第3話 ルール占領
戦争に負けた国はあれもこれも足りなくなる。戦争に勝ったフランスも鉱工業の中心が対ドイツ国境と対ベルギー国境の周辺であり、どちらも戦災が著しくて戦前の生産力には届かなかった。ドイツから取り返したアルザス・ロレーヌには鉄鉱があったから、フランスは鉄鋼生産を回復させるためにも石炭が欲しかった。
じつはヴェルサイユ条約をまとめた講和会議で、フランスはドイツとの国境を北でもライン川まで進めようとした。最初からドイツ領がライン川の西に広がっていることが、フランスが簡単に攻められる条件を作り出してきたのだ……という理屈である。多くのドイツ人がフランスに統治される結果となるので他国はそれを渋った。フランスがこの要求を引っ込める代わりに、アメリカとイギリスがドイツの侵略に対してフランス国境を保証する協定を結ぶことにしてフランスをなだめたのだが、イギリス議会は「アメリカも批准するなら」という条件をつけて批准し、アメリカ上院は批准を否決した。
ポーランド領になった炭鉱もあり、ドイツの石炭生産量が大戦前の水準に届かない中で、連合国は石炭を賠償の一部としてドイツから取り立てようとしたのだが、引渡予定量に実績が追いつかないことが1922年からたび重なった。材木についても生産量の一定比率を差し出して賠償の足しにするはずが、これも同様に、約束した量を引き渡せなかった。
ルール地方の一部都市を含めて、まだドイツ領内に駐留しているフランス軍はいた。ドイツの約束違反を理由として、ルール地方の他の地域にもフランス軍とベルギー軍が入ってきて、その武力を背景に炭鉱を接収した。これが1923年のルール占領である。フランスから見ればライン川の西側のドイツはつい先年の講和条約で空約束と引きかえにした因縁の地なのだが、イギリスはそんな因縁で戦争でも起きて、また大陸で大流血といった事態を避けたかったから、ルール占領には終始冷ややかだった。
「何があったか」は検証しやすいが、「フランスが何を考えていたか」は関係者の同床異夢があり、建前と本音もあるので、短く結論付けることは難しい。とりあえず資源の現物を確保したかったこともあろうし、ルール地方の独立か併合によってドイツの脅威が弱まることを期待した向きもあったかもしれない。ただ占領に踏み切ってみると、いくつものグループがそれぞれにドイツからの独立を宣言して、ベルリンに忠実な組織(警察の一部としての消防隊など)と衝突した。占領側はそれの利用を考えなかったわけではないが、結局ベルリンのドイツ政府を支持せざるを得なかった。ベルリンに従わないと言うことは、敗戦責任も賠償義務も認めないと言うことでもあったからである。フランスに都合の良い独立派もいたが、それはそれでドイツ住民の支持を受けられなかった。
「中長期的にドイツを弱める」権謀術数に徹し、賠償金の減額をエサにすればベルリンもルール地方独立を認めざるを得なかったかもしれないが、軍人だけで死者不明138万、負傷者359万を数えたフランスの膺懲(ようちょう=こらしめること)気分は、まだまだそんな駆け引きを許すものではなかった。
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ベルリン中心部にはティーアガルテンと呼ばれる公園があった。自然林というわけでは決してないが、人工物が大きな顔をしない、開けた公園だった。大使館や官衙がそれを取り囲んでいて、ドイツ国防省も巨大な区画を占めていた。
国防省軍務局(陸軍参謀本部がヴェルサイユ条約で禁止されたため、こっそり使っている別の名前)に置かれた、ゼークト統帥部長直属のチームであるグルッペRの任務はまずロシア、つまりソヴィエトとの秘密交流だったが、他国に隠したいその他の任務もこのチームが行うことがあった。そのメンバーが、今ゼークトを訪ねていた。
「やはり、ルール地方での攻撃計画を立てるのですか」
ゼークトは少し眼光を鋭くしただけで、若い小生意気な士官に答えを与えなかった。それは君が知る必要のないことだろう……ということであった。彫りの深い顔をほとんど動かさず、シュライヒャー少佐は視線だけを下げた。この男は、元々グレーナーの懐刀であって、終戦直前に政治家たちとの裏交渉に関わり、そのままゼークトに使われ続けていた。ゼークトはシュライヒャーに身の程を自覚する時間を十分与えた後、口を開いた。
「予算は来る。それだけ知っておけ」
まだ陸軍のリーダーがグレーナーだったころから、軍の政府からの独立を認める代わりに、軍は政府を支持すると言う約束が新政権との間にあった。だから陸軍にも海軍にもそれぞれ、条約で禁止されていることをするために、秘密に確保した予算枠があった。ルール占領に対して軍事的な対応をするために、政府は議会に黙ってさらに予算を用意し、これも秘密予算に加わることになった。
「君も戦いたい若者どもの仲間か」
「いえ、将軍」
ゼークトの口調は、先ほどに比べれば柔らかく、しかしあまり好意は含まれていなかった。シュライヒャーの仕事も、あえて言えばシュライヒャーという男そのものも、ゼークトにとっては必要悪以上のものではなかった。ルール占領という現実を突き付けられ、「やはりフランスと戦って勝たねばドイツの将来はない」という類の意見を述べる若手士官が増えていることは、ゼークトの耳にも入っていた。
仮にドイツが公然と武力で抵抗したとして、勝ち目はなかった。ただでさえ乏しいストックを積み増すために予算はもらって、じっと我慢するしかなかった。シュライヒャーはゼークトの腹の内を読めるほどには聡明だった。
「フランスに実利はないのだ。根比べになる」
そういうゼークトの表情に不安がよぎるのをシュライヒャーは見て取ったが、何も言わなかった。ドイツの労働者たちは炭鉱でも、占領地の鉄道でもストライキに入り、占領者たちは石炭をほとんど手にできていなかった。だがドイツ政府とドイツ国有鉄道は労働者たちに賃金を払い、先安感あふれるドイツマルクの紙幣と預金残高が膨れ上がる半面、生産は滞っていたので、インフレがドイツ全土を覆い始めていた。
「何もなさらないと言うことは、ないのでしょう? 将軍」
「ふん。知っているだろう」
すでにフライコーアはない。ないことになっている。だが公式には軍籍のない連中……「黒い国防軍」がひそかに集められていた。その資金は別の名目や各項目の水増しで政府予算のあちこちに隠されていた。それとは別に、こっそり武器を持っている「民間国防団体」とでも呼ぶしかない連中もいて、右翼から左翼まで様々な政治資金で食っていたが、政府の言うことを聞くとは限らなかった。大戦中に兵士としての訓練を受けた男たちが、まだまだドイツにはあふれていた。
ルール地方でも、フランス・ベルギーの意図をくじく様々な「事件」が起きており、「黒い国防軍」はライヒスヴェーアが表だってやれないようなこともやっていた。グルッペRの主要人物として、シュライヒャーも知らないわけがないのだった。だが力で占領軍を押し返す意志は、ゼークトにはないようだった。
「ソヴィエトから、急いで武器を送らせれば事態は好転するのではありませんか」
「よせ」
シュライヒャーには壮語癖(そうごへき=威勢のいい、実現の見込みがないことを口に出す癖)があり、嫌っている同僚も多かった。だがその反面、多くの士官が顔をしかめる政治折衝も嫌がらずにこなすのだった。シュライヒャーはゼークトの峻拒にあって、さすがに話題を変えた。
「今ならまだ大戦で訓練を受けた者たちが使えます。このままではいずれ」
「それは君たちの世代の問題だ。他に用件はあるか」
「いえ」
無帽のシュライヒャーはかかとを鈍く鳴らして頭を下げると、退室した。ゼークトはそのまま考えに耽っていた。
「白紙の世代……か。いつまで続くのだろうな」
非合法に集められた若者に射撃くらいは教えられても、大規模な部隊として動く訓練を課すのは無理である。1901年以降に生まれ、徴兵経験がない白紙の世代(Weißer Jahrgang)はいずれ顕在化する問題であったし、後年シュライヒャーの政治家としての進退に大きな影響を与えることになるのだったが、まだ心配しても仕方のないことであった。
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イギリス空軍参謀総長・トレンチャード大将の細長い顔についた立派な口ひげは、いま日本で言えば「ヘ」の字に両端が下がっていた。目の前の書類に怒るべきかあきれるべきか悩んでいるようだった。
「我がイギリスの航空兵備をフランスと比べるというのか」
今年度の予算要求書類について原案が上がってきたところだった。イギリス空軍の創業者社長ともいうべきトレンチャードに遠慮して、書類を持ってきた係官は沈黙を保った。
「フランスを仮想敵とするのは……まあ、たった20年ぶりか」
係官が一切表情を動かさないので、トレンチャードのほうが表情を崩した。イギリスとフランスの領土拡張政策がぶつかり始め、その妥協点を相互に認め合った長い条約が、1904年の英仏協商だった。つまりブルボン王朝から続いてきた、イギリスとフランスの数百年にわたる緊張関係が、ほんの20年の小康を得ているのが1923年の世界だった。
「確かに他に気の利いた書き方も思いつかん。いいだろう」
いまイギリスには、仮想敵がいない。出てくるのは軍縮の話ばかりになりがちだった。ルール占領を巡るフランスとの緊張を利して、「フランス空軍に対抗しうる戦備」を予算要求のてこに使うのは無節操のようにも思えるが、代案があるわけではない。書類の端に了承の意味でサインをすると、トレンチャードは書類を返した。係官は敬礼して退出した。
「向こうも同じことをしているかもしれんな」
もうそのつぶやきを耳にとめる者はいなかった。
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すでに語ったように、ドイツ人たちは主にストライキで戦っていた。フランスもベルギーも炭鉱は占拠したものの、炭鉱でも鉄道でも労働者が働かないのでは、生産物を得られなかった。しかしそれは、ドイツに回っていくはずの資源をも少なくすることであり、ドイツ経済の足を引っ張った。
いっぽう、ストライキに参加している労働者には給与が支払われるよう、ドイツ政府がはからった。それによりますます生産力と発行される貨幣量のバランスが崩れて、インフレが次第に激しさを増した。
現代日本に生きる私たちにとって、「貨幣が増えるとインフレになる」ことはどうもピンとこない。2010年代に入って、日本銀行は黒田総裁の下で、国債保有額の上限を決めるルールを緩めた。償還の近いものも含めれば、2018年3月には日本銀行は名目GDPの3/4を超え、400兆円以上の国債を持っていた。同時期に出回っていた紙幣総額の4倍である。日銀が国債を買い取ったその額だけ、国債を売ったどこかの銀行の預金残高が増えて、「貨幣を増やした」ことになっていた。その一方、外国人や外国企業が日本に持っている預金、株券、土地などの資産を全部合わせると、2016年末で648兆円にのぼった。外国人や外国企業が資産として日本円の預金を持っていても、それは日本で今年の生産物を買うために使われないから、貨幣量の増大がもたらすインフレ圧力はそれだけ下がるのである。
1923年のドイツでは事情が違った。もうドイツマルクは他国との貿易で交換価値が低いだけでなく、これからもっと価値が下がると思われて、受け取ってもらいにくくなった。輸入品は(ドイツマルクで見て)暴騰し、買えるのは国内のものだけということになる。そうなるとますますカネに対してモノが足りなくなり、インフレが進んでいった。
そしてドイツに対する債権者は、フランスとベルギーだけではなかった。まずイギリスがあった。そして欧州諸国はみな、アメリカに大きな借金をしていて、ドイツから受け取った賠償が自分の借金返済に使われていたから、ドイツ経済が弱ればイギリスもアメリカも損害を受けるのだった。だからすでに触れたように、フランスとベルギーがドイツから優先的に借金返済を受けるようなルール出兵に、イギリス政府も批判的だった。
ドイツが先に抵抗を止めれば、戦勝国の中でルール占領反対派諸国がフランスを抑えてくれる見込みがあった。もちろんドイツ自身が抵抗の重い対価に苦しんでいた。だが終戦直後のドイツ政治で与党をつとめた3つの政党は、屈辱的なヴェルサイユ条約を受け入れてなお戦勝国の要求が止まらないことで、自分たちの力だけではドイツを更なる譲歩に導くことができなかった。新たな援軍を政権に導き入れる必要があった。
ドイツ人民党(DVP)は、帝政時代のある政党から、ドイツ財界の利益を比較的強く代弁するほうの半分が分かれてできたもので、残り半分の民主党とはもともと兄弟分だった。だから民主党の中にも「財界の言うことを聞きすぎる」と批判される人がおり、人民党の中にも「共和国の与党に対して妥協的すぎる」と批判される人がいた。グスタフ・シュトレーゼマンという人はまさに、人民党の中で「現政権と仲が良すぎる」と批判されながら、この国難の時期に党首になっていて、1923年8月から大連立内閣の首相になった。そして9月26日、ルール地方でのストによる抵抗を中止し、生産を再開する決定を下したのであった。これ自体が、政府の視点から見ると、歳出の大幅カットだった。
新政府はまた、中央銀行ライヒスマルクの国債引き受けによる「徴税」をやめた。つまりハイパーインフレの下では、国債をライヒスバンクに引き受けさせ紙幣を引き出したとたん、国債も紙切れになってしまうのである。これは政府にとってある意味で楽なのだが、これを続けている限り、政府はマルクと海外通貨の交換レートに責任が持てないのである。いやむしろ、マルクが他国通貨に対してどんどん安くなることを自分で保証しているようなものである。そして国有銀行ではないレンテンバンクから新通貨レンテンマルクを発行させ、政府自身ははっきりと増税をするようにした。インフレ期待が収まってくると、保蔵されていた物資が市場に出てきて、インフレ抑制を助けた。
結果的には、これは良いサインであったし、良い連鎖を生んだ。1924年に入ると、アメリカはドーズ副大統領を委員長として新しい賠償の枠組みをまとめ、フランスも渋々これに従った。レンテンマルクと従来のマルクの交換が進み、1923年11月に導入されたレンテンマルクの市中発行高は1年もしないうちに3倍になったが、ドーズ案を受け入れ、新しい法貨ライヒスマルクへのレンテンマルクの再交換が始まると、マルクと海外通貨の交換レートも安定するようになった。
だが反対勢力は強かった。特に「無能なベルリン政府の巻き添えを食っている」という感情が働きやすいバイエルンでは、ベルリン政府を転覆しようとする運動がはっきりした形を取り始めていた。
第3話へのヒストリカル・ノート
第2話でも触れたように、1921年春からトロツキーとゼークトの秘密接触が始まりましたが、それを取り扱うチームもそのころに組織されました。「グルッペR」とか「ゾンダーグルッペR」とか呼ばれていましたが、R課(Abteilung R)という名称もこれに関する著作に出てきます。1920年から1921年までゼークト統帥部長の副官をつとめていたフィッシャー大尉が、少佐になって1924年の異動で軍務局に戻ってきて、1926年にゼークトが退任するときもまだ軍務局に属していましたが、彼の公式な担当は不明で、R課のリーダーは「フィッシャー少佐」だと書かれた本があります。ですから1924年以降、グルッペRはR課とも呼ばれていたと思われます。
日本の場合、「借金して(出資を集めて)投資なり消費なりをする」というところでサイクルがずっと詰まっていることが、通貨量増大と物価停滞が長いこと両立している根本的な原因でしょう。「ぼくたちのすばらしいしんさのうりょく」で儲かる中小企業にお金を貸そうという構想は、新銀行東京や日本振興銀行とともに吹っ飛びましたし、「もうかるビジネスをいっしょにみつけよう」という方向も期待されましたが、かぼちゃの馬車とスルガ銀行のように、同じ儲け方をしてだんだん飽和してレッドオーシャンになっていくことを、金融機関ではうまくコントロールできません。その根本には「少子化で先細り」という日本経済についてみんな持っている判断があるのでしょう。ドイツは終戦直後でしたから、資本があればもっと儲かる案件がまだまだあったのでしょうね。