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第2話 やがて来る未来のために

 話は数か月さかのぼる。1920年8月のことである。


 ミンスクでは人と瓦礫が肩を寄せ合って暮らしていた。1918年にドイツ軍の占領に服して以来、街の支配者は何度も入れ替わった。1920年7月から8月にかけて、ポーランド軍がミンスクにまで到達して、真新しい瓦礫を増やしたところだった。それと並行するように、7月にはブジョンヌイの第1騎兵軍が1万数千という寡兵で南方のポーランド軍戦線を突破し、ポーランド軍の総退却を誘った。どちらも、北から南まで連続した戦線を張れるほどの戦力がないので、こういう戦争になったのである。


 ソヴィエト北西方面軍司令官のトハチェフスキーは1893年生まれだから、当年とって27才である。帝政ロシアの若手士官であったが共産党に入り、ソヴィエト政府が労農赤軍を作ったころからまず政治委員として、そして軍司令官として2年のあいだ転戦を続け、実績を上げて2月から方面軍司令官を任されるようになっていた。


 このころの労農赤軍(ソヴィエト陸軍と公式には呼ばなかった)は脱走の頻発に悩んでいた。下級指揮官の養成が追い付いていなかったから、部隊の掌握力は弱かった。こうなると武勲を上げた指揮官が、子飼いの部隊を直率して広いロシアを走り回らねばならず、あちこちで蜂起する反政権軍も軍容のちっぽけさでは劣らなかった。トハチェフスキーはそうした機動の名手であった。ロシアという大海原を駆ける海軍のようなものである。古来ロシアを往来したどの軍隊にとっても広すぎる国土が、この国で「作戦術」という概念が生まれてきた背景のひとつだった。


 その肥大化した軍の多くを治安任務に残し、北西方面軍と南西方面軍が西に向かうソヴィエト陸軍のすべてであり、それでもふたつ合わせれば80万人近くが参戦していた。だからトハチェフスキーは堂々たる大将軍のはずであったが、その青年将軍はここミンスクの執務室でいらいらと歩き回っていた。


「新たな連絡は」


「ありません」


 当直士官の機械的な返答を受けると、トハチェフスキーは地図に目を落とした。地図だけを見れば、彼の部隊は500キロ西まで食い込み、ポーランド軍が最後に拠るワルシャワの北を破り、なおダンツィヒに向けた進撃を遮られていないのだった。だが南の側面が伸び切っていた。そして元ロシア帝国将兵と素人から成る労農赤軍は、通信器材の調達と取り扱いで、同じ新興国ながらドイツ・オーストリア・ロシアの元軍人を集めたポーランド軍に遅れを取っていた。前線からの連絡はいつも心もとなかった。トハチェフスキーには最新の状況が見えなかった。


 1919年に最初に国境を越えたのはポーランド側だと言われているが、どちらにとってもロシア革命とポーランド復活に始まる長い戦乱の一部でしかなかった。ポーランドはここ100年あまり地図上になかった国であり、過去に一番大きかった時の旧領を求めれば、ソヴィエトと争うことになった。フランスを中心として、ロシア革命を食い止める観点からの援助をポーランドに与える国々もあった。一時はキエフすらポーランド軍に渡したソヴィエトだったが、やはりポーランド軍にとって限界を超えた進撃であり、ブジョンヌイの突破をきっかけに薄い前線が崩れて、今危機に瀕しているのはワルシャワの方だった。


 すでにほとんどの外交官がワルシャワから逃げ出す事態になっていたが、ポーランドの若い軍事指導者ピウスツキは、こうした敗勢の中でしか合意を得られない賭博的な作戦を用意していた。ワルシャワ南方に取り残され、いったんソヴィエト軍との接触がなくなった部隊を広い範囲から糾合(きゅうごう)して、ソヴィエト軍の側面を()くのである。フランスからポーランドに送られた軍事顧問団はこの作戦を素人っぽいと評していた。だが素人っぽい点ではソヴィエト軍も負けていなかった。はるか東のミンスクまで敵情が届かず、それぞれの兵団がまとまって戦うことができていなかった。


「ブジョンヌイは何をしている」


 トハチェフスキーは怒りをぶつけた。当直士官は「私は帽子掛けです」という顔をした。実際、ブジョンヌイの第1騎兵軍は到着次第、ワルシャワ北の突破に加えよというのが労農赤軍総司令部の命令だったから、南の側面が脅かされていることには直接関係がなかった。


「若造にブジョンヌイの騎兵軍は渡さないと言うところか……済まないな。君のせいでないことはわかっている」


 帽子掛けが実は口を利くことを思い出したように、トハチェフスキーは当直士官を見た。当直士官は無言を保った。笑うことすら適切かどうか、彼の生存本能は結論を出せなかった。トハチェフスキーは心の中の黒いものを吐き出し始めた。


「ブジョンヌイは薄い戦線を突破するのは得意だ。奇襲屋なのだ。だがリヴォフのような大都市は騎兵だけでは落ちない。こっちへ来た方が手柄の機会もあろうものを」


 南西方面軍司令官のエゴロフはロシア陸軍で大佐まで行った人物であり、頭脳よりも陣頭指揮だの果断だので人を従わせるタイプだったが、その政治委員がスターリンという男だった。


 労農赤軍総司令部は武勲を上げたばかりのブジョンヌイをトハチェフスキーの方面軍に移し、ワルシャワの北を抜ける突破に加わらせようとしたのだったが、スターリンがブジョンヌイの司令部に先回りして、第1騎兵軍政治委員のヴォロシロフとも示し合わせてその命令実行を遅らせ、もうひとつの大都市リヴォフ(レンベルク、現在はウクライナ領リヴィウ)を単独で攻略して手柄にしようとしていた。もちろんエゴロフがブジョンヌイの移籍を急き立てればそんな勝手はできないのだが、エゴロフも見て見ぬふりだった。おっさん連合が若いトハチェフスキーくんに、ねちねち反抗しているという図式だった。


「失礼します。電信が入りました」


 当直士官とトハチェフスキーが同じ速度で詰め寄ったから、今度は通信兵がおびえて、腕をいっぱいに伸ばして電文を差し出した。それをふたりの腕が取り合い、トハチェフスキーはようやく破顔して当直士官に仕事をさせた。


「有力なポーランド軍部隊がワルシャワ南東部を北上しつつあるとのことです」


「奴らのほうが早いか」


 トハチェフスキーは思わず言った。組織立った砲兵をポーランドまで大挙外征させる力はソヴィエトにはない。だから労農赤軍総司令部もワルシャワを攻め取れとは言わず、むしろその奥にあり、ポーランドの利用が認められているドイツ領の港湾都市ダンツィヒ(現在のグダニスク)を孤立させろと言ってきた。周囲のすべての国に国境線をめぐってケンカを売っているポーランドだから、いま海からの入り口がなくなると、あらゆる物資は途絶するのである。だがその前に伸び切った側面を破られたら、ソヴィエトが退くしかない。


 しかし隷下部隊に退却を命じようにも、連絡を回復しなければそれすらできないのが、今のトハチェフスキーと労農赤軍であった。


「弱いな、労農赤軍は」


 トハチェフスキーは思わず言った。そして怯えた顔の当直士官に気づき、励ますように言った。


「だが強くなる。1年、5年、10年。次の戦争ではポーランドなど問題ではない」


 当直士官に笑顔が戻った。ふたりとも、次の戦争に労農赤軍の陣頭に立つトハチェフスキーの姿を思い描き、何の懸念も抱かなかった。


--------


 1921年春、野戦用の簡素なテントに、フランス陸軍士官たちが集っていた。連隊規模の演習を見学にやって来た来賓たちであった。テントにはコーヒーの香りと、平時のゆるみが漂っていた。


「ド・ゴール大尉、ポーランドはどうだった」


 師団長ははるか格下の大尉に愛想笑いを振る舞った。論客として知られている人物でもあるが、ド・ゴール少尉任官時の連隊長が今のペタン元帥だったから、いいコネを持っている。階級差があってももめ事を起こしたくない相手ではあった。


「我がフランス騎兵にはもう失われた状況がありました、閣下」


 ド・ゴールの言葉に師団長は困った顔をしたが、若い大尉は自信満々だった。


 ド・ゴール大尉は第1次大戦が始まったとき中尉だった。1914年に負傷し、やっと癒えたと思ったら1916年に捕虜になって、脱走未遂5回の奮闘もむなしく終戦を迎えてしまった。少年のころから英雄になりたがっていたド・ゴールにとって、陸軍大学校に行くことは何としてもくぐりたい夢への関門だったが、武勲赫々の同輩たちに並び立つには、実戦の手柄が足りなかった。だからド・ゴールはポーランド陸軍への軍事顧問団に参加し、ポーランドにとって最も危機的だった1920年7月から8月にかけては最前線に出た。


「トハチェフスキーとは捕虜収容所で一緒でした。私も彼のように脱走していれば、今頃は方面軍司令官でしょうか」


「ふふん」


 師団長はド・ゴールの壮語を受け流した。


 ド・ゴールが参加したのはトハチェフスキーの足元をすくうワルシャワ東の戦いでも、リヴォフをブジョンヌイから守り抜く戦いでもなく、もっと東側で取り残されたように対ウクライナ国境を確保する戦いだったが、ポーランド軍はド・ゴールの勇戦を認め勲章をくれて、少佐としてとどまらないかと言ってきた。


 フランスの英雄になりたいド・ゴールはそれを蹴り、帰国して士官学校の戦史担当教員に補された。ぴっちりと戦線が形成された独仏戦線の記憶と、ポーランドでの戦争は全く違っていた。結局元のソヴィエト(ウクライナ)・ポーランド国境に戻る和平が成ったのち、そのことをド・ゴールは包括的に報告する文書を提出していた。


 号令が響き、歩兵の前進が始まった。少し離れて、ルノーFT17戦車が3両進んでいた。


「君の報告書は読んだ。今日の我が戦車は、集中には程遠いな」


 ド・ゴールは少し無言になった。上官への印象的な台詞を考えているようだった。そして言った。


「バタイ・コンデュイのもとで、戦車が集中すべき機会については、私の報告とは違っておりましょう」


 Bataille conduit(バタイコンデュイ)は統制戦とでも訳せばよいだろうか。火力の優位を生かし、各部隊が計画通りに動く戦い方であり、フランス軍の視点から大戦末期の勝ちパターンをモデル化したものとも言えた。


 師団長は無言の微笑で返答すると、他の客に注意を移した。ド・ゴールも演習の様子に視線を移しながら、もっと大規模な戦争のイメージを膨らませていた。


 戦車が集中することには様々な意味づけができる。1917年のカンブレーの戦いは、戦車476両を投入したものだったが、これは砲撃で掘り返すのとは違った方法で、鉄条網を短時間で突破することが主眼だった。当時最新の攻撃方法だった、標定射撃(狙い通りに落ちるか試す砲撃。攻撃意図がバレるので、防衛側の予備隊が集まって攻撃が失敗しやすい)なしにいきなり全力砲撃を加えることと合わせ、奇襲効果を狙っていたが、その点ではうまく行かなかった。しかし攻撃をドイツに予測されていてもイギリス軍の前進速度は当時としては目覚ましく、ドイツ軍は最初の数時間で多くの土地を失った。


 ド・ゴールは現場を見たわけではないが、トハチェフスキーの南の側面を衝く戦いの中で、ポーランド陸軍がありったけの戦車を集中投入して1日に30kmの前進を勝ち取ったケースから学び、報告書に書いていた。カンブレーではドイツ軍のあらゆる火器と歩兵の肉薄で1/3の戦車が失われたが、砲兵や機関銃の支援が十分でないソヴィエト軍には、集中投入されたポーランド戦車群を止めることはできなかった。


 どちらの戦例も、馬に追い抜かれるような速度の戦車によるものだった。みっしりと組み合った陣地戦を突破する破城槌としての戦車集団。散在する敵を蹴散らす陸上戦艦としての戦車集団。それが馬を上回るスピードを持ったとき、どんな可能性が加わるのだろうか。ドゴールがそこまで考えたとき、声をかける者がいた。


「もう少しFT17を買ってくれる国が出てくるといいのですがね」


 沈思するド・ゴールを見て、来客がぽつんと放置されていると感じたのだろう。師団の幕僚らしい大尉が声をかけてきた。


「あれの在庫がなくなるまで、我々は新型戦車を買えないでしょう」


「戦車に限りませんが、我々にはつらい時代ですね」


 ド・ゴールの言葉は、この時期の戦勝国陸軍士官ならだれでも持っている思いを表していた。フランス軍がルノー軽戦車を持てあましているように、イギリス軍は菱形戦車の大群をどうしたものかと思っていた。そしてこの時点で、有力な敵が近々に現れるとはどこの国も思っていなかったのである。


--------


 黒服の紳士淑女が、若い寡婦とふたりの幼児を中心に散らばっていた。周囲の人々はむしろ年配者が多く、いま地下に横たえられた人物が若くして築いた地位を暗示していた。


「ハリーを私が送ることになるとはな」


 トム・ソッピースは低い声を絞り出した。故人となったハリー・ホーカーはオーストラリアからふらりと応募してきた自動車工で、社内で操縦を覚えるとたちまち上達し、テストパイロットを任されるまでになった。撃墜王スヌーピーの愛機として知られる、イギリス空軍のソッピース・キャメル戦闘機を生み出したソッピース社は業容を拡大したが、戦時利得をため込んだ会社として目をつけられ、オートバイ市場への参入も大きな損失を出した。だからソッピースは会社をたたみ、数人で私財を出し合って小さな会社を作った。ホーカーが社長、ソッピースが会長というホーカー・エンジニアリング社である。


 だが1921年7月、その若社長を航空機事故が見舞った。


「奴がもう少し経験を積んだら、会社を売り飛ばすコツを教えてやるつもりだったが」


 ソッピースの会話相手は口ひげの紳士、ジョン・シドレーだった。良家のボンボンであるソッピースとは対照的に、シドレーは製図工も営業マンも、果ては自動車レーサーまでこなして、のし上がってきた人物だった。シドレーの会社は高級車と航空機エンジンをつくり、航空機の下請け生産もやっていたが、アームストロング・ホイットワース社に事業を売って、そのまま雇われ経営者をやっていた。


「売り飛ばされては困るな。もう少しの我慢だ」


 シドレーは苦笑いをソッピースへの返事に代えた。余剰航空機があふれかえっている戦後世界は航空機メーカーにとってつらかった。アームストロング・ホイットワースのいろいろな事業に加え、高級車部門を持っているシドレーの会社はだいぶましだった。ホーカー社は、まだ最初の製品を送り出せていなかった。


「君もいつでも歓迎するぞ、トム。なんなら全員連れて来い」


 ソッピースは微笑して右手を挙げ、別れを告げた。


--------


 ずっと後のことになったが、引退に当たって会社を売ったのはシドレーで、買ったのはソッピースの方になった。親会社の合併でヴィッカース・アームストロング社ができたとき、シドレーがアームストロング・ホイットワース社を丸ごと買い戻していたのである。その後シドレーは、やはり経営が苦しかったグロスター社とA.V.ロウ社(通称アブロ社)も子会社にしていたから、巨大な航空機産業グループができた。そして70才になったシドレーはそのすべてをソッピースのホーカー社に売って、ホーカー=シドレー社ができた。トム・ソッピースは垂直離着陸機ハリアーの初飛行を見届け、1967年まで会長にとどまった。


 イギリス航空機産業は、このホーカー=シドレーグループ、ヴィッカース社の航空機部門と水上機の技術力で評価されたスーパーマリン社のグループ、そしてデハビラント社を3つの軸として整理されていくことになった。


 デハビラント社は小型民間機のベストセラーで、発展型のタイガーモスが国際救助隊のサンダーバード6号として採用されたことで知られる、デハビラント・モスが戦間期の米びつ(パン籠というべきか)だった。イギリス軍では、航空省の仕様提示に基づかない自社開発提案をprivate ventureと言ったが、めったに採用機として実を結ばないその提案を、それも参謀本部が強硬に繰り返し思い切り「要らん」というのを推して推して押し通し、ついに花咲かせたのがモスキート爆撃機・夜間戦闘機だった。軍用機で飯を食っていない立場の自由さが、それを成し遂げさせたともいえた。


 他にも動力銃塔のトップメーカーであるボールトン・ポール社、水上機や海軍機を作っているショート兄弟社やブラックバーン社といった、中堅以下のメーカーや大企業の子会社を入れれば十数社が、次の大戦まで生き残った。どちらかというと戦間期のイギリス航空省は、効率化のための合併を推進するより、なるべく航空機メーカーを生き残らせる政策を取ったのである。実際、飛行機が木と布でできている間は、熟練工による手作業の部分が大きく、大量生産で大企業がコストを下げる力が弱かった。そのことは追々語るとしよう。



--------


 シムラーは現在のパキスタン、当時の地図ではインド北西部にある街で、裕福なイギリス人たちが別荘を好んで構えるようなところだった。イギリス人のインド軍士官は休暇になるとちょっと秘境へ狩猟に出かけたり、平地にとどまってポロ競技に明け暮れたりいろいろなオプションがあったが、中にはこういう街で社交と出会いに精を出す士官もいた。そんな街だからこそと言うべきか、ここにはインド軍後方総監部の施設があって、長いイギリス統治の経緯でやたら複雑になった書類を秩序付けようと、士官たちが終わりなき戦闘を繰り広げていた。


「つくづく平和が戻ってきたものだと思うよ」


 隣席の同僚に言われて、イスメイ少佐は目の前の紙束から視線を上げた。同僚は続けた。


「俺の連隊はメソポタミアでずっとトルコ軍と戦っていた。君はソマリランドにいたと聞いたが」


「イギリス軍のラクダ騎兵をほとんど全部率いてたこともあったよ。200人ほどだが」


 英領ソマリランドは、現在のソマリア北西部である。イギリス軍が「マッド・ムラー」と呼んだ宗教指導者の軍勢がなかなか掃討できず、かといって大戦中に増援もできないので寡兵で要地をじっと守ることを強いられた。イスメイは欧州の戦いに参加したくて、他の士官に交じって嘆願書を書き続けたのだが、現地責任者のようにして残されてしまった。戦後になってタイガー・モス複葉機の増援を得て追い詰めたものの、結局マッド・ムラーにはうまくエチオピアに逃げられてしまい、イスメイはインド軍に戻ったのであった。


「だが、もうポロもできなくなった。金がかかるからな」


 乗馬球技であるポロは騎兵のたしなみであり、競技会に公務出張できるほどであったが、小柄なポロ・ポニーを自弁しなければならなかった。諸物価の安いインドでなら、それができた。インド着任以来、イスメイは午前は教練、午後はポロと言う暮らしを何年も続けたものだったが、もう節約しなければならなかった。


「奥さんはイングランドにいるのか」


 オーキンレックの問いに、イスメイはうなずいた。新婚である。勤務中に、実は本国のポストにいろいろ申し込んで落ちた話をするのは、はばかられた。だがその沈黙で、伝わったようだった。


「俺はワイフもこっちへ呼んだからな。うまくいくといいな」


「祈ってくれ」


 ほんの数年後、イスメイはチャンスをつかみ、ロンドンで全く違ったキャリアを始めることになった。隣の机にいるオーキンレック名誉中佐は、第2次大戦が始まるまでインド軍を離れず、以後のキャリアもそのことを踏まえたものになった。イスメイの父はインドで法律家から官吏に転じ、オーキンレックはイギリスで生まれた後、インド陸軍にポストを得た父についてインドに来ていた。ふたりとも教育はイギリスで受けたが、インドに根が生えた世代のイギリス人として、ときに難しい選択をしなければならなかった。


 そしてもちろんふたりとも、自分の生涯にまた世界大戦があるとは、まったく思っていなかった。


--------


「我がドイツは、ともに負けることによってようやく統一されたのかもしれません。ライヒスバーンのありようを見ていると、そう思います」


 首相官邸で閣議が始まろうとする頃、グレーナー交通大臣は他の大臣たちと雑談をしていた。参謀総長から大臣への転身である。


 第1次大戦に負けるまで、ドイツを走る鉄道のうちアルザス・ロレーヌを走っていた鉄道以外はドイツ帝国のものではなく、プロイセン王国をはじめそれぞれの領邦のものだった。ビスマルクはこれを何とか帝国の下で合併させようとしたが、果たせなかった。そして敗戦を契機に、新憲法第89条で「公共の利益になる鉄道を買収し統一運用することは政府の任務である」と定められて、7つの鉄道会社をドイッチュ・ライヒスバーン(ドイツ国有鉄道)の名で統一することができたのである。


「いや、グレーナーさんの手腕がなければできなかったことですよ」


 ゲスラー国防大臣は、グレーナーに気前よくお世辞を振る舞った。鉄道行政を仕切ることについて、グレーナーほどの適任者はいなかった。もっとも大戦の間に営繕を後回しにし続けたせいで、駅舎もレールもボロボロに傷んでいたし、機関車や貨車も状態が悪く、更新投資がなければ輸送力の縮小は避けられなかった。そのくせ、新たな税金を含む運賃収入は賠償を支払っていく原資の柱と期待されていたから、領邦政府を引き継いだ州政府にとって鉄道は従来のドル箱どころか、租税を吸い込む魔法の箱のように見えていたに違いなかった。


「どうですか。ゼークトは優しくしてくれますか」


 グレーナーの言葉に、ゲスラーは声を上げて笑った。


 ハマーシュタイン=エクヴォルトの義父を亡命に追い込んだカップの反乱は、政府・与党から見れば「国防軍の一部が反乱し、残りが鎮圧に手を貸さなかった」事件であり、国防大臣は軍人でも何でもなかったが辞任せざるを得なかった。後任のゲスラーも徴兵歴はあったが第1次大戦では召集されなかった民間人であり、素人扱いされるのを我慢しながら根気よくゼークトと付き合っていた。誰も代わりたくない役回りだったのか、ゲスラーは国防大臣として連続12回入閣を果たすのだが、それは(大部分)後のことである。


「閣下に代わって頂きたいくらいですよ」


 今度はグレーナーが笑ったが、ずっと曖昧な笑い方だった。皇帝を裏切り、軍を代表してワイマール連立政権を支持したことは負い目であったし、もう軍の要職につくことは難しいだろうとグレーナーは感じていた。もと参謀本部鉄道課長として、ライヒスバーンの統一は職歴を締めくくるにふさわしい偉業だった。


「我々はともに負けたが、協商国はともに勝ったとは思っていないようですよ」


 ラーテナウ外務大臣が口を挟んできた。


 ゲスラーとラーテナウの属する民主党は、ドイツ革命のときに既成政党のひとつが分裂してできたもので、帝政ドイツに対して基本的に肯定的であるが民主主義を重んじる方向を取り、知識層やユダヤ人の支持者が多かった。社会学者・歴史家のウェーバー、第1次大戦でドイツの軍需生産に実績を上げたユダヤ人資本家のラーテナウ、のちにヒトラー政権でもドイツ中央銀行総裁を続けたシャハトがみな創設メンバーであることから、この政党の「まとめにくさ」がうかがえる。ともあれ民主党(DDP)、社会民主党(SPD)、そして宗教の自由を唱えカトリック教徒の支持を集める中央党(Z)が連立政権を組んで、いわゆるワイマール共和国をここまで動かしてきていた。


「イギリスはフランスと結んでいたせいで、割に合わない大きな損害を出したと思っているようです」


「味方についてくれそうですか」


 身を乗り出したゲスラーは、「誰に対して」を口に出さなかった。もちろんフランスである。勝った方は忘れるが負けた方は忘れない。第1次大戦はフランスにとっては1870~1871年に普仏戦争で受けた屈辱をそそぐ戦いであり、ドイツが二度と立ち上がらないことを外交の第一目標にするように、あらゆる機会にドイツに疑念と制限を向けてきた。


「皆まで言うな」と言いたげに、ラーテナウは肩をすくめた。イギリスは「フランスが殴りたい相手を殴るこん棒」として使われたくないだけで、ドイツを愛しているわけではない。ラーテナウは資本家らしく言った。


「味方となりますと、探すのは難しいですなあ。なにぶんにも私たちは貧しい」


「我々より貧しい者……ですか」


 会議室にヴィルト首相が入ってきたので、グレーナーに対してラーテナウはもう答えなかった。


 このときすでにゼークトは、ベルリンに駐在する外交官を通じてトロツキー国防人民委員に渡りをつけ、ポーランドを共通の敵とするソヴィエトと連携の可能性を探っていたが、ヴィルトやラーテナウがそれを聞かされたのは1921年の秋になってからだった。これが翌年になって、ジェノヴァで開かれた国際会議にかこつけて独ソが結んだラパッロ条約に結実した。ラパッロはジェノヴァの近くだが、そこへの道はベルリンから続いていたのである。だがソヴィエトと盟約を結んだことに憤激する勢力もあり、この国難の時期だと言うのにラーテナウは暗殺されてしまうことになったのであった。


--------


「ジンでも一杯やりたいところだが、そういうわけにもいかんな」


「お前さんはよくやったよ、ウィンストン」


 ビーヴァーブルックは、もう若いとも言えない自由党の落選者、ウィンストン・チャーチルの肩を叩いた。保守党の保護貿易政策にどうしても賛成できず、保守党の強い選挙区で自由党の公認を受けて1908年に当選したのがここ、スコットランドのダンディー選挙区だった。1922年総選挙を迎え、2人区で労働党現職に負けたのはいいとして、禁酒運動家であるスコットランド禁止党のスクリムジャーにまで負けたので、チャーチルは自嘲(じちょう)したのである。酒が飲めないのは、盲腸手術の術後に解散になり、無理をして選挙区に出てきているからだった。


 第1次大戦を終わらせた自由党のロイド=ジョージ首相がチャーチルの親分のような存在であり、そのロイド=ジョージと保守党の仲を取り持って大戦中の政権交代を実現させた黒子役が、このビーヴァーブルック男爵だった。下院議員から今は貴族院に移って選挙の心配がなくなったこの実業家に、チャーチルは弟分のように世話になっているのである。


 元海軍大臣、元軍需大臣、元陸軍大臣、元航空大臣、植民地担当大臣。これがチャーチルの肩書だった。もっとも陸軍大臣と航空大臣は第1次大戦が終わってからで、復員担当大臣のようなものだったが。今は大戦が終わって4年経ち、戦争を熱心に推進したことが選挙ではマイナスに働き始めていた。海軍大臣になる前には商務大臣と内務大臣を合わせて3年ほどやっていたが、もう10年以上前のことで印象が薄かった。植民地大臣としても、戦争の後始末案件を多く処理することになった。


「今のキーワードが平和なのはわかっているさ。だがな……」


「焦るな。お前さんの日が来るさ。みんなそういう時期があるんだ」


 ビーヴァーブルックはチャーチルを乗用車に押し込むと、発車するようお抱え運転手に合図した。


 イギリスでもアメリカでも、社会改良を叫ぶ政治運動が力をつけていた。このままでは資本主義社会が保たないと考えているのは社会主義者だけではない。保守的な人々や宗教団体も、それぞれに社会改良を提案し、推進していた。アメリカで憲法改正による禁酒法時代を実現した社会改良のうねりは、1920年代の世界を覆っていたのである。


 イギリスで阿片、モルヒネ、コカインなどの販売・輸出が公的管理下に置かれたのは1921年以降で、麻薬中毒を病気と断じた1926年のロールストン報告書を経て、医師の処方箋なしには手に入れられないものへと変わっていった。そうした各種の「禁止運動」へのエネルギーは、いくらかは社会主義者と合流し、別のいくらかは反戦運動とつながっていった。1920年代後半の世界的な反戦運動の盛り上がりは、そうした根の上に咲いた花だった。


第2話へのヒストリカル・ノート


 第2次世界大戦が始まったとき、フランス軍はまだ2850両のルノーFT17軽戦車を持っていました。開戦時にドイツ第1装甲師団の戦車定数は331両(指揮戦車を含み装輪装甲車は含まない)でしたから相当な数でした。



 イスメイの回想によると、隣の机にオーキンレックがいたことは史実ですが、会話はマイソフの創作です。また、「ラクダ騎兵」が200人ほどだったのであって、第1次大戦でエジプトを本拠に活動したEgyptian Camel Transport Corpsには(同時に、ではありませんが)72000頭のラクダがいました。



 チャーチルはもともと保守党から下院議員として当選したこともありましたが、ジョゼフ・チェンバレン以来の帝国特恵関税(日本ではブロック経済と呼ばれています)政策に強い反対意見を持っていたチャーチルは、思い切って離党し、自由貿易政策を公約とする自由党に拾ってもらいました。そしてこの落選を手始めに3回連続で選挙に落ち、その間に親分ともいうべきロイド=ジョージ元首相は自由党内で孤立してしまいました。チャーチルは、労働党政権の親ソヴィエト政策が問題になった次の次の次の選挙で保守系無所属として当選し、ようやく保守党への復帰を認めてもらいました。


 ウィンストン・チャーチルの父ランドルフは、1903年に自由党のジョゼフ・チェンバレンがイギリス連邦外との貿易に課税する政策を打ち出したとき、これに反対して自由貿易を支持しました(若いころには保護貿易を支持していたこともあります)。息子のネヴィル・チェンバレンは保守党の政治家として実績を積み、1930年代に帝国特恵関税に舵を切りましたが、ウィンストン・チャーチルは自由貿易を支持して逆に自由党に合流し、のちに保守党に出戻ったあとも保護貿易には反対し続けました。チャーチルとチェンバレンは二代続きの政敵というわけです。

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