第6話 装甲部隊の胎動
ハインツ・グデーリアンはもともと猟兵だった。第1次大戦のころの猟兵は、隊列を組んで一斉に射撃したり突撃したりする一般の歩兵に対して、イレギュラーな仕事を全部引き受ける歩兵と化していた。山岳戦闘(確かに隊列を組める地形ではない)、散兵(自分の判断で射撃する歩兵で、猟兵最古の仕事)、そこから発展した狙撃兵、さらには自転車で移動する歩兵まで猟兵の領分だった。父親のフリードリヒ・グデーリアンも名誉中将まで進んだ猟兵であり、ハインツは父と同じ猟兵大隊で士官候補生になったのである。
それが諸事情により、通信部隊に徒弟修業に出た。そのせいで大戦が始まると通信士官としてあちこち使い回されて猟兵としての武勲は挙げられず、大戦が終わると治安出動で直情的な言動をして、1922年に回されてきたのが交通兵総監部……つまり自動車部隊だった。
第1次大戦当時、イギリス軍はロンドンバスを大量に徴発して、後方で兵員輸送に使った。菱形戦車の後部に空間を作り、軽機関銃チームを便乗させて占領地確保に使うことも試したし、菱形戦車からほとんどの武装を取り払い、1個分隊を乗せられる車両も試作した。だから「後方で人や荷物を運ぶ」自動車の価値はもう実証されていたが、ドイツの懐事情や条約のもとで「車両で戦場に歩兵を運び込む」ことは模索段階だった。手柄を立てられない後方部隊への配属は、士官ならだれでも嫌がる。「参謀勤務をさせてやる」と言われたグデーリアンは、それが懲罰人事であったことをすぐに実感した。
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グデーリアンが交通兵総監部でもらった最初の仕事は、ルッツ少佐の第7自動車大隊への居候だった。なにしろグデーリアンの軍歴には自動車のジの字もない。なにもかも勉強しなくてはならない。
「技術関係や調達関係の仕事もさせられるようです。私にはそうした経験も知識も全くないのですが」
「砲が壊れれば戦えない。燃料がなくても戦えない。すべては武器であり……それを戦える状態に保つのは組織の力だ」
ルッツはグデーリアンの愚痴を父親のように受け止めた。空は晴れ、演習場には自転車に板をかぶせた模擬戦車が現れようとしていた。ペダルが回るたびに小さなきしみが、板の向こうでくぐもって聞こえた。
「君はそれらを、人に任せて知らんぷりをするのかね。それは君の敗北にはならないように思えるが、組織が敗北したら君も結局負けるのだ」
グデーリアンは何も言わず頭を下げた。ルッツは、この狷介な男が生涯尊敬した相手のひとりになった。
歩兵が重い装備をつけたまま、戦車の後を走ってきた。水冷機関銃の水タンクを下げた兵士が特に苦しそうだ。
「戦車の火力は限られている。歩兵から切り離されるとそこが弱点になる。ここだけの話だが、いずれ対戦車砲にもなる歩兵砲が登場してくれれば、ともに行動する利点はさらに増す」
「その歩兵砲は自動車に引かせるのですか」
「そうあってほしいと願っている。まず砲そのものの開発が先決だがな」
ドイツの37mm対戦車砲は1925年から開発が始まり、まず木製車輪の輓馬用が1928年に完成し、金属製転輪とサスペンションがついて自動車で引けるものは1936年にやっと配備できた。型番がPAK36なのは、砲架も含めた完成年次なのである。ただしラインメタル社は第1次大戦中にもうすこし威力が低い37mm対戦車砲を完成させていたから、ライヒスヴェーアの士官たちは対戦車砲をすでに手中にあるようにイメージできた。
模擬戦車と歩兵の一群は見る間に離れて行った。ルッツもグデーリアンも、視察中の大隊幕僚と一緒に走った。相当な速度だが、まだ馬より速くはなかった。男たちの荒い息の音が再び近づいてきた。
「突撃隊に戦車を組み込むような用法を考えておられるのですか」
「戦車がいるなら集中使用したほうがいいだろう。我々は前大戦で、その攻撃を防げなかった」
そう。世界中の陸軍は、「戦車は集中使用するに越したことはない」という一点で、じつは一致していた。ただし「歩兵の歩調に合わせて」集中使用するのが前大戦末期の連合軍の勝ち方であり、その場合でも新たな攻撃開始地点に勢ぞろいするために、当時の戦車部隊は昼夜兼行で無理を重ねたのである。
「だが、我が戦車を集中させてなお敵戦車が優勢であったら、君ならどうする」
答えに詰まったグデーリアンの背後から、自動車の低く重いエンジン音がした。ミーネンヴェルファー部隊が追いついてきたのである。迫撃砲とよく似た兵器だが水平近くまで砲身を傾けられるため、対戦車用途にもある程度使えたし、歩兵や砲と戦うために榴弾も撃てた。
「ミーネンヴェルファーの射程内に誘い込みます」
「合格だ。別の解答もありうるだろうが」
ルッツはにやりと人の悪い微笑をグデーリアンに向けた。
「だがさっき君は言ったな。突撃隊に戦車を組み込むのかと」
第1次大戦の中盤、ドイツ軍は連合軍の機関銃陣地を突破するため、歩兵を半個小隊程度の小集団に分け、その中に軽機関銃チーム、手榴弾チームなど役割分担を持たせて、攻めやすいところ、敵に見つかりにくいところを現場の選択で進んでいくようにさせた。そのように組織され訓練された中隊、大隊、ときには連隊を、ドイツ軍は突撃隊と総称した。フランス軍はこの戦法に浸透戦術という名前をつけ、自分たちもドイツ軍ほど下級指揮官の裁量は認めないとしても、少なくとも歩兵内部の「分業」については真似をした。日本陸軍の観戦武官は、これを「戦闘群戦法」という名前で報告している。
「戦闘の本質は前大戦と変わらない。我々の戦い方全体が間違っていたわけではないのだ。従って当然、戦車もそこに組み込まれる。我々の検討すべき事項は、何だと思う」
「車両部隊を主兵とするか、歩兵の速度に合わせるか」
グデーリアンの背中で、ルッツの掌がぽん! と大きな音を立てた。
「やはり技術と調達も勉強しておけ。誰かがそれに結論を出さねばならんのだ。だいぶ先のことだとしてもな」
ミーネンヴェルファーが水平に近い角度で固定され、砲員が号令に合わせて射撃姿勢を取っていた。そして戦車と歩兵は少し後退し、仮想的な敵戦車の側面をミーネンヴェルファーにさらすよう仕向けているようだった。
「ここで撃ちたいところだがな。弾薬は節約せねばならん。うちの整備班長に会っておけ。後方の色々な任務について、多少の説明はもらえるだろう」
ルッツは隊舎に向けて歩き出したが、グデーリアンはしばらく演習場の光景を見ていた。この世にまだ存在しない、戦場の覇王たる部隊の姿が、グデーリアンにはまだ見えなかった。
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「ご一緒にまた仕事が出来て光栄です」
「よろしく頼むよ」
1925年12月にハルダー少佐がミュンヘンの第7師団に作戦主任参謀として着任すると、旧知のヨードル大尉も同じ司令部にいて、早速あいさつにやって来た。ヒラ幕僚の雑居部屋と違って、秘密の話もできる個室なのを、ヨードルはきょろきょろと確かめるように見回した。
このころ、のちに有名人になるフォン・マンシュタイン大尉も第4師団司令部で幕僚をやっている。ハルダー、マンシュタイン、ヨードルはそれぞれ3才違いだから、ヨードルも地味に出世コースに乗っていることがわかる。ヨードルより1歳若いだけのロンメル大尉は、1929年まで大隊幕僚と中隊長を行きつ戻りつで、1933年になってヒトラー政権下で急に人事の詰まりが解消されたところで、15年ぶりに少佐に進級している。陸軍大学校に行けないとこんな扱いになるし、陸軍大学校を出て幕僚になったらなったで、若いうちにはあまり差もつかないのであった。
「R課の連中が、戦車を試作する話をまとめるらしい」
「作れるんですか? 彼ら[ソヴィエト側]に」
「スウェーデンで作って、運ぶようだな」
「大型トラクター」の名目で、75mm砲を備えた戦車の設計と試作が発注される話が、ベルリンから伝わってきた。ソヴィエトに確保した演習場に運んで性能試験をするのだ。それをハルダーはヨードルに耳打ちした。
「いよいよ、使い方を考えないといけないわけですね」
「我々にとって新しい兵器というわけでもないからな。現物はないが、運用法の検討はだいぶやっている」
馬より速い(実際に戦える)戦車がこの世にないころから、ゼークトに率いられたライヒスヴェーアは前大戦の教訓をまとめ、演習を重ね、来たるべき次の戦争を思い描いてきた。そして得られた結論がいくつかあった。
ひとつは、塹壕戦は避ければ避けられるということである。これは実証されたというより、ゼークトの信念が全軍に叩き込まれたという方が近い。ドイツは国力が尽きて敗けたのであり、戦術が間違っていて敗けたのではない……ということでもあった。これは「ドイツに対して戦術で勝った」というフランス陸軍の信念と正反対と言ってもよかった。
もうひとつは、戦車には歩兵を含め、他兵科の火力支援が必要ということであった。この点で、ドイツとフランスの認識は一致していた。戦車のスピードに他兵科を合わせるのか、歩兵のスピードに戦車が合わせるのかで、少しずつ両国の方針は差が付き始めるのだが、それは後のことである。
「イギリスは我々やフランスとは考え方が違うようですね」
「同じ大戦を戦っているのだ。別の戦訓を得たわけではあるまい。理論家が先走っているのだろうが、我々にそれを試すのはまあ無理だろうな」
「条約改定の出口は、どこになるんでしょうね」
ドイツが軽視していたことがひとつあった。ヴェルサイユ条約第8条は長い条文だが、「世界平和の条件は最低限度までの各国家の軍縮にあることを国際連盟加盟国は認識する(ものとする)」という一節があった。つまりドイツに課された制限に合わせて、他の国際連盟加盟国は軍縮を進めていくと言う建前がうたわれていて、非加盟国だが選挙対策として外交上の得点を稼ぎたいアメリカも含め、ドイツの軍備制限を緩めることは考えていなかったのである。年月が経つごとにドイツの条約違反は積み重なり、引っ込みがつかなくなっていったが、それはヒトラー政権発足のはるか前から始まる長い過程であった。
第6話へのヒストリカルノート
グデーリアンは1922年に交通兵総監部に移り、1924年から1927年まで第2師団司令部で普通の幕僚勤めをしました。秘密陸軍大学校での教官任務もやっていたようです。1927年に軍務局(参謀本部)の実質的な輸送課(当時、フランス軍から「戦時大規模輸送を研究している課がある」ことに疑念の目を向けられ、作戦課の一部に格下げされていました)に移って民間自動車の徴発による自動車輸送を検討し、1928年からは「自動車部隊教育本部」で戦術と戦史の教員を兼任しました。この「本部」は7つの軍管区にひとつずつある自動車大隊の隊員教育をするもので、ドレスデンにいる第4自動車大隊の本部だけをベルリンに召し上げて、この仕事をさせていました。それらをまとめて書いているため、起きたことの順序や時期が実際と異なっていたり、登場人物たちが実際には別人が言った台詞を話していたりします。
グデーリアンは第1次大戦前、1年間通信部隊に出向したあと、陸軍大学校へ進んで、卒業前に大戦になりました。大戦中に「参謀教育」を1ヶ月くらい受けていますから、その「補講」を含めて大学校卒業扱いになっていたのだろうと思います。第1次大戦の特に前半は、あちこちの司令部で通信参謀ばかりやっていました。自叙伝である『電撃戦』では通信隊への配属は「後日役に立った」という書き方でサラッと流しています。
大戦直後は国内治安維持が主な仕事になりましたが、そこでも政治的にマズい言動をしてしまい、自動車部隊配属はまあ懲罰みたいなもの……というのは大木毅氏の著作で紹介されている話です。でも通信の修業をしていたおかげで、ドイツ戦車はチームプレイができるようになったわけです(戦車に専任無線手を載せることはグデーリアンの着任前に、試作戦車LaSですでに実現していました)。戦車から始めないで、非戦闘部隊扱いの自動車部隊から機械化部隊に入ってきたところもポイントです。困難が人を育てることもつぶすこともありますが、ハインツ・グデーリアンは通信兵になること、戦車兵になることというふたつの困難に育ててもらったと言えます。
グデーリアンとは逆に、普通の歩兵連隊で少尉にしてもらって、そのあと山岳猟兵中隊を率いて大手柄を立てたロンメル中尉とは、人生を交換したようなものですね。そのかわりロンメルは陸軍大学校に行けなくて、それはそれで軍人人生どん詰まり(かけ)という局面もあったので、良し悪しです。
演習用の模擬戦車は、着ぐるみのように各自歩くもの、ひとつのガワを数人でかぶって歩くもの、自転車型、トラック型(不整地に入れない)など様々で、1927年にハノマグ社製乗用車を使ったものが登場しました。まだ自動車が高価な頃ですから、なんとか安く上げようと、1座席だけの細い乗用車があったのです。両脇にハリボテを立てて走るにはちょうどいいですね。
1930年代になると、自動車大隊は3つの中隊が番号順に装甲車中隊、模擬戦車中隊、対戦車砲中隊で、1920年代にはなかったオートバイ中隊を第4中隊としていましたが、1920年代前半に各中隊が何を持っていたかはよくわかりません。ここでは第1次大戦の遺物で、戦間期にもしばらく使われていた75mmミーネンヴェルファーを対戦車砲代わりに持たせました。これは、ひもを引いて摩擦火管を発火させ飛ばすもので、「撃針の上に落とす」迫撃砲と違って水平に近く構えることができ、対戦車兵器としても使われました。