第16話 宥和(ゆうわ)の始まり
第1次大戦のとき、ドイツ空軍を独立させようという話はすでにあり、少なくとも陸軍はそれに賛成した。そうならなかったのは政治的な事情だった。ドイツ帝国が成立したときの政治的妥協で、プロイセン以外にも3つの領邦が自分の陸軍省と「我が国の軍団」を持っていた。そして戦時にはドイツ帝国皇帝の指揮に服するという約束があり、その通りになっていた。空軍だけが帝国直属で独立すると、憲法改正レベルの政治的決定になってしまい、忙しい戦時にそんなことはしたくなかったのである。
空軍は独立させるとしても、対空砲部隊を航空部隊と統一運用すべきか、当時様々な意見があった。「先に相手をつぶしたらあとは好きなようにやれるので、まず敵空軍をつぶす」という航空撃滅戦を第一に考えれば、「航空機工場や飛行場をつぶしに来る敵の意図を妨げ、かつ敵戦力を削る」対空砲部隊も航空撃滅戦のメンバーとして統一運用した方が良い。この考えから、対空砲部隊は(原則として)空軍に移った。陸軍は自分の部隊を守るために、37mmまでの対空機関砲を持ち、都市防空などは空軍の仕事とされた。
ドクトリン全体を編み上げる中心人物として、1926年に軍務局防空室(Luftschutzreferat)の室長をつとめ、「航空戦作戦行動ガイドライン」という文書をまとめていたウィルバーク(Helmuth Wilberg)がすでに陸軍少将として退役していたのを呼び戻し、空軍の行動に関するガイドラインを作らせた。ヒトラー政権誕生直前のライヒスヴェーアにおいて、「対空砲教育隊指揮官」として対空砲関係の中心人物だったのはリューデル(Günther Rüdel)だったが、空軍に移籍して対空砲総監をつとめた。
--------
「新しい空軍では、ボゴールは編成しないのでありますか」
「ふむ、そこだ。まさにそこだ」
若い幕僚の質問に、ウィルバークはにこりともせずに答えた。結論を押し付ける口調ではなかった。だいたいウィルバークが1926年にまとめた文書では、戦略爆撃部隊はそれ以外の部隊とは別にすることになっていた。そしてその編成は、第1次大戦のときドイツ陸軍が4つのボゴール(Bombengeschwader der Obersten Heeresleitung=Bogohl、直轄爆撃航空団)を総司令部直属とし、長距離爆撃機を集中配備していた先例を引き継いでいたのである。
「君は長距離爆撃隊も、航空撃滅戦の対象だと思うかね」
「ああ……大量配備がかなえば、もちろん」
「君も、戦闘機は要らないという意見か」
若い幕僚は言葉を選ぶために沈黙した。ウィルバークが人の悪い笑いを口元に浮かべた。
大出力エンジン、全金属製航空機、航空力学的な洗練など、航空機を速くする技術は大型機で先に進んだ。大型で高速の爆撃機に、軽く小さな機体に見合ったエンジンの戦闘機では追いつけなくなり、「戦闘機無用論」とでもいうべき見方が世界の軍人に広まった。
小型ですばしっこい戦闘機のほかに、第1次大戦では単発複座機が爆撃機の護衛と地上攻撃に活躍した。後部座席から機関銃を回して。周囲の敵を撃つのである。この構想の子孫として、単発複座のデファイアント戦闘機(英)や双発複座の十三試陸戦(日本、のち月光に発展)など、回転銃塔を持った戦闘機が生まれてきた。砲塔のない高速双発戦闘機なら爆撃機に追いついて撃てると考えたドイツのメッサーシュミット社はBf110戦闘機を開発した。もちろん単発単座の戦闘機もいろいろな工夫で速度を上げ、「戦闘機無用論」が現実になるかならないか、見えにくい時期があった。1935年という時期は、戦闘機の革新が進んで、その霧がようやく晴れかかってきたところだった。もちろん十三試陸戦が戦闘機としてはダメとされていったん偵察機に転換したように、個々の試みには失敗例も多かったのだが。
「昔は飛行船でロンドン爆撃などもやったものだ。あれも安くはなかったが、今の空で生き残れる飛行機は高い。戦略爆撃機は一番高いぞ。ドゥーエ(第12話参照)の言うような制空権の取り合いは、もう少し近場で、もう少し安い兵器を大量に使って起きるのではないかな」
「しかしもし爆撃機が決定的に優勢な兵器となったときは……」
「そのときはドイツ空軍全てが戦略爆撃隊となればよい。前大戦で我々は飛行船で戦略爆撃をやった。どんな航空機でも航空撃滅戦はできるし、戦略爆撃もできる。将来の技術について教則で決めつけても無益だよ」
ウィルバークは根気の良い教師ではなかったので、つい解答を口にしてしまった。そして続けた。
「戦略爆撃部隊と、陸海軍と協同する部隊にあらかじめ線を引いておかなくてもよいだろう。だが協力する場合の方法と限度は定めておかねばならん」
ウィルバークは口をゆがめて、不愉快そうに笑った。
「国の意思をまとめ、限りある資源をつぎ込む決断は、軍人がするものではないのだ。政治の決断に手段はついてゆくしかない。それはイギリスもフランスもお互い様だ」
若い士官たちは、黙ってウィルバークの話を聞いていたが、肝心なことをウィルバークが言わずに控えたような気がしてならなかった。しかし後から考えれば、それは、「誰も決めていないこと」であったのかもしれなかった。
--------
「どうした、ウィル」
帽子掛けの前で制帽をじっと見ているウィルフリド・フリーマン少将に、ダウディング中将は声をかけた。
「次を買おうかどうしようかと。要らないものと思っていましたので」
「聞いた。君にも災難だったが、イギリス空軍にも災難だった。幸い後の方は避けられたが」
フリーマンは軍帽を掛けると、向かい合わせの机に座った。今はダウディングからフリーマンへの引継ぎ期間だった。
ダウディングは1930年からイギリス空軍の補給・研究主任官をつとめてきた。ヒトラー政権が誕生し、イギリス空軍の規模をドイツに負けないように拡張する計画は1934年から具体化し始めた。ダウディングの王国は今や広すぎるので、ふたつに分割された。まず補給・組織主任官としてニューオール中将が赴任し、ダウディングは新設された研究・開発主任官として残った。そして1936年初頭の今、その職をフリーマンが引き継ごうとしていた。
フリーマンは積極的で厳格で、乾いたユーモアもある理想的なイギリス士官だったが、金持ちパパのおかげで若いころは社交も手広く、結婚相手に自立したがっている女性を選んだ。ところがそれがちょっと行き過ぎていて、自分だけであちこち外出し、高官夫人として当時期待されていた役目を全然果たしてくれなかった。ついに離婚に踏み切り、それが確定したのが1935年だったが、当時のイギリス軍で士官が離婚などしたら、非公式に退職が勧奨されるのだった。
ところがフリーマンのはるか上で、歯車がかちりと回った。有力な政治家であったスウィントン子爵カンリフ=リスターが連立内閣の数合わせで、長く勤めていた貿易関係の閣僚を外れて植民地大臣になり、ボールドウィンの保守党内閣になると空軍大臣をあてがわれたのである。当時のイギリス中東植民地は、軍縮のために思い切って陸軍を引き上げ、空軍がにらみを利かせることで現地親英勢力への防衛責任を果たす……という状態だった。だからパレスチナやイラクで空軍地域司令官をしていたニューオールやフリーマンは、旧知の空軍大臣からいわゆる「鶴の一声」をもらって、要職に就くことになったのである。
「えらい時期に、イギリス空軍の支柱になったものだな。どうやら私は間に合いそうにないが」
ダウディングがパイロット資格を取ったのは31才のときだった。フリーマンより6才年上で、定年がすぐそこに見えていた。
「今度は劣勢な戦争はしたくないですね」
ダウディングは首を何度も縦に振った。ドイツ機は1917年前半まで性能的な優位を保ち、敵に会ったら分が悪いと分かっていても、ダウディングやフリーマンは部下を送り出すしかなかった。ふたりとも専門的な技術教育は受けていなかったが、空での劣勢がどういうものか身に染みて知っていた。このコンビが、イギリスを救ったスピットファイア戦闘機から読みを外したデファイアント戦闘機まで、イギリス空軍のラインナップを決めて行ったのだった。
--------
ドイツ再軍備に対抗する自然な方策は、対ドイツ同盟の構築だった。ロシア帝国のフランスからの借財をソヴィエトが返そうとしなかった経緯もこのさい棚に上げて、フランスはソヴィエトと新たな条約を結び、1936年3月に批准・発効させた。この条約には「侵略を受けたら相互に支援する」といったあいまいな約束しか書かれておらず、しつこいくらい国際連盟憲章の関連部分が引用されていて、すでに交わされた約束を再確認した人畜無害な体裁になっていたが、ヒトラーは「脅威を感じたのでドイツも約束を守らない」と切って捨てた。そしてヴェルサイユ条約、さらに1925年のロカルノ条約で軍隊を置かないことになっていたドイツ西部の国境地帯に陸軍を進め、駐留させた。いわゆるラインラント再進駐である。
イギリスもフランスも、口先の非難が反応のすべてだった。すでに触れてきたように、フランスは有事に即応できるタイプの陸軍軍備を切り詰めていたし、イギリスは海と空で国土を大陸から遮断する戦備に全力を挙げていたから、そうするしかなかったのだが、ドイツ軍人たちは強く対抗されたら引くしかないとヒトラーにしつこく念を押していた。
そしてフランスと同盟を結んでいたベルギーは、ドイツ軍がベルギー国境に戻ってきたのを見て、中立に戻ってしまった。つまりもう、フランス軍がベルギー領で(ひょっとするとオランダ領で)ドイツ軍を食い止めようと前進したとき、ベルギーがそれを認めるとは限らなくなったし、事前の相談も表立ってはできなくなった。
それならフランスはベルギーを見捨てればいいのかというと、以前にも語ったように、両国国境のうち海岸に近い部分はみっしりと街が並ぶ平野である。守りやすい地形までベルギーに入り込まなければ、守りようもない。このことが1940年に、悪い形で結実することになった。行動を読まれれば、付け入る手段が生まれてくるのである。
--------
政治家たちはまだ帝国主義的な侵略戦争を選択肢から捨ててはいなかったが、1936年になってエチオピア全土を占領したイタリアに、英仏の世論は大義を認めなかった。例えばイギリスのイーデン外務大臣とイタリアのチャーノ外務大臣のように、個々の政治家どうしがひそひそと連絡し合うことはこの後も続いて行ったが、公にはイタリアはすっかり孤立したと言うしかなかった。そして日本は1935年にイタリア王が皇帝を兼ねるエチオピアを承認した。少し先の話になるが、イタリアは1937年11月の日独伊防共協定調印に合わせ、ドイツより半年早く満州国を承認することになった。国境の外で強引に権益を拡張する点において、ドイツは日独伊の中ではむしろ後れを取った国であったが、過去の条約を跳ね除けて制裁の危機にあった点では同じことだった。
Too big to failという言葉は、どの国の政府も大企業が経営危機に陥れば公金により救済せざるを得ないことを皮肉っている。おそらく当時はなかった言葉であるが、もめ事を起こせないほど大きな存在になろうとして、日独伊と言う3つの勢力が寄り集まり始めていた。
そこへ降ってわいたのがスペイン内戦……と言いたいところだが、これももとはと言えば、ヒトラーが強権的にドイツをまとめたことへのソヴィエトの対応がきっかけだった。
ソヴィエトもヒトラーの台頭に驚き、対策を練った。共産党が各国の社会民主政党に協力しないことで、かえって保守勢力を勢いづかせている面はあった。新しい方針の下で、ソヴィエトの指示に従う各国の共産主義勢力は、左派政権の成立を助けるようになった。
スペインもそんな国のひとつだったが、暗殺や弾圧の応酬が続くうちに反共的な軍人たちの立場が悪くなり、ついに反乱が起きた。大雑把にいえば親共産党の政権軍と反共産党の反乱軍という図式だった。
フランコが自身の支持者、王政支持者などを集めたファランヘ(ファランクス)党をファシズム政党と呼ぶのは単純化が過ぎるようにも思われる。1930年まで強権的な政治をしていた王の重臣がいたのだが、その息子が立てた運動である。その創設者も33歳で処刑されてしまったから、綱領の体系性を問われる前に戦争が始まってしまったのが有り体なところだった。だが共産主義と戦っているとなれば、反乱軍を助けることにムッソリーニやヒトラーの食指も動いた。
--------
フランコ派についたドイツのI号戦車は7.92mm機銃MG13を装備していたが、45mm砲を持つソヴィエトのT26軽戦車に対して、まったく無力というわけではなかった。7.92mm徹甲弾は120~150mまで肉薄できれば、T26を撃破できる威力があった。
これはすぐに気付かれ、T26はドイツ戦車の接近を決して許さなくなった。とくに停車して正確に照準されれば一方的にアウトレンジされるしかなかった。ドイツ戦車隊が37mm対戦車砲を連れて移動することは一定の効果があったが、それでも500mまで引きつけないと撃破できなかったから、仰角を取れば3000mまで狙える(当たるとは言ってない)T26は強敵だった。CV33豆戦車などを装備したイタリア軍部隊も同様に歯が立たなかった。
歩兵の支援なしに突撃を命じられたT26が対戦車砲で大損害を出す事例はあったが、距離を取っている限りT26は無敵に近かった。結局、最も効果的な対策は、T26を捕獲して使うことだった。ドイツ軍部隊も、ドイツ軍に訓練されたフランコ派部隊も、I号戦車とT26軽戦車を組み合わせて装備するようになったし、戦局が好転するにつれてT26の比率は上がって行った。
味方のT26がいないときは、I号戦車は小さな単位で歩兵部隊にぴったりつき、支援を与えるしかなかった。
--------
政府軍(フランコ派の敵)の兵士たちはもう、シルエットを確認しなくても、飛行機のエンジン音で敵か味方か見当がつくようになっていた。ドイツのHe51戦闘機はフランコ派だから、道の上から逃げないといけなかった。指揮官たちの号令もあったが、誰もそれを待っていなかった。小さな補給馬車の群れは、路肩に寄せて人だけ逃げるしかなかった。
エンジン音は近づき、誰もが予期した衝撃がやって来た。He51Aは旧式戦闘機なので現地改修を受けて、胴体内に10kg爆弾を6個積めるようになっていた。道には大した穴は開かないが、人を破片で殺すには十分だから、みんな伏せた。馬の悲鳴には、耳をふさいだ。まだ機銃掃射がある。うかつに顔は上げられなかった。
音が遠ざかると、兵士たちは道に戻ってきた。動ける馬と動ける馬車を、そうでないものから分けて、荷物をなるだけ助けねばならなかった。遺体もそのままにしておけば衛生上の問題があった。こうした作業に慣れた年長の下士官が、士官たちの顔色をうかがいながら指示を出した。
こうした移動妨害は、防御された敵陣地を直接襲うことに比べれば航空機側の損害も少なかった。そして道がふさがれ、部隊移動や補給が滞れば、将棋倒しに影響が広がった。だから第1次大戦のころから、移動妨害と陣地攻撃は地上支援の両輪のように、どちらも盛んに行われていた。爆弾搭載量などの攻撃力で劣る機材が移動妨害を引き受けることも、お約束のように一般的だった。逆に強力な爆撃機が爆弾を抱えて、いるかどうかもわからない敵を探して飛び立つことは、当時としては異例だった。当時の常識では、爆弾を抱えたまま着陸することは極めて危険であり、敵が見つからなければ着陸前に投棄するしかなかったからである。
--------
ポイと落とすだけでは、爆弾は当たりにくい。アメリカ軍はノルデン爆撃照準器を作って、自分の速度だの風速だの修正要素を計測装置と人の入力で補って、機械の助けで落とすタイミングを正しく選べるようにした。アメリカ軍がこれを最高機密として守ったことは別としても、この装置自体が複雑で重くかさばり、高価なものになった。
そうした装置を積む余裕のない戦闘機が爆弾を正確に当てる方法として、第2次大戦までに3つの方法が使われるようになった。ひとつは、爆弾の代わりにロケット弾を積んで、いま航空機が飛んでいる方向に飛ばしてやることである。といってもなかなかまっすぐ飛んでくれないのだが、イギリス空軍やソヴィエト空軍が第2次大戦で使用した。
もうひとつは、爆弾に遅延信管を使い、目標にゴツンと当たったら1秒後に起爆するようセットして、目標の上を低高度で飛び過ぎることである。1秒の間に飛んで逃げればいいと言う理屈だが、命がけである。地上攻撃にあたった航空機の喪失記録を見ていくと、自分の爆弾の爆発に巻き込まれて落ちた機体もいくらか見られる。ドイツ軍が1941年ごろから使用して、戦闘機に地上攻撃を盛んにやらせた。
第3の、とはいえ時期的には最古のものが、このスペイン内戦からドイツ空軍で注目された急降下爆撃である。上から少なくとも45度、できれば垂直に近い角度で目標めがけて飛び、爆弾を放して逃げる。機首を引き起こすとき低速になり、対空砲火に食われやすい。無理な運動をするわけだから急降下爆撃機は頑丈に作ったうえ、重いダイブブレーキを広げて地上激突前に減速せねばならず、スピードや航続距離といった普段の飛行性能が落ちてしまう。このようにいろいろ問題はあるのだが、第2次大戦直前には有望な方法とみられ、多くの国が急降下爆撃機を開発した。ドイツでは何と言っても、Ju87であった。
スペイン内戦は、だらだらと1939年まで続いて行った。イタリアはドイツを上回る戦力をつぎ込んでおり、1934年のようにオーストリア併合を邪魔されないためには、イタリア軍に忙しくしていてもらった方がヒトラーに都合が良い面があった。長引いた原因はひとつではないが、ドイツが早く終わらせようと思い切った支援をしたら、もっと早く終わったかもしれない。
ともあれ、まだ介入本格化の途中とも言える1936年10月、ドイツでは一連の重要な人事が動いていた。
--------
ハルダーはドアの前で呼吸を整えた。今回の異動先は楽なポストではないのだが、これから会う人物が……たぶん……難物だった。おそらく本人に悪気は少しもないのだが、俊英ハルダーをして自分を凡人だと思い知らされる相手だと聞いていた。
「国防大臣直轄の特設準備室に赴任しました、ハルダー中将です」
「どうぞ」
眼光鋭い……というほどではない。だが周囲の空気を張りつめさせる何かをハルダーは感じた。ドアの向こうにいたのは、マンシュタイン少将だった。ハルダーの方が3才年上で、上級者でもあるが、マンシュタインは作戦担当参謀次長として絶大な権限を握っていた。去年から作戦課長をしていて、今月から昇任である。ヒンデンブルグ元帥の甥っ子でもあるマンシュタインは、誰が見ても次期参謀総長候補の筆頭だった。
「ご就任おめでとうございます」
「恐縮です。閣下も大任を引き受けられたと聞きました」
ハルダーの特設準備室(Sonderstab)は、来たる1937年秋の大演習を企画実行するためのものである。空軍の参加に加えて海軍も関連展示くらいはするものと予定されており、ブロンベルクが三軍を指揮する形へ持っていく重要なステップと目されていた。ブロンベルクの「一の子分」として振る舞わざるを得ないカイテルがフリッチュに相談して、フリッチュの推薦で決まった人事だった。ハルダーは温厚な性格と明晰な指導から、訓練・教育の専門家と目されていた。
「とどこおりなく実施できるように努めてまいります。ご協力を頂けるものと頼りにしております」
「私は参謀総長の意を受けるのみです」
ハルダーは言葉をとぎらせた。ベックとフリッチュはもともと旧友だが、ブロンベルクの国防軍指揮権掌握に呼吸を合わせて抵抗していた。ブロンベルクに実権を渡せば、それはヒトラーに渡すのと同じだ……とふたりは思ったのである。だからマンシュタインは「私はフリッチュ・ベックチームですから」と言ったのであり、ブロンベルクチームの一員として発令されてしまったハルダーとしては身を縮めて承るしかない。
「では、今日はこれで」
「お会いできてよかった。また訪ねて下さい」
とはいいながらマンシュタインの表情には何の愛想もなかった。ドアを閉めたハルダーは、大きく息を吸って吐いた。
地縁でひいきしない点では、前大戦に負けてからのライヒスヴェーアは優良な組織だった。だがヒトラー政権になり、ヴェーアマハトと改称されてからのドイツ陸軍はすっかり煎じ詰められて、「プロイセン貴族っぽい人全国選手権」を勝ち抜いたような首脳部になっていた。ベックなどはドイツ西部の生まれで、育った地であるアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)で老後を過ごしたいと思っていたほどだったし、フォン・フリッチュ男爵家を貴族に列したのはザクセン王国だったのだが。
--------
イギリス陸軍のイスメイは1930年に国家防衛委員会事務長補佐の任期を終えたとき、普通の軍人のキャリアに戻る気でいた。ところが命令関係のない民間人や官僚とうまく交渉できる軍人は多くはないし、実績を作った軍人となるとますます貴重になる。声がかかったのは、インド総督の軍事秘書職であった。このあいまいな職名に隠れた本当の仕事は、総督の護衛責任者であった。総督の接見や旅程を管理し、必要とあらばそれを変更することを総督に納得させなければならない。きらびやかな軍服で供奉し、上流人士とにこやかに応対しながら、エレガントに締めるところを締めなければならない。つとまる軍人は多くはなかった。
そして次の転任先は、国防省情報局だった。大佐ともなれば、番号をもらってカーチェイスする仕事が来るわけではない。集まってくる海外情報を分析するのが仕事だった。雑多な非軍事的情報の束を処理するために、国家防衛委員会で産業統制と軍需物資調達を担当した経験が生きた。逆に情報局の仕事はイスメイに、国家防衛委員会の仕事ほど総合的で制約の少ない仕事は(実現するかは政府首脳次第だとしても)軍にはほとんどないことを実感させた。
「余人をもって代えがたい」という評言がまだなかったとしたら、それはモーリス・ハンキー国家防衛委員会事務局長のために生まれるべきであったろう。しかし1877年に生まれ、1916年の戦時内閣官房長就任からずっと同じ仕事をしているハンキーは、1936年になるとそろそろ後任者を見つけるべき時期に来ていた。そしてハンキーは国家防衛委員会をイスメイ大佐に譲る気でいた。ポストが新設されるので副事務長にならないか……というハンキーの手紙と、アフガニスタンで騎兵旅団長をやらないか……という手紙がいちどにイスメイに届いたのは1936年の春だった。
イスメイは、国家防衛委員会をとった。情報部にいれば、戦争の危機が迫っていることはわかる。そのとき、前大戦のように本国から遠くの方で戦うのはもう嫌だった。もう普通の軍人キャリアに戻れないとしても……である。
1925年の着任当時、イスメイ少佐は階段を1段抜かしに上がったものだった。ポロで事故をやったので、もうそんなことはできなくなっていて、イスメイ大佐はエレベータで上がってきた。すぐに懐かしいハンキーの執務室に通された。
「ようやく戻ってきたな」
「このような重大な時期に呼んで頂けて光栄です、サー」
ハンキーも急な階段を苦にする年齢になっていたが、まだまだ眼光は失われていなかった。
「サー・インスキップには明日アポイントを取っている。何か聞いているかね」
「ノウ・サー」
「君はウィンストン(チャーチル)とは親しかったかな」
「個人的にお付き合いいただくほどではありません」
イスメイは慎重に言った。1936年春に始まる、軍備再拡張に向けた一連の改革で、「防衛統括大臣」が新設され、それは実質的に「国家防衛委員会担当大臣」であった。他省庁の権限はいささかも削られなかったから、今のところ決定権はほとんどなく、「首相と一緒に困る」「首相と一緒に批判される」くらいしかできなかった。
初代の防衛統括大臣であるインスキップは法務系のポストを歴任した政治家で、弁護士資格を得たあと海軍情報部や海軍法務部で勤務した経験はあったが、部隊指揮の経験はなかった。このようなポストと言うと、陸軍士官であり海軍大臣と軍需大臣と航空大臣を経験し、海軍航空隊創設にも関わったチャーチル以上の適任者はいないはずだったのだが、ボールドウィン首相は今回もチャーチルを閣内に招かなかった。チャーチルは保守党主流からは相変わらず嫌われていた。
「スタン(ボールドウィン首相)ももうすぐ70才だからな」
「……」
相槌を控えたイスメイを、ハンキーは声を立てずに笑った。平時から産業統制を押し通せるだけの政治的腕力が陰り始めている……というのは一面の真実ではあったが、最盛期でも今のボールドウィンに腕力で劣る首相はいくらでもいた。
「合格だ。我々は、できることをするのだ。そうだな。君のいたころと違うところをまず見せようか」
ハンキーは立ち上がった。てっきり事務長補佐に紹介されるのかと思ったら、違っていた。連れていかれた広くもない部屋には4つの机があり、陸海空の3人の大佐と、海軍海兵隊の肩章を付けた少佐がひとりいた。
「統合計画委員会の委員代理の皆さんだ。このように顔を突き合わせて……毎日何の相談をしているかは知らないが。紹介しよう。副事務長になったヘイスティングス・イスメイ大佐だ」
ハンキーの紹介に失笑が漏れた。陸海空から大佐級が出ている統合計画委員会の委員はみんな本務持ちだったから、会議のときしか他の軍との調整に携われなかった。そこでフルタイムで調整だけをする佐官をもうひとりずつ出して、この部屋に集めたのである。これも1936年の改革の結果だった。のちに大戦に入ると、このチームは統合計画室(joint planning staff)という名前になって、チャーチルの戦争指導を支えるようになった。
ちょうど2年後の1938年8月1日、ハンキーの後任についたイスメイは、こうしたチームを率いて三軍統合指揮の問題に取り組んでいくことになった。
ドイツ士官たちが上から下まで、みんな委任戦術の原則を守るように、イギリスの指揮官はすべてを命令する責任があった。だから「計画」に大きな資源をつぎ込んだ。実行する権限がないとはいえ、1936年から積み重ねられた議論には、空襲を持ちこたえられない場合の首都機能疎開計画すらあった。フランス電撃戦はドイツ自身にすら土壇場まで予想できないものだったから、イギリスにはそれに対抗する用意がなかった。しかし本土防空の必要性は重視されていたから、イギリスには計画も機材もあった。
1931年、ダイムラー社は戦時に航空機用エンジンを生産することを前提とした新しい工場に投資した。さっそく航空省は、ダイムラー社にブリストル社の航空機用エンジンをいくらか「教育的観点から」発注した。1932年までに……それはつまり、ヒトラー政権など影も形もないころから、国家防衛委員会は戦時に航空機機体生産を手伝う(業界外の)4社と、同様に航空機エンジンを手伝う8社を選び終わっていた。そこまでやっても、実際に戦争が起こればいろいろなことが起きたのだが。
今だから言えることだが、このような軍として、また国としてのイギリスの性格を考えれば、予想できない行動でイギリスに戦力比以上の損失を与える敵将として、ロンメルほど厄介な人物はなかったであろう。
--------
イギリス空軍のフリーマンがすっかり引継ぎを終えて研究・開発主任官(AMRD)の辞令を受けたのは1936年4月だったが、生産現場もそれを統制するお役所仕事も「一から勉強」であったフリーマンに、さっそく難問が降ってきた。
ダウディングとフリーマンがまとめた最新の空軍拡張計画は、1936年2月にまとまった「F計画」で、1939年3月末までに最新鋭(量産準備中)のハリケーン戦闘機を900機整備することになっていた。ところがホーカー・シドレー社は、やはりその数の量産は無理だと言い出したのである。戦間期のイギリス航空業界では、ヴィッカースとホーカー=シドレーのふたつの親会社が今でいうM&Aを盛んに仕掛け、企業集中が進んでいたが、ホーカー=シドレーはヴィッカースに比べて非熟練工をうまく使えず、ホーカー・ハート軽爆撃機の量産ロット入札でヴィッカースに惨敗するという珍事も起こしていた。そしてこのとき、スーパーマリン社はすでにヴィッカースの子会社になっていた。
「ハリケーンを600機、スーパーマリン社のスピットファイアを310機としたいと考えていますが、どう思われますか」
航空省の重要施策を決定するのは、航空大臣が主宰する航空委員会(Air Council)だった。フリーマンはその重鎮であるウィリアム・ウェア男爵(1938年に子爵)へ相談に来ていた。ウェアの機械メーカーはかつては航空機の委託生産をやったこともあり、ウェア自身が第1次大戦末期に航空委員会委員長を務めていた。
「試作機は1機だけで、それすらまだ空軍に引き渡されてもおらんのだろう。間に合うのか」
「むしろ、今から契約しませんとスーパーマリン社の準備が始まりません。1939年3月という締切は切られておりますので」
「それは、そうだが」
なにごとも直截なフリーマンの流儀を、ウェアの方も少しずつ理解し始めているところだった。イギリス紳士の振る舞いは、平均的にはもう少し丁寧で遠回しなものだった。
ロールスロイス・マーリンエンジンはハリケーンとスピットファイアの両方が使う予定だったが、これもまだ試作段階だった。だがエンジンの能力を上げて、機体本体の設計をそれに合わせ微調整することでひとつの機体を長く生産することが、一番生産現場を混乱させないのだとフリーマンは理解し始めていた。だから、どっちみち量産準備の間にマーリンがバージョンアップするとしても、機体の量産契約を早く済ませないと、生産ラインの立ち上げが始まらないのだった。
「とにかく試作1号機を納品させて、空軍のパイロットに飛ばしてもらいます。報告は電話で受けます」
「おいおい……」
ウェアはとうとう笑い出した。新型機のテストといえば、空軍に納品されて地上で検査を受けるだけでも1週間では済まないのが常識だった。それをいきなり飛ばして、報告文書の文案を練る間も惜しむというのである。
「電話で何が言える」
「普通のパイロットに飛ばせそうな機体かどうか。質問はそれに絞ります。基本的な機体の性格は、スーパーマリン社の資料で明らかですので」
もちろんそれは、フリーマンがこまめにメーカーに足を運んで、観察と対話で得た情報あっての判断であることはウェアにもわかっていた。
「そんなに、良いのか」
「はい」
「いいだろう。君が操縦したまえ(You have the control)、ウィル」
「確かに(I have)。感謝します、閣下」
用事が済んだのでフリーマンは立ち上がった。ウェアの苦笑に見送られて、フリーマンは次の仕事先に向かった。
航空委員会はフリーマンの方針を基本的に了承し、5月中旬に納品されたスピットファイアの好印象はテストパイロットからフリーマンに電話報告された。量産契約は6月3日に結ばれた。
先に触れたように、フリーマンの世代は、第1次大戦で飛行隊長や航空隊司令を経験した。ドイツ機が性能で勝ると分かっていながら、毎日旧式機に出撃命令を出し続けたのである。フリーマンの弟もドイツ機に撃墜されて戦死していた。第1次大戦の反省を生かすという点でドイツ陸軍はイギリス陸軍よりはるかに徹底していたが、空ではむしろ逆だった。フリーマンは「性能劣位だけは何としても防ぐ」という観点から、目先の生産機数を優先する政治的な圧力と戦い続けたが、そうした方向性は多くのイギリス空軍士官に共有されていたのである。
ただ、1920年代から1930年代初頭にかけて「仮想敵不在」であったイギリス空軍には、有力な敵空軍のいる空で地上支援に当たる、襲撃機や急降下爆撃機と言った機体が欠けていた。大戦に入ったイギリス空軍は「あるものでなんとかする」ことを強いられたのであったが、それはそのとき語るとしよう。
--------
戦間期全体にわたって、世界の航空機産業と空軍はひとつのトレードオフに直面していた。多くの機種を発注すると1機当たりが高価につくし開発費用もかかる。機種を絞り込み、少数の企業から少数の機種を調達すると、わずかな企業しか開発チームに仕事を与えられず、下請け仕事を回しても業界全体として開発スタッフの人数を維持できない。
「一発当てれば何年か食える」というのも、この業界の現実だった。その間に次への投資ができる企業と、できない企業があった。1930年前後から全金属機が増えてきて生産技術が変わり、適応がうまくいった企業と、昔を引きずった企業があった。ずっと後の話までまとめて言うと、イギリス空軍の航空機政策は、「できる企業」を選別して残りを見切る側面「も」あったし、しかしそれでも開発をしくじることは当然あるので、フリーマンは特に「開発段階での複社競作」を財務省などから守る方向で奔走することになった。
ドイツでは、航空産業に明るいミルヒ航空次官が技術を牛耳っているうちは複社競作が普通であったが、ゲーリングと仲が悪くなってからは官僚的な才がないウーデット技術局長の下で、Me210双発戦闘機やHe177重爆撃機といった重要プロジェクトにそれをリスクヘッジするプロジェクトが立てられず、それらが難渋することで戦略的な選択肢を狭められた。その結果が突き付けられていくのは、大戦も半ばを過ぎ、ドイツの勝ち目が乏しくなってからであったが。
--------
1936年のソヴィエト秋季大演習はクライマックスに差し掛かろうとしていた。第4ドンコサック師団長のジューコフ旅団指揮官(少将相当)は、鍛えぬいた師団を連れてあちこちの大規模演習を転戦しており、花形指揮官だった。諸事情で兵舎群を自分たちで建てなければならなくなり、騎兵として腕が鈍ってしまった師団を、ブジョンヌイ騎兵総監から託されたのである。それから3年が過ぎ、積極的で刻苦に耐えるジューコフイズムが浸透してきたところだった。
ソヴィエト・ポーランド戦争当時、スターリンが介入してトゥハチェフスキーから勝利を失わせた一連の行動(第2話参照)は、批判の対象だった。だから軍の中でスターリンの確実な味方と言えば、そのとき一緒になって怒られた第1騎兵軍のブジョンヌイやヴォロシロフが筆頭であった。その下に騎兵の後輩として、ティモシェンコ、ロコソフスキー、バグラミャン、エリョーメンコといった若手がつき、ジューコフも同じ世代でブジョンヌイの知遇を得ていた。だから独ソ戦の序盤は良くも悪くも、この「騎兵閥」が担うことになった。
そして今日、ヴォロシロフ国防人民委員(国防大臣)と初めて会うジューコフは緊張していた。まだスターリンとは会ったこともなかった。
いろいろな方向から、しかし総じて遠くに砲声の響く中、自動車のエンジン音がした。降りてきた男は背が低く、広く四角い額に水平な眉を持っていた。ジューコフは敬礼しながら言った。
「第4ドンコサック師団長、ゲオルギー・ジューコフ旅団指揮官であります、同志人民委員」
「クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシロフだ。セミョーン・ミハイロヴィチ[ブジョンヌイ]がよく君の話をしていた。ようやく会えたな、ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ」
破格だった。はるか格下なのに友人としてあいさつされたのである。だがほっとしている場合ではなかった。演習中で、当然ジューコフもヴォロシロフも次が詰まっている。ジューコフの軍団長であるウボレヴィッチと、(1941年にふたたび務めるが、この時点では)元参謀総長のシャポーシニコフは、ヴォロシロフの前では随員扱いであった。
テントへ招き入れられたヴォロシロフたちに、師団に属する戦車大隊のスタッフが、渡河作戦の技術的な説明をした。騎兵師団戦車大隊の典型的な装備だったBT-5戦車にはBT-5PKhというバリエーションがあり、シュノーケルを上に突き出して水中を渡れるようになっていた。これを15両まとめて、川を渡そうというのが今日の演習のハイライトであった。ヴォロシロフも当然それを見に来たのである。
「俺は旧弊な男だと知っていたつもりだったが、今日は改めてそれを感じたよ」
もう少し砕けた場であれば、誰かが「とんでもございません」と応じるところだが、演習中なので誰も拝聴姿勢を崩さなかった。接ぎ穂を失ったヴォロシロフは視線をさまよわせ、第19騎兵連隊長のコステンコに視線を落とした。出世の早いジューコフと同年令で、ちょうど40才になったところだった。
「君は騎兵になって長いだろう。騎兵部隊にこのように戦車が入ってくることを、正直どう思っている」
ジューコフはひやりとした。何を言うと機嫌を損ねるのか、判断しづらい。コステンコは言った。
「同志人民委員、戦車のスピードと火力は騎兵部隊に力を与えるものです。しかし槍とサーベルを捨てる時が来たかどうか、なお判断がつきません」
「そうだな。そうだろう」
ヴォロシロフの満足そうな笑顔に、コステンコ本人よりもジューコフの表情が緩んだ。ソヴィエト騎兵に槍とサーベルを捨てる時が来たら、ヴォロシロフがそれを言わなければならない。捨てろと命じなければならない。それをしたくないから、それは実行されていないのだ。
「さて、それでは見せてもらおうか。潜水戦車とやらを」
ヴォロシロフが立ち上がったので、その他全員も立ち上がって、敬礼で一行を見送った。
Luftwaffen Dienstvorschrift Nr. 16(空軍教令16号~航空戦指導、Luftkriegführung)は1935年に出された最も基本的な指令で、空軍の任務を次のように定めていました。
a.航空優勢を確保し維持すること(これは空軍が他の任務についているときにも持ち続ける、継続的な任務である)。
b.陸上兵力を支援する活動。
c.海軍の支援、または独立して行う海上航空戦。
d.戦場との出入り、輸入、補給物資輸送に使われる道路、鉄路、水路といった敵交通線を妨害する活動。
e.敵軍事力の源泉に対する戦略的作戦。
f.統治・行政、軍事的支配、兵員訓練の中心となっている都市への攻撃(一定の状況下では、敵都市への報復攻撃を含む)。
空軍が公然化した1935年以降も、部隊を低空に侵入する敵機から守るため、陸軍所属の対空機関銃部隊はありました。1938年にフランスの技術援助で構築されたチェコスロバキアの国境要塞が手に入ったため、「対空砲」(まあ88mmしかないでしょ?)で撃ち抜く試験が行われました。フランス戦では若干の88mm砲が陸軍に引き渡され、一部はハーフトラックに据え付けられて地上目標専用になり、対戦車大隊に配属されました。牽引式の88mm砲を(も)持つ陸軍所属の対空砲大隊ができはじめたのは1941年夏以降です。それまでは、空軍所属の牽引式88mm砲を持つ対空砲大隊が一時的に陸軍部隊の指揮下に入っていましたし、それ以降も多く見られました。
ウィルバークは母がユダヤ人であった(これ自体は本当)ために参謀総長などの顕職につけなかった……と書いてある本もあるのですが、あらためて調べてみると、ゲーリングより13才年上という年齢のこともあるのかと思います。
ニューオールは開戦時の空軍参謀総長でしたが、1940年に任を解かれたことについては、いくつかの説明がなされています。大戦期間のほとんどをニュージーランド総督として過ごしました。
それにしても……です。ダウディングもフリーマンもパイロット資格を得たうえで空軍の指揮官をしています。ドイツのヴェーファー参謀総長が事故って死亡したのはともかく、後任のケッセルリングもいい年で空軍に移ってから操縦を習い、北アフリカでイタリア空軍参謀総長を連絡機の後部座席に乗せて夜間飛行をしたことがありました。アメリカのハルゼー提督などは空母着艦までやりました。「航空に理解がある」という程度で航空部隊の指揮をとっていた某国高官の皆さんについては、ちょっともにょもにょした気持ちになります。
説明を簡略化するため「コミンテルン」という言葉を使わないことにしました。「ソヴィエト」で置き換えることで多少不正確な記述が出ていると思いますがご寛恕ください。
1935年のドイツ参謀本部公然化当時、参謀本部にはOberquartiermeisterは5人いて、OQu IからOQu Vまでローマ数字で表記されました。ひとつまたは複数の課をまとめる職務で、参謀次長が5人いると説明するしかないでしょう。ただし1936年10月にマンシュタインが就任したOQu Iが筆頭者なのです。5人の内訳は次の通りです。
OQu I: 作戦担当次長にして参謀総長代理。1942年1月、パウルスが離任したあと後任が補されず廃止になったと思われる。実質的に、1課長であったホイジンガがその代理的な立場を引き継ぐ。
OQu II: 訓練を担当。ハルダー離任後も1939年10月まで後任がいたが、予備軍に機能を移管して廃止。
OQu III: 組織担当。組織課を残して1940年11月廃止。
OQu IV: 東西のFremde Heereと各国駐在武官(Attachegruppe)、つまり情報を担当する。1943年1月廃止。
OQu V: 戦史担当。1942年5月から6月にかけ、OKHの士官たちではなくOKWにおいてヒトラーの眼鏡にかなう戦史編纂をするため、Der Beauftragte des Führers für die militärische Geschichtsschreibungを創設して関連する課などを移管。これにより消滅。
ある意味で入れ替わりですが、開戦と同時に補給課長と輸送課長はそれぞれ総長直属の補給総監・輸送総監となり(その下に改めて課長が任じられた例あり)、実質的に参謀次長格となりました。
ウボレヴィッチは見切れるような出演ですが、今回が最初で最後の登場です。建設にかまけて戦闘訓練の水準を落とした前任師団長の罷免を上申した人物であり、ジューコフにも連隊規模の演習を準備時間4時間でいきなり命じるなど、高い要求を突きつけ続けました。しかし大演習の翌年、大粛清に巻き込まれて刑死しました。
イスメイの回想録では、1936年に復帰したとき、1925年には階段を1段抜かして昇るのをからかわれたのに、ポロで大けがをしてそういう無理ができずエレベータを使った……と書いてあります。いつのけがだったか明記がありませんが、シムラーにも別荘を構えていたインド総督軍事秘書時代ではないかと想像しています。
ハンターは1925年時点ですでにナイトでした。1939年に男爵となります。
ウェア(Weir)という第2次大戦のイギリス空軍軍人が複数いるのですが、この小説に登場するウィリアム・ダグラス・ウェア(1938年に初代ウェア子爵)の近親ではないようです。