第14話 長いナイフの夜
1934年に入ると、グデーリアンたちにもようやく形勢が見えてきた。グデーリアンたちの提案では、3個装甲師団を作り、それを束ねる軍団級司令部を常設することにしていた。3000両のFT17に数で勝ることは望めないから、局所優勢を取ってどこかを突破しようと言う構想であった。ブロンベルクは基本的にはそれを採るつもりになったようだったが、孤立して辞職したハマーシュタイン=エクヴォルト統帥局長の後任になったフリッチュ大将はともかく、1933年秋から軍務局長になったベック中将は、あれこれと装甲部隊の構成要素を値切り続けていた。
軍人にとって、歩兵科とか騎兵科とか言う区別の意味は、どの専門の訓練を受けるかということであった。騎兵科の訓練計画や教材は当然騎兵が作るのであり、騎兵学校が戦術研究の中心となる。国と時代にもよるが、こうした活動のリーダーとして騎兵総監が任じられることもあった。ところがそうすると、どの兵科に属するかがその後の出世コースを決めることになる。ゲーリングが歩兵大将になったことでもわかるように、兵科の区分をどれだけ厳格に考えるかはその国の運用次第ではあるのだが、予算やポストを巡って兵科間の駆け引きが生臭い話になってしまうのは仕方なかった。
そして1934年になると、第3騎兵師団を廃止してその兵員を装甲師団新設に転用するという提案が上から聞こえてきたから、グデーリアンやネーリングは逆に仰天してしまった。もちろん騎兵科はその譲歩を上回る何かを分捕ろうと懸命に運動して、のちに騎兵を近代化した姿とも言える軽機械化師団が誕生するのであるが。
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レームはヒトラーに相談なくブロンベルクに手紙を出し、ライヒスヴェーアは突撃隊のための訓練機関となるべきだ……などと言い送った。突撃隊の一部をより軍隊に近い組織に改編して、大規模な野戦演習をやったりもした。ヒトラーは公に国防軍を擁護する発言をしてレームをさえぎったが、レームは同志しかいないところでは、ヒトラーがやらなくても俺たちはやる……という類のことを言い始めていた。
「これがお望みのリストです。ご内聞に願いますよ」
「感謝します、カイテル少将。貴官の協力は幕僚長に必ずお伝えします」
突撃隊のベルリン責任者は、封書の中身が住所の羅列であることを確かめると、ナチス式敬礼をして部屋を離れた。カイテルはため息をついた。
カイテルは1933年秋から、ベルリン近くのポツダム市で「第3軍管区歩兵司令官」をやっていた。師団と言っても担当区域が広いライヒスヴェーアでは、こうした曖昧な兵科別司令部を作って訓練の指揮を執っていた。師団長のフリッチュが統帥局長に栄転したときはしばらく師団長代理を務め、4月に少将になった。そのカイテルに、ベルリン地区の突撃隊指導者が盛んに連絡を取ってきて、秘密に備蓄している弾薬の隠し場所を教えろと要求してきた。
カイテルは執務室に副官を呼び入れると、国防省に電話をかけさせた。ブロンベルクにアポイントを取り、直接報告せねばなるまい。
さっき渡したメモには、つい最近まで使っていた、かつての隠し場所が書き連ねてあった。
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何しろ突撃隊は隊員総数400万人と称していたほどの組織である。実際はもう少し少ないとしても、幹部を一斉に襲撃して一気に片をつけるしかなかった。
レームが突撃隊から離れていた頃の1920年代、突撃隊が党の命令を聞かない事態もあったから、ヒトラー護衛部隊をもとにした親衛隊は突撃隊幹部の命令を聞かなくてよいことになっていた。いったんプロイセン州警察を握ったゲーリングだったが、空軍と航空省を手に入れたこともあり、警察関係の権限を親衛隊のヒムラー長官に渡した。プロイセン州以外の警察はすでにヒムラーの指揮下に入っていた。こうしてゲーリングとヒムラーが指揮を執り、実行部隊は親衛隊と、ヒムラーの下で統一された政治警察ゲシュタポが出すという態勢が組まれた。
ヒンデンブルクと国防軍は、ヒトラーが突撃隊を抑えられないなら、大統領が戒厳令を発して軍が対処するとヒトラーに言ってきていた。そうした観点からも、軍に借りを作らずやり遂げる必要があった。
いまや現役兵士も突撃隊に参加していたから、レームが軍事的なデモンストレーションをするだけなら難しい準備は要らず、投獄・処刑の名分を立てる口実はないと言えばなかった。もちろん突撃隊が市民を巻き込んで共産党やSPDと抗争し、死者や負傷者を出した罪を問えばよいのだが、それは突撃隊幹部にだけかぶせられる罪ではなかった。ゲーリングやヒムラーのねつ造した突撃隊の反乱計画は、投獄・処刑の言い訳であると同時に、決心のつかないヒトラーを説得する材料でもあった。
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玄関先の物音に飛び起きなかったのは、かつての実戦感覚が鈍っていたことを認めざるを得なかった。だが自室のドアを乱暴に空ける音と、廊下から漏れてくる光は、レームの半身を起こさせた。
それでも……十分に素早くはなかった。レームの視界には、こちらへ拳銃を構えたヒトラーの顔が大きく見えていた。
ヒトラーは何か甲高く叫んでいたが、状況を呑みこもうとするレームにそれを聞き取る余裕はなかった。ヒトラーの目はギラギラしていた。演説を重ねるうち、眼光鋭い表情を作れるようになってはいたが、そんな作り物ではなかった。いまのヒトラーは兵士の目をしていた。塹壕の中で敵兵を見つけたときの、善悪を捨てて自己保存だけを考えるときの目だ。
「見事だ……」
上等兵と呼ぶのは敬意がなさすぎるし、「我が指導者」と呼びかけるのも今さらはばかられた。相容れない関係が日に日にはっきりしてきていた自覚はあった。
ヒトラーが拳銃を降ろした。片づけきれない興奮のかけらをまき散らし、ヒトラーは言った。
「逮捕する。服を着ろ」
返事も聞かず出て行くヒトラーと入れ替わりに、ヒムラーの親衛隊が入ってきた。自分が護衛部隊も連れずに静養先で位置をさらしていたうかつさが改めて実感できた。戦っているようで、実は戦っていなかったのは自分のほうだった。そして本気で戦う腹を決めたヒトラーが、自分に勝った。
レームは着替えに手を伸ばした。すでにヒトラーは自分に銃を向けた。自分であればもう相手の生存を長く許すまい。ヒトラーもそうするだろうと思った。色々な方法があることは、レーム自身が知っていた。
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6月30日未明、ヒトラーは自ら拳銃を携えてレームの静養先に向かった。30日にヒトラーがレームと会談するという触れ込みで、レームに幹部たちを既に集めさせていたから、1ヶ所の制圧で多くの幹部を逮捕できた。逮捕の波が一巡すると、ベルリンにいたゲーリングの指示で、突撃隊関係者やヒトラーの政敵が次々と襲撃された。
パーペンは自宅に拘束され、外部との接触を禁じられた。ゲーリングが身柄を保護するよう命じて、そうなったのだった。シュライヒャー、グレゴール・シュトラッサー、ミュンヘン蜂起のさいヒトラーを生命の危機にさらしたグスタフ・フォン・カールが様々な方法で殺された。シュライヒャー内閣で国防次官をしていて、ヒンデンブルクとヒトラーを離間させる工作に働いたブレドウ少将も射殺された。
レームは逮捕の翌日、まず自決用の拳銃を渡され、ひとりにされた。そして自決しないので、射殺された。ヒトラーは1日迷った末に、処刑を決めたのだった。
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かつてシュライヒャーが暗躍したポストである国防大臣官房長のポストから、オット大佐が日本へ去ると、NSDAPと早い時期につながりができたフォン・ライヒェナウ少将が座った。その直後に「長いナイフの夜」と呼ばれるレーム粛清事件があったから、シュライヒャーやブレドウも巻き添えのように殺されたことを士官たちに対して言いくるめるのが、ライヒェナウの初仕事のようになった。彼にとっては幸いなことに、抗議めいたことを公言する士官は多くはなかった。すでに10万人陸軍を大きく踏み越えていたとはいえ、ライヒスヴェーアの数十倍の規模を持つに至った突撃隊の脅威が取り除かれたことは、何と言っても喜ばしかった。
それに、ライヒスヴェーアは考える暇もないほど多忙だった。平時21個師団の編成予定は、有事に輸送機で空輸する(落下傘訓練はしない)ことを念頭に置いた第22歩兵師団が追加されて22個となったが、その基幹となる司令部が次々に立ち上がろうとしていたのである。
「畜生。俺の……俺の意気地なし。なぜ笑うボーデヴィン」
「いや、まあ……めでたいじゃないか」
カイテル少将がジョッキを空けるのを、ボーデヴィン・カイテル中佐は澄ました顔でながめた。秋には大佐昇進……とこっそり耳打ちされていた。軍管区司令部は今までは師団司令部が兼ねていたが、師団増設後は軍団司令部が軍管区司令部を兼ねるようになり、数も少し増える予定だった。その軍団司令部の作戦主任参謀になるのだ。
農場をやっていた父がとうとう亡くなったので、ヴィルヘルム・カイテル少将は農場を継ぐため、1934年10月で退役するよう願い出た。ところが、「第22歩兵師団の初代師団長を任せたいが、どうか」と慰留されて、一国一城の主の誘惑に勝てず、つい現役続行してしまったのである。
このとき補された22人の新師団長のリストを見ると、第2次大戦で軍司令官級以上の地位についた人々が混じっている。キュヒラー、ハルダー、フォン・ショーベルト、ホート、そしてカイテル。だがまったく名前を聞かずじまいの師団長の方が多い。ずっと上がつっかえてきたから、ようやく花道のポストを得て、大戦時には勇退するか後方のポストにとどまった師団長がいた。逆に言えば、そのような状況で師団長ポストをもらった若手少将たちは期待の星であって、その中にはカイテルもいたのである。精勤では誰にも負けないカイテルが、平時の軍務官僚として抜群の評価を受けていたことは間違いなかった。
カウンターに行っていたボーデヴィンが、どん……と新しいジョッキをヴィルヘルムの前に置いた。
「些少ながら、祝いだ」
ヴィルヘルムももう笑うしかなかった。ここが辞職する最後の機会であったことを、後年のカイテルは苦々しく思い出すしかなかった。
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後の世から見れば、ホバートとマーテルは人生を途中で交換したようなものである。フラー退役後の戦車兵を束ねるボス的存在だったホバートは、曲折あって大戦初期に指揮権を解かれ、戻ってきたときには多くの特殊車両を抱える第79戦車師団を率いることになって、第2次大戦では戦場指揮官として実績がなかった。もともと工兵であり、渡河用特殊車両の開発にも携わっていたマーテルは、騎兵系部隊の機械化で頼りにされただけでなく、歩兵師団長としてではあるが戦車連隊と共に1940年のアラスの戦いに参加し、戦場に武名を残した。ひとつだけ共通しているのは、当時のインド(現パキスタン)のクエッタにある陸軍大学校で数年間教鞭をとったところである。
当時のインドから一時帰国したマーテル中佐を、モントゴメリー=マシングバード参謀総長はオフィスに迎えて、着席をすすめた。
「ド・ゴール中佐の新しい著書を読んだかね」
「先週受け取ったばかりです。インドでは手に入りませんので」
『職業軍の建設を!』はド・ゴールが1934年に出版した、それほど長くない本である。古今の戦例や将帥の名前をちりばめ、一般人には読みづらい本だった。
ド・ゴールは陸軍大学校で戦史を講じたかったのだが、いくら軍の実務教育がアカデミズムそのものではないとしても、持論を講じたがっているのは明らかだったから、なかなかそうした職はもらえなかった。英雄を目指す男に平時はつらい。だがヒトラー政権誕生の衝撃を受けて、ド・ゴールは自著を弾頭とした自己アピールを再開し、国防安全保障事務局の文官勤めを抜け出してさらに上を目指そうとしたのだった。
「我が国も軍縮をさかんに唱えたところだが、いまやフランス陸軍には頑張ってもらわないといかん。だが君に尋ねたいところは、もちろんそこではない」
「資源の制約がなければ、軍人の考える理想の部隊と言うのはそれほど異なるところはないと思います、閣下」
6個師団にそれぞれ戦車500両をつけ、偵察用の1個自動車化軽師団と支援部隊をたっぷりつけて、総勢10万人。当時兵役期間1年であったフランス軍にあって、この軍団は兵役期間6年の志願兵とする。それがド・ゴールの提案だった。10万人と言うのは、ド・ゴールが明記したように、そのままライヒスヴェーアの総数であった。それによってあらゆる軍事的威嚇を封殺しようと言うのである。
「戦車運用については、どう思う」
「我々が知っていること以上のことは、読み取れませんでした」
軽戦車が先乗りをつとめ、中戦車が本隊をなし、強固な陣地を攻撃する重戦車が独立部隊として控える。イギリスとフランスの当時の方針をチャンポンにすれば、ド・ゴールの提案になった。ソヴィエトとポーランドの戦車混じりの戦闘を見てはいても、ド・ゴールは戦車隊を指揮したことはないのだから、先達から聞き、紙の本で勉強するしかない。個人で大戦略を立てると、こうした点では組織の作り上げたものに太刀打ちできない。ただしド・ゴールはフランス戦車部隊の父ともいうべきエスティエンヌから教えを乞う機会もあったから、当時の軍人として間違ったことを書いているわけではなかった。
「やはり歩兵も戦闘車両に乗せたほうが良いのかね」
「歩兵を迅速に進めて、要地を確保させた方が良いと言う点では、ド・ゴール氏と私たちの考え方に違いはありません。それは我々のドラグーンとは区別されるべきものでしょう」
モントゴメリー=マシングバードは笑顔を見せた。ドラグーンとは火器を持った騎兵のことであり、この文脈では、騎兵を武装した装甲車に載せ替えることである。歩兵をそのまま装甲車両で戦闘させることは、マーテル自身の自主製作車両も加わって豆戦車の開発が行われた過程で、可能性としてはいったん捨て去られていた。というより、その開発を進めて行ったら、装甲歩兵より装甲騎兵に近い車両が有望とされた……と言うべきかもしれない。
ド・ゴールは自動車で歩兵を前進させることは述べていても、乗車のまま戦うようには書いていなかった。「装甲車」という存在は記述から抜けていて、軽戦車が大きな役割を引き受けるだろうと書いていた。そして砲兵はキャタピラの力で戦車について来られるはずだとされた。
「異なる兵科が協力し合うことについて、非常に楽観的であるように感じました」
緩んだモントゴメリー=マシングバードの表情がしぶくなり、数度のうなずきがそれに続いた。
「そうなのだ。我々もそれを考えねばならん。騎兵師団の延長としての大兵団を考えているのだが……」
それが呼び出された本題であることは、マーテルも察していた。
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急拡大するライヒスヴェーアでは士官不足が深刻だった。鉄兜団などで尉官級の指揮官をしていた人々は、もう敗戦から16年も経つと、正規軍人としては下士官止まりであった者が多かった。
第1次大戦まで、予備役とも呼べない年長者を呼び出して地域防衛をさせる部隊をドイツではラントヴェーア、オーストリアではランデスシュッツェンと呼んでいた。どちらも「国土防衛[隊]」という意味である。この言葉で、いわゆる「黒い国防軍」を婉曲に指すこともあった。どちらにしてもLが頭文字だから、正式には民間人でしかなかった尉官級の指揮官は「L士官」と呼ばれていたが、それらが新しい国防軍に迎えられることが多くなった。ライヒスヴェーアの兵や下士官、あるいは軍歴のない若者から、軍が必要とする限りで軍に迎えられる「予備士官」を選抜する制度も始まり、予備士官としてあらためて軍に加わるL士官もいた。
もう少し年長で立場が上の人々は、健康面などで現役士官の仕事をするにはいささか不足だが任務によっては問題なし……という補用士官(E士官)のカテゴリに吸収された。
だが、もうひとつのキャリアがまさに今、開かれようとしていた。
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ハウサーは自分の階級章を無表情に眺めていた。新しい雇い主は、軍の階級とは違う階級名を定着させることに熱心なようだったが、全然違うのは不便だった。だからハウサーの肩章には、陸軍の佐官肩章そっくりのモール織があしらってあった。
ハウサーは鉄兜団に再就職したのだが、その鉄兜団が丸ごと、ヒトラー政権下で突撃隊に統合され、そのさいに大佐相当の階級に落とされてしまった。
「ハウサー連隊指揮官」
眼鏡の小柄な男が、ハウサーの物思いを破った。ハウサーはかかとを鳴らして、不動の姿勢を取った。連隊指揮官というのが、その大佐相当の階級名だった。
「君は名誉中将だったな。我々の組織はこれから急拡大するだろう。君に預ける部門は特にそうだ。君が元の階級に戻るのに、それほど時間はかかるまい」
「光栄です、我が長官」
ハウサーはヒムラーに礼を言った。紹介してくれる人があって、ハウサーは突撃隊に代わる戦闘部隊をヒムラーの親衛隊の下で鍛えるために、教官役を引き受けることにした。もちろん退役から間もないハウサーであれば、急拡大を続ける陸軍に復帰できる可能性もあったし、だからこそヒムラーは親衛隊に来てくれる自分を貴重がって、愛想を言っているのだろうと思った。
ただ突撃隊とは違って、いやむしろ突撃隊に懲りてと言うべきだが、親衛隊の戦闘部門を拡大することには抵抗も多く、戦争が始まると人的資源の取り合いも起きたので、ハウサーが少将に戻ったのは開戦直前になってしまったのだった。
グデーリアンはベックの「高尚な教養と冷静さ」を認めつつも、「いかなる進歩にも、まずその困難さを先に認め、それを危ぶんだ」(いずれも『電撃戦』上巻51頁)ような守旧的傾向を批判しました。グデーリアンと一緒に快速兵総監部の参謀をしていたネーリングによると、ベックは戦車の力がわかっていなかったのではなくて、「ドイツを確実に防衛して行くためには戦車兵に主導された、強大な攻撃力を持つ軍など不要であって、グデーリアンは再軍備の意味と目的を危険な領域に置こうとしている」と思っていました。ベックは戦争が始まる前に表舞台から退場し、次に出てきたときはヒトラー暗殺計画の首謀者ですから、戦車や陸戦に興味がある人はつい「有能・無能」でこの人物を分けるだけになりますが、「防衛重視」なのだと考えれば理解しやすいところもある人です。
カイテルとベルリン突撃隊指導者の話は、カイテルが回顧録に書いています。ベルリン突撃隊指導者本人が「長いナイフの夜」に殺されていますし、場所を尋ねたことは事実でしょう。ただし、レーム派の突撃隊大将のひとりがヒトラーに寝返っていて、本当に蜂起計画があればそこから漏れたでしょうから、具体的な蜂起計画はなかったのだと思います。もちろんヒムラーを始め、レーム排除を決意した幹部たちがこしらえた「蜂起計画」もそれはそれで流布されていました。カイテルが情報士官経験者の下僚に調べさせたところ、「6月末を期して」蜂起する計画があるとのうわさ話を拾ったとカイテルが書いていますが、たぶんこっちはヒムラーが流布したフェイクでしょう。また、『マンシュタイン元帥自伝』には、当時マンシュタインが参謀長をしていた第3軍管区司令部が、司令部向かいの民家に突撃隊が機関銃を持ち込んだという情報を受けて極度に緊張していた様子が描かれています。
第11話で触れたように、もともと警察はライヒではなく州のものであり、パーペン内閣のときライヒがプロイセン州警察を強奪し、ヒトラー政権になって他の州でも同様の措置が進みました。それぞれの州警察でも政治犯罪を取り扱う部署はあり、それがゲシュタポとその地方組織に集権化されたわけで、「政治案件を扱う秘密警察はゲシュタポ以前からあった」と言えなくもありません。
パーペンが殺されなかったのは、ヒンデンブルクの機嫌を損なわないためとも、後日の利用価値を当て込んでとも言われますが、殺されないように保護したのはゲーリングでした。
ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』は、ゼークトとコンビを組んで第1次大戦の東部戦線で活躍したマッケンゼン元帥が、シュライヒャーとブレドウの死について責任者の処罰を求める手紙をヒンデンブルクに送ったことを紹介しています。そして、手紙は副官に握りつぶされたかもしれず、何の影響もなかったと。『マンシュタイン元帥自伝』は、マッケンゼンが両将軍の名誉は「損なわれていない」というスピーチをし、これ以上これに触れるなと述べたことを伝えています(上巻304-305頁)。ですから、無実の死であったことを認めてよいとする程度の交渉はあったのかもしれません。
ド・ゴールは機動戦の実相に合わせ、現場指揮官に大胆な決断を許すような改革が必要だと説きました。それはバタイ・コンデュイの基本前提を無造作に否定するもので、まあこういう主張が混じっていると残りの漸進的な提案も蹴られてしまうだろうな……と読んでいて思いました。