第7話 もはや戦後ではない
「今日は良く招いてくれた。私はビアホールというと、腹が減った思い出と、喉が渇いた思い出しかない。だが今宵はいつもの分まで酔わせてもらう」
ヒトラーは友人たちを笑わせた。弁士ヒトラーの演説会場はビアホールが多かった。入場料を取るので、締め切られた空間でないと困るのである。今日はビアホールの締め切られた小部屋に、数人の古い同志とともにいた。
「そう言えば、国会議員になった祝いを言っていなかったな、エルンスト」
「あれは合わん。心底そう思った。俺はただの武人だよ」
投獄されるまでのヒトラーは、選挙への参加そのものを忌避していたのだから、この態度はある意味で大きな変化だったし、そのことに今さら驚く者は誰もいなかった。何と言っても、ヒトラーへの面会は簡単にできたのだ。1924年の末にヒトラーは仮釈放されていたが、1927年までバイエルン州政府から公衆の前で演説することを禁じられたままだった。
レームはルーデンドルフらと統一会派を作り、1924年4月の総選挙で総議席の6.8%を取った。そしてレームも国会議員になってしまった。だが早くも、1924年12月の選挙で得票率も議席も半減し、レームもただの人に戻った。ハイパーインフレとルール占領の危機を脱し、市民が先鋭的な主張に動かされにくくなってきていた。
「またNSDAPの旗を挙げようと思う。だから……」
「俺はフライコーアを再建したい。西方有事のためだ」
ヒトラーが何も言わず、じっと言葉を選んでいるのがレームには感じられた。何も言わず、ゲーリングに代わってSAを再建してほしいのだ。だがレームは蜂起の巻き添えとして、バイエルン州における「黒い国防軍」をがたがたにしてしまった。もう国防軍に籍はないが、協力できる組織さえ再建できれば、自分は一兵卒でもよかった。それは愛国心というより、戦う男としての居場所を求めてのことだった。
「君はふたつの点で変わったな」
レームが先に沈黙を破った。ヒトラーの凝視に耐えながら、レームはなお続けた。
「君は英雄になった。そして、他の英雄を信じなくなった」
「間もなく私の本が出る。エルンスト、私もまた、戦う男となるのだ」
ヒトラーの口調は静かだった。1920年に軍歴を失って以来、演説で身を立て、党員集めと資金集めの両方に携わってきた。その第一人者として、党内抗争にも勝ってきた。その反面、ルーデンドルフの軽率な行為はヒトラーの同志を傷つけ、死なせた。ミュンヘン蜂起の英雄としての知名度は、自分だけの力で築いたものではないにせよ、他のリーダーと分かち合うものとはヒトラーは考えていなかった。
「俺には国事はわからない。国防はわかる。いま西部国境には男が足りない。NSDAPで軍と協力ができるのか」
「NSDAPが強力になって、SAの存在を軍に認めさせればよいではないか」
ヒトラーは言い放った。誰も発言しなかった。ヒトラーの弁舌に食わせてもらっている実情では、口をはさめないのだ。
レームはジョッキをあおった。それ以外、この場でするべきことはもうなかった。もしSAがライヒスヴェーアを飲み込むほどの巨大組織になれば、協力どころか国防を肩代わりすることもできるのだろう。およそ現実味のあるイメージではなかった。レームとヒトラーの妥協点は見つからなかった。
1925年2月、ルーデンドルフもレームと決別した。突然降ってわいた大統領選のために、態度を明確にする必要があった。そしてレームは、南米に戦う場を求めて、ドイツを去った。
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1925年2月末、ヒトラーがNSDAP復活大会で過激な演説をしてまた演説禁止処分を食らった数日後、エーベルト大統領は死んだ。その葬儀の席で、ゼークトは呆然と大きな遺影を見上げていた。
ハンス・フォン・ゼークトはおよそ政治に関心も適性もなかった。そのゼークトを理解し、了解関係を保っていたのはエーベルトだった。エーベルトの古巣である社会民主党がしばしば政権を投げ出す中で、ゼークトとエーベルトはドイツをドイツのまま保つために落としどころを探り続けた。
後ろから聞きなれた声がした。
「久しぶりだなハンス。オットー(ゲスラー国防大臣)がときどきぼやきに来るぞ。君は元気でずけずけとやっているんだろうな」
そのままそのまま……とグレーナーは手振りで後輩を椅子にとどめ、隣に着座した。交通大臣は1923年に辞めて、第1次大戦に関する著作を準備中だと聞いていた。
「偉大な男だった。だがこれで私たちの側の大統領が出るかもしれん」
思わせぶりな言葉だった。ゼークトは視線で尋ね、グレーナーは小さく首を横に振った。具体的な企みがあるわけではないらしい。
「議会はどうするのですか? 将軍」
「当面どうすることもできまいな」
グレーナーはSPD(社会民主党)が支持しない大統領を予期しているようにゼークトは受け取った。だがそれでは、政権を止めることはできても、まとめることはできない。考え込もうとしたゼークトは、グレーナーが意外そうな顔をして、すぐ愛想笑いにその表情を隠したことに気づいた。ゼークトが政治に関心を持つこと自体を意外だと感じたようだった。グレーナーはごまかすように言った。
「つまらないことを言ってしまったな。シュトラッサーに任せておけばいい。万事うまくやるよ」
ゼークトは着任以来、ライヒスヴェーアを国の中の国のように政府の干渉から遠ざけてきた。これからそれがどうなっていくのか、わからなかった。逆にライヒスヴェーアから状況を変える力がないことを、ゼークトは認めざるを得なかった。
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改善した経済環境から見て、エーベルトが現職のまま改選を迎えたとしたら再選の可能性は高かったところだが、死んでしまっては仕方がない。病気と怪我という差はあるが、体調よりも政敵への対応を優先して助かるものも助からなくなったという経緯は、日本の浜口雄幸首相と似ていた。
第1回投票はバラバラに割れたので、第2回投票が行われることになった。現在の与党であるSPD、DDP、Zの3党は、中産階級に忌避されるSPDから統一候補を出すのを避けて、DDPから連立内閣の首相であるヴィルヘルム・マルクスを立てた。KPD(共産党)は独自候補で突っ張った。そしてシュトレーゼマンの属するDVPと、そこから右の諸派は、マルクスに勝てる知名度の高い統一候補を出さねば敗ける情勢になった。今から思えば驚くべきことかもしれないが、統一候補は見つかり、勝利した。共産党がマルクス支持に合流しておれば勝てた……という歴史のIFだけが残った。
その統一候補とは……ヒンデンブルク元帥であった。
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ノックに続いて、ヒンデンブルク大統領が答えるのを聞かず、扉は開いた。息子を元帥としての個人副官に指名などすると、そうした馴れ合いも起きるものだろうとヒンデンブルクはあきらめていた。
そのオスカー・フォン・ヒンデンブルク副官がまず顔を出し、来客を招じ入れた。知らぬ仲でもない……という程度の間柄だ。
トレスコウ退役少尉は、真新しい少尉の軍服で部屋に入ると、敬礼した。
「かけたまえ」
ヒンデンブルクが座ると、テーブルの向かい側にトレスコウも腰を下ろした。副官用の小さなテーブルの上から、オスカーは封筒を取ってトレスコウの前に置いた。
「結婚おめでとうと言うべきだな、少尉。父上がお元気か、義理の父上がご存命なら、この封筒は不要のものであったろうが」
トレスコウは微笑しただけでコメントを避けた。実父も陸軍大将だが、新婦の父親も陸軍大将だった。フォン・ファルケンハインは、ヒンデンブルクの前の参謀総長である。狭き門のライヒスヴェーアに復帰するため、トレスコウはヒンデンブルクの推薦状を求めたのであった。
「このたびは、ご配慮に感謝します、元帥」
「財産管理などしておる齢ではないだろう。軍人には難しくもある」
ヒンデンブルク大統領は苦々しく言った。自分が軍務を続けるため弟に譲った先祖伝来の農場「ノイデック荘」は、弟夫婦が相次いで亡くなり、銀行のものになってしまっていた。今度はオットーが、精いっぱいの無表情を作った。
トレスコウも父が倒れて(すぐ死んだわけではなく、1933年没)財産を継いだものの、民間人として腰低く稼ぐ暮らしもまた性に合わず、結婚を機に軍務復帰を願ったのだった。
「閣下の下でライヒスヴェーアでお仕えすることは、大変光栄です」
「励んでくれ。会えてよかった」
ヒンデンブルクが立ち上がったのは退出の潮時だった。トレスコウは軍帽をかぶると敬礼して、部屋を出た。声が聞こえなくなるころを見計らって、大統領は言った。
「折角引退していたのに、頼られる仕事がまた増えた。ルーデンドルフがいっそ代わりにやってくれれば楽ができるのだが」
オットーは言葉を呑んだ。これも口を出しにくい話題だった。
大統領選の第1回投票にはルーデンドルフも立候補しており、決別したとはいえ独自候補のいないNSDAPの票も流れたに違いないが、投票数の1%余りを取ったにすぎなかった。大戦後半は実質的にルーデンドルフがドイツを統治していたようなものだから、ヒンデンブルクは我慢してもルーデンドルフは二度とごめんだと言うドイツ国民も多かったのだろう。
「で、次は誰が何を頼んでくるのだ」
オットーは手帳をめくり始めた。いまさら軍を離れても何のキャリアも始められない点で、オットーは多くの士官と同じ立場だった。
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「我が国にも共産主義革命が来るのか?」というのは、戦間期にはどの為政者も笑い飛ばせない問いだった。イギリスで「労働代表委員会」が労働運動団体の緩やかな協力の場を作り、1900年の選挙で早くも2名の応援候補を下院に送っていたが、1915年のアスキス大連立内閣ではついに労働党から閣僚を出し、労働運動の政治での存在感は上がってきていた。そして1926年5月のゼネストは、「労働者の団結」がイギリスの秩序に挑戦する側面を持っていた。イギリス政府は急いで対策を練る必要があった。
議論の場として、1904年に作られた国家防衛委員会があった。これは首相の諮問機関であり、何度も制度改正を経て、1926年当時には陸海空軍の参謀総長(第1海軍卿も参謀総長に数えるとして)が出席し、軍事に多少とも関係することなら政治的事柄について発言してよく、むしろ気づいたことは言うのが義務だということになっていた。ここには首相が望み、認める限り、閣僚や財界人、あるいは各党の長老たちが柔軟に出席した。委員会には本会議のほかに、多くの小委員会がつくられた。
イギリス海兵隊で砲兵大尉をしていたモーリス・ハンキーは才を認められて海軍の軍務官僚として活躍し、彼のために作られた「内閣官房長」というポストで戦時内閣のあらゆる会議に出席し、記録と取りまとめを行って「何でも知っているが何も言わない」と評された。このハンキーが国家防衛委員会の事務局長も兼任し、軍と政府の官衙がひしめくホワイトホール2番地にオフィス兼住宅を持っていた。委員会も、この建物のどこかで行われるのであった。
「君が担当事務官か。よろしく頼む」
「ヘイスティングズ・イスメイであります、サー。閣下のご本は愛読しておりました。騎兵ですので」
「それは光栄だ、ディア・カスタマー」
大蔵大臣ウィンストン・チャーチルは、イスメイ中佐のファンアピールを受け流した。イスメイはハンキーの下で、事務局長補佐のひとりになっていた。インドで空軍高官と縁ができて、陸軍所属のまま空軍参謀大学校に行く枠に応募して待望のロンドン勤務をかちとり、その高官の縁で現職に推薦してもらうことができたのである。事務局長補佐は4人いて、陸海空の中佐・大佐に加えてイスメイが座ったのはインド軍枠だった。
若いころのチャーチルは騎兵士官として、また筆の立つ特派員として北西インドを含め各地で戦いながら文章を書いて、借金返済の足しにしていた。それはイスメイの愛読書でもあったから、リップサービスと言うわけではなかった。
「さて、手早く済ませねばならん。善良な市民たちが暴徒にならんうちにな」
チャーチルはカバンから書類の束を取り出した。イスメイはチャーチルがすっかり腹案を整えていることを直感したが、黙っていた。
小委員会への諮問事項はすでに絞り込まれていた。郷土軍(territorial force)の歩兵大隊をいくつか、代用巡査として動員できるか。できるとしたらどうするのか。
郷土軍と言うのは、徴兵制度を避けてきたイギリスに根付いた、パートタイムの兵士で構成され(イギリスが追い詰められたときはその限りでないが、建前として)郷土防衛にのみ使われる陸軍部隊のことである。むしろ昔は暴動鎮圧が仕事のようなものだったが、郷土軍が出てくると民衆を刺激する面があり、小銃を持たない警察が整備されて今日に至っていた。
狭い階段を上って会議室に入ると、内務大臣ジョインソン=ヒックス、陸軍大臣ウォーシントン=エヴァンスがすでに着席していた。握手を済ませると、チャーチルはすぐ本題に入った。
「ジェントルメン、わしほどの古だぬきになると、皆さんの言いそうなこともわかるのだ。そこでちょっとした提案を用意してきた」
さっきの原稿を読みながら、チャーチルは箇条書きを読み上げた。いくつかの郷土軍歩兵大隊を動員し、代用巡査とする。警棒だけを持たせ、軍服も避けて腕章をつけさせる。訓練召集の場合と同じ基準で俸給を払うが、嫌な仕事であるから、支給糧食を少々良いものにする。ひとりひとりで勤務はさせず、必ず部隊単位で投入する。
「しかしそんな予算は内務省には……」
「わかっておる。大蔵省がそこは持つ。いいか。スピードで運動家どもを出し抜かねばならんのだ。巡査に疲れや怯えが出てからでは遅い」
チャーチルはジョインソン=ヒックスの遠慮がちな懸念を、無造作に振り払った。言葉を切って、それ以上の反論が出ないことを確かめると、すぐに立ち上がった。
「秘書を連れてきておる。合意文書を作らせる。イスメイも立ち会ってくれ」
そういったときにはチャーチルは立ち上がっていて、イスメイの腕をつかんでいた。持ってきた原稿をそのまま合意扱いにしないのがチャーチルの古だぬきな手続き尊重だった。チャーチルの秘書に同じような文書をタイプさせ、戻ってきたイスメイが「合意文書」を読み上げ、反論が出なかったので、小委員会はこれで任務を果たしたことになった。チャーチルは営業を終了し、営業用の笑顔を引っ込めると、イスメイにささやいた。
「BBCにすぐニュースにさせたい。頼めるか。うるさい連中はむしろわしのオフィスにおるのだ」
「イエス、サー」
イスメイはすぐ理解した。大蔵省の支出を気前よく約束したことに、省内から反対意見が出る可能性があるので、発表して既成事実にしてしまうのだ。
こうして、イスメイとチャーチルが初めて経験した共同作業は午後3時に始まって、夜までには終わってしまったのであった。
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1871年にフランスがドイツに負け、第三共和政が成立した後、1830年に退位したシャルル10世の孫がもう少しで王政を復活させるところまで行ったことがあった。祖父ヴィルヘルム2世の退位後もドイツの大学で学んでいた王太孫ヴィルヘルム王子は、プロイセン王室を敬慕する人々にとっては希望の星であり、政治的に逆の立場の人々にとってはきな臭い存在だった。
ヴィルヘルム王子は10才のとき近衛第1歩兵連隊の少尉に任じられていたが、1926年にこの王子がライヒスヴェーアの演習を見学することをゼークトに認められ、近衛第1歩兵連隊の軍服を着て出席したことが、政府で問題となった。皇帝陛下に忠誠を誓った世代のゼークトにとって、この演習見学をはねつけることは難しかった。逆に王子の周囲にいた大人たちは、王子の存在をアピールするチャンスと考えていたのであろう。
永年コンビを組んできたゲスラー国防大臣はゼークトを問い詰め、ついに辞表を出させた。SPDが「国の中の国」ライヒスヴェーアに口を出せるチャンスが、ようやく訪れたように見えた。だが。
陸軍の政治向きのことを預かるシュライヒャーには、安心して使える会合場所がいくつかあった。そのひとつが、この喫茶店の奥にある目立たない個室だった。
「あれは本物ですから、まあ否定はできますまいな」
「海軍の責任者として、ツェンカー[大将、海軍軍令部長]は機を見て引退させねばなるまい。その後始末を軍人にやらせようと言うことか」
国防軍の秘密予算のうち、海軍の潜水艦などを手掛けていたローマン大佐が勝手な投資をして大穴をあけ、そのことをジャーナリストに嗅ぎつけられた。ゼークト辞任の翌年、1927年のことである。その露見は別に陸軍の陰謀でも何でもないのだが、シュライヒャーがにやにやしながら口にすると陰謀のようにしか聞こえなかった。ゼークト辞任直後、国防省に国防課(Wehrmachtabteilung)ができてシュライヒャーが課長になった。これは軍務局(参謀本部)の下にない国防大臣の軍内工作部署だったはずが、1928年に入って国防省の主であるゲスラーが失脚したため、いまやシュライヒャー大佐に行動の自由を与えるための部署になってしまっていた。
そしてもともと自分が引き立てたシュライヒャーから事情を聴いているグレーナーは、辞任に追い込まれたゲスラー国防大臣の後任になるよう打診されたところだった。
「いずれSPDから実権を奪う機会は来る」
「そう願いたいですね」
「君が頼りだ、クルト[シュライヒャー]」
大統領は今やヒンデンブルクである。軍が政治の主導権を握るきっかけがつかめたかもしれない……とグレーナーは思っていた。いっぽう、政府が秘密予算をもっと組織的に管理しないと、また同じようなことが起きる可能性があったから、政府と軍の新たな了解関係が必要になってきているのも確かだった。
わずか2年前の1926年には、シュトレーゼマン外務大臣がフランスと和解を進めて国際連盟に加盟し、終戦直後からラインラント(ドイツ西部国境地帯)にいたフランス軍が予定より早く引き上げて、独仏それぞれの外務大臣がノーベル平和賞を受けていた。第一党でありつづけるSPD(社会民主党)とヒンデンブルク大統領という相容れない「ねじれ」を、シュトレーゼマンのDVPがどうにかバランスさせてきた構造もまた1928年に入って、シュトレーゼマンの健康悪化と共にきしみを見せていた。
第7話へのヒストリカルノート
実際にはゼークトはシュトレーゼマン亡き後のDVP(ドイツ人民党)から立候補して、1930年からしばらく国会議員になっていた時期もありましたし、エーベルト大統領の後継候補にしてもらうよう工作していたとも言われるので、グレーナーに政治音痴扱いされるのは小説的誇張というべきでしょう。
トレスコウはヒンデンブルクの推薦で軍に戻っていますが、それが手紙の形を取ったかどうかはわかりません。
Cabinet Secretaryは政治家と言うより官僚の色彩が強いので、官房長官と言う呼称を避けて「内閣官房長」としておきます。
連続落選3回を食らい失意だったチャーチルが、返り咲き当選したとたんに大蔵大臣を務めているのはそれなりの事情がありますが、そのことはいずれ、ネヴィル・チェンバレンとの関係で触れたいと思います。