第4話 ヒトラーの登場
グスタフ・フォン・カールはバイエルン王国で栄達した内務官僚だった。良家の子弟によくあったように、1年志願制度を使って費用自弁で1年間兵役をつとめ、予備士官となっていたが、大戦中は従軍しないで官庁勤めだった。その人生行路を大きく変えたのは、フライコーアの廃止を巡ってバイエルンでも起きた政治危機に際し、無血クーデターの後継首相に担ぎ出されたことであった。
バイエルン州政府のカール政権はどうにかフライコーアを存続させようと、あれこれ妥協点を探った。しかしベルリンの政治家たちとライヒスヴェーアは戦勝国を説得できるかどうかを考え、「黒い国防軍」を小さくて秘密が保てるものにとどめたのに対し、バイエルンの政治家たちは「ほら残しましたよ」と選挙民に言える形を求めたのだから、折り合いようがなかった。カールは辞職し、他の地域と同じようにバイエルンでも、表向きフライコーアは廃止され、国防軍が慎重に管理する小さな「黒い国防軍」が残った。
しかしカールたち反共和国・反共産勢力が政権を取っている間に、カップの反乱に関わって身が危なくなったフライコーア関係者や、反共和国的な政治活動家がバイエルンに大勢やって来た。
以前にも触れたが、「まだ復員兵たちが若い」ことが、1920年代前半のドイツ国内情勢を理解するポイントである。団体が禁止され、指導者が退場しても、いまさら行き場のなくなった武闘派の若者はそこに残り続けているのである。
ここ、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の演説会場で周囲を固める者にも、中でサクラをやっている者にも、そういう若者が多かった。品のある恰好で、前の方に座っている年配のふたりは、有体に言えば浮いていた。
ひとりは太ってもいないし背が高くもないが、顔の横幅があって、肩幅も体格の割には広かった。エルンスト・レーム大尉は徽章のない前大戦の軍服姿だった。もちろん本当に大尉だから階級章をつけても何の問題もない。だが「本当に大尉」であることが微妙に問題で、「黒い国防軍」のリーダーが現役陸軍軍人であることをさらすのはマズイのであった。
もうひとりは、NSDAP創立以来の党員のひとり、ディートリヒ・エッカートだった。スキンヘッドで、前から見ても横から見ても四角い頭をしている。少しくたびれているが、もとは上等なジャケットであったらしく、国粋団体の演説会に場違いなほどしゃれた恰好だった。劇作家であった。党の演説者としてヒトラーを演出してきた男とも言えた。
司会者が出てきて、型通りの挨拶をした。引っ込め……と口に出した者はひとりもいないが、ざわめきが止まないことが、彼が聴衆の求める男でないことをはっきり示していた。司会者もそれをわかっていたのだろう。すぐに右手を水平に伸ばし、舞台袖を指して、アドルフ・ヒトラーを呼んだ。
歓呼と拍手を手で制すると、ヒトラーはうつむいた顔をゆっくりと上げた。上出来上出来……といいたげに、エッカートが無言でうなずいた。レームはきょろきょろと首を回し、不審な乱入者が見当たらないこと、護衛が定位置にいることを確かめた。まあレームは突撃隊員ではないから、任せておけばいいのだが。
「ドイツの今日を憂うる諸君。私は君たちに何の知らせも持ち合わせていない。君たちは十分に悪い知らせを受け取ってきたからだ。我々を覆い尽くす途方もない濃さの毒霧がその結果であり、帰結である」
ヒトラーたちは今、ミュンヘンからベルリンに向けた大規模なデモ行進を計画している。モデルにしているのは、ムッソリーニが1年前の1922年にやって、政権を奪取した「ローマ進軍事件」である。
ムッソリーニの黒シャツ隊はイタリア全土に広がり、特にイタリア北部ではあちこちの要所を占拠するほどの勢力を持っていた。そのうえで支持者の一部をローマへ送り込もうとしたら、国王が折れて首相指名の電報を打ってきたのが「ローマ進軍事件」の概要である。ヒトラーにはそれほどの勢力はない。
「もはやニュースを聞かされるままになるのはよそう。我々自身が叫びをあげるのだ。そして我々の望むところに届かせるのだ。ベルリンには正しい言葉が届かなかった。だから我らが力を合わせて、われらの手で、足で、そしてこの口からの叫びで、それを届けるのだ」
ヒトラーの手振りは激しくなった。それは喝采を誘い、振り上げられる拳も増えてきた。
突撃隊指導者、ヘルマン・ゲーリング大尉は陸軍航空隊時代の軍服をすらりと着こなして、演説会場の出入り口近くでヒトラーの演説を聞いていた。いや……正直に言えば聞いてはいない。後から入ってくる有力者がいたら挨拶しなければいけないから、入口の方を向いている。写真偵察の名手から身を起こし、高名なエースパイロットとなったゲーリングは突撃隊を任されていると同時に、NSDAPの中で名士をアテンドできる貴重な存在でもあった。
「我々はもはや寡黙である時期を終えた。我らの志を知らしめよ。断固として裏切者どもを追い払い、我が祖国ドイツを邪悪な毒蛇のように締め上げる不当な要求を退けるのだ」
ヒトラーが動かせるベルリンの高官など、いるわけがない。ベルリンへ進軍する途中の交渉、そして到着後のことは、全国レベルの有力者たちに委ねるしかない。
この計画は賭けであるだけでなく、他力本願なものと言わざるを得ない。ヒトラーに対する拍手や掛け声を聞きながら、ゲーリングはぼんやりとそのことの危うさを考えていた。
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ヴェルサイユ条約に反してライヒスヴェーアが余分に持っている「黒い国防軍」は地域の事情によって、それぞれ違った形を取っていた。ここバイエルンでは、まだ陸軍に籍のあるエルンスト・レーム大尉が「黒い国防軍」のひとつとしての戦闘組織を持ちながら、有力な政治団体であるヒトラーのNSDAPに属して、党員にもなった。
ヒトラーがNSDAPに突撃隊(SA)の前身となる武闘組織を作ったとき、レームはその指導者にはならなかったが、自分と親しい元士官たちを指導者として推薦したし、こっそり現役将兵が訓練に協力もした。それはもともと「黒い国防軍」のすそ野を広げる活動だったし、その意味では国防軍とNSDAPに協力関係があったと言っても良い。
ところがすでに述べたように、ドイツ自身が政治的に揺れると、バイエルン第7軍管区司令官までグルになって、その枠組みをそのままバイエルンの政治家たちの矛としてベルリンに突きつけよう……という動きが表面化してきたのである。シュトレーゼマン内閣がルールでの抵抗をやめた9月下旬、バイエルンでは戒厳令が敷かれ、同時にグスタフ・フォン・カールが登用されて戒厳司令官となった。第7師団(第7軍管区司令部を兼ねる)、州警察、そして民族主義的な州政府が一体となって左翼的な政治運動を圧迫する構図が出来上がったのである。
ただ口では威勢のいいことを言う指導者たちも、ベルリンに逆らって反乱までする気でいるのか、腹の底はわからなかった。ヒトラーたちもまた、自分たちの腹を割らなかった。前大戦末期に詰め腹を切らされたまま、現政権に反抗する勢力の中に身を置いていたルーデンドルフ大将・元参謀次長にも、ヒトラーは決行の日を知らせなかったのである。
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「ハルダー大尉殿!」
ハルダーは39才で、10月1日付でようやく砲兵中隊長になったばかりだった。渦中のバイエルン第7師団で、訓練教員から久しぶりの実施部隊配属である。若い士官が、呼びもしないのに士官食堂から戻るハルダーを呼び止め、声を低くした。
「我々はベルリンと撃ち合うのでありましょうか」
「撃ち合うほど弾がないだろう。向こうにも……ないがな」
士官の緊張が少し解けたようだった。
「撃たなくてすむ方法は誰かが考えてくれる。ベルリンとの駆け引きにどんな言葉が飛び交っていても、気にするな」
「申し訳ありません、中隊長殿」
士官はようやく、上官を呼び止める非礼をわびた。ハルダーは軽く敬礼すると、向き直って自室へと向かった。その口から、小さなつぶやきが漏れた。
「ひとりで考え込まれるよりは、まだましか」
年長であっても、悩みを聞いてくれそうな温厚さをハルダーは持ち続けていた。だがミュンヘンとベルリン(バイエルンと共和国)がどのような落としどころを迎えるのか、ハルダーにも思案があるわけではなかった。連隊本部と第I大隊はミュンヘンだが、第II大隊のいるアウグスブルクは50kmほど離れているから、政治上のもめごとからは距離が置けた。
「どうした」
ふたりのやりとりを見て、微笑を浮かべているのは、ハルダーの第4中隊が属する第II大隊本部の大尉だった。39才のハルダーより満で5つ、生年では6つ年下だから、若手とももう呼べない。前大戦までであれば、陸軍大学校を出て大尉に進めばどこぞの師団司令部で補給主任参謀、ときには作戦主任参謀をつとめるのが相場であった。最近秘密陸軍大学校から帰ってきて、大隊本部付きになっている。なにしろライヒスヴェーアには騎兵師団を合わせても10個師団しかないのだから、昔のようには行かない。
「失礼ですが中隊長殿、適切な処理に感嘆しておりました」
「なに、中隊長になれば君もすぐ慣れるさ。ああ……」
先月中隊長として転任してきたばかりだから、ハルダーはまだ後輩の名前まで覚えていなかった。
「ヨードルであります、中隊長殿。アルフレート・ヨードル」
男性としては甲高い声で、みっしりと鍛え上げた山男風の大尉は答えた。JodlとJodelは同系の言葉である。バイエルン人というより、オーストリアのチロルあたりにいそうな人物だった。物静かではあったが、後年見られた気難しさは、まだ見られなかった。
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バイエルンはベルリンとけんかをしているつもりだったが、ベルリンの政治家たちは自分たちの内輪もめに忙しかった。バイエルンのさらに西、フランスに近いザクセンなどでは、共産党が地方政府の与党に入る動きや、左翼系の武装団体が活発化する動きがあって、軍と警察はベルリンの指示を受け、断固とした処置に出た。バイエルンの右翼政権に対しては煮え切らない態度を取るのに、ザクセンの労働者たちには断固とした措置を取るシュトレーゼマン連立政権から、10月の初めにSPDは抜けてしまい、内閣改造でシュトレーゼマン内閣は少数与党の政権になった。
エーベルト大統領とゼークトの間には、ここ数年の間に協力関係が生まれていた。9月下旬から、政府を批判する記事を載せたNSDAPの機関紙を発禁にするようゲスラー国防大臣は第7師団長に命じていたが、カール戒厳司令官と気脈を通じたロッソウ師団長は応じなかった。カップやリュットヴィッツの反乱のときと違って、ゼークトは結局共和国の法を守ることを選び、10月19日にロッソウを罷免して後任を発令した。カールたちはさらに20日、第7師団はバイエルン州政府の指揮下に置かれると宣言し、ロッソウを改めて師団長に任じた。もはや憲法を無視した反抗であった。
ヒトラーたちから見れば、バイエルンの有力者たちももうベルリン政府転覆しかなくなったわけだから、実力行使の機は熟したと見えた。むしろ有力者たちの側に、ベルリンが妥協してくれないので、ためらいの空気が流れ始めていた。もし自分たちがベルリンへ行っても、呼応する者がいなければカップやリュットヴィッツと同じ運命をたどる。それは州政府を切り回している政治家のほうが、政権を取ったことのない運動家たちよりイメージしやすい事柄だった。
だから、「ミュンヘン一揆」とも「ヒトラー一揆」とも呼ばれる1923年11月8日の武装蜂起は、始まる前に終わっていたともいえる。
この日、ビアホールでカールが演説をし、ロッソウと州警察長官も同席すると言うので、ヒトラーと突撃隊は武装して突入し、3人の身柄を押さえてベルリン進軍への協力を求めた。ルーデンドルフは外から呼ばれた。ところがルーデンドルフの軽率な判断で「帰宅」を許された3人は、それぞれ軍と警察を動かしてヒトラーたちを鎮圧にかかった。
翌朝までに四面楚歌となったヒトラーたちは、ルーデンドルフを先頭に立てて平穏に行進し、民衆の喝采や3人の翻意を期待したが、国防軍の後詰(ごづめ=味方として後方に布陣すること)を得た警官隊は強気ににらみ合った。
発砲の経緯ははっきりしない。警官隊も死者4人を出しているから、デモ隊側にも実弾を込めた銃が複数あったと考えられる。しかし撃ち合いが始まると、警官隊の火力が圧倒した。ゲーリングなど逃げ延びた党員もいたが、ルーデンドルフと多くの党員は逮捕された。
ヒトラーは11日まで逃げたが、そこまでだった。レームは未決囚として、獄中から国防軍に辞表を出した。
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ヒトラーたちの行動はバイエルンで蠢動した多くの有力者たちに言い訳を与えた。カールたちを銃で脅したのはヒトラーなのだし、脅された側はすぐ憲法を守る側についたのだから悪くない。その数日前まで何を企んでいたとしても、悪くない。そう彼らは言い張った。
ヒトラーの裁判が始まったのは1924年の2月だったが、その少し前にカールは辞職し、ロッソウも前年10月19日に決まっていた後任とやっと交替した。判決が下る4月までに、カールたちは指弾を浴びたものの、何の罪にも問われなかった。カールらの主張は、自分たちも可能性を探ってはいたクーデターの陰謀を隠すために説得力を欠いて、ヒトラー一味は世論の同情を受け、処罰は寛大になった。
そして1924年4月、ヒトラーは反逆罪で要塞禁錮5年の判決を受け、レームはその月のうちに仮釈放された。半年近くご無沙汰だった娑婆のビアホールで、レームは友人たちと飲んでいた。
「これからどうするかな」
ジョッキを半分空けた後、レームはつぶやいた。誰も気軽に答えられない問いだった。ベルリンに弓を引いて敗けた以上、「黒い国防軍」にもレームの居場所はなかった。ゲーリングはなまじ上手にオーストリアへ脱出してしまったので、重傷を負った身をきちんと治療できず、モルヒネに頼るようになったと聞いていた。
「英雄になりたいと思ったことはないが、なりそこなう奴はいるものだな。ディートリヒ・エッカートに」
レームはジョッキを少し高く挙げると、ビールをすすった。低い声で友人たちが唱和した。警察や軍の発砲で一揆側に15人の死者が出たが、ディートリヒ・エッカートは逮捕後に心臓発作を起こして釈放され、もう一度発作を起こして死んでしまっていた。
「選挙に出るんですか」
「考えている」
遠慮がちに若手の仲間が問い、レームは短く答えた。ルーデンドルフが合流した民族政党が、レームにも一揆の英雄として立候補を打診してきていた。
「だが突撃隊も再建だ」
大声が響き合い、ジョッキが打ち合わされた。レーム自身が組織していた別組織も含め、一揆に参加した武装団体は武装解除を受けた。だがそれでメンバーひとりひとりがいなくなったわけではなかった。ゲーリングが国外にいたので、レームが新しい突撃隊をまとめることはヒトラーの依頼でもあった。
レームは周囲をぐるりと見渡した。愉快な男たち。理論や思想ではなく、この連帯感がレームが拠るものだった。連隊副官など重要な役目につけられはしたが、陸軍大学校には行けなかったレームだった。「お偉いさん」に振り回された苦々しさをヒトラーとレームは共有していたが、レームの履歴書には「力」「戦友愛」といった即物的なものしかなかったから、それで切り開いていくことしかレームは考えなかった。
「うまい酒が飲めれば、俺はそれでいい」
「大尉殿が指揮されるなら、団の名前なんて何でもいいですよ」
そう叫んだ酔漢が、周囲の男たちからぺちぺちと頭や肩を張られていた。
「どうされました?」
「いや、何でもない」
長テーブルを囲む男たちの中に、上等兵の階級章をつけたヒトラーがいたような気がした。もちろんそれは幻だった。ヒトラーはもう二度と、そうした居場所には戻ってこないことをレームは予感した。
5月にレームは当選し、突撃隊が名を変えて生き延びる新組織も同じ月に発足した。だがヒトラーらへの同情は一時的な流れに過ぎず、為政者として何ができると言うわけでもなかったから、政治的退潮の中でヒトラー不在のまま党内対立に悩む時期が始まろうとしていた。
第4話へのヒストリカルノート
イタリアは不機嫌な戦勝国のひとつでした。オーストリア領南チロルなど、第1次大戦に参戦するとき英仏が約束した領土の多くはイタリアのものになりましたが、死者不明者は46万人に達し、戦費負担も重荷でした。ドイツ同様、19世紀まで別々だったものをまとめた国ですから、統治が行き詰まり、暴力とストライキが蔓延してしまいました。ローマ進軍事件は1922年の10月でしたが、つい2月までは社会党の分派(1912年にオスマン帝国とリビア領有を争った戦争に反対しなかったので、社会党を追われた人たち)から連立内閣の首相が出ていたのです。もっとも、その人たちを大声で追い出したひとりは、当時社会党幹部だったムッソリーニでしたが。
ムッソリーニは少数党の下院議員に過ぎませんでしたが、配下の黒シャツ隊は警察や軍が表だってやれないような、社会主義者たちへの暴力的な弾圧を敢えてしました。それを都合の良いことと感じている人間が軍と産業界の指導層に多く、黒シャツ党の恫喝に対して国をまとめてゆく選択肢がもう見つからず、首相を指名する責任を与えられている国王は追いつめられて、彼らに任せた方が国が収まるのではないかと考えてしまったようです。
突撃隊が有名な褐色のシャツで服装を統一するのは、ヒトラー一揆で逃げ散った隊員たちが戻ってきた後でした。このころ(蜂起直前)は、元軍人であれば軍人のころの制服を着ています。
ヒトラーたちを鎮圧した警官隊はバイエルン第2Hundertschaftでした。これは古風に直訳すれば「百人隊」であり、20世紀前半の歩兵中隊よりも小規模な集団でした。当時の秩序警察(日本風に言うと、制服警官ないし機動隊のようなイメージの分類です。また秩序警察という名称は1930年代になって共和国政府が州警察を召し上げてからの名称です)は軍隊風の階級名を使っていて、殉職した4人は大尉(百人隊長)と下士官3人でした。つまり隊長格ばかりが撃たれたわけで、「暴発事故であった」といった説明は不自然です。おそらく警察側の混乱を狙って、複数の射手が指揮官らしい人物を撃ったのでしょう。
シュトレーゼマン政権も少数与党として長く政権を保つことはできず、年をまたがずに退陣することになりました。その最後の仕事は、第3話で語ったように、11月1日から発行の始まったレンテンマルクによるインフレの終息でした。