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第15話 ドイツ再軍備

 1934年6月30日に端を発する弾圧で、突撃隊は実権を失い、そのほとんどを解体される運命であることが明らかになってきた。


 それを見届け、ヒンデンブルクは逝った。8月だった。ヒトラーはこの高貴な同盟者を丁重に弔い、全権委任法の下、ごく自然に首相と大統領の地位を一体化した。そして総統と呼ばれることが多くなった。


 ドイツ陸軍は今や粛々と再軍備に向けて動いた。1933年秋から未来の参謀総長を約束されたヴェーファー大佐が航空省に移り、1934年4月には地域司令部や航空部隊司令部が編成され始めた。ケッセルリング大佐は後にヴェーファーが事故死したとき参謀総長を務めたが、陸軍でも産業界との調整をする仕事をした経験があり、本来は空軍の軍政面を仕切る人として送り込まれたもので、異動は1934年末だった。1935年2月に空軍総司令部(OKL)が設置されたのはさまざまな準備が済んでからの総仕上げだった。


 1935年3月に徴兵制を公然と実施に移したことが、今日では「再軍備宣言」と呼ばれることが多い。別の名前を取っていた22個歩兵師団が一斉に連番の「歩兵師団」を称したのは同年10月だった。このようにドイツ再軍備の公表は一斉には行われず、さも当然のように淡々と進んだのである。


 だがここで少し時計の針を戻し、「長いナイフの夜」直後の1934年7月に起きた、ある事件のことを語ったほうがよいであろう。1935年を理解するためにどうしても必要な、1934年のひとつのピースとして。


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 1934年4月に、オーストリアでもドイツの全権委任法に近い法律が成立した。オーストリアはNSDAPと結んで(これもヴェルサイユ条約が禁じていた)ドイツとの合併を目指す勢力にも、共産党にも対処しなければならなかった。どちらもカトリック教会に敵対的だったから、オーストリアのカトリック教会は民族主義的な勢力と妥協し、協力せざるを得なかった。その頂点に立ち、首相として全権を掌握したのが、1892年生まれの若手政治家、ドルフス首相だった。その国家体制はドイツやイタリアと似たところが多かったが、親ドイツ勢力の伸長を懸命に食い止める、受け身なところがあった。


 そして7月、そのドルフス首相はNSDAPの現地メンバーにより襲撃され、殺された。150名を越える一団が首相官邸を襲うと言う荒々しい手口だったが、反乱者たちはひとつの国家を乗っ取るほどの広がりを持っておらず、官邸や放送局はすぐに奪回された。


 ここで決然と行動したのがムッソリーニだった。イタリア陸軍はオーストリア国境に向けて動員され、ドイツ軍の介入をけん制した。ドイツはまだ歩兵7個師団しか持っていないころで、戦争の危機は避けねばならず、NSDAPの同調者たちが投獄され、あるいは国外に逃れるのを黙って見ているしかなかった。


 ヒトラーは事件への関与を否定し、ドイツは何事もなかったかのように日々を過ごして行った。「長いナイフの夜」をかろうじて生き延びたパーペンが内閣を離脱させられ、「いまや重要になった」オーストリア大使として赴任したのは、このときであった。


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 ドイツ再軍備の実態が露わになった1935年4月、イギリスとフランスの首相がムッソリーニを訪ね、西ヨーロッパの国境を互いに尊重するロカルノ条約とオーストリアの独立を再確認する共同声明を出した。会議のあった街の名から、ここでの共同歩調は「ストレーザ戦線」と呼ばれることになった。特にオーストリアをドイツから守ることは、イギリスとフランスだけでは不可能であり、イタリアの強い姿勢が大前提だった。


 ヒトラーは5月になると、ドイツはイギリスに対して「35%のトン数に海軍をとどめる用意がある」と、演説という形で交渉を持ちかけた。


 すでに、放っておけばドイツは好きなようにヴェルサイユ条約を破っていくことは明らかだった。ジュネーブ陸軍軍縮交渉でも、イギリスは世界の軍縮が成るならドイツに妥協してもかまわないと言う空気があったが、フランスの反対でそれができなかった。海軍のこととなると、イギリスにはとりあえず大きな懸念がひとつあった。いわゆる「ポケット戦艦」である。


 1920年代から、ドイツは老朽化した戦艦の代わりとして、ヴェルサイユ条約で認められた艦を設計し、重巡洋艦サイズの艦に少な目(2基6門)の28cm砲を積んだドイッチュラント級を2隻つくり、3隻目がもうすぐ完成するところだった。ドイツ国内でも、この艦の中途半端さに批判はあった。何をするフネかと言われて答えられないのは、軍艦としてある程度仕方がないのだが。


 ところが1930年にロンドン海軍軍縮条約を結んだイギリスとしては、重巡洋艦には20cm砲までしか積めず、貴重な戦艦枠を使ったフネでないとドイッチュラント級と互角の砲戦ができないことになった。もしドイッチュラント級がもっと量産されて通商破壊に出てくると、イギリス海軍は困ってしまう。「イギリスが持つ同種のフネの35%まで作っていい」というルールは、巧みにドイッチュラント級を重巡扱いして「総量規制」する口実になるのだった。


 だからイギリスは敢えて、フランスに相談なく秘密交渉に入り、「英独海軍条約」をこの線でまとめてしまった。こうして早くも6月、対独強硬路線としての「ストレーザ戦線」はバラバラになってしまったのだった。


 だがドイツ相手にイギリスが引いて見せたことは、イタリアの見通しを甘くしてしまった。イタリアもまた、欲しい分け前があったのである。


 エチオピアだった。


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 イタリアによるエチオピア侵攻は2度目だった。1895年から1896年にかけてイタリア軍はエチオピアに攻め込んだが、フランスの武器援助を受けたエチオピアはこれを撃退した。


 これに復讐しようと言う声だけなら、誰でも上げることができた。だからイタリアが明確に侵略戦争を準備し始めた時期は、逆に判断するのが難しくなっている。少なくとも1932年には隣接するイタリア領のエリトリアとソマリランドにイタリア軍の増援が目立っていた。


 ムッソリーニ政権は独裁政体を築き終わっていたから、いまさら国民の人気を気にすることもないはずだった。左派の騒乱を力で抑え込んだ分だけ、表面的な平穏は保たれ、経済危機が防がれてはいた。しかし企業同士の競争を抑え込み、資本家の天国のような国にしてしまったムッソリーニ政権は、大衆が歓呼するような成果が欠けているのも確かだった。


 1934年のワルワル事件は、イタリア軍がエチオピア領内のオアシスに兵を入れ、前哨基地を作ってしまったことにエチオピアが気づき、数日間の戦闘に発展したものであった。イタリアのあからさまな戦争準備に、国際連盟はエチオピアの提起を受けて調停に乗り出したが、1920年代から平和外交を積み重ねてきたことがイタリアへ安易な妥協を許さないイギリス世論を作り出していたし、かといってヒトラーの脅威に直面した今、イタリアを敵には回せないのも英仏の現実だった。


 1935年10月にムッソリーニは開戦した。目論見通り、国際連盟と英仏は実質的にイタリアを自由にさせた。しかし妥協的な交渉をすっぱ抜かれて12月にイギリス外務大臣が辞職に追い込まれるなど、世論の潮目は1920年代にすっかり変化しており、これが最終的にはイタリアの外交的孤立を生んだのであるが、これは翌年にかけてのことである。


 ドルフス暗殺事件でムッソリーニの軍事的恫喝を食ったばかりのヒトラーは、「ムッソリーニなど泥沼に足を取られたらいい」と思ったのか、エチオピアに小銃を援助したと言われる。この対立関係が一変して行ったのも、やはり1936年のことであった。


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「ああ、あのとき辞めときゃよかった」


 ボーデヴィンは何も言わず、ヴィルヘルム・カイテルの自宅で愚痴を聞いていた。さすがに他所で話せる愚痴ではなかった。ヴィルヘルムの妻リーザは「士官の妻」としての自己規定を信念のようにしていて、士官としての精勤栄達をヴィルヘルムに説き続け叱咤し続けてきたから、酒肴を置くとさっさと台所に引っ込んでしまった。


「俺しかいないとか言われてもなあ。フォン・クルーゲの愛想笑いを見たことがあるか? 俺はないぞ」


 せっかく第22歩兵師団長として楽しく殿様気分を満喫していたところ、軍管区司令官兼軍団長のクルーゲ中将に呼び出され、国防省総合政策局長への転任を呑まされてしまったのであった。


 ドイツが22個歩兵師団の編成を公表したのと同時に、旧来の軍管区司令部兼師団司令部は、そのまま7つの軍団司令部に格上げされた。1936年にかけて軍管区司令部が5つ増設されて、12個軍管区(12個軍団)・36個歩兵師団という平時体制が1936年に姿を現したのだが、第22歩兵師団は1935年には第6軍管区(第6軍団)の指揮下にあった。その軍団長がクルーゲだったのである。


 クルーゲは上官の命令を絶対と信じ、我慢のできる人物だった。誇り高く気難しいフォン・ポック大将がライヒスヴェーアで師団参謀長のときはその下の参謀を、師団長のときは参謀長をつとめた。まあおよそ、愛想笑いの似合う士官ではなかった。だが「フリッチュ陸軍司令官が推薦し、ブロンベルク国防大臣が承認済みだ」などという人事を伝えるとなれば、ノーと言わせない鉄壁の微笑も必要になると言うものである。ボーデヴィンはくすくすと笑った。


 カイテルが就いた総合政策局(Wehrmachtamt)は大臣官房(Ministeramt)を改称したものだが、ヒトラー政権になってしまえば政府に対して軍を代表する「黒子」を残す意味はもうないわけで、いまや役割が変わりつつあった。軍の内部で三軍の調整を期待されるポストであり、別の言い方をすれば陸海空三軍の参謀本部に対してブロンベルク国防大臣をサポートする部署だった。


 フリッチュも規律と精勤で知られた人物だった。自分と似たキャラクターで、政治将軍的なところのないカイテルを選んだのであろう。それは別の言い方をすれば、シュライヒャーのように一部の士官だけで徒党を組まないと言うことでもあった。


 そしてヴィルヘルム・カイテルは何年かすると、自分自身に負わされた問題を処理していくために、徒党に代わる縁のある士官を利用せざるを得なくなった。となればまずは血縁者である。いずれ自分まで巻き添えを食うことになるとは、このときボーデヴィンには知る由もなかった。


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「アルフレート・ヨードル大佐であります。L課をお預かりします」


 カイテル新局長を迎えた士官の中に、がっしりしたガタイの割に声の甲高い男がいた。


「カイテルだ。頼みにしている。L課は何をするところだと思う」


「国防計画の策定であります。可能ならばでありますが」


「それを可能にするのは……まあ私の仕事か。主にな」


 カイテルの返事に、ヨードルは微笑した。三軍が放そうとしない指揮権を、ブロンベルグの下に集約する。国防計画と婉曲に表現はしていても、総合政策局の仕事は煎じ詰めるとそれであり、L課(国土防衛課)はその中心だった。


 大変な仕事になるのはわかり切っていた。しかし戦争にでもならない限り、国の運命を大きく変えるような仕事だとはカイテルもヨードルも思わなかった。たとえ戦争になっても、戦争をするのは参謀本部であって、省部ではないのだ。


「部隊勤務に戻りたいか」


 ヨードルの偉丈夫さから、カイテルはふと尋ねた。ヨードルはしばらく言葉を選んで、言った。


「バイエルンの出でありますので、山岳旅団で勤務できればと思っております」


「ああ、それでか」


 カイテルは山男らしい筋肉の付き方のことを言ったのだが、ヨードルは自分の名字(JodlはJodelに関連する名字)のことを言われたのだと取ったようだった。


「自分の一族はオーストリアの出身で、親戚もおります」


「立ち入ったことを聞いたな。済まない」


 当時まだドイツに山岳師団はなく、番号のない山岳旅団がひとつだけ、アルプス山脈に接するバイエルンに置かれていた。カイテルはヨードルの希望を心にとめた。


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 ライヒスヴェーアにあった3つの騎兵師団のうち、第3騎兵師団は装甲師団新設の母体となって1935年秋に廃止され、残りも1936年に廃止された。だがすでに述べてきたように、兵科というものは士官にとってキャリアである。師団長ポストがないと言うことは、その兵科から少将以上になれる見込みが極端に小さいと言うことである。


 グデーリアンたちの運動が実って、1935年には装備すべき戦車の実物がいっこうに増加しないまま、一気に3個装甲師団が発足した。だが実際の編成は少し遅れたものの、3個軽機械化師団が「騎兵の伝統を受け継ぐものとして」創設されることも既に決まっていた。それは端的に言えば、騎兵科が師団長以下の主要指揮官ポストを取ると言うことだった。少し遅れて歩兵科も自動車化歩兵師団4個を(すでに創設が決定した師団の中から転換して)持ちたいと言い出し、車両分散に反対するグデーリアンにも止められなかった。歩兵師団には軍管区が軍団司令部を兼ねていて、平時から所属軍団が決まっているが、自動車化歩兵師団、軽機械化師団、装甲師団にも平時から軍団司令部を作っておこうと言うことになった。設置はオーストリア合併の迫った1938年になってしまったが、第14軍団~第16軍団がそれにあたる。だからドイツ軍の軍管区には、この3つの番号が抜けているのである。まことに予算が青天井となると、士官たちは軍務官僚としての顔を見せて、部隊を次々に組み上げていくものであった。


 1933年に大佐。1935年に第2装甲師団の初代師団長。1936年に少将。1938年2月に中将、実質的な「装甲軍団」である第16軍団長。11月には快速兵総監、戦車兵大将。これがグデーリアンへの個人的な、そして法外というほかない報酬であった。もっとも1938年11月の変化は、ベック参謀総長の辞任という「事件」と関係があるから、いずれ別に語らねばならない。


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 フランスは1935年のドイツ再軍備に対抗して、兵役年限を2年に延ばした。しかし有事にすぐ出動して限定的な作戦ができる、高練度の部隊は作らなかった。だから戦争の危機をちらつかされると、挑戦に応じて全面的な動員に入るか、戦争を回避して政治的に譲歩するか、どちらかしか選べなかった。そのことは1938年に、世界にとって大きな影響をもたらした。


 イギリスは、少なくとも財政政策ではケインズ政策など全く取らずに世界大恐慌を乗り越えた国であった。財政を緊縮し、帝国内優遇関税で植民地の有効需要を抱え込み、金本位制は離脱したままにしてポンド安を容認し、じっと我慢していたら税収と景気が上向いてきたのである。そしてストレーザ戦線は崩壊したものの、1935年11月の総選挙ではドイツや日本の台頭への危機感が争点となり、保守党は野党・労働党の躍進を許したものの、下院議席の63%を維持して相当な支持を保った。自由党の惨敗ということでもある。


 保守党主体の挙国一致内閣は、労働党に国民の支持が傾かないように、年金・保険など福祉国家のパーツを自ら作って行かねばならなかった。その中でドイツに対抗する軍拡を余儀なくされたとき、まず予算を割り振られたのは「恐ろしい」都市爆撃を封じる空軍であり、海峡を守る海軍であり、陸軍の要求は後回しにされた(第12話参照)。1920年代に戦車兵総監部が孤高を保って兵科間協力の芽を育てなかったことで残った課題が、今度は予算面で先送りされてしまった。また1936年には陸軍参謀本部が大陸派遣軍を平時から準備するよう上申したのに、政府はその準備予算をすぐにはつけず、後回しにしたのである。


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「家のことは、落ち着いたか」


「ここは兵隊街だから、何もかも話が早くて助かりますよ」


 出勤しようとするロンメル中佐に、ルシー夫人は玄関でにこやかに答えた。少し前まで大隊長をしていたゴスラーの街は年金生活者が住みたがる温泉町だったが、新たな赴任地のポツダムはフリードリヒ大王以前から兵営が置かれたところである。短い予告期間で転勤を繰り返し、懐も豊かでない士官たちの家庭が何を必要としているか、市民たちはよくわかっていた。


 新たに任じられた軍学校(Kriegsschule)は士官養成課程の最終段階であった。ライヒスヴェーアはプロイセン陸軍の士官学校を引き継がなかったので、士官志望の若者たちは普通に中等学校を出てから、士官候補生として採用された。そして部隊配属で追い使われ、途中で所属兵科の戦い方を教える戦技学校(Waffenschule)に数か月通って座学を受けて、また見習士官のような立場で部隊に戻ってきて、一番長いときで4年近くかかって少尉になった。これでは軍の大拡張が間に合わないので、プロイセン陸軍にあった軍学校を復活させて座学を増やす代わり、2年で少尉にしてしまおうと言うのが1935年の改革だった。


 第1次大戦の戦場で手柄を立てた英雄であっても、何しろ人に容赦がないものだから、ロンメルは大隊長になる前も兵学校で教官をやっていた。軍は大拡張するが、部隊長として栄達する道はどうやらないようだ……と自覚するしかない転任辞令だった。


「もう少し出世できるかと思ったが、済まんな」


「稼いで頂かなくては」


 ロンメルはぎょっとした顔をしたが、ルシーの笑顔につられて表情を緩めた。ひとり息子のマンフレートはもう学校に行っていた。


 ロンメルには娘がいた。ルシーと結婚する3年前、できちゃった婚になるべきところ、反対に遭って整わなかった。当時、資産のない家の娘と結婚することは、士官の経歴に大きな傷をつけたのである。ヨードルの父が退役するまで籍を入れなかったのと同様の事情だった。1928年にその元恋人が亡くなり、まだ15才だった娘のガートルードが援助を求めて連絡を取ってきた。ルシーはその申し出を快く受け、マンフレートも「いとこ」がときどき訪ねて来ることに慣れていた。


「行ってくる」


 ロンメルはルシーの頬にキスをした。まったくありがたい伴侶であり、頭が上がらなかった。



第15話へのヒストリカルノート


 カイテルの就任経緯については、ベックが画策したように書いている本もあるのですが、本人の回想に従いました。本人の回想によると、この職に就いたとたんベックとの関係は悪化したというからです。


 カイテルが就いたWehrmachtamtは大臣官房(Ministeramt)を改称したもので、思わず軍務局と訳してしまうところですが、それはTruppenamtの訳語としてすでに使ってしまいました。陸軍(Heer)でなく国防軍(Wehrmacht)であるところがポイントで、三軍の調整が仕事ですから「総合政策局」と意訳しておきます。


 当時の国防省人事局長は大佐であり、カイテル少将の人事はもっと上の幹部が相談して決めたはずです。三軍の調整者についてベックが「同意すら求められなかった」と考えるのはむしろ不自然です。カイテルの前任者であるライヒェナウははっきりしたヒトラーの信奉者でしたから、このポストに居座ったまま三軍の調整をされては、ヒトラーの意向が三軍を押さえつけてしまいます。いっぽう、これからの話にも出てくると思いますが、このあとのベックは三軍の中で陸軍が最大の規模を持ち、陸続きの戦争が最も予想されることから、対等の調整をするのではなく陸軍が明確な主導権を与えられるべきだと主張しました。


 ベックはヒトラーべったりのライヒェナウをこのポストから異動させることに賛成したものの、カイテルが自分の意向通りに動かないことを予感しつつ、不承不承同意したのかもしれません。そして「有能過ぎない人物はいないかと周囲に相談したら彼がいた」といった話を周囲に漏らしたのかもしれません。



Trade bloc(k)はともかく、「ブロック経済」は日本でだけ使われる言葉です。帝国内には包括的な特恵関税、域外貿易には高関税を設定することを指して、Imperial preferenceという言葉が、第2次ボーア戦争の戦費支出を処理する政策論争で最初に使われました。1932年にオタワで開かれたイギリス帝国経済会議でこれがあらためて提起され、植民地にとっては得なことばかりではないのですぐにはまとまらず、イギリスと植民地の2国間協定が結ばれることで、徐々に効果を発揮するようになりました。



 1944年、B軍集団司令官のロンメルは大西洋岸の防備を総覧することになったので、海軍からルーゲ中将が顧問格でつけられました。このルーゲ中将の回想が『ノルマンディのロンメル』というタイトルでかつて邦訳されましたが、ロンメルが猥談を嫌がったことが記されています。ルーゲは「謹厳な人だ」というふうにポジティブに紹介したのですが、じつはこの種の話をされると、ロンメルの心のライフはゼロだったのです。



 平時にはヒトラーを警護する陸軍部隊は中隊規模で、戦時動員がかかると大隊規模になりました。ロンメルは平時には学校教員をつとめながら、(有事の)兼任職として「総統司令部(護衛)司令官」といった肩書を与えられ、オーストリア占領時など何回かの危機に総統護衛大隊を指揮しました。開戦と同時に学校を離れ、専任の護衛司令官となりました。


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