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第13話 ヒトラー政権誕生

「通ってしまいましたよ」


「うん、通ってしまった」


 国会から帰るパーペン副首相に、フライヘア(男爵)・フォン・ノイラート外務大臣が話しかけた。3月の太陽はまだ天高いとは言えず、道に落ちる影は長かった。


 政権を取り、改めて国会を解散して、そして最初の国会で通した全権委任法は、ヒトラーに憲法を無視した法規範すら制定し押し付ける権限を与えるものだった。そして「政権」の意思決定プロセスは規定されていなかったから、3月始めの選挙前後に反対派がことごとく排除された今では、内閣の中にNSDAPのメンバーがわずかしかいないことなど、意味がなかった。自分たちが多数を占める内閣がヒトラーを制約する……と考えていた先々月の自分をパーペンは笑いたかった。ヒトラーは内閣そのものを無視できるのである。そして、そうすることは確実だった。


「我々は罷免されるのか、男爵」


「その必要すらないのではありませんか」


「そうだな」


 ふたりとも今は、歩くことしかできなかった。実際、司法大臣や大蔵大臣は罷免されずに閣僚の地位にとどまり続けたが、大戦が始まるまでにパーペンとノイラートはそれぞれヒトラーが好機をとらえて職から追った。そのことはいずれ触れることになるだろう。


--------


 ある程度の規模までの再軍備は、ヒトラー政権ができるまでに着々と準備され、多くの点ですでに「決行」段階を過ぎた状態だった。それらは部分的には他国に漏れていたが、それを表ざたにすると武力衝突の覚悟を試されることになった。1920年代から「平和の実現」が各国共通の目標となり、政治家の得点源ともなっていた流れからすると、それを表ざたにすれば自分の政権が倒れてしまうリスクが高かった。実際、1928年の第1次再軍備計画程度で済んでいるのであればフランスにとってすら眼前の脅威というほどではなかった。1932年夏以降、(実際には予算不足でシュライヒャーがぶち上げた規模には届かなかったにせよ)ドイツの再軍備は急速にその規模を増して、近隣諸国の対応はそれに遅れた。


 1930年代に入ると、イギリスにとって騎兵の機械化は、戦車兵総監部が自分の殻に閉じこもったままだとしても、それはそれで片づけるべき問題となっていた。馬から引き離されることに抵抗する騎兵たちも多かったが、広大な大英帝国の治安を保っていくには、火力は低くても機動力のある部隊が確かに必要だったから、陸軍首脳部はそれを推進した。しかし欧州大戦への備えとしてはそれは負の面があり、騎兵から転換した軽戦車と装甲車の大群は、イギリス戦車部隊のバランスをゆがめてしまった。


 いっぽう、世界的な戦車の大型化・重装甲化に対して、イギリスの戦車開発は遅れた。軍用にしかならない車両用大出力エンジンの開発には時間がかかり、イギリスの経済力低下と世界大恐慌、そして決してバカにできない要素として、すでに触れてきた海軍や空軍との優先順位の問題があり、遅れは今や覆うべくもなかった。


 フランスは別の問題を抱えていた。フランスはイギリスほど世界大恐慌の悪影響を受けなかったが、今なお残る多数のルノーFT17が呪いのようにフランスの戦術思想を束縛していた。FT17に対戦車能力がない以上、それを補う重戦車は敵戦車も含めた「困難な目標」すべてに対応する必要があった。「シャールB1 bis」の名で知られる重戦車はまさに、戦車を撃破する47mm砲と、陣地攻撃に有効な短砲身75mm砲を持つ戦車で、バタイ・コンデュイのコンセプトでは低速なのは問題ではなかった。問題は、高価で複雑なメカは配備可能数と整備しやすさが限られると言うことだった。


 1930年に始まったマジノ線要塞の工事は、1920年代の長い議論を経て取り掛かったもので、軍事的には無理筋である「ドイツと国境で戦い食い止める」政治的な要望と、軍人たちの思い描くバタイ・コンデュイから生まれたものだった。そして第2次大戦が実際にはどうなったかを思い返すと、予想を外してしまったのはむしろバタイ・コンデュイの方だった。マジノ線は「最も弱い箇所を少ない兵力で守り、突破を阻止する」想定通りの役目はきっちり果たしたのである。


--------


「うまく行っているんでしょうか」


「わからん。今は押すだけだ」


 グデーリアン中佐は交通兵総監部の廊下でネーリング少佐と立ち話をした。お互い忙しい。グデーリアンがルッツ交通兵総監の参謀長、ネーリングがその次に偉い先任参謀で、あちこちへ装甲師団構想のプレゼンに回っていた。


 ある程度偉くなってしまうと、経営者も役人も軍人も同じような態度を取る。いろいろな陳情を受けて、愛想のいい感想を述べても、その場でうかつな約束はしない。高い優先順位を与えてくれたのか、すぐにはわからない。そしてグデーリアンもネーリングも、大将閣下や中将閣下を問い詰められる身分ではなく、ご清聴を頂くのが精いっぱいである。だから手ごたえに確信が持てなかった。


「ツォッセンの建設プランですが、新しい図面が届いています」


「あとで見ておく」


 NSDAPは共産党の仇敵だから、ヒトラー政権になった瞬間、ソヴィエトとの協力はご破算になった。グデーリアンの前任部隊である第3自動車大隊がベルリン近くのツォッセン市に駐屯地を持っていて、そこにカマから引き揚げてきた戦車学校のメンバーが11月から「ツォッセン車両教導司令部」を立ち上げることになっていた。訓練生を受け入れる兵舎も要るし、車庫も足りなかった。この部隊は最終的には別の場所で戦車学校に改組された。


「開発側の手が空かないので、2センチ戦車(II号戦車は2cm Pz.Kpfw.と初期の書類に書かれた)の仕様提示はどうしても年を越しそうです。下相談をした方が結局開発が早いでしょうから」


「仕方がないな。他が遅れては元も子もない」


 すでにI号戦車A型は試作を終えていた。のちに1936年、スペイン内乱に投入されたI号戦車はソヴィエトのT-26戦車や各国の装甲車と戦ってさんざんな目に遭ったが、もちろん「そのせいで」II号戦車が開発されたわけではない。本命である軽戦車と中戦車の開発が遅れたからであった。当時の装甲車や軽戦車には、20mm砲の徹甲弾でも撃ち抜けるものは多かったし、特にルノーFT17戦車なら700mまで引きつければ撃破可能と皮算用されていたが、II号戦車がどうしても必要な理由は、I号戦車では砲に装填して撃つ訓練ができないからであった。


「総務課が送ってくる書類に注意しろ。特に自動車だ」


「気を付けておきます」


 歩兵師団の対戦車大隊は交通兵総監の管轄、つまり後年に言う戦車兵なのだが、同じ対戦車砲を使う歩兵連隊の対戦車中隊は歩兵で、訓練部隊も違った。このころ、歩兵連隊の対戦車中隊に貴重な大型自動車を回すか、馬に引かせて済ますかで陸軍省総務課と交通兵総監部が揉めていた。「馬に引かせて済ます」ほうが交通兵総監部の主張で、貴重な自動車の取り合いである。


 大事なことと些細なことが、メリーゴーラウンドのようにグデーリアンたちの周りを巡っていた。そしていま、彼らの戦場は書類だった。


 ヒトラーは政権奪取早々、軍と協調してゆくことを約束した。突撃隊に軍の機能を移すようなことはしないと言ったのだった。いきなり出世の天井も高くなったから、変化を歓迎する士官も多かった。数年のうちに自分たちの血を流すことになるとは、誰も考えていなかった。


--------


 カイテル大佐がヒトラーに会うのは今日の会議が初めてだった。騒然としていた1932年秋から1933年の半ばまで、カイテルは足の静脈瘤をこじらせて療養していた。7月に復帰してみたら首相が変わっていて、突撃隊が半官半民の組織のように扱われていた。突撃隊と軍の関係を調整する会議に、軍務局組織課員としてカイテルも出席していた。


「ああ、フォン・カイテル大佐。軍管区の境界は将来変更されると考えてよいのだな」


「はい、首相。師団の増設に伴って1937年には13個が設置される見込みであります」


「では、防衛スポーツの参加者振り分けは軍管区が行い、突撃隊各集団の収容定員をもとに軍管区相互で調整ののち依頼すると言うことで、よいのだな」


「はい、それで対応できます」


「よろしい」


 首相の下問をこなして着席したカイテルを、同僚たちがにやにや笑いで迎えた。後で聞くと、ヒトラーは見かけが貴族的な軍人にはとりあえずフォンをつけているらしかった。


 NSDAPの大管区(ガウ)はもともと政治活動のために定められており、議会の選挙区割りと一致していた。突撃隊は全土に散らばった連隊を4つの集団にまとめていたが、どちらの地区割りも徴兵や軍政に使う「軍管区」とは一致しなかった。軍と、軍でないものが協力するとなると、ささいなことも大きな障害になった。だが、軍と突撃隊の関係には、もっと大きな問題が潜んでいた。


--------


「上等兵が首相になったのだぞ。大尉が陸軍総司令官になって、何が悪い」


 男たちの不揃いな太い声が賛同した。


 レームは幹部たちと酒を飲んでいた。護衛の隊員は別のテーブルにおり、貧乏くじを引いたものは店の入り口を見張っているが、店の中には他の客はいなかった。ゲーリングがプロイセン州内務大臣としてプロイセン州警察を握り、全権委任法も成立した今では、突撃隊がどんなに乱暴なことをしても、取り締まる者はいないのである。後難を恐れて、他の客は逃げてしまった。


 警察の力が及ばないところでSPDやKPDと戦ってきたところ、いきなりゲームのルールが変わって、ヒトラーたち幹部がもっと高性能の暴力装置……国防軍そのものに逃げてしまった。突撃隊のやって来たことをいまさら指弾はされないものの、士官たちが軍拡に沸き返っているのに引き換え、突撃隊員たちへの分け前はなかった。


「自分ら……多いですから」


 そのテーブルにいる幹部連中では若い者が、ぽつりと言った。


 そう、今までは「多いこと」それ自体が武器であり、力だった。だが多ければ、ひとりひとりの分け前は減るのだ。


「俺もいい暮らしがしたいが、ボリビアまでいい暮らしをしに行って……帰って来たからな。今度は仲間のために、何とか突っ張ってやろうじゃないか」


 レームはつぶやくように言った。「仲間のために行うから」善いこととも、悪いこととも決まったものではない。戦時でもないのに、勝手に内戦をやって来たのが突撃隊だった。殴り合い、殺し合いの日々が始まれば、一方的に降りることもできなかった。戦友のことを考えていれば、自分のことを考えずに済んだ。


 陰気さを吹き払うように、別の幹部が大声でビールを頼んだ。すっかりおびえた顔のウェイターがやって来た。それをレームは叱りもせず、けしかけもせず、ただ静かに見ていた。自分を見ている、誰か別人の目を意識するように。


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「ドイツ国の名において、陸軍大尉ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングを歩兵大将に任ずる」


 ブロンベルクは辞令を淡々と読み上げた。6階級特進の辞令はもっと声を震わせて読むべきかもしれなかったが。そして軽く当人と握手した。


 ゲーリングは全権委任法が成立した翌月の1933年4月、パーペンからあっさりとプロイセン州首相の肩書を引き継いだ。州内務大臣の役職もそのままに、同じ4月に航空大臣も兼任した。そして8月、空軍創設準備の本格化につれて、空軍司令官予定者として歩兵大将の辞令を受けたのであった。もちろん1935年の空軍公然化と同時に航空兵大将になったのだが。


 とっておきの特別部隊として汚れ仕事をさせたプロイセン州警察部隊が1934年から「ゲネラル・ゲーリング(ゲーリング将軍)」連隊を名乗ったのは、本当に将軍だからだった。そしてこの部隊も後に空軍に移籍することになった。


「飛んでいた者たちにはいくらか心当たりがありますが、参謀のほうは知り合いがいませんので、陸軍には期待をしております」


 ゲーリングは必要なときは、丁寧にも上品にもなれた。前大戦の直後には不定期便の操縦を請け負って暮らしていたこともあったが、操縦からも航空技術からも遠ざかって、ずいぶん経っていた。党務は結構忙しかった。


 ブロンベルクは国防大臣になる前後からヒトラーに心酔して、無条件に協力的だった。冷たく言えば、そうしてヒトラーとうまくやってくれることで、多くのドイツ士官たちに出世の夢が広がるのだった。ただそのことによって、士官たちの間でブロンベルクは物を考えることを止めてしまった人物とみなされ、すっかり人望はなくなっていた。


 ブロンベルクはごく事務的に言った。


「陸軍でも、人選を進めております」


「空軍が公然化するときが楽しみです、ブロンベルク将軍」


 戦争をどのように遂行して行こうか……などという話は出なかった。ふたりとも、拡張した軍ですぐに戦争をするつもりはなかったからである。長いブランクを経て、ドイツ軍が圧倒的に強いなどとはどちらも考えていなかった。むしろゲーリングは、他国がドイツを攻める気にならないよう、効率よく他国を脅せる部隊構成のことを考えていた。もちろん小国は踏み潰すのだが。


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 ヒトラー政権が誕生して、フランスも「しまった」とは思っていた。だがイギリスはそれ以上に、フランスに対して失望していた。いまやイギリス自身の犠牲を最小にするためにもフランスと手を結び、フランスの軍事的強化を応援したほうがイギリスの利益にかなうのかもしれなかったが、政治の歯車を逆方向に回すエネルギーは誰も負担したくなかった。


 そしてもっと両国にとってまずいことに、「フランスはドイツが強くなるあらゆる提案を拒否するが、だからと言って具体的に何もしない」「イギリスは国内の和平推進派からの圧力で、軍縮協議の決裂を何としても避けたくて、いくらでも引き延ばしに応じる。そして大陸派兵につながる強い態度は取れない」という事情が、すっかりドイツに読み切られてしまっていた。


 だからドイツは自分たちの好きなように軍備拡張を進め、それを公表する時期をはかりながら、ジュネーブでの協議を単に引き延ばしていた。


 それは1935年への静かな序曲であった。だが我々は血の1934年を通らないと、嵐の1935年に行きつくことができないのである。

第13話へのヒストリカルノート


 1920年代から1930年代初頭まで、フランスにも騎兵科以外の戦車部隊のために「中戦車」を開発する計画はありました。簡単に言うと、「47mm砲か75mm砲のどちらかを、B1戦車ほど大きくない車体に収める」計画群です。ジュネーブ軍縮協定の落としどころが探られる過程で、25t以上の重戦車を禁止する案が有力となった時期があり、「中戦車」計画は中断しました。1934年になって軍縮協定がまとまらないことがはっきりしましたが、中戦車の計画群は「47mm砲と75mm砲を両方持った」B1戦車の計画に統合されてしまいました。その結果、高価になって数がそろわなくなったわけですね。ただし1940年5月にドイツがIII号戦車やIV号戦車をどれだけ持ってい(なかっ)たかを考えれば、だからフランスは負けたのだとまでは言えないと思いますが。



 ヒトラーが小規模な自動車化部隊の演習を見て「これが欲しかったのだ」と評価するエピソードは、『壮烈! ドイツ機甲軍団』(中西立太・小林源文)の冒頭にもありますから脳内に刷り込まれている読者の皆さんも多いでしょう。グデーリアン『電撃戦』が元ネタと思われますが、はっきりその日時は書かれていません。3月の国会開会式を見に行った話の直前に書いてあるので、1933年2月か3月のことかと思います。



 カイテルがヒトラーに初めて会ってフォンをつけられたときの様子は、カイテル夫人がその母親にあてた手紙が残っているそうで、英語版のカイテル回想録を監修したゴーリッツがそれを短く紹介しています。会議で話し合った内容のほうは架空です。

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