第8話 持つ者と持たざる者
戦車は集中的に用いるべきである。すでに触れたように、じつは1917年のカンブレー戦以降、それを否定した軍はない。集中的に歩兵と共に進ませるか、集中的に戦車だけで進むかで意見が分かれたのである。そして実際に第1次大戦の連合軍で実行されたのは前者だけだった。高速戦車だけで突っ込んで後方の司令部を衝こう……などと言っていたのは戦車兵総監部のフラーたちで、ときおり作戦計画に意見を述べる機会もあったが、実際に指揮を執る立場ではなかった。
しかし戦車は大戦末期に崩壊しかかったドイツ軍を追い詰めていくには、役に立つ兵器だった。歩兵が味方砲兵の射程を越えて進んだときも、戦車の砲と機関銃がしばらく守ってくれて、歩兵の損害を減らした。だからイギリス戦車部隊はヒーロー扱いされたし、軍首脳は多かれ少なかれフラーやホバートの言うことを聞いてくれた。
そしていよいよ、騎兵より速い高速戦車も完成した。新時代の戦車運用を研究する時が来たのである。ところが……
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食事を終えて、紅茶とクッキーが出てきた。酔客のいない静かな店だが、簡素なクッキーがこの店の価格帯を示していた。1926年のクリスマスはもうすぐで、クッキーもヒイラギの葉の形をしていた。紅茶の砂糖をかき混ぜながら、フラーは言った。
「じつは旅団長を辞退する方向で動いている」
「辞退されるのですか」
リデル=ハート退役大尉の細縁眼鏡がきらんと光った。その下では、フラー大佐に失礼のないよう表情を抑えるのに苦心していたが、あまりうまく行っていなかった。大戦中に毒ガス攻撃を食らって心臓を弱め、軍を退いてからは新聞の軍事解説で売り出し中だった。近代兵器の記事はみんな読みたがるが、リデル=ハート自身は戦車部隊に属したことがないから、フラーをはじめ戦車兵総監部の論客たちと付き合ってネタを仕入れていた。
フラーは第1次大戦のころから、ずっと参謀暮らしで、組織のトップに立ったことはなかった。それでも筆は立ったから、権限はなくても戦車のエキスパートとして尊重され、意見も求められた。そして新任のミルン陸軍参謀総長が決断して、機械化実験部隊が臨時編成されることになった。それは年に数か月だけ演習をするもので、常設の歩兵旅団に属し、実験部隊長が歩兵旅団長を兼ねると言う話だった。
「旅団長となると日々の仕事が多い。研究時間が取れないから、大尉をひとり措置してくれないかと上申した。それから腕のいいタイピストもだ」
「却下されたのですね」
そう言いながら、リデル=ハートはますます表情の選択に困ってしまった。他人事として聞けば、却下されて当然なのだ。そんな要求を認めたら、旅団長や師団長がみんな「俺だって研究してるぞ」と言い出すに決まっている。
フラーの太い眉は、両端が「カイゼルひげ」のようにぴょんと上を向いている。その眉毛がさっきから微動だにしないのは、激昂とは程遠い気分を示していた。フラー自身も、無理な要求だとわかっているのだ。
「もっとふさわしい指揮官は見つかるだろうさ。私にも願わくば、もっとふさわしい仕事がな」
「もちろんです、大佐」
やっと愛想を込めた受け答えができて、ハートは思わず微笑した。参謀暮らしが長いので、高位の指揮官として資質を問われることに不安があるのかもしれなかった。フラーも難しい告白をこなして、安心したようにポリポリとクッキーをかじった。そして言った。
「私が若いころ、アレイスター・クロウリーと親しくしていた話はしたかな」
「……!」
ハートの細縁眼鏡がずり落ちた。クロウリーといえばオカルト儀式の本や、同様に何を言っているのかわからない詩集を出版し、秘儀への参加者からも金を取り、性的なスキャンダルも多い。文筆で食うものなら心のどこかで、ああいう暮らしがしたいと思わせるような人物だった。
「そのころに買い込んだ……ああ、その種の本がたくさんある。私もそのうち、そういう本を書いてみようかと思っている」
「楽しみにしております」
ぜひ読ませて下さい……という一言を喉から引っ込める程度には、ハートは文筆稼業が身についていた。読んだら批評をしなければいけなくなるし、おだてでもしようものなら出版社を紹介しろとか言われかねない。会話をリセットするために、ハートは時間をかけてゆっくりクッキーをかじった。
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フラーは間もなく少将に昇進し、1933年まで軍籍にあったが、名誉ある昇任を拒否すると言うのは高い地位へのはしごを自分で外したようなものだった。退役後は軍事関係の本も出したが、1938年には『カバラの秘めたる知恵:ユダヤ神秘思想研究』を出版し、翌年の総統誕生日にはヒトラーに招待されて戦車のパレードを見ると言う悪い冗談のような後半生をたどった。軍事関係の本にしても、自分の軍歴に根差した戦車部隊の本ではなく、戦略だの戦史だのと言った大きなテーマを語るものばかりになって行った。
フラーもそれほど協調的とは言えなかったが、彼の退場によって戦車兵総監部をまとめる人物がいなくなった。結果的に戦車兵総監部は、いちども実証されたことのない「戦車のみで構成された部隊による機動戦」というコンセプトを長いこと持ち続け、歩兵や砲兵との連携を軽視する態度を取り続けた。だからイギリスにおいて機甲師団が発足するのは遅くなってしまったし、発足してもしばらくは戦車の比率が高いものになって、バランスの取れた戦闘単位となるまでに血の授業料を必要としたのであった。
フラーが指揮するはずだった実験部隊は2年間だけ存続した。砲兵は含むが歩兵は含まず、代わりに機関銃をソフトスキン車両に積んだ「機関銃大隊」が非装甲目標に対処するというものだった。もちろん速いし、「速さがあれば達成できる任務は達成できる」ことが実証されたが、他兵科との協力は試されることなく終わってしまった。そして1929年の世界大恐慌による財政緊縮が、イギリス戦車部隊の発展を長期にわたって麻痺させていったのであった。
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ポーランドや反革命軍との戦闘で、ソヴィエトも戦車と戦っていたし、捕獲してもいた。量産に至らなかった試作戦車もあった。だからソヴィエトにとってのT-18戦車については、いくつも限定をつけて語らないといけない。T-18は、ソヴィエトで設計され、量産され、配備された戦車としては初のものだった。フランスのルノーFT17をもとにイタリアでFIAT 3000(第2次大戦中の呼称ではL5/21)がつくられ、その両方の実物を見比べたソヴィエトは、独自の工夫とパーツの代用を加えてT-18を作ったのだった。
「試験の首尾は聞いた。根本的に強力なエンジンを積まないと、ロシアの大地は厳しすぎるかもしれないな」
T-18の列を横目に歩いていくトハチェフスキーの言葉に、随行する技術者たちは曖昧に視線を下げた。工場への重要な見学者を迎えるために、真新しい塗装のT-18戦車が並んでいた。最初の7両……ではおそらくないだろう。すでに試験場で壕を越えられず1両が引っくり返った話は、トハチェフスキーの耳にも入っていた。
1925年にフルンゼが死んだ後、トハチェフスキーは労農赤軍参謀総長、スターリンの子飼いとなったヴォロシロフは国防人民委員(国防大臣)になった。ヴォロシロフは切れすぎる下僚を持つことに耐えきれなくなり、1928年からトハチェフスキーはレニングラード軍管区司令官に転出した。そして1929年、レニングラードに注ぐネヴァ川のほとりで、戦車工場からT-18が吐き出されようとしていた。
「カマにやっと戦車が来るらしいが、何か聞いているか」
「最近のイギリス戦車と同様に、高速なものを目指しているとか」
トハチェフスキーは「ドイツ」という言葉を避けたが、それで通じた。ラパッロ条約に従い、ソヴィエトのカザン近郊に設けられた試験・教育施設「カマ」には、スウェーデンでの開発が難航していた試作軽戦車が1930年に届く見通しになっていた。この「軽トラクター(LaS)」はイギリスの中戦車Mk.I同様、高速だが軽装甲な車両だった。
「戦車に使い方を合わせるしかないのか。今はまだ」
「ブリターニャ(イギリス)のヴィッカース社が新しい戦車[のちにT-26戦車のもとになる]を売り込んでおります。ブリターニャも採用していない新型だとか」
「外国に先に売るのか。あちらの国には景気の波があるからな。我々に課題がないと言うわけではないが」
T-18はFT17より少し速いが、あまり変わらない。歩兵のスピードに合わせていくしかない戦車だった。第1次大戦のころは戦線がこう着して、互いに砲弾で地上をえぐり合い、溝や穴を超えられるかどうかが車両の価値を大きく分けた。その点、小さく安く仕上げたこの車両に多くを望むのは無理というものであった。
「鉄道が使えればな。タンネンベルク[当時のプロイセン領ポーランドに攻め込んだロシア軍が、ドイツ軍の巧みな包囲運動で殲滅を食らった1914年の戦い]ではドイツ軍が鉄道で部隊を運んだ。戦車もそうできればいい」
「カマの人々は、何か知っておりましょうか」
「望み薄だな。彼らは鉄道はよく知っているが、どうも戦車についてはそれほど知らない」
ラパッロ条約でソヴィエト側が期待していたのは、もちろん技術の習得である。ドイツが戦車の現物見本をくれるのを期待してソヴィエトの戦車開発は道草を食った……と言いたくなる近年の経緯だった。「軽トラクター」は難産したのである。
「だが、敵も同じことを考えるのだな。わが鉄道を敵に使われない手配りが必要だ」
明らかにトハチェフスキーは返答を期待していなかったので、技術者は口をつぐんだ。後年、トハチェフスキーは有事の際に橋梁を爆破する手配りを進めたが、そのことが思わぬ波紋をもたらすことになった。
第8話へのヒストリカルノート
イギリス戦車を「意義レス戦車」とタイプミスしてしまって焦りました。なお1925年に登場した中戦車Mk.IIはMk.Iほど故障だらけではなく、ただし相変わらずの紙装甲で、速度はぎりぎり馬より速い程度の時速13マイルまで落ちました。
もちろん技術は進歩していくのですが、高い戦闘力を要求するほど、それを満たす装甲板やら砲やらで戦車は重くなります。高価な高馬力エンジンを積めばある程度はバランスが回復しますが、それが実現するかは政治的な考慮と、何よりも予算の問題でした。1941年ごろ、単座戦闘機Bf109Fの納入価格は5~6万マルクだったのに対し、1942年に生産されたIV号戦車F2型は、砲と無線機を除いても11万マルクを超えていました。戦闘機2機分の予算をかけないと、5人乗って無線機スペースがあって前面装甲が50mmあって時速40km出せる戦車は買えないのです。35馬力エンジンのT-18が300馬力のIV号戦車に劣るところがあるとしたら、それは技術の差とか、開発時期の差ばかりではありません。
逆にイギリス戦車が相対的にアレなのは、ドイツ戦車とエンジン出力を比べると、まあ仕方ないなあと思えてきます。中戦車Mk.IとMk.IIはどちらも90馬力、マチルダII歩兵戦車は174馬力、大戦の迫った1939年に開発を始めたクルセーダー巡航戦車でやっと340馬力でした。戦車というのは民間からすれば超重機なものが多いので、予算がないと、軍用を念頭に置いたエンジンの開発ができないことも影響しているようです。
エンジンの馬力が高ければ高いで、その排熱をうまく逃がせなかったり、かかる力に耐えきれずに部品が割れたり、別のボトルネックが生まれることもあったわけですが。