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第11話 何も決まらない夏

 世界大恐慌がイギリスを襲ったとき、イギリスは労働党のマクドナルド政権だった。だから税収が急減したあと緊縮予算を通すことはこの内閣の責任となり、党内からも離反者が出て内閣は倒れた。


 しかし国王ジョージ6世は、マクドナルドに政党の枠を超えた内閣を作るよう再組閣を促した。直後の選挙で保守党が圧勝したこともあって、この挙国一致内閣(national government)は「労働党と自由党のわずかな閣僚が保守党政権に混ざっている」ような格好になった。だからたまたま病気静養中のマクドナルドに代わって、保守党首のボールドウィンがスティムソン国務長官の使者に応対するようなこともあったわけである。


 1932年にマクドナルド内閣の外務大臣をつとめたのはサイモン(のち子爵)だった。保守党に協力したわずかの自由党議員を代表する、数少ない大臣であった。だから国内に向けて国際公約を押し付ける力が弱く、保守党からは批判的にみられ、つらい立場だった。


 6月1日から首相になったフランスのエリオ首相は3度目の登板だった。政権は交替するが内閣の顔ぶれには重なりがあり、政策の不連続性はそれほどではなかった。エリオの率いる政党は急進社会党とでも訳すしかない名前だが、この場合の急進(ラディカル)は「王政復古は望まず普通選挙を支持する」という程度の意味で、自作農家が主な支持母体だった。農地を貴族に返したくもないが、平等の名のもとに取り上げられたくもないのである。だから保守系の政党とよく連立政権を組んだ。


 ジュネーブ軍縮協定交渉と並行して、フーヴァー・モラトリアムが失効した後の賠償支払いの枠組みを話し合う会議が6月から予定されていた。つまり今月である。そこではイギリスとフランスは利害関係を共有して、ドイツを締め上げねばならなかったから、いま軍縮でガチバトルしたくなかった。いっぽうアメリカは何でもいいから選挙民に示したかった。


 だから軍縮については米英仏でなにか無難な、誰も反対しなさそうなことを合意して、ドイツにも合意させようという方向で調整が行われた。誰もドイツの軍備制限を緩めようとは思っていないのだが、「原則として」平等な立場だとか、「最初の軍縮協定では」ヴェルサイユ条約通りとするとか、ドイツを交渉のテーブルから去らせないために「甘く聞こえる言葉」が気前よく振る舞われた。外交官たちはこうした言葉の「甘くなさ」を感じていたが、ブリューニング政権のころから軍に対しては「軍備制限緩和について何か進展があるだろう」と言う見通しが示されていて、ドイツ軍人たちは過剰な期待を持っていた。


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「しかし……吹かれましたな。いや、失礼」


 イギリスのサイモン外務大臣は、アメリカ大使館からの使者に軽いジャブを放った。1932年6月22日、アメリカのフーヴァー大統領はジュネーブ使節団への訓令を公表した。「国内警備にあてる陸軍兵員」はドイツの10万人陸軍を基準に、人口6500万人に対して10万人の比率でこれを認める。それを超える部分の陸軍については1/3を目処に現状から減員を行う。戦艦は1/3、巡洋艦・駆逐艦・空母は1/4の総トン数削減。潜水艦は1/3の削減に加えて、世界のいかなる国も35000トンまで。ボールドウィンを先にヒーローにしないぞというフーヴァーのパフォーマンスであった。


「それでですね。基本的な方向性はそれでよいとして頂いて、我が国が大統領選を終えるまで休会として頂いては……」


 サイモンの通った鼻筋と水平な眉は見事なT字を成していたが、それがY字に変じたので、使者の声は小さくなった。


「ダメ?」


「私は保守党員ではありませんので」


 サイモンももちろんボールドウィンの持論のことは知っていた。だいたい自由党のグラッドストーン内閣が1871年に、陸軍士官の売官制廃止に踏み切ったことに象徴されるように、イギリス陸軍は自由党と仲が悪い半面、保守党とは仲が良いものだったのだが、ボールドウィンの持論はその流れから言えば不規則発言のようなものだった。


「なにか実質的な進展も、ひとつくらいは」


「フランスですか」


「それはまあ……いろいろ考えられるところですが」


 とぼけて見せたサイモンだったが、誤解されないように微笑を添えた。米英の利害一致に対して、どうもフランスは味方がいないのだった。「大陸に手を出せば出費か流血につながる」という懸念がフランス最大の敵であった。


 一方、フランスに譲歩させるためには、どこかで利を食らわせなければならない。それは賠償(によるアメリカへの債務返済)問題であり、食らわせる利は誰の懐から出すのかというと、アメリカしかなかった。


 だから、サイモンはアメリカが何を言ってきても、それで憤然と席を立てるような立場ではなかったのである。


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 このころのドイツでは、士官食堂(日本軍で言う、将校集会所)はオフィツィアカジノと俗称された。もちろんトランプ賭博をしない客もいたのだが。すっかり壁も柱もたばこの匂いを吸っていて、誰もいなくても間接喫煙ができるほどであった。


「軍備制限が緩むと、辞職しにくくなるのが困るな」


 ヴィルヘルム・カイテル大佐は、弟のボーデヴィンがリアクションをくれないことを気にも留めず、アイスバイン(豚すね肉の塩煮)をもりもりと切り分けた。よく食いよく飲み、煙草も吸う。職は騎砲兵で趣味は狩猟。世が世であれば一介の騎士として、その生真面目さよりも別の資質で世に知られていたかもしれない。ファンタジー世界に転生などしたら、同年輩のほとんどの元帥を討ち平らげて、絶対にヒトラーの下風に立つことはなかっただろう。


 49才で大佐になり、いま50才である。統帥部長であるハマーシュタイン=エクヴォルトは47才で大佐になっている。軍内最速とまでは言えないが、まだヒトラーに会ってもいないヴィルヘルム・カイテルも俊才たちに混じって、参謀士官の階段を体力の限りに駆け上がっていた。


「騎兵からとうとう首相が出たな」


「まあ、政治のことなど俺らには関係ない」


 ヴィルヘルムは弟の話題を軽くいなした。同僚の耳があるところでは、避けたほうがいいかもしれない。ヒンデンブルクさえ納得させれば首相になれる……という経緯での就任なのは誰が見てもわかったから、長続きするとは思ってもらえず、政界でもそれ以外でも閣僚のなり手はいなかった。騎兵科のパーペンは友人関係をたどって人を集めたから、騎兵士官の多い内閣になってしまったのである。


「ヴィルヘルム、突撃隊の話……聞いてるか」


「今月の話なら聞いてる」


 たまたまボーデヴィンは少佐で軍務局訓練課、ヴィルヘルムは大佐で軍務局組織課にいた。防衛スポーツと短期訓練によって新兵の供給ペースが決まるから、訓練課はもちろん組織課にもNSDAPとの協力がどうなるかは知らされねばならなかった。4月にグレーナーが出した禁止令は資産没収なども伴っていたから、突撃隊としても窮屈な思いはしていたのだが、それが早くも6月のうちに解けるのだった。


「あいつらを解き放つと言うのは、選挙をやるんだろうな」


「それこそ、俺たちに関係のないことだ、ボーデヴィン」


 そう、参謀士官の人生に選挙が影響することなど、あるはずがなかった。


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 シュライヒャーがヒンデンブルク本人以外に持っている……少なくとも本人が想定している与党勢力は、農家と財界だった。もともと工業化の過程で工業都市への人口移動はあったが、特に第1次大戦後は本土と切り離された東プロイセンの農村から人口が流出し、政府は利子補給など、要件の緩い補助を地主たちに与えた。東プロイセンのGut Neudeck(ノイデック荘)はヒンデンブルク家代々の農園であったのを弟夫婦が借財を残して亡くなり、人手に渡っていたところ、ヒンデンブルク大統領の支持者たちが募金をして80才の誕生祝に進呈していた。まさに農家と財界がその主なスポンサーだったのである。だが金はあっても票はなかった。


 ブリューニングはSPDと「議会の存在を守る」点で一種の黙契状態にあった。当時のドイツ憲法では、法律に代わる大統領令は確かに議会の協賛なく発することができたが、議会は60日以内に過半数をもってこれを無効にできた。パーペンは議会軽視をあらわにしたヒンデンブルクの協力者として、古巣の中央党からも嫌われており、このままだと重要法案無効化・パーペン内閣打倒で過半数の議員が一致する可能性があった。だからパーペン内閣成立以降、パーペンとシュライヒャーはNSDAPを選挙で勝たせ、かつ味方につけようとした。


 議会政治の場外乱闘とでも評すべきだろうか。このような形での政争を行った先例はないので、誰がどういう経緯で主導権を握るか、誰にもわからなかった。そしてその後の歴史を知る我々から見ても、これから半年の間に起こることは逆転の連続だったのである。



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 先に触れたように、ドイツ外交官がジュネーブからベルリンに上げる報告は、再軍備が認められる可能性をそれほど甘く見たものではなかった。しかしすでに前政権のうちから作成が進んでいた、1932年の第2次再軍備計画(1933年~1938年の5か年計画)は常設歩兵21個師団14万4千人(平時)、1938年の完成年次には短期訓練でかさ上げされた予備役兵士を含め30万人と、現状から飛躍的に軍備を拡張するものだった。何としても「徴兵経験のある世代の高齢化」を乗り切り、単独でフランスまたはポーランドからの攻撃を防ぎ切る力をつけようと言う軍の意思を、シュライヒャーだけでなく、陸軍首脳たちが共有したと言うことだった。


 ドイツの賠償に関するローザンヌ会議は6月から7月まで続いた。そこで何が決まったのかは、今日になっても明らかではない。議長役のイギリスも共同声明をまとめることができないまま終わったからである。ドイツはいくらかを支払い、それでは英仏が国内をなだめられないので、アメリカの債務減免でドイツが払えない分を埋めると言った内容であったと思われ、それをセットにした共同声明はついに出せなかった。


 そしてずっと後、フーヴァーの落選が決まった後の12月になって、アメリカ上院で対英仏借款の減額という案件が否決された。もしこれが合意されれば、ローザンヌで約束された何かが玉突き式に動き出すはずだったのだろうが、それは仮定の話で終わってしまった。


 ローザンヌの話が終わったので、外交官たちはジュネーブに戻って軍縮の話を蒸し返した。高官たちもジュネーブに向かったり、本国で使節を迎えたりした。


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「終わりません。終わりませんよ大佐殿」


「終わらせろ。いや……考えることそのものを止めろ。手を動かせ。何をするかは指示する」


 ヴィルヘルム・カイテルは若手士官を叱咤した。さすがに秘密参謀本部である軍務局ともなれば、戦後任官組はまだ行きついていないが、命を取り合う軍人の感覚を感じさせないサラリーマン的な若手が、そろそろ出始めていた。


 7月に入ると、「この再軍備要求は譲れないのだ」とシュライヒャーは言い張り、首相を含めてだれもそれを止められず、シュライヒャー、ハマーシュタイン=エクヴォルト統帥局長、アダム軍務局長は第2次再軍備計画の初年度である1933年に向けて、具体的な準備を7月に開始した。ヴェルサイユ条約では陸軍士官の数が4千人、1年の補充はその5%までと定められているため、補充する士官候補生の枠も厳重に抑制されていたのだが、師団を3倍にするということからか、10月1日から600人とした(実際には1932年の採用者は359人にとどまったが、それでも条約違反である)。防衛スポーツの振興と合わせて、国境警備を中心とする年長者の部隊「ランデスシュッツェン(Landesschützen)」を公然化して、それとは別に防衛スポーツ既修者対象の短期軍事訓練も始め、1933年4月には陸軍と陸軍航空隊(!)で14万2千人に達すると言う計画だった。3週間の防衛スポーツ訓練を実施する歩兵15校、水兵1校、そしてそれを統括する国家機関が9月に発足することも7月のうちに決まった。


 だから軍務局組織課には急に仕事が増えたのである。こうしたとき、カイテルの勤勉さは他を圧した。こんなことを実施してドイツはどうなる……という懸念を脇に置いて、目の前の仕事に没頭してしまうのがこの男だった。



 さて、ローザンヌから帰ってきたパーペンには、仕事があった。おそらく誰も予想しなかった仕事が。



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「本家」を継いでいく人々と、分家して家産の恩恵を失った次男以下の懐具合が隔絶してしまうのは、欧州の軍人貴族も日本の武士も変わらない。ゲルト・フォン・ルントシュテット中将の祖父は土地を持つ本家当主で、父親までは当主の息子として個人装備の高価な騎兵になれたが、ゲルトはもう歩兵になるしかなかった。それでも有能とされて、ライヒスヴェーアで順調に出世してきた。もう57才ともなれば軍歴の終わりも見えてきていたが、いまベルリンを含む第3軍管区の司令官として、第3師団長を兼任していた。


 そのルントシュテットは師団長室で、さっきから命令書を手にしたまま、何度もそれを読み返していた。


 ドイツの警察にはクリポ(刑事警察)、オルポ(秩序警察)、ゲシュタポがあって……としばしば説明されるが、それはヒトラー政権下で州警察がなくなっていた時期の話である。もっぱら犯罪捜査に当たる私服警官がクリポと呼ばれていたのは同じなのだが、州の制服警官はシュポ(Schutzpolizei、警備警察)と呼ばれていた。


 さっきからルントシュテットが読んでいる命令書は、1932年7月20日を期してプロイセン州に戒厳令を敷き、州政府の要所を軍が占領し、プロイセン州警察や、その中でもシュポの長官級指導者たちを軍が拘束しろという命令なのだった。何と言ってもベルリンを抱える第3師団が一番仕事が多い。


 もちろんプロイセンに住んでいれば、駐屯地からほとんど出ない生活でも政界の迷走に気づかざるを得ない。4月の州議会選挙で誰も安定多数政権を作れなくなり(第10話参照)、それまで政権を取っていたSPDが暫定政権を続けていたが、新しい方針を打ち出すことはできなかった。


「文書で命令を出す。文案だ」


 タイプライターの前でじっと静止していた書記に生気が戻った。占領部隊の編成を命じないといけないが、この内容では、口頭命令で士官たちを動かすのは無理だと思われた。とても覚えていられないくらい、占領すべき場所も多かった。


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「君は罷免だ。君の名前は? ああ君も解任だ。大統領特別命令だ」


 なにしろ先月首相になるまでパーペンはただの議員だったから、州政府の要人にほとんど知り合いはいない。パーペンが振り回している大統領特別命令は、パーペンを国家弁務官に任じ、州政府の権力をすべて与えると言うものだった。それに基づいて、パーペンはSPD系政権の州政府大臣たちを集め、そのすべてを解任することを申し渡したのだった。


「我々はこのような違法行為を断じて認めません」


「私は決定されたことを伝えただけだ」


 首相官邸に呼び集められていた閣僚たちは、憲法に定められた地方自治の仕組みを大統領令で覆すことはできないと抗議した。そして短い不毛になにらみ合いを終えて、首相官邸を出て行った。パーペンは慌てた様子もなく、それを見送った。すでに権力継承の手配は済んでいたから、あわてることはなかった。


 後の世に「プロイセンへの一撃」と呼ばれたこの事件は、1日をかけて終了した。午後になると州警察やシュポの本部が陸軍に占領され、パーペンが任じた官吏たちが警察の運営を引き継いだ。州警察の指導者たちは翌日釈放され、州政府閣僚はルントシュテットの部下たちに退去を求められ、政府機関から追い出された。


 確かにシャライヒャー、ヒンデンブルクといった軍の要人たちが味方に付けば、このようなことも可能であった。しかしその指導グループが引き裂かれれば、そこには巨大な空白ができた。民主主義や憲政の原則を脇に置いても、後から見れば、パーペンのやったことはドイツにとってマズい選択だったと言われても仕方がない。ヒトラー政権ができると警察を握るプロイセン州内務大臣をゲーリングが占め(内閣では無任所大臣となる)、さらに1933年4月、パーペン副首相からプロイセン州国家弁務官の地位を引き継いで、ゲーリングは州政府を乗っ取ることができたのである。州政府を乗っ取るということは、警察機構を手に入れるということだった。こうしてゲーリングが手に入れた警察部隊の一部が、ヒムラーに警察全般を引き渡すさいに空軍に移籍したのが、回り回って(北アフリカでの師団全滅を経て)ヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団の母胎となるのだが、それはずっと先のことである。


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 だが「プロイセンへの一撃」を待つまでもなく、ドイツ国内はもうひとつの渦中にあって騒然としていた。7月31日総選挙である。


「我が国は独立国として当然の権利を奪われたまま、ただ幸運をもって国家を保つことを強いられてきたのであります」


 シュライヒャーはジュネーブの外交官たちを急き立て、ドイツの再軍備要求を米英仏に認めさせろとせっついていたが、7月26日に行ったラジオ演説は国内・国外両方に聞かせるものになった。


「フランスが軍縮に応じないならば、我がドイツは断固として軍の再構成に踏み切り、自衛能力を持つほかはありません」


 シュライヒャーはフランスを批判する文脈の中に、本音を混ぜた。すでに外交官たちから上がってきた報告は真っ暗な見通しを伝えてきていたが、シュライヒャーもすでに国内で「必ず再軍備できる」と言い張り続けていて、後に引けなかった。シャライヒャーのこだわり方は国家というより個人のメンツ、あるいは見栄と言えなくもない。それはもともと国家の問題であったはずだが、非民主的に一握りの人間がこっそり職務を継承してきた結果、担当者の個人的な資質による歪みを誰も止められなくなったのであった。


 ずっと以前から、ドイツがヴェルサイユ条約を文字通りに守っていない兆候は、イギリスの新聞にすっぱ抜かれるなどして海外にも伝わっていた。ジュネーブで外交官たちが言葉を選んで、しかし誤解のないように伝えた多くの事実はこれらを補完して、世界の指導者たちに現実を突きつけた。


 ドイツは再軍備に踏み切ろうとしていると。


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 総選挙ではまたSPDが後退し、NSDAPが躍進して全議席の33%を占めた。海外に対して突っ張るだけ突っ張ったパーペンとシュライヒャーが、どうしても避けて通れないのは、NSDAPと妥協して与党に取り込むことだった。若者を防衛スポーツや短期訓練へ自発的に取り込んでゆくためにはNSDAPの力が必要になる。弾圧などしてしまったら金の卵を産まなくなってしまうのだ。


 だが、これがうまく行かなかった。首相ポストを渡しての入閣でなければ、協力はしないと言うのである。かつてルーデンドルフの勝手な行動で同志に死者を出し、自らも投獄されたことをヒトラーは覚えていた。自分を見下す上流紳士に主導権を渡してはならないと思い定めていた。


 独裁者が読みを外せば、それを補い、修正できる者はいない。第2次大戦後半にヒトラーを苦しめたその災厄が、いまパーペンたちに降りかかろうとしていた。

第11話へのヒストリカルノート


 このころのフランス上院は3分の1ずつ3年ごとに選挙しましたが、選挙権は下院議員と小郡や郡の代表、市参事会の代表者にありました。地方の有力者が発言力を確保するには有利であり、パリ市民の比重はわずかでした。実際にブルボン王朝復古派とオルレアン家支持派が同盟して、王政復古寸前までいったこともありました。要するに1871年にナポレオン3世がしくじり、パリ・コミューンが離反する中で、地方の発言力を確保するような政体が出来上がったのでした。ですからほぼ人口比例で議席配分された下院と、地方勢力の強い上院の両方から支持を取り付けることは困難で、政権交代が多くなったのはそんな背景がありました。



 18世紀初頭から19世紀末まで200年近く、イギリスの首相は正式にはprime ministerではありませんでした。国王は首相候補者を形式的な役職である第一大蔵卿(first lord of the treasury)に任じ、第一大蔵卿がそれ以外の国務大臣たちを選びました。いつの間にかprime ministerという俗称が出来て広まり、19世紀末から公式な書類にもそう書かれるようになりました。もちろんそれまでは、国王に呼ばれた候補者が第一大蔵卿への任命を固辞する……などということもあったわけで、名前は変わってもやることは同じです。



 1871年まで、イギリス歩兵・騎兵の佐官以下の士官は、昇進するためにお金を払う必要がありました。これは一種の保証金として、不始末があったら没収されるので精勤する……という趣旨のものでしたが、公定の金額よりも多くを要求し、差額は前任者が老後のために頂くこともあったといわれています。ですからこれを廃止することは、士官たちに不人気な政策だったわけです。



 1932年7月12日のイギリス下院で、チェンバレン、サイモン、チャーチル、ロイド=ジョージ(第1次大戦時の首相)、ジョージ・ランズベリー(党首が落選したので、野党・労働党の院内指導者。1932年10月から労働党首)が内外の新聞で伝えられた「関係者の話」をつなぎ合わせた論戦がありました。「紳士協定」がじつは結ばれており、それは「賠償にあてられる基金として30億ライヒスマルクをドイツが国際決済銀行に信託し、英仏など欧州戦勝国はアメリカから債務の減免を受けるが、アメリカがその債務減免に同意しなければ合意全体がご破算(null and void)」というものだという報道があったようです。政府はぬらりくらりとそれをかわしました。この件について各国語版のWikipediaを見ると、ドイツが信託する金額など細部が異なる記述が数種類あり、元になったリーク記事が数種類あるのだろうと思います。



 パーペンは武力でプロイセン州政府を接収して、どんな国を作るつもりだったのでしょうか。それは第12話で触れたように非民主的なもので、それまでの同調者すら二の足を踏むものでした。当時、多くの旧王室・帝室に正統な後継者がおり、絶対王政の復古までは主張しないとしても、状況が好転して帰国し、権力を取り戻す希望を公にしていました。ただ日本にも成就後の政治を「挙げておまかせする」クーデターがあったように、気に入らない勢力を排除できるときに排除してしまう誘惑は、その後のことについての思考停止を誘ってしまうのかもしれません。

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