口実にもなりましょう」
ブリューニングは44才の若い中央党議員である。経済通として知られているが、政治的に力があるわけではない。その若手に首相をまかせようと言うのだ。程度の差こそあれ、3人ともブリューニングを操り人形と見ていた。SPDが自分たちの首相を支えない失態をさらしたとはいえ、見るからに民族主義寄りの与党構成ではSPDだけでなく共産党も支持するわけがなく、法律の代わりに大統領令を連発しつつ、個別案件でできるだけ妥協を図るしかなかった。
「いよいよ、軍が政治の中心となるのですな」
シュライヒャーはずけずけと言った。国会がまとまらないとき、大統領の意向がストレートに通るのが、当時のドイツ憲法であった。いや……後の出来事を思えば、「憲法だけを軍人が読めば、通るように見えた」というべきか。
「そう感じさせないようにするのが、要諦だぞ」
グレーナーが弟子をたしなめた。会議室で気持ちよく決定されたことが、外に広がったとき良い結果をもたらすことも、そうでないこともある。その場数を踏んでいるのは、やはりグレーナーだった。
「しかし1918年に18才だった若者は、そろそろ教官としても古兵になってしまいます」
「行進だけでも覚えさせておかねばな」
「大統領、それです」
グレーナーがヒンデンブルクの一言に飛びついた。
「古来、軍事教練は若者のスポーツとしてたしなまれてきました」
「そうなのか?!」
「まるっきりウソというわけでもありません、大統領」
シュライヒャーも思い当ったようで、なにか考え込んだ顔になっていた。
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実のところ、徴兵前の少年たちに自主練習としての軍事教練を与えることは、第1次大戦前から戦中にかけて色々な組織が試みていた。それをスポーツだと言いくるめる必要はなかったので、当時は防衛教練(Wehrturnen)と呼んでいた。これを防衛スポーツ(Wehrsport)と呼び換えればいいのだった。そうした活動を地道に続けている団体も存在した。
軍の提案を受けたブリューニングは、組閣早々、内務省に振興予算を付けた。Wehrsportでいくらか基礎ができると期待して、有事には3ヶ月ほどの短期訓練を上乗せして兵士を吐きだそうという陸軍の構想であった。ただ必ずしも軍に好意を持たない官吏や教師が指導すると、軍としては歯がゆい内容のことがあり、参加者の数もそろわなかった。
陸軍が望むようなWehrsportとなると、外国の目に触れないように場所を選び、そこであったことを外で話さないだけの心服を若者たちから勝ち取る組織でなければいけなかった。軍としては再び軍事色のある民間団体を頼る他はなくなってきたし、1929年以来最も多くの若者が流入しているのはNSDAPだった。しかしNSDAPにとっても、絶対服従の態度を叩きこまれていない若者たちは暴走の危険をはらんでいたのである。
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「済まんな、エルンスト。向こうでは中佐だったと聞いた。相応の処遇はする」
「お前の頼みだ。それで十分だよ」
レームはヒトラーを「お前(du)」呼ばわりできる少数の古株のひとりだった。ブリューニング内閣発足から半年を経た1930年11月、ボリビアで中佐待遇の軍事顧問をやっていたレームを呼び戻し、突撃隊の全国指導者に迎えたところだった。空腹で行儀の悪い突撃隊員たちを束ねることはヒトラーの手に余ったのである。
ヒトラーからはかつて決裂したときの、虚勢を張るような硬さはどこかに消えていた。少なくともそれを隠せるようになっていた。港で出迎えずにベルリンで待っていたのは、党首の体面というものであろうが。
「もっとふんぞり返っているかと思ったぞ。勝ったのだろう」
レームはようやく笑顔を見せて、ヒトラーの肩を叩いた。世界大恐慌を経て、世情は一変し、9月の総選挙でNSDAPは一気に577議席中107議席を占めた。143議席のSPDに次ぐ第2党だった。
ヒトラーは逆に苦々しい表情を旧友に見せた。
「若い士官が3人、営内で我が党の勧誘をしただけで禁固1年半を食らった。反逆罪だ。先月だぞ。選挙の後だ」
「お前と同じ判決じゃないか」
「たしかに要塞禁錮刑だ」
ヒトラーは渋面を苦笑いに変えた。愚痴を言える相手もほとんどいない、最近のヒトラーだった。レームは、もともとSAはゲーリングが束ねていたことを思い出した。
「ヘルマン(ゲーリング)はどうしている」
「国会議員……というより集金係だな。大した奴だ。紳士の振りがうまい。演説は俺の仕事だが、会話は奴に任せている」
「今はそっちがスポンサーか」
ヒトラーは答えにくそうにした。ゲーリングの弁舌がどうであろうと、上流人士や資本家がNSDAPに渡りをつけてくる理由はあった。SPDとNSDAPに次ぐ77の議席を得たのはKPD(ドイツ共産党)だった。ドイツが革命に傾くシナリオが遠くに見えてきた気分の金持ちは多いに違いない。
だとすれば、スポンサーが嫌がるような大資本批判はもうやりにくかろう。その一方で突撃隊には食い詰めた若者たちが流入しており、それもまた党の力になっている。その渦を洪水にしないように操るのがレームの役目ということになる。
「すぐ仕事にかかる」
差し出した手をヒトラーは両手で握った。笑顔がうまくなったとレームは感じた。
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「お前のことだから次の有給休暇のことを考えているんだろうが、暇な仕事ではないぞ」
「暇は作るものさ」
新しい陸軍統帥部長になったハマーシュタイン=エクヴォルトは、友人のシュライヒャーからの冗談を真顔でかわした。
グレーナーが国防大臣となり、ヒンデンブルクとシュライヒャーに諮っただけで重要事を決めてしまうようになると、もともとゼークトの腹心であるハイエ統帥部長は居心地が悪くなった。1930年に辞任されてみると、グレーナーは前大戦で新政府に軍を差し出した負い目があるし、シュライヒャーは友人が少なかった。そこで数少ない友人から、前の年に軍務局長になったばかりのハマーシュタイン=エクヴォルト少将を飛び級昇進で大将にして、陸軍統帥部長を任せることにしたのだった。少将と言っても上がつっかえたライヒスヴェーアのことだから、もう52才である。優秀だが休暇はきっちり取るタイプで、お飾りにされても文句を言いそうにない男ではあった。
「訓練計画のことは、やはり目処は立たんのか」
「そうなのだ。残念ながらな」
防衛スポーツと対になるはずの軍による短期訓練計画をハマーシュタイン=エクヴォルトは公にしたかったのだが、それは諸外国との関係を壊すから無理だというのがブリューニングたちの判断だった。
「ジュネーブ会議で潮目が変わるはずだ。変わらなければ、ドイツのほうが変わらねばならんさ」
「そうだな。頼んだ」
「軽く言ってくれる。だが、何とかする」
シュライヒャーは滅多に見せない快活な表情を友に示した。
しかし指導部の交代は、懸案を思い切って先に進める契機になった。1931年に入ると、陸軍は内務省とは別に、軍人が運営に食い込んでいるふたつの団体に直接「防衛スポーツ振興予算」を渡すようになり、2~3週間の超短期軍事訓練をこっそり試し始めた。
こうなると、すでにヒトラー・ユーゲントに少年たちを集め始めていたNSDAPが防衛スポーツ振興を手伝ってくれれば都合がいい……という判断が生まれてきた。そして1932年1月、NSDAPの信奉者だとわかるとライヒスヴェーアの志願を却下する従来の取り扱いが廃止された。1930年の軍法会議案件とは、たった2年で雲行きが変わってきたのであった。
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ドイツ軍は第1次大戦前には常備歩兵師団が48個あった。戦争になって動員がかかるとまず同じ番号の予備歩兵師団が召集されて合計96個となり、もっと年長の兵による郷土防衛師団など、更なる編成が続いた。大戦のあと人口にして10%程度を領土とともに失ったが、それでも常備7個、戦時21個歩兵師団などという数字は、大戦後に軍容を削りに削ったフランスが今なお常備20個歩兵師団を持ち、戦時にそれを60個師団にする計画に比べればごく控えめな要求だとドイツ軍の指導層は考えていた。むしろ、これでは本格的な侵攻をしのげないから、国際連盟にアピールして救いを求めることが暗黙の前提とされていた。
だからシュライヒャーたちが、戦時21個師団の要求くらい何とかなると考えていても、それで他国を威圧できるとは思っていなかった。
結果的に言えば、これは米英仏の思惑と大きく食い違っていた。ヴェルサイユ条約は、ドイツの軍備制限に合わせて他国も軍縮を進めるのだと言う建前をうたっており、イギリスは真剣にその方向への圧力をかけたし、アメリカも海軍だけではなく、陸軍において軍縮の先頭を切り、政権の成果として誇示したい意向があった。フランスが他国、とくにドイツを刺激することなく静かにしていてくれればイギリスは大陸に若者を送って死なせる必要がないのであり、いくらフランスが陰に陽に秋波を送ってきても、フランスとの同盟を復活させるなどもってのほかだった。ヒトラー政権ができると、ドイツは1935年の再軍備宣言と同時に歩兵22個師団を常備師団として編成し、翌年までには歩兵36個師団プラス装甲3個師団を(充足率はお察しとして)そろえて見せたのだから、自分たちだけの駆け引きをしていた英仏は全く対処するすべがなかったのである。
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「お疲れ様でした、オットー」
ビアホールは緑灰色の軍服一色だった。今日はオットー・フォン・シュツルプナーゲル中将の退官記念宴会である。最後の肩書は交通兵総監だった。オットーは第1次大戦前に飛行機パイロットの訓練を一通り受けていたが、大戦では歩兵として過ごした。だが参謀士官としては交通兵がらみの仕事もしてきたのである。オットーはのちに空軍に復帰して、技術教育の組織づくりに取り組むことになった。
声をかけたのは遠縁のカール=ハインリヒ・フォン・シュツルプナーゲル中佐だった。オットーとは曾祖父同士が兄弟である。なにしろドイツ士官は貴族同士の通婚もあって世間が狭く、いろいろな人物とすぐ縁がつながる。オットーの妻はフォン・ザイトリッツ=クルツバッハという貴族士官と離婚してオットーと一緒になったのだが、後年フォン・ザイトリッツ=クルツバッハはスターリングラードで降伏を主張してパウルス司令官から軍団長を首になり、後ろから撃たれながら戦線の向こうに逃げてソヴィエトに協力したことで有名になった。
「聞いたぞ。面白い仕事をするというじゃないか」
ベック少将はドレスデンの第IV砲兵司令部に赴任したばかりだったが、その司令部にカール=ハインリヒを含めた士官たちのチームを集めて、陸軍の指揮マニュアルを改訂する作業に入ったところだった。カール=ハインリヒは笑うだけで答えなかった。
「戦車に対抗する兵器はまず戦車だとかルードヴィヒ(ベック)は言っていたが、本当か」
カール=ハインリヒは目をギョロつかせて真顔に戻った。戦車のことは交通兵総監の管轄だから、ベックが意見を求めたのだろう。
このころのイギリスやフランスは、機関銃や小型砲を備えた戦車が数的には大半だった。だから対戦車戦闘は別に対戦車砲部隊を作るか、少数の大型戦車でやるしかなかった。「戦車に対抗する兵器はまず戦車」などという国はなかったのである。
カール=ハインリヒの沈黙を、オットーは肯定と取った。
「だがいい手だ。我が国としてはな」
カール=ハインリヒは笑顔に戻って、オットーにうなずいた。人のいるところで長々と語れる話ではなかった。
「我が国としてはね」
ドイツは秘密裏に戦車を開発中だった。戦車を持っていることはいずれ英仏に露見する。ベックたちが改訂版を出そうとしている、当時のドイツ陸軍指揮マニュアルでは、「戦車は集団で投入する、攻撃兵器だ」と規定されていた。遅くて故障しやすい第1次大戦の戦車は、時間をかけて攻撃開始地点に集めることはできても、敵が出現したところへすぐ駆けつけることは難しかったのである。だから戦車を持っていれば、それは攻撃準備だと言われても仕方なかった。
だが対戦車兵器として、敵の攻撃に備える兵器なのだと言えば、言い訳はしやすくなる。高価な戦車になってしまうが、貧乏国ドイツとしてはどっちみちたいした数は用意できないだろうから、少数で我慢するしかないだろう。ドイツの「軽戦車」は、すでに1928年からひそかに持っている37ミリ対戦車砲と同じ砲を積む予定だった。
「頼んだぞ、カール。忙しくなりそうな時に俺は辞めるが」
カール=ハインリヒは声を上げて笑い、ジョッキの底をオットーに突きだした。オットーはジョッキを少し上げて応えた。
もちろんこのあとドイツの戦車開発は曲折を経るのだし、このとき開発されていた軽戦車の子孫であるIII号戦車は、予定されていた主力の座を早々にIV号戦車に明け渡してしまうことになるが、その構想は非攻撃的な出発点を持っていた。諸外国への遠慮から、戦車は防御兵器としなければならなかったのである。
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「いやあ、今日もやられましたね、同志旅団指揮官」
国防人民委員部を出た途端、若い士官はゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフに話しかけた。もうすぐ36才になるところで、ロシア軍下士官から階段を上り始めたにしてはかなり早い。とはいえブジョンヌイの率いる騎兵総監部では最若手幹部で、戦闘訓練が担当事項だった。だから騎兵野戦教範の執筆責任者でもあり、夏に出来上がった草稿を各方面と「揉んでいる」ところだった。
「気持ちいいほどに負けた。だが文案は改善した。それでいい」
ジューコフは短く答えた。いったん地方に出したトハチェフスキーを、結局ヴォロシロフは中央に戻した。騎兵野戦教範を読んだ国防人民委員首席代理(陸軍次官に相当)のトハチェフスキーにびしびしと指摘事項を突き付けられ、ジューコフは降参したのである。ジューコフは職務に精力的で、精力的でない部下を決して許さなかったが、優れた相手を傷つけることは(まあ、あまり)言わなかった。貧窮した家庭から刻苦してここまで来たジューコフは、激しく切磋琢磨するスポーツマンのような気質を持っていた。
「我々の評価が下がらないとよいのですが」
「評価は貢献で測られるものだ。改善を怠ることは貢献ではない」
若い士官はぼそぼそと詫び言を言った。ジューコフは貪欲に知識を求めたが、それ以外のことでは寡黙だった。
帝政ロシア軍は帝政ロシア社会の中ではまだ勉励して出世する目のある組織であったろうが、生まれで暮らし向きが決まり、滅多にひっくり返らないのがロシア社会では普通のことだった。人を訓練し、能力を測って出世させるシステムは無関心と暴力にむしばまれ、幸運にも良心的な上司に恵まれた場合のみ人は才を伸ばせた。それがいきなり、国家への貢献を絶えず査定され、党組織も加わって意識の高さを刺激される社会になった。それにすぐ順応して、結果的に成り上がる人々と、メリットクラシーに適応できない人々がいた。評価を何とかかさ上げしようと、軍の連隊対抗競技でもしばしば不正や身びいき採点が行われた。今の言葉で言えば、成果主義のメリットとデメリットをどちらも抱えて、労農赤軍は1930年代を迎えることになった。
若い士官は、少し声を低くした。
「機械化軍団の編成が固まったようです。今週中にも騎兵総監部に写しが来ます」
「それは楽しみだ」
1930年に機械化旅団を初めて編成したソヴィエト軍は、その運用経験をもとに、1932年にふたつの機械化軍団を編成することになる。戦車と歩兵合わせて3個旅団と対空砲師団を持つ軍団には戦車500両と車両200両が配されていて、対空砲を除けば後にグデーリアンが構想したドイツ装甲師団に近い。対空砲の大集団をあきらめる代わり、歩兵をトラックに乗せたのがグデーリアン構想だと言えば簡単な説明過ぎるだろうか。
「同志首席代理は、突破のための優勢をどのように確立されるおつもりでしょうか」
「それが作戦術だ」
広大なうえ森と沼だらけのロシアでは、部隊の移動を先の先まで考えておかないと、劣勢な敵に逃げられたり、各個撃破を食らったりする。攻撃しました勝ちました……では終わらない。もちろん敵味方とも移動が早くなる西ヨーロッパでも、かつてナポレオンは敵より早く、敵よりうまく部隊を移動させて優勢を作り出し、いくつかの勝利を挙げた。しかしロシアの厳しい大地で必要に迫られ、これを理詰めで考えたのがロシアの作戦術であり、トハチェフスキーはその伝統の上に立っていた。だから戦車を使うにしても、フラー流の「司令部を一刺し」ではなく、「まず砲兵でつぶす。次に戦車と航空機でつぶす。最後に包囲してつぶす」といった「せん滅に至るプロセス」に組み込まれたツールとして考えていた。だから「敵より早く、連携良く立ち回る」ことで敵にできないことをする……という発想はいくらか含まれていた。
短すぎる返答に部下が困った顔をしているのを、ジューコフはしばらく楽しんでいた。
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1920年代の話も終わろうとしている。1930年代以降を理解するために、第1次大戦以来のイギリス空軍が置かれてきた立場について、そろそろ書いておいた方がいいだろう。あとでいっぺんに全部理解しようとしても、しんどいだろうから。
イギリスは軍事面での主要国の中で、真っ先に独立した空軍を作った。これは1917年から断続的にツェッペリン飛行船やゴータ爆撃機による本土爆撃を受け、「防空責任が陸海軍に分担されているのはまずい」という意見が政治的に優勢となったからである。むしろ第1次大戦を通して、陸軍航空部隊も大戦末期のイギリス空軍も地上支援を熱心に行い、犠牲も出した。陸軍の要求に応じて後方への移動妨害攻撃も、陣地攻撃もどちらもやった。
「航空撃滅戦のために全航空戦力を集中管理する」「戦略爆撃で戦争に勝つ」という意見は、実は空軍独立の原動力ではなかった。政治と国民感情が空軍を独立させたのである。当然、陸海軍軍人には「自分たちを助けるための訓練を受け、それを主要任務とする航空部隊が欲しい」という意見があって、何度でも蒸し返された。
1920年代以降は「航空撃滅戦(航空優勢の確立)が優先」という意見が空軍内で支配的になり、それは陸軍から見ると、「あいつら地上支援をやる気がねえな」と映った。空軍がそうなってしまったのは、「独立空軍の存在意義」を政府と陸海軍にアピールしないと自分がつぶされてしまうからであった。20年あった戦間期のあいだに、空軍士官たちはそのように教育され、そうした「航空優勢は地上支援の前提」という優先順位をすっかり受け入れ、それは陸海軍との果てしない言い争いの背景となった。もちろん前大戦とは航空機のスピードも対空砲火の性能も違うわけで、イギリス軍の地上支援が円滑に回るまでには優先順位の問題以外にも、フランスと北アフリカでの試行錯誤が必要だったのだが。
戦間期のイギリス空軍は中東方面を中心として、「空の治安任務」とでも言うべき任務を引き受けた。1916年に初飛行した戦中派のブリストル・ファイターは複葉単発複座戦闘機で、後部座席の機銃手は両側面に機銃を向けられた。低速のため、風防で操縦席を覆わずに済んだからできたことだったが、大戦では地上支援にも空中戦にも働いた。戦間期にはこれを使って、イギリスに友好的な現地勢力とわずかなイギリス陸軍基地が点在するような地域で、陸軍守備隊と友好勢力を支援した。地域によってはイギリス陸軍が存在せず、すべてが(友好勢力と)空軍に任された。これも一種の地上支援であったのは間違いない。
ファイターは1932年にこの任務から退いたが、ホーカー・ダックス、ウエストランド・ワピティといった勇ましい戦記には登場しない複葉単発複座多用途機が任務を引き継いで、1940年ごろまでこうした活動を続けた。こうした機体は爆弾を積むのはもちろん、無線機のない相手のために通信筒を落としたり、機種によっては胴体下に籠をつけて補給物資を運んだりした。高速と引き換えに滞空時間が短くなった全金属単葉機にこうした活動は無理で、ホーカー・デモンやボールトンポール・デファイアントは後部に銃塔を持ちながら、もっぱら空中戦をする単発複座戦闘機となった。複葉単発複座多用途機のほうは子孫を残さず絶滅し、地上支援をどの機種で担うかが決まらないまま第2次大戦がやってくることになった。
その成立事情から、敵の戦略爆撃から本土を守ることは誰もが認める空軍の基本的な使命だったから、それぞれの時期なりに戦闘機には大きなリソースが割かれた。ホーカー・ハート軽爆撃機が当時のイギリス戦闘機より速い爆撃機として登場したとき、イギリスは少しも騒がず、とりあえずハートと略同型の戦闘機ホーカー・デモンを採用し、「爆撃機に追いつける戦闘機」として、本土防空に切れ目を作らなかったのである。いっぽう「戦略爆撃で戦争に勝つ」という考え方は、民間軍需工場相手であっても、空軍が勝手に言い出せるものではなく、政治的決断が必要だった。それを前提とした兵備は、1930年代のボールドウィン内閣から始まることになる。
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1929年、各軍管区にひとつずつ置かれた装甲車や模擬戦車のいる自動車大隊のうちベルリンの第3自動車大隊に、グデーリアン大隊長が着任した。グデーリアンは戦車部隊を中心とした師団規模の部隊を勝手に構想し、演習で試そうとしたが当時の上司、オットー・フォン・シュツルプナーゲル交通兵総監に止められた。秘密だろうが何だろうが軍内部で予算は取り合いになるし、「もう少し現実味のある想定をしろ」と叱った上司を、1929年のドイツ士官として無能扱いもしづらい。
だが1931年4月には少将に昇ったルッツが交通兵総監に、さらに10月にはグデーリアン中佐がその参謀長に異動した。1930年春から試作戦車のテストがソヴィエトのカマで進み、いよいよ部隊編成を進めねばならないと言う上層部の意向を、この戦車部隊推進派で固めた新人事そのものが示していた。
「ふたたび将軍にお仕え出来て光栄であります」
「君の提案は読んだ。車長と砲手を分けて5人乗りとすることは私も賛成だ。そうなると設計のやり直しになるな」
「残念ですが、そうなります」
すでに37ミリ砲を積んだ軽戦車と、75ミリ砲を積んだ中戦車の試作は終わっていた。この組み合わせは砲の大きさから言えば、フランスが選んだ組み合わせと全く同じである。ただフランス陸軍の考えでは、戦車は砲兵の傘の下で戦うものだから、一度に長距離の前進をしない。砲兵が陣地を前進させるまで待って、小刻みに進むことになっていた。だから個々の戦車に無線機がなくても、手信号や旗で伝わらないことは降りて話せば済むのである。
「ガールズ&パンツァー」を見ていればわかるように、車長は戦況を聞き、車両の状況を伝え、必要に応じてハッチを開き外を見る。ハッチを閉じていても、砲塔の少し高くなった部分に空いた細いのぞき穴から周囲を見ている。車長が砲手を兼ね、目を照準器に取られてしまうと周囲が見えないし、照準器だの機関銃だのが上り下りの邪魔になってしまう。砲手を分離して5人乗りにすれば、車長は車内を上下に行き来し、無線で複雑な打ち合わせをしながら長距離の進撃戦ができるはずだった。
「では演習用の機関銃戦車(後のI号戦車)について、並行して仕様をまとめてくれ」
「了解しました」
ルッツは幕僚たちを見まわした。小さなチームだった。
「着任に当たり、あえて言わせてもらう。シュツルプナーゲルは間違っているわけではない。我々は世界にないものを作ろうとしている。世界で初めて近代的な戦車兵団を編成する国が我が国だと考えている者は、世界にわずかだろう。そして我々がその実現に近づけば、それを我々から分捕り、分散させようとする国内の力もまた増すのだ。心を強く持って、事に当たれ」
無言の敬礼が、その返答だった。グデーリアンのぎょろりとした目が、きらきらと輝いていた。
第9話へのヒストリカルノート
『マンシュタイン元帥自伝』(作品社)の173-178頁に、第1次再軍備計画の戦時16個師団編成を示された参謀本部第1課作戦班長のマンシュタイン少佐が、平時に存在しない分の9個師団をゼロから編成することになっているのを「無理だろう」と喝破し、戦時には7個師団をそれぞれ3分割して基幹とし、補充を加えて21個師団に仕立てる線で動員計画を組み直すよう主張して、最終的には要路の賛同を得た話が載っています。これがそのまま第2次再軍備計画に盛り込まれました。
「士官ひとり、下士官ひとり、兵ふたり」の4人チームでスキーをしながら射撃していくmilitary patrolという競技は、現在の冬季オリンピックで行われるバイアスロン競技のご先祖様です。1924年の冬季オリンピック競技にはmilitary patrolそのものが採用されました。世界の軍人が集うMilitary World Gamesの2017年冬季大会でもバイアスロンの4人制レースとして競われ、男子20kmはロシアチーム、女子15kmはフランスチームが優勝しました。「軍の訓練から始まったスポーツ」はたくさんあります。
ヒトラーが口にした若手士官たちの事件はドイツではUlmer Reichswehrprozessと呼ばれています。判決が選挙後にずれ込んだだけで、逮捕は1930年3月でした。ミュンヘン蜂起の後、政治活動の禁止は解けたものの、国防軍はNSDAPを反乱者扱いし続けていたのです。
シュツルプナーゲル家はドイツの軍人一家でも特に成功した一族で、数多くの高級士官を出しています。ドイツが1870年に統一された結果、ドイツ各地の軍人一家がすべてライヒスヴェーアに混ざり合っており、名字にフォンがつくからと言って「エルベ川から東の地主貴族」とも限りませんし、ハルダーのようにフォンがつかない(もともと地主や騎士ではない)軍人一家もありました。
戦間期ソヴィエトでは役職のクラスがそのまま階級であった時期がありました。総監部のようなところでも、誰が何級指揮官に相当するかは意識されていて、階級名のように扱われていたようです。ジューコフは自伝の中で、騎兵総監首席代理のコソゴフを「軍団司令官(大将相当)」と呼んでいます。
砲手と車長を分ける提案をしたのが具体的に誰であったかは不明です。4人乗りの軽戦車「軽トラクター」は量産契約を取り消され、試作中戦車と共にお蔵入りして、後のIII号戦車とIV号戦車になる車体が改めて発注されたのは確かです。
他兵科の抵抗は脇に置いても、装甲師団の任務を「後方を衝く」フラー流の縦深突破と考えていたのか、ドイツ軍なら歩兵師団でも当然目指すような「突破して包囲」を考えていたのか、グデーリアンの「当時の」考えははっきりしません。フランスは1931年から騎兵師団を機械化してDLM(軽機械化師団)に改編する努力を始めていましたが、軍直轄騎兵部隊は「攻撃の中心」になるものではありませんでした。フラーがリーダーシップを取っていたイギリス戦車兵総監部は他兵科との資源分捕り競争で最初から殻にこもってしまい、「戦車以外のものが混じるくらいなら旅団以下の規模でよい」という態度でした。ですからグデーリアンの数少ないお手本として、ソヴィエトの戦車軍団は重要であったかもしれません。
ただ、ドイツ戦車部隊はイギリスと違って前大戦のヒーローではなく、踏襲するほどの前例もありませんでした。その反面、前大戦の後半にドイツは「戦車以外のもので戦車を倒す」あらゆる手段を試し、かなり成功しました。ですから快速兵総監部は最初から対戦車砲兵を管轄下に置いていたし、自動車大隊にも対戦車砲中隊があったのです。諸兵科合同は必要であり合理的だという前提を誰もが認めたうえで、快速兵総監部や騎兵科や歩兵科がその主導権争いをやったと考えるとイメージしやすいでしょう。それに比べれば、1930年代前半のソヴィエトは近代兵器をひとつひとつ消化していくのが精いっぱいであったのです。
一方グデーリアンは、「戦車小隊は何両までなら指揮官の目が行き届くか」「中隊ではどうか」といった実地試験も積み上げ、「1個中隊に32両いても指揮可能」といった結論を出していました。のちに1935年、装甲師団が編成されたときの編制表も大半の中隊が32両編成になるはずで、4個大隊・16個中隊に本部中隊などの所属戦車数まで積算していくと1個師団で戦車定数が500両を越えてしまうのですが、III号戦車やIV号戦車がそろってもまだ32両の中隊を続ける気でいたのか、いまとなってはよくわかりません。逆に1937年、イギリス最初の機甲師団が軽戦車6個大隊、中戦車2個大隊という巨大な規模で発足したのは、グデーリアンの初期構想を真に受けて真似したせいかもしれません。
後の編制に比べると、初期のドイツ装甲師団は歩兵と砲兵が少なめでした。これもイギリス機甲師団に真似されて、ポーランド戦を経て考え直したドイツ装甲師団に、エジプトのイギリス第7機甲師団が苦戦する背景のひとつになりました。「戦車とともに戦う練習を積んでいる歩兵」はそれだけで戦車部隊にとって貴重なのです。