第17話 入れ替わる役者たち
ツァイツラー中佐は中尉のころ小隊長をやったきりで、10年以上指揮官をやっていなかった。ずっと参謀勤務だった。こういうことは珍しい。「球電クルト」とあだ名されるほど激しやすい性格で指揮官として敬遠されたのかもしれないし、人の嫌がる政治案件にも文句を言わないことが重宝されたのかもしれなかった。ライヒェナウが局長のころから総合政策局にいて、カイテル局長に代わってもそのまま勤めていたが、1937年1月に国土防衛課へ配置換えになった。課長はまだヨードルである。
「もう少しこう、ガツンと言ってやることはできないのですかねえ」
ハルダーとヨードルの前にも、ツァイツラーと同じ書類が配られていたが、真っ先にぼやいたのはツァイツラーだった。
「お手柔らかに頼むよ」
ハルダーがなだめた。ちらっとハルダーが顔色をうかがうと、ヨードルも不機嫌そうに書類に目を落としていた。
大演習にあたり、ブロンベルクの名前で準備指示を出さねばならない。ブロンベルクが陸軍を指揮したと取られないように、カイテルは懸命に言葉を選んだ。そのことをツァイツラーは憤っているのだった。
「君は発想が柔軟だな、中佐」
ハルダーはほめているようで、じつは自重を促していることに気づくほどには、ツァイツラーの感性は柔軟だった。ツァイツラーはうつむいて黙った。牧師の息子であるツァイツラーには、軍人貴族らしいところがなかった。だから陸軍のメンツなどと言うものが理解できないのだった。あっち(ベック側)のチームにいたら早々に干されていたかもしれなかった。
空気を変えようと、ヨードル大佐が口を開いた。
「空軍部隊を陸軍司令部の戦術的指揮下に置くことは、可能なのですか」
「偵察、対空砲兵、防空監視、必要であれば戦闘機を陸軍に割り当てる。空軍教令16号ではそうなっている。協力のための中間司令部を作って、それを陸軍の司令部に差し出すようだ。さすがに生の命令を、陸軍軍人に自由に書かせるわけにもいかないだろう」
この中間司令部はコルフト(Kommandeur der Luftwaffe)という名前になった。偵察航空団司令部がコルフトに改組される例が多く、相当な規模の通信隊をつけていた。むしろそちら(配下部隊との通信)が機能の本体であったとも言える。
「まあ、何を割り当てるかは空軍が決めると言うことなんだろうな。我々も当面はそれで行こう。どの部隊を大演習に出すかは陸軍が決めることだ。だが、たぶん総統は第3装甲師団を見たがるんだろうな」
ヨードルとツァイツラーは眼をぱちぱちさせて、無言の同意に代えた。第3装甲師団長のグデーリアンがヒトラーのお気に入りであることと、陸軍内部にも一定のファンがいることは両立していた。
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すでに取り上げたように(第16話へのヒストリカルノート)ドイツ空軍の作戦目的には、人的被害を出して敵国の士気をくじく、いわゆるテラー爆撃はなかった。それは「作戦目標として追求しない」というだけであって、人家があるから目標破壊をちゅうちょすると言うことではなかった。また、移動妨害は前大戦から基本的な空軍の使い方のひとつであり、無防備な街を焼くことで敵部隊の移動や物資輸送を止められるなら、そうするかもしれなかった。
ゲルニカという街は、政府軍が追いつめられた東西に細長い地域の東端近くにあり、街の東にある橋を落とせば多くの政府軍を孤立の危機にさらすことができた。指揮官たちの日記や断片的に残る命令文にも、この石造りの橋のことがもっぱら触れられている。1937年4月26日は平時なら市が立つはずの日であり、朝から多くの人通りがあった。これを政府軍の大部隊と誤認でもしたなら、橋でなくもっぱら街を焼いた理由が理解できる。ところがそのことは日記などに触れられていない。この日のコンドル軍団戦時日誌(Gefechtbericht )は欠けている。戦後になってドイツ軍人個人の日記がいくつか研究者の目に触れたが、本人が自ら、あるいは強いられて、日記の内容を操作できる時間はたっぷりあった。
そして、石造りの橋を壊すのにおよそ役に立たない、1kg焼夷弾が何千発と使われている。この焼夷弾を落とす選択が誰のものだったか、はっきりしない。
ずっと先、第2次大戦末期に有名なレマゲン鉄橋の攻撃失敗があったが、橋を爆撃で壊すことは難しいとされている。だが代わりに街を焼いたとして、政府軍の移動を拘束できるのは燃えているあいだだけである。
ドイツが機材か戦術のテストをしたという説もある。フランコ派がテラー爆撃をドイツに望んだ可能性も否定できない。実際には数日後、フランコ派は陸上でこの街に迫り、抵抗に遭わず橋と街を占拠したから、「守る街がなくなれば政府軍は退くだろう」という純軍事的な読みで、爆撃を誰かが命じたのかもしれない。
小説という形であっても、ゲルニカの真相についてひとつの解釈を決めつけることは控えたい。ただスペイン内戦全体について言えば、軍事的な重要性のない都市が爆撃され、民間死傷者が出るのは特別なことではなかったし、ドイツ空軍はイタリア空軍に比べれば少数であったから、ドイツ空軍のドクトリンがテラー爆撃を許していようといまいと、スペイン市民にとって大きな差異はなかった。政府軍の拠点であるマドリードは爆撃だけでなくフランコ派の砲撃を間断なく受け、多くの死傷者を出した。たまたま外国特派員が近くにいて、外信により世界の注目を集めたゲルニカ爆撃は、スペイン内戦全体を通した民間人の被害を理解するためには、平均からかけ離れたケースであるかもしれない。民間人が大勢戦災で命を落としていたとしても、空爆によって死傷した人々のことをゲルニカの例は強く印象付け、そんな死傷者の比率が実際より大きかったように思わせているかもしれない。
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1937年5月28日、イギリスではネヴィル・チェンバレンが新しい首相になった(第9話以来の登場)。
ネヴィルを指して、「尊敬はされるが友人はいない」と評した人がいた。若いときに島の責任者などやったのがいけなかったのか、適切なタイミングで「ありがとう」を口に出すとか、そうした気遣いができないのだった。だから才をもって世に出るしかなかった。
1920年代のネヴィル・チェンバレン保健大臣は、まさにうまくやった。予算を伴う複雑な法案を次々に編み上げ、国会を通し、年金や社会保険のシステムを打ち立てていく手腕は評価された。およそ外交において忖度だの融和だのができそうな人ではなく、むしろロジカルで直接的で温かみのない物言いをするチェンバレンが後継党首候補筆頭となっていること自体に、多くの保守党幹部がため息をついていた。
政権を取り戻した(第9話参照)労働党を1929年の世界大恐慌が襲い、緊縮予算を国会に出して文句を言われる役は労働党のものになって、与党は過半数を割った。ところが国王ジョージ6世は、ラムゼイ・マクドナルド首相が続投し、連立政権を組んではどうかと言った。労働党の大多数はこれに応じなかったので、挙国一致内閣とは言いながら、保守党政権にマクドナルドが乗っかっているような内閣になった。ローザンヌ賠償交渉やジュネーブ軍縮交渉をやっていたのは、この内閣である。
この内閣で、チェンバレンは満を持して大蔵(財務)大臣を引き受けた。チャーチルが1929年以来いちども閣僚になれないように、このところ就任すると出世の芽がなくなる問題物件のようなポストだったが、帝国内特恵関税、強引な戦時国債の低金利借り換え、緊縮財政は断固堅持という決然たる指揮をして、国民に強い印象を与えた。さいわい1933年になると税収が上向いて財政赤字も解消し、金本位制から離脱したままで下落していたポンド相場も、米ドルに対してほぼ第1次大戦前の水準まで回復した。マクドナルドもボールドウィンも老いが目立つ中で、内閣の番頭格であったチェンバレンが、いよいよ暖簾を受け継ぐ日が来たのだった。
「首相、精いっぱい頑張ります」
下院へ続く廊下で、イーデン外務大臣が声をかけた。1897年生まれのイーデンは、来月で40才である。若手抜擢枠とでも言うべき人事だった。
「ああ、心配することはない。難しいことは私が決めるから」
イーデンが言葉を失った理由を、チェンバレンは気づけず、無言の対応に首をかしげつつ元の歩みに戻った。
ボールドウィン内閣の番頭を長く務め過ぎたことも加わって、チェンバレンは自信満々であったし、だんだん閣僚に指図をする、強引な内閣運営が目立つようになっていった。だがそれは直に接する人間以外には、しばらく表面化しなかった。
後の歴史を考えると、チェンバレンはもうひとつ目立たないが重大な決定をしていた。前内閣の陸軍大臣だったクーパーはヒトラーに強い警戒心を持っていて、その意味で軍備拡張論者であった。だが陸軍の優先順位を低くする前内閣以来の方針(第12話参照)から見ると、この人物がこのポストでは困る。チェンバレンはクーパーを海軍大臣に移し、優秀な行政官だが軍事には素人のホー=ベリシャ交通大臣を陸軍大臣とした。かつてチャーチルがボールドウィンの大蔵大臣だったように、保守党と連立内閣を組む挙国派自由党のリーダーとして厚遇せざるを得ない人物だった。
新聞の軍事解説者として著名だったリデル・ハート退役大尉を非公式なアドバイザーとしたことを含めて、ホー=ベリシャ陸軍大臣は陸軍の将軍たちから冷たい目で見られた。イギリス陸軍の色々な不如意もホー=ベリシャのせいに見えなくもない。だが根本的には、それはボールドウィンとチェンバレンが堅持した優先順位のせいであり、チェンバレンはホー=ベリシャの意見を聞いてそうしたわけではなかった。
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「被告ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキーを、スパイ、反逆、テロ行為準備の罪で死刑に処す」
軍法会議の判決を申し渡されても、トゥハチェフスキーの表情は動かなかった。逮捕されてからまだ日が浅いとはいえ、激しい拷問もあり、すでにそれほど体力は残っていないのかもしれなかった。
審理に当たった将軍たちも、仮面が並んでいるようだった。トゥハチェフスキーが誅殺されるように、自分たちも無造作に逮捕され、定められた自白をするまで拷問されるかもしれなかったが、うっかり不信や不同意を表情に出せば、その日は近づくに違いなかった。
フルシチョフ時代以降に出版されたソヴィエト軍人たちの回想でも、スターリンが大粛清を指導している……というはっきりした(当時の)認識を書き残している例は少ない。海軍首脳部人事では告発側と目される政治士官たちが空席となった要職を占め、まったく仕事ができないのでそれを理由に処刑されており、誰かが何かを狙って糸を引いているかどうかすらはっきりしない、でたらめな逮捕と失脚であった。
このあと次々に陸海空の士官たちが粛清され、海軍では1904年生まれのクズネツォフが海軍人民委員(海軍大臣)になるほどだった。そのことの損失以外にも、トゥハチェフスキーが国家の敵とされたことで、彼が推進した国境の橋を有事のために爆破準備しておく計画が停滞し、身の危険を感じた士官たちが再開を言い出せなくなるなど、陸軍内の議論は委縮してしまった。唯一の無難な問題提起は、「戦訓に」よる改善提案である。だからフィンランドとの戦争以降、ソヴィエト軍の近代化はようやく急速に、しかし全体として不均一なまだら模様で続いていくことになった。
第9話で触れたように、ソヴィエトの少年少女はロシア帝国では望めなかった教育機会を得て、持てなかった夢を持つことができた。ジューコフのように青年期に差し掛かっていた多くの若者も、激動期に才幹の限りに働き、誇りを持って国を支え、責任ある地位に着いた。だから大粛清の黒い指が町や村にまで伸びたとしても、スターリンとソヴィエトの味方は、現代に生きる我々が想像するよりずっと多かったのである。
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ドイツでは、予備軍(Ersatzheer)という言葉は第1次大戦のころから存在していたようである。日本陸軍で言えば、新兵を訓練し、回復した傷病兵や予備役兵も加えて部隊の補充や新設を行う組織は留守師団と呼ばれ、陸軍省の担当部署が全国的な動員を調整した。ドイツ予備軍が担当したような仕事はどの陸軍にもある。
1937年10月の機構改革は、総合政策局を拡大してOKWを設置し、戦時にはOKWの一部門として予備軍を創設し動員、兵員補充などの機能を独立させるよう、組織を整理したものだった。ブロンベルクがいずれ三軍司令官として機能するために、「司令官としての職分」「大臣としての職分」を切り離そうとしたのである。じつはこれに先立って、マンシュタイン参謀次長は「国防大臣は軍政に専念することとして」別に三軍統合司令官とその幕僚部を作るよう提案していた。カイテルたちはそれを拝聴した顔をして逆転させ、「国防大臣は三軍統合司令官に専念することとして」それ以外の職権をなるべく予備軍として切り離そうとしたのだった。
ブロンベルク組とフリッチュ・ベック組は、三軍をブロンベルクが統括するか、陸軍の主導的地位を認めさせるかでまだ争っていた。その構造全体にひびを入れる事件が起ころうとしていた。だがその前に、同じ1937年10月に生まれた、小さいが重要な歴史のピースをはめ込んでおきたい。
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大演習の裏方仕事をつつがなく終えたハルダー中将は訓練担当参謀次長(OQu II)に補され、マンシュタインを筆頭次長として仰ぐ立場になった。
「これからは同じチームです。よろしく」
「はあ……はい」
くすくすと周囲の士官たちが笑いをこらえているのをハルダーは感じた。自分はよほど困った顔をしているらしかった。マンシュタインは日常業務を処理している顔だった。
ドイツ士官たちにとって、何も困ったことはなかった。ポストはたくさんあったし、まだ増えていた。引退した士官たちを呼び戻し、国境警備を手伝っていた制服警官隊から移籍者を迎え、鉄兜団もSAもお構いなしに呑みこんで、ドイツ軍はぐんぐんと巨大化していた。ドイツの再軍備が本格化した1935年と比べてすら、1939年の軍事予算は3倍になっていた。我々が知っているドイツ軍は、戦間期最後のほんの短期間でむくむくと膨張したのである。
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Hossbach Conference(ホスバッハ会議)で検索すると、いくつかの歴史解説サイトがヒットするのだが、ホスバッハ会議という呼称はさすがに正しくない。ヒトラーと三軍司令官、そして国防大臣と外務大臣が列席する会議を、総統付陸軍副官のホスバッハ大佐が記録した覚書がOKWに保存され、戦後まで残った。そしてヒトラーが意図的な侵略戦争を考えていた証拠と見なされて、有名になったのである。ホスバッハ覚書の原本には、会議の名前がない。事情があって臨時に開かれた会議であった。
1937年11月5日、この会議が開かれたきっかけは、鉄鋼の割り当てをめぐる三軍の衝突だった。
ヒトラー政権は紙幣を刷ったし、少し大げさに言えば、外貨すら刷った。イギリスは市場を閉ざしてしまったし、フランスはもともと農産物大国だから、東欧諸国は農産物の売り先を失い、ドイツ政府のダミー会社が発行した手形(メフォ手形)を使った貿易に応じたのである。また、熱量の低い褐炭ならたくさん国内で採れるので、そこから航空燃料を作ろうともした。あの手この手で経済制裁に負けない(英仏による禁輸などの対抗手段を封じる)国を目指したヒトラー政権だったが、工業生産力の多くをヒトラーが要求する軍備に割り当てながら、資源輸入のための外貨収入を残すのは無理で、とくに海軍は鉄鋼の割当量が必要量に足りないと主張していた。困ったブロンベルクは、ヒトラーによる調整を願い出たのである。
会議とは言いながら、実態としてはヒトラーの演説会と質疑応答(応酬)といったものになった。ホスバッハの記録した内容から見ると、ヒトラーはブロンベルクの望んだ調整などする気はなかった。代わりにヒトラーは、いま増強中の軍備を英仏に対しては見せ金とし、チェコスロバキアやオーストリアに対しては実際に使うことも辞さず、国際的な大ばくちに出ることを告げた。だから資源割り当てとは関係ないのに、ノイラート外務大臣もこの場に呼ばれた。
ヒトラーは軍備増強の効果が国力ぎりぎりまで出尽くし、NSDAPの指導者層もまだ若い1943年から1945年にかけて、英仏と戦争になるリスクを冒しても武力を行使し、オーストリアとチェコスロバキアを併呑すると述べた。それ以前に、フランスがドイツに対して宣戦できない事情が生じたなら、そのチャンスを利用することもあると述べた。英仏「に」戦いを挑むとは言っていないのだが、ブロンベルクとフリッチュはもっぱらその点、つまり英仏と戦う可能性について食い下がった。ホスバッハはレーダー海軍司令官の発言を何ひとつ記録していない。ゲーリングについては、スペイン内戦への派兵を中止して、ヒトラーが言う戦争に備えようと言う提案だけが言及されている。またノイラートは、ヒトラーが英仏がドイツと戦争をしないケースとして挙げた、フランスとイタリアが戦争に至る可能性を否定した発言だけが触れられている。
フリッチュは数日後、エジプトへの休暇旅行に出かける直前になってヒトラーとこの件で再度会談し、意見の一致を見なかった。ベックはその場にはいなかったが、フリッチュから事情を聞かされ、ヒトラーの方針に警戒を強めた。ヒトラーと陸軍の対立が始まってしまったのである。
レーダーは、ヒトラーの演説に海軍のことが少しも出てこなかったことを冷静に受け止め、その後もできる限りで軍拡を続けた。海軍から見れば、1936年にイギリスに認めさせた建造枠の天井はまだまだ手の届かないところにあって、資材が足りなければ達成が遅れるだけのことだった。ゲーリングはヒトラーから会議直前に、この会合は陸軍の軍拡スピードを上げるよう催促するものだと聞かされていて、少し後にやって来た海軍のレーダー司令官にもそれをささやいた。だから海軍も空軍も、「この会議に対しては」何の反応もしなかった。
さて、「この会議で反対を表明したブロンベルク、フリッチュ、ノイラートの3人が相次いで職を追われた」と書いてある本をよく見かけるのだが、この会議はヒトラーから見れば「陸軍に向けた軽いジャブ」であり、これに対して陸軍の抵抗が強まったことはむしろ驚きであった。翌年にかけて起こる「ブロンベルク=フリッチュ事件」は、じつはまったく別の動機を持った、意外なシナリオライターがいたのである。
第17話へのヒストリカルノート
「空を飛ぶものはすべて私の部下である」とゲーリングが言い張って降下猟兵を空軍所属として分捕った話は有名ですが、皆さんもご存じのように空軍所属の対空砲部隊が陸軍部隊の指揮下に入ることはよくあり、早いうちから空軍が陸軍に協力する基本的なパターンは計画されていました。ただし、大戦中盤からこのシステムはだんだん変わって行きます。すべての協力はコルフトを通すのだとすると、この「陸軍とも空軍ともつかないコルフト」がたくさん必要になって、希少な通信部隊が足りなくなってくるので、陸軍からの注文は高いレベルの司令部でまとめて受ける方向になったのです。大戦中盤でコルフトは廃止されるか、空軍の下で働く偵察部隊などに変わって行きました。いずれこの小説でも触れることになるでしょう。実際には戦闘機部隊や防空監視部隊がコルフトの指揮下に置かれた例は知りません。もっぱら偵察機と対空砲部隊です。
チャーチルは自由貿易論者でした。イギリスの保護貿易論者と言うと「イギリス本国を世界の残り全部から守る」考えと、「イギリス連邦内の製品が本国の産業を圧迫するのは仕方ないとして、イギリス連邦を世界の残り全部から守る」2種類の考えがあって大雑把なことが言いづらいのですが、軍人と土地保有者を支持基盤に持つ保守党は保護貿易に傾く傾向があり、第2次ボーア戦争の戦費を関税で取り戻したいジョゼフ・チェンバレン(ネヴィルの父)は連邦外との貿易へ関税を高める政策を打ち出しました。
チャーチルは保守党議員の息子として自分も保守党で初当選しながら、この対立をきっかけに自由党に転じてアスキスやロイド・ジョージのもとで閣僚を歴任しました。第1次大戦のガリポリ上陸作戦で責任を問われるなど浮き沈みがありましたが、1920年代になると自由党が労働党や共産主義に寛容であることが我慢できなくなり、離党して無所属保守系議員として当選しました。チェンバレンが断った後、自由党を含めた中間勢力の核になりかねないチャーチルに大蔵大臣のポストをやったのだと言われています。のちにチェンバレン首相も、当時の政治的同盟者であるホー・ベリシャに陸軍大臣を任せて批判されるのですが、それはいずれ語るとしましょう。
「スターリンの大粛清」と呼ばれる一連の政治的迫害事件のうちで、スターリンが犠牲者を選んだことがはっきりしているケースはむしろ少数です。例えばスペイン内戦に介入したソヴィエト軍部隊に参加した士官たちは、「外国と通謀した」という容疑をかけられてよく逮捕され、拷問により自白を引き出され処刑されたり、単に行方不明になったりしました。密告も奨励されました。むしろスターリンはしばしば助命嘆願を受け、再調査を命じて感謝されました。「スターリンが調べろとひとこと言えば、まずその犠牲者は釈放される」と看破した閣僚もいました。
トゥハチェフスキー元帥への告発も、公式にはスターリン自身が提起したものではないのですが、ポーランドとの戦争でワルシャワにブジョンヌイを送らなかった事件以来のわだかまり、近年のトゥハチェフスキーが勢威を高めていたことを合わせて、これはスターリンの差し金で間違いないでしょう。他の将軍たちとともに、ドイツまたは日本との戦争でソヴィエトを敗北に導いたのち、ロシアの実権を握ることを計画したとされました。トゥハチェフスキーの地位が不安定になったことに気づいたドイツが、ドイツへの内通を示す偽手紙をつかませたとも言われますが、自白するまで拷問するのであれば、罪状は何でもよかったでしょう。
ベリヤ内務人民委員の名前が大粛清のイメージと結びつきがちですが、のちに要路の人物を粛清しすぎて国力に障るほどになってきたので、ベリヤが前任者を逮捕して処刑し、粛清が行き過ぎた責任をかぶせたのでした。こうした工夫で、国民の間でスターリンの人気は落ちませんでした。国民から届く「コムソモール(共産党少年団)のマフラーが僕らの村に入荷しません」といった嘆願の手紙に応じて見せるなど、マメなバラマキ福祉もやっていました。
トゥハチェフスキーはスターリンが死後に批判されるまで、「ほめてはいけない人」になりましたが、トゥハチェフスキーのもとで編まれた野戦教範などは遺産となりました。もともと作戦術というのは作戦級指揮官が勝手にやっても補給や増援がついてこないものであり、思い切った作戦を仕掛けるには軍すら超えた政治的なバックアップが必要です。トゥハチェフスキーのいないソヴィエトは戦争指導のスタイルをあれこれ工夫して、指導の整合性を保とうとします。
軍人の世界とは距離のある話なのでヒストリカルノートで語るしかないのですが、レーニンの時代には富農がその資産とともに温存されていました。優秀な農業経営者も含まれるクラークを一律に排除することはためらわれたのです。スターリン時代になるとクラークは次々に農地を取り上げられ、数年にわたる大飢饉と引き換えに農業の集団化が進みました。そしてまず抵抗したクラークが、次いで「階級敵」として元クラークたちが殺され、また強制収容所に送られました。NKVDが逮捕した政治犯の数は、正確であるとしても多くの「行方不明者」を含まず、犠牲者の一部でしかないと思われますが、1937年に急増し約78万人となりました。しかし1934年の34万人をピークに、1930年から33年まで最低の年でも20万人弱が逮捕されるもうひとつの粛清の波があり、こちらはクラーク弾圧が中心であったと思われます。
日本全土は「師管」に区切られ、それぞれに常設師団がいました。常設師団が出征すると留守師団(師団留守隊と呼ばれた時期もありますが第2次大戦前)が置かれ、訓練・補充や戦時下の部隊新設に当たりました。太平洋戦争が始まってほぼ全師団が出払うことになると、近衛第1師団がいる東京師管と、第7師団がずっと北方防衛についていた北海道(旭川師管)以外は、本土防衛のために各師管にひとつずつ師団が新設されました。これらの新設師団もほとんどが出征し、そのまた留守師団が残されました。1944年になると第7師団の実戦部隊も要地に張り付いたままで、後方任務のために留守第7師団がつくられました(旭川師管区発足までは存続しています)。第2次大戦末期には、それら留守師団は師管区司令部と改称されて、本土での戦いへの投入が準備されました。姫路師管区司令部などは松代大本営を守るために長野県に移動しました。陸軍省が全国的な動員計画を立て、これらの組織を操っていました。
こうした後方の陸軍組織をドイツでは「予備軍」として独立させたわけです。
ホスバッハ覚書でブロンベルクは「4つの自動車化師団(vier mot Divisionen)が移動の準備ができて(bewegungsunfähig)いない」と言ったと記録されています。第2、第13、第20、第29歩兵師団は1937年秋に相次いで自動車化歩兵師団となり、戦車は持たないながら自動車に乗って移動できるようになる予定でした。想像するほかありませんが、ブロンベルクは「装甲師団と軽機械化師団がチェコスロバキアやオーストリアに出払っている間、西部国境で敵の突破に対処できるのは自動車化歩兵師団くらいですが、改編されたばかりで自動車が行き渡っておらず、歩兵師団のスピードでしか移動できませんぞ」と言ったのではないかと思います。それがそんなに重要なのかとも思いますが、とっさの反論として思い出したことを取りあえず述べるのは、よくあることですよね。
ゲーリングは「この会合は陸軍の軍拡スピードを上げるよう催促するもの」とヒトラーから聞かされた話をニュルンベルク裁判で証言しています。レーダー司令官の回想録には、ゲーリングから会議直前にそれを聞かされた記述があります。