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第12話 シュライヒャー政権と第二次再軍備計画

 小説というかたちを取ってすら、このころの英仏交渉を簡単にまとめることは容易でない。イギリスはフランスに何らかの陸軍軍備縮小を約束させたい。フランスはフランスの防衛についてイギリスに同盟か援助の約束をさせたい。だからイギリスのちょっとした「うれしがらせ」の発言をフランスが同盟の約束と取り、それを既成事実にする意図だったかもしれない新聞へのリークがあったり、「フランスにポーランドを抑えさせてはどうだ」とイギリス外相がドイツ外交官に言ったりした。


 いろいろあって、結論として……「ドイツの再軍備要求は呑めない」と米英仏は9月にいったん口をそろえた。いったん……である。軍縮協議からドイツの離脱止む無し……と突き放したことになるから、イギリスのマクドナルド首相やサイモン外相は国内から突き上げられた。そしてヒトラーもまた、成果を挙げそこなったパーペン政権を批判したのである。


 もっとも、イギリスがドイツの軍備制限を緩めないと公言したのは9月19日であったが、NSDAPが第一党となったドイツ議会は9月12日、パーペン内閣不信任決議案を可決してしまっていた。KPD(共産党)が提案し、NSDAPが賛成して過半数になってしまったのであった。パーペンはそれを(自分の命じた)国会解散とするよう懸命に叫んだが、国会ではパーペンはひとりぼっちであり、第1党のNSDAPが議長としてゲーリングを選んでいたから、議長はパーペンを無視して不信任案可決を(せん)したのである。


 パーペンは大統領選挙以外の国政選挙がない新たな政体への憲法改正を閣議で口にするとともに、どうせ大統領令で政治をするのだからと、選挙そのものを取りやめることも考えたが、憲法59条に従って国会議員たちが大統領の憲法違反を最高裁判所に訴え、ヒンデンブルクを失職させるリスクがあるので諦め、投票日は11月6日と布告された。


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「ならないか ならないか 副首相を やらないか」


「何だそれは」


 レームはヒトラーの鼻歌を聞きとがめた。移動中の車内で、ヒトラーは書類カバンから手紙を取り出して読んでいた。


「夏からずっとこうなのだ。我らが首相閣下は、何度も言っていれば俺がそのうち副首相になりたくなってくると思ってるんじゃないか」


「なりたくないのか」


「当たり前だ。奴らはいつも大統領から命令書を取ってくる。取って来ることが力で、肩書に意味はない。奴らを追い出さねばならんのだ」


「俺の若い者も、腹を空かせている。頼むぞ」


「エルンストは、何になりたい」


 レームは窓の外を見た。


「命令を聞く側であれば、中佐も大尉も同じだ。命令をする側まで、俺を連れて行ってくれ」


「命令をする側……か」


 突っ張っているヒトラーも、パーペンたちの政権が簡単に崩れると思っているわけではなかった。何気なく次の手紙に手をかけたヒトラーは、それを仕舞い込むとカバンを閉じた。


「どうした」


「金策のことだ。今は思い出したくない」


 レームは低く笑った。


 手紙は、グレゴール・シュトラッサーからのものだった。NSDAPは故地とも言うべき南のバイエルン州でもともと集票力が高かったが、工業地帯の資本家からの支持もあり、ドイツ帝国に参加したがプロイセン王国ではなかった北西ドイツでも高い人気を誇っていた。この北西ドイツで支持を広げた功労者がシュトラッサーだった。


 9月の不信任案も含めて、政権を批判するためなら共産党とも組む指示をヒトラーが出したことが何度かあり、資本家たちがNSDAPへの献金を手控える動きが目立っていた。実情はともかく、政権に参加して見せたほうが党財政には良いのだった。ヒトラーとしては、こうしたヒトラーへの批判的な見方は、他の党幹部には絶対に広げてはいけないものだった。


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 ところで欧州各国首脳が軍縮と賠償の複合問題で忙しいため、1932年9月に提出された、満州国建国を巡るリットン調査団報告がたなざらしになっていて、連盟総会での判断が出たころにはドイツはヒトラー政権になっていたのだが、ドイツの運命にとってそのこと自体は大きな問題ではなかった。しかし、「いずれにせよ近日中に連盟総会はこの件で開かれるのだし、開かれれば顔を突き合わせることになる」ことは、交渉に後ろ向きな人々の背を押した。12月6日、米英仏独伊の首脳がジュネーブに集まることになった。


 7月のシュライヒャー演説以来、主要国がドイツに対して厳しい態度を取った結果、ドイツの混迷は増した。そのことによってドイツが席を立ち、合意が成らないとなれば、それは他の主要国にとっても痛恨事だった。11月8日にはフランクリン・ルーズベルトが当選したし、先に結果を言えば、12月6日にちょっと挨拶をしたエリオはその日のうちにパリへ発ち、総辞職して戻ってこなかった。ローザンヌ合意がアメリカの債務減免拒否で丸ごと流れた責任を問うた、不信任案可決だった。だが連立の組み合わせはそのまま、ボンクール外務大臣が首相を兼ねた。


 合意形成を国内から突き上げられたイギリスと、孤立はやはり避けたいフランスは、ドイツがヴェルサイユ条約で求められない兵器の「サンプル」保有を許され、また「原則として」平等な権利を持つことをうたって、軍縮合意に参加させようとした。後から見れば、筆の先だけで高い理想が合意されることにこだわる半面、ドイツの国内情勢を放置ないし無視したままにしたのはイギリスの朝野にとって大きな逸機であったし、パーペンらの政権は「国民の支持を求めなくても法律だけで人は従う」という誤った前提から出発していて、行き詰まりをどうすることもできなくなっていた。


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「爆撃機の突破は、常に成功すると見なければなりません。いまや攻撃以外に我々の都市と婦女子を守る方法がないのであれば、我々は攻撃能力を高める方向に決然と歩み出すべきであります」


 ボールドウィンは11月9日、イギリス下院で、まだ合意が探られているジュネーブ協議をよそに、空軍を中心とした軍備強化、とくに戦略爆撃能力の獲得に舵を切る発言をした。1920年代からヒューマニズムに基づく平和の追及は、イギリス国教会など有力な政治勢力がコミットしてきた目標だった。イギリス国内に反対者を増やすことになっても、現政権はそれをついに捨てると言うのだった。もちろん第一党の党首たるボールドウィンにも、すぐに国論を染め上げる力はなかった。


 しかしこの演説は、「イギリスが身を守るために必要なものは何か」という残酷な問いをはらんでいた。それはいまや空軍、そして海軍であって、陸軍そのものの優先順位が低いのである。それはそのまま、フランスを助けに行く戦力の近代化を捨ててでも、海空軍の重点強化に踏み切るのが合理的だと言うことだった。


 そして皆さんもご存じのように、イギリスはそうやって生き延びたのだし、それは間接的にフランスの運命を決めたのである。


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 11月6日のドイツ総選挙で、NSDAPは少し議席を減らした。帝政時代から陸軍を支持する、パーペンにとって唯一の与党ともいえるDNVP(ドイツ国家人民党)がその分を受け取ったが、全体としては微々たるもので、KDP(ドイツ共産党)は議席を伸ばした。同じことであった。9月と同様、召集と同日のうちに不信任案可決という危険があった。11月17日、パーペン内閣は総辞職してNSDAPに対し「白紙交渉」のポーズを取ったが、ヒトラーはまだ折れなかった。


 あとから考えれば、ここがシュライヒャーがゲームのルールを読み違えた瞬間だった。シュライヒャーは「国民に不人気な」パーペンにこのさい退いてもらおうと考えた。ヒンデンブルクも、表面的には異議を唱えなかった。


 だがそれは、シュライヒャーがずっとプレイしてきたゲームではなかった。シュライヒャーは「ヒンデンブルクの好意」に拠って立ってきたのだった。グレーナーを引退させたときは、前妻を亡くしていたグレーナーがいい年をして「できちゃった婚」をしてしまい、保守的な価値観を持つヒンデンブルクの機嫌を損ねていた好機であった。その後シュライヒャーが立てたパーペンは愚かではあっても、ヒンデンブルクから見れば「大戦時からよく知っている若者」であった。それに大恥をかかせて追い出し、国内の強権政治は行き詰まり、対外交渉では成果なく、シュライヒャー自身にヒンデンブルクの冷ややかな目が向けられようとしていた。


--------


 国防大臣官房のオイゲン・オット中佐は脂汗でも流しそうな緊張ぶりであった。ヒンデンブルク大統領の同席する閣議にただの中佐が出てくれば、そんなものかもしれなかった。


「SPDとKDPが全土にストライキを指令、SA(NSDAPの突撃隊)がこれに対抗して蜂起したとすれば、ライヒスヴェーアは数の劣位が覆うべくもありません。かつての『黒い国防軍』などはもうないのです。特にSAには民間武装団体として若者の訓練を委ねているところであり、SAに対する警備活動に防衛スポーツの訓練歴しかない若者を動員することは不可能です。ライヒスヴェーアの兵力で全国に治安出動を行えば、東プロイセンは孤立無援であり、ポーランドに対する防衛はかないません」


 陰気な説明であった。シュライヒャーは大臣官房の士官たちに、兵棋演習をあらかじめ命じていたのであった。パーペンのクーデター計画は兵理として不可であると説明するために。


 パーペンは軍の力を借りたクーデターを提案していたのだが、軍を握る国防大臣たるシュライヒャーはそれを断固はねつけた。自分が首相になり、謀略を用いてNSDAPを処理する腹であった。


「シュライヒャー将軍、君は運は良いほうか」


「はい、我が大統領。人並みには」


「では君の提案に賭けてみるか。組閣したまえ、シュライヒャー将軍」


 パーペンはすがるような目でヒンデンブルクを見た。この男は全体として夢想、もっとはっきり言えば虚言の世界に生きてきた。「いつか世を救う」誓いを立てて今日まで来た。裏返せば、虚言の世界で屈辱を受ければ彼は憤死するのであり、それを雪辱するためなら、彼は誰の靴にでもキスをするのであった。シュライヒャーはそのことがわかっていなかった。パーペンの心の奥底が、見えていなかった。それをどこか可愛いと思うヒンデンブルクの心情も見えていなかった。


 シュライヒャーは黙って今日の勝利を受け取った。夏のうちに、ヒトラーを首相にする提案はヒンデンブルクが蹴飛ばしていた。だからシュライヒャーの秘策は、それではなかった。そのシュライヒャーが捨てた提案を、パーペンがほこりを払ってヒンデンブルクに差し出したら、ヒンデンブルクがにっこりするなどという不条理は、シュライヒャーの心のうちにはなかった。


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 首相になってすぐジュネーブにやってきたシュライヒャーを待っていたのは、玉虫色に磨き上げられた共同声明案だった。「世界の安全保障システムにおいて、ドイツも他国同様、平等な権利を持つ」ことがひとつ。ドイツは軍縮交渉にとどまることがひとつ。そしてすべての国は軍縮協議を推進すると言うことがひとつ。これだけを決めて、軍縮協議はひとまず休会にしようと言うのであった。ドイツの再軍備を明示的に認める表現は何ひとつ含まれていなかったが、シュトラッサーはそこは強弁できると踏んだし、代表がパリに帰ってきてそのまま総辞職したフランスとしては文句をつけづらかった。


 これはドイツにとって栄光の外交的勝利であるはずだったが、ジュネーブにいる間にシュライヒャー新首相の運命は早くも定まっていた。12月8日、グレゴール・シュトラッサーはNSDAPの全役職を辞任した。シュライヒャーからアプローチを受け、NSDAPの分派活動を持ち掛けられていたことが露見したのである。これをヒトラーに漏らしたパーペンは、自分を副首相としてヒトラー内閣を作る根回しを始めた。そして前年にはシュライヒャーに対してヒトラー首相就任を堅く拒んだヒンデンブルクが、パーペンに対してはそれを許す姿勢を見せたのである。


 シュライヒャーはパーペンをネズミほどにしか思っていなかった。しかしパーペンは最後の最後で、悪賢い妖怪ネズミとなって、局面の最善手を連発し始めた。


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 首相として権力を握ってみて、シュライヒャーは外交官たちにも、財務官僚たちにも以前ほど無理を言わなくなった。ようやく経済や外交を他人事ではなく、自分がつじつまを合わせる問題として見られるようになってきたのである。だが遅かった。国債の代わりに実態の怪しい国営企業、ドイツ公共雇用会社(エファ)の手形をライヒスバンクが割り引くことで雇用対策の資金はこしらえたものの、またハイパーインフレになるほどには出せなかったし、軍事予算を隠すにしても、雇用対策はヒンデンブルクが自分の辞職でシュライヒャーを脅すほど切迫した必要性があり、流用の余地は小さかった。結局シュライヒャーは、外交面でも軍拡でも自分のかねてからの公約を守れず、それを何とかする時間はもうなかった。


 1933年1月に入ると、パーペンはすっかりヒトラーとの話をつけてしまっていた。シュライヒャーの閣僚たちすら、シュライヒャーとハマーシュタイン=エクヴォルトが組んでクーデターを起こすといううわさを聞いて、パーペンが持ち込んできたヒトラーとの提携話に傾いた。そして今度は、みんなシュライヒャーに隠しごとをした。ヒンデンブルクはヒトラーを首相にすることなどないと言い、ヒトラーは政権を取ったらシュライヒャーを国防大臣に迎えると言った。


 そしてブロンベルク中将がヒンデンブルクに召還され、ジュネーブ軍縮交渉の場から戻ってくる話がシュライヒャーの耳に入った。


 列車がベルリンに着くと、ヒンデンブルクの副官であるオスカー=ヒンデンブルクと、ハマーシュタイン=エクヴォルト統帥局長の使者がブロンベルクを巡って鉢合わせした。どちらもブロンベルクを自分たちのオフィスに呼ぼうとしたのだが、オスカーが迫力で勝った。ヒンデンブルク大統領は、連れてこられたブロンベルクを直ちに国防大臣に任じた。シュライヒャーを首相から追うとき、国防大臣として軍の指揮権を握ったままだとクーデターに走りかねないので、それを封じたのである。


 シュライヒャーは何とかヒトラーと交渉する糸口にしようと自ら辞職したが、NSDAPの分断を仕掛けることまでしたシュライヒャーをヒトラーは許さなかった。


 1933年1月30日、こうしてヒトラー政権は誕生した。


第12話へのヒストリカルノート


ワイマール憲法第59条(マイソフ私訳)


 ライヒ議会は、故意に憲法または法律に違反した大統領、首相または閣僚をドイツ国の名において最高裁判所に訴追することができる。その動議には100名以上の議員が署名し、憲法改正に要する多数[憲法第76条により総議員の2/3が出席、かつ出席議員の2/3が賛成]をもって可決されねばならない。


 閉会中にこの規定が使えるかどうか明記はありません。しかし憲法改正に要する多数の国会議員が連名で公訴を起こし、国会を閉じたままにした大統領の非を鳴らせば、最高裁は裁判を始めたかもしれません。



 ボールドウィンが11月9日に下院で行った演説は脚色してありますが、"The bomber will always get through"というキーフレーズは有名です。


 イタリア空軍のドゥーエが1921年に出した『制空』という本は、空軍と空軍の戦いを総合的に論じたもので、世界中の軍人が読んでいました。ドゥーエは1926年版から第2部を付け加え、航空撃滅戦について論じました。これは第14話以降で扱うことになるでしょう。さらに1928年には別の冊子を出して、のちには『制空』の第2巻として扱われるようになりましたが、そこでは第1次大戦の経過を陸海空の新兵器を中心に説き起こし、その最後で未来の戦争について、毒ガス攻撃と組み合わさった都市戦略爆撃の恐ろしさを強調しました。これがボールドウィンの演説に最も影響を与えたと思われます。第3巻は1929年に出たドゥーエと批判者のいわば質疑応答集、第4巻は1930年に出た、フランス・ベルギー連合軍と独立空軍を再建したドイツ軍が19XX年に戦う仮想戦記でした。連合空軍はバラバラに戦い、不利なレートで接敵し撃滅されてしまうので、ドイツ空軍が空を制してしまうと言う話でした。全部合本すると英語版で400ページ近くになります。



 オット中佐はどう見てもシュライヒャーの子飼いだったので、1933年6月には中華民国と満州事変を停戦したばかりの日本に送られ、ソヴィエト・満州(日本軍)の対峙状況も含めて調査をさせられました。いったん報告に戻ったのち、日本大使館の駐在武官、さらには駐日大使となりました。そしてソヴィエトのスパイに接近され、有名なゾルゲ事件を起こしてしまいます。



 ブロンベルクはジュネーブ交渉使節団で軍人のトップでしたが、東プロイセンの第1師団長を兼ねていました。そしてその参謀長は、昔からNSDAPとヒトラーに心酔していたことで知られた、ライヒェナウ大佐でした。また、軍務局長としてブロンベルクはハマーシュタイン=エクヴォルトの前任者でしたが、友人を推すシュライヒャーのせいで統帥局長の順番を抜かされた格好になっていました。ブロンベルクが直接ヒンデンブルクに接近していたとも言われますが、「シュライヒャーと結託しそうにない将官」というだけでもピッタリの人選だったでしょう。


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