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第10話 パーペン政権へ

「終わってみれば、どうということもないな」


 1932年1月31日、パウル・ハウサー名誉中将は、最後にくぐったばかりの営門をもう一度振り返った。陸軍大学校を出てはいたが、大戦では手柄らしい手柄もなかった。軍歴を終えて見れば、兵を鍛えるのが仕事……のような履歴になっていた。


 鉄兜団に誘われていた。これはもともと退役軍人が有事に備え、自主的に作った民間国防団体の一種であって、帝政時代から陸軍と仲が良いDVP(国家人民党)の政治活動を手伝うこともあったが、NSDAPや共産党のように反対派の演説会を妨害しあうようなことには加わらなかった。しかしヴェルサイユ条約の下では、予備役兵士のプールを作らないように軍人は原則20年の軍務につくことになっていたから、ライヒスヴェーアを退役してくるのは古兵もいいところの人々だった。それが今般、国策として防衛スポーツを振興すると言うので、その世話の仕事があった。若者を集めて、軍事教練風のスポーツをやるのだ。


 しかし物心つくころには戦争だった世代にとっては、懐かしむべき帝政時代のいい思い出もないはずだった。鉄兜団という、懐古傾向の強い入れ物に若者が集まるかというと、ハウサーは心もとなく思っていた。


「兵営の外のことは、俺は知らんのだな」


 あらためてハウサーはシュテッチンの街並みを眺めた。見慣れた建物が並んでいるが、軍人にとってそれは射撃のための遮蔽物に過ぎない。その下で人々が何を作り、何を売って暮らしを立てているのか、ハウサーはよく知らなかった。


 もう一度ハウサーは兵営を振り返った。あの中にしか我が才を伸ばす仕事はない。そのことを確かめると、ハウサーはまだまだ元気な足を自宅に向けた。とはいえ、自分が大車輪に活躍する未来がまだあるとは、ハウサーには思えなかった。


--------


 フランス軍人もフランス政府も、「前の戦争は序盤でどうしてあんなに攻め込まれたうえ、あんなに戦死者を出したのか」を考えずにはいられなかった。軍人たちの大勢を占める見方は「最初のころのやり方はマズかった。後半のやり方は良かった」というものだった。煎じ詰めれば、砲兵の優越を大前提としてゆっくり勝って行くバタイ・コンデュイ(第2話参照)が近代戦争の鉄則であり、軍需品のストックなど有利な条件がそろうには時間がかかるから、普段の陸軍は小規模にして徴兵年限も短くして、いざ戦争になったらじっくり育てた市民の軍隊で勝とうということだった。


 これに対してフランス政府は、「もっと国境をしっかり守ることはできないのか」と問うた。そうは言っても……と軍人は反論した。例えばフランス=ベルギー国境には、平坦な地勢に国境ぎりぎりまで生産力の高い市街地が広がっており、コンクリートを地面に塗れば守れるというものでもなかった。1926年に軍人たちが答申した、要塞建設に意義が認められる候補地は、フランス=ドイツ国境の北端部に当たるメス要塞地区とローター要塞地区、それにフランス=ドイツ国境でも最南端に近いベルフォール地区だった。ベルフォールは谷間を抜けるとフランス側に開けた地形が続いていて、要塞ひとつでドイツ軍の移動を長期間妨害できる見込みがあった。メス要塞地区とローター要塞地区が狭い意味でのマジノ線であり、そこからスイス国境まではもともとライン川という要害のあるところを、あちこちの堅固な陣地で強化したものだった。


 フランス=ベルギー国境よりもドイツ=ベルギー国境のほうが短い。だからフランス軍としては迅速にベルギーへ入り、ドイツをなるべく東で食い止めるのが上策であって、守りにくいフランス=ベルギー国境の地理も考えれば、ここに永久的な要塞を築くのはいずれにせよ無駄だと考えられた。


 さて、みんな大好きなアルデンヌである。フランス軍は、ドイツ軍がここを「通れない」と考えていたわけではなかった。国会で質問されたことすらあった。アルデンヌの森を抜け、マース川(ムーズ川、ミューズ川)を渡河してスダン(セダン)市に達するまで9日はかかると踏んだのである。フランス軍がスダンに先回りし、さらに森そのものに分け入って道路を遮断できるなら、横幅を取れないドイツ軍に勝ち目はない。そこでの撃破をしくじってもまだマース川の要害がある。


 ヒトラーが1939年10月に地図を見て、ここが通れるだろうとアルデンヌを指した話は有名である。通れるかどうかは問題ではなく、何日かかるかが問題であって、フランス軍が9日かかると見たものを、1940年のドイツ軍は4日目にスダンに入ってしまったのである。周辺の掃討になお数日を要したものの、フランス軍がここに集まり、ドイツ軍を止めることはできなかった。


 つまり、ドイツ軍がアルデンヌを突破したことよりも、4日でセダンまで突破したことに意味がある。それは積み重ねと手配りで実現にこぎつけたのであり、誰が突破を思いついたかというのはあまり重要ではない。そして、なぜこれを防げるフランス軍が近くにいなかったか、なぜ守り切られるリスクを小さいと見てドイツ軍が断行したかも、この短時日による突破の裏側にある事情である。この小説でもいずれ時が至れば、そのことに触れねばならないであろう。もちろん1944年には、その有利な事情がもう失われていたので、ドイツ軍はアルデンヌの細い道路を占領したにとどまり、周囲から攻撃されて大損害を出したのであるが。


--------


「どうしても5センチでなければならんのか」


 ルッツはいきり立ったグデーリアンの前でも温容を失わなかった。


「我が軽戦車は敵戦車との戦闘を意識しております。フランス軍のようにピュトー砲というわけにはいきません。……すみません」


 ルッツの視線に、ドイツの37mm砲をピュトー砲と一緒にするなという叱責を感じたグデーリアンは、軽率な発言を謝った。


 ピュトー砲というのは、フランスのFT17戦車が採用し、多くのフランス軽戦車が第2次大戦まで使い続けた37mm砲SA18の通称である。貫徹力が低く、機関銃陣地を排除することを念頭に置いた、歩兵支援用の砲だった。つまり1930年代前半までのフランス軽戦車は、騎兵科が使うソーミュア軽戦車を除いて、戦車と戦って勝つことを念頭に置いていなかったのである。それは中戦車・重戦車か対戦車砲の仕事だった。


 ドイツの37mm対戦車砲は歩兵支援に「も」使える対戦車砲で、榴弾も用意されていた。「軽戦車ならそれを積めば十分じゃないか、弾の種類を増やして補給をややこしくするな」という意見と、「諸外国で新型戦車の装甲厚はじわじわ上がっているぞ」というグデーリアンらの意見がぶつかっていた。


「対戦車砲を戦車部隊に追随させるのでは、ダメなのか」


「優勢な敵に対しては有力な対抗手段と考えます。位置の分かっている我が対戦車陣地に、我が戦車部隊が敵を誘引することは有効でしょう。しかし確保できていない地形に展開した対戦車砲は、それ自身脆弱です」


「ふむ」


 ルッツはグデーリアンをなだめるよう、誰かに依頼されているのだろうとグデーリアンは思っていた。だが、その結論が正しいと信じ込んでいる様子でもなかった。


「では5センチ砲で押してみるか。また高価な戦車になったな」


「旧式戦車の大群と戦うことを考えますと、戦車自身の生残性について妥協すべきではないと考えます」


 さらりとフランスを仮想敵国扱いしたグデーリアンに対して、ルッツは鋭い視線も与えず、短いため息で済ませた。そして退席を促した。


--------


 ドイツの戦後賠償を緩和し、ハイパーインフレを食い止める力のひとつともなった1924年のドーズ案は、「ドイツ→欧州戦勝国→アメリカという借金返済ドミノが途中で詰まったので、アメリカの資本家たちがドイツに貸し込む(アメリカでドイツ公債を発行することに協力する)」「毎年ドイツが払うべき額に上限をつける」といった内容で、ドイツが支払うべき総額は変更しなかった。これでは何年で払い終わるか、受け取る側からするとどれだけ受け取れるのかが見通しにくい。1929年のヤング案は総額を20%削減する代わりに、1988年までかかって一部は毎年必ず返し、残りの支払いが滞ったら(必ず返す分をドイツが払っている限り)アメリカの銀行団が代わりに欧州戦勝国に(日本も少しだけもらっている)払い、滞った分を返せるまでドイツから利子を取り立てると言うものだった。


 ドーズ案に沿った支払いも滞っていたのだから、ドイツにとっては取り立て強化策に見えたし、賠償債権国にとっても「ドイツが払わなければ画餅」と見えた。ヤング案の合意成立は1930年になったが、1929年の世界大恐慌直前に世界を巡って人心を冷やした「悪いニュース」のひとつとして数えられても仕方がないものではあった。


 1931年のフーヴァー・モラトリアムは、さらにそのドイツによる支払いを1年待ってやると言う措置だった。アメリカ自身が、欧州戦勝国からの借金取り立てを1年待つから、ドイツに対しても待ってやれと言う気前のいい話だった。ところがこの間に世界景気が回復すると思ったら、しなかった。もちろんアメリカでも政権の失点となり、フーヴァーは1932年の大統領選挙に負けてしまったのだが、それは後のことである。ドイツの賠償支払い再開が焦点になる中、1925年末に急死した先代、エーベルト大統領のせいでヒンデンブルク大統領は1932年の年明けという、まことに面倒な時期に任期が切れてしまうことになったのである。ちょうどグレーナーらの軍主流派が、少なくとも防衛スポーツ問題に限っては、NSDAPとの和解を考えたころでもあった。


 その主流派の中から、1931年10月にグレーナーが国防大臣のまま内務大臣を兼任したことは、短期的には軍の政治的勝利であった。政府として軍を統制すべき大統領と国防大臣に加えて、警察を指揮する内務大臣まで軍人になってしまえば、外見上は軍人独裁の完成である。しかし内務大臣というポスト自体が後から見ればじつは地雷原であって、ヒトラー政権成立までシュライヒャーたちを悩ませ続けることになった問題と直結していた。プロイセン州政府である。


 1871年にできたドイツ帝国において地方自治とは「領邦どうしで成立した当面の妥協」に過ぎなかったし、その後を継いだ共和国は大きな体制変更をしている余裕がなかったから、ゆがみをそのまま引き継ぐことになった。プロイセン「州」はドイツ全土の6割を占め、圧倒的な人口と経済力を持っていた。そしてここではSPDがまだ州政府をがっちり押さえていたのである。内務大臣はその州政府と向き合うことが仕事のひとつだった。演説会のたびにNSDAPと衝突しあうSPDをなだめる役に回っては、グレーナーはNSDAPに甘い顔ができなかった。軍の利害を冷徹に追及するシュライヒャーとの隙間風が、ここから吹き始めたのであった。


--------


 老齢の主のことゆえ、大統領執務室は十分に温かくされていたが、ブリューニングの気分としては温度のことなど気にならなかった。


「つまり選挙民には3つの選択があるわけだな。ヒトラーと共産党、そしてSPDだ」


 SPDと言いながら親指で自分を指すヒンデンブルクに、ブリューニングは恐縮して下を向くしかなかった。ヒンデンブルクを推薦する連名のメッセージがテーブルの上に乗った新聞に大きく出ていたが、ずらりと並ぶ名前の多くはSPDの政治家たちだった。ブリューニングが精力的に声をかけて回った結果がこれだった。そしてヒンデンブルク本人は、いったん退役したのを第1次大戦で復帰させられて以来幾星霜、さすがにもう休みたがっていた。これもブリューニングが熱心に口説いて出馬させたのだった。


「あるいはこう言うべきか。ヒトラー、共産党、その他」


 陸軍の最も古い友であるDNVP(国家人民党)は大統領選直前までNSDAPと国会で共闘していた。つまりブリューニング政権と敵対していたのである。DNVPもヒトラーに投票する気にはなれず別の候補者を立てたら、それがユダヤ人の祖父を持っていたことを徹底的にNSDAPからネガキャンされていた。だから「その他」といっても、ヒンデンブルクが多少でも親近感を持つ保守的な勢力はみんな抜け落ち、大嫌いなSPDに担がれた格好になってしまっていた。


 沈黙を破る役は、グレーナーが引き受けた。


「彼らは我々ではありません。確かに大統領令で彼らを縛ることはできますが、議員も国民も我々ではないのです。その欲するところを知って備えると言うことが、私たちにはできなかった」


「その私たちには、誰と誰が含まれるのです」


 シュライヒャーが冷たく切り返した。すべての駒は自分の手の内にある……という思いはここにいるだれよりも強かった。統帥部長は親友だし、国防大臣と言ってもグレーナーはもう現役将官ではない。いつの間にか「軍を代表して」政治的な発言ができるのは、グレーナーよりむしろシュライヒャーになっていた。長年追い使ってきたシュライヒャーを、便利なのでついついそのような立場にしてしまったのは当のグレーナーなのだったが。


「いま決めておくことはなさそうだな。では、ここまでにしよう。みな忙しかろう」


 とげとげしい空気を払って、ヒンデンブルクが穏やかに解散を宣した。気を張って執務ができる時間は、年を追って短くなってきていた。


--------


 フランスとベルギーがルール出兵に踏み切ったことの後始末をつけたのが、1925年のロカルノ条約だった。それ以来、安全保障とドイツの戦時賠償と軍縮の問題は相互に関連しながら、アメリカとヨーロッパの交渉課題であり続けた。現代ではあまり語られることがないが、海軍の軍縮条約同様、陸軍も何とか国際的に軍縮の話をまとめようと言う努力はずっと続いていたのである。そして妥結しても妥結してもドイツの賠償に関する約束は守られなかった。


 少し先走った話をすると、1932年には、2月から12月までスイスのジュネーブで陸軍の軍縮会議が、そして6月から7月までローザンヌでドイツの賠償支払いに関する会議が行われた。特にジュネーブ会議は利害対立が激しいものだったため空転期間が長く、アメリカのスティムソン国務長官は船で行き来しなければならないので、次官級以下があちこちへ根回しに行くことが多かった。ドイツとアメリカはどちらもこの年に大統領選を抱えていたが、フランスの首相は3回交代して、年初から年末までに延べ4人いた。


「ミスタ・ボールドウィン(当時、イギリス枢密院議長で保守党首)は、軍用航空機と主力艦と重砲と戦車の全面禁止を提案されました」


「それは結構だな」


 アメリカ政府が借り切ったジュネーブ近郊の別荘で、スティムソンはイギリスから帰ってきた下僚の報告を聞いていた。イギリスは世界大恐慌で痛めつけられ、ポンドの先安感で金準備の国外流出を止められずに金本位制を離脱し、財政を引き締めて見せないとますますポンドが下がってしまう危機にあった。軍の意向はともかく、何でもいいから政府支出を減らす言い訳をイギリス政府は切実に欲していた。イギリスから流出した金のいくらかは高金利のフランスに流れ込んでおり、相対的に経済が好調なフランスは、あらゆる軍縮提案を何とか蹴飛ばすか、でなければ米英が欧州安全保障を分担する約束を取り付けたかった。アメリカは世界大恐慌と大統領選をにらんで、一切海外での国民負担を負いたくない点で、イギリスと似たような姿勢だった。


「ヒンデンブルク大統領は再選されたそうだが、ブリューニング政権は保つのか」


「大統領の信任が命綱ですが、そのこと自体を国会と国民は快く思っていない節があります」


「共産党とナチのどちらにも呑まれたくないなら、いっそ与党になってしまえばよいのにな」


「大統領がSPDを嫌っておられるようです」


 スティムソンはやれやれと言う顔をした。アメリカはドイツの父親でも兄貴でもないが、フランス陸軍が軍縮に応じるという「アメリカにとって一番安上がりな軍縮成果」を苦戦が予想されるフーバー大統領に持ち帰ることができればそれに越したことはなく、そのためにはドイツを絶望させず、交渉の場に残したかった。


 ノックの音がした。


「入れ」


「電報です」


 職員は電文を置いてすぐ引っ込んだ。私もご遠慮を……と目顔で尋ねる下僚に、スティムソンは電文の内容を短く告げた。


「グレーナーが国防大臣を辞職した。内務大臣には留任だそうだ。シュライヒャーが国防大臣で入閣する」


--------


「シュライヒャーが、将軍の健康問題を触れ回っているようですな。大統領の健康でも心配しておればよいものを」


「それについては、我々も同罪というものです」


 ブリューニングがグレーナーを呼び出し、首相官邸で慰めていた。シュライヒャーの耳には入っているはずだが、同席させろとも言ってこない。


「実務の多くはあいつに任せておりましたから、引き継ぎと言ってもね。4年も務めたのですが」


「彼は今、私の後任選びで忙しいですから」


 グレーナーは驚いた顔、そして苦い顔をした。何も聞かされていなかった。ヒンデンブルクからの信任も薄れていたことを自覚せずにいられなかった。いや、それが根本的な解任の原因なのだ。シュライヒャーはそれに乗じたにすぎない。「チームの一員として問題を処理した」くらいにしか思っていないかもしれなかった。


「将軍のご決断は正しかったと思っております。ただもう流れができておりました」


 ブリューニングが言ったのは、プロイセン州におけるSPDの退潮である。プロイセン議会は1928年、つまり世界大恐慌の前に選挙をしたままで、SPD、DDP(民主党)、Z(中央党)というドイツ帝国を倒したときの組み合わせで連立政権ができていた。次の選挙まで11日と迫った4月13日、ヒンデンブルクの大統領令でNSDAPの武装組織、すなわち突撃隊は禁止された。暴力的な選挙活動を抑え込もうと、ブリューニングの支持のもとグレーナーがヒンデンブルクを説き伏せたのであった。


 防衛スポーツを巡ってNSDAPの協力を取り付けるしかない……と思い定めていたのはシュライヒャーだけではなく、それらを管掌する軍の士官たちは「いまNSDAPとモメるのか?」と否定的な姿勢を取った。そして4月24日に行われたプロイセン州議会選挙では、NSDAPが第1党に躍り出て450議席中162議席を取り、過半数を取れる連立政権の組み合わせは事実上なくなった。この結果を見たうえで、シュライヒャーは軍内部の空気を背景に、グレーナーに御退場を願う手配りをしたのだった。大臣ポストの片方だけを召し上げて病身のうわさを流したのは、どうせブリューニング内閣を倒せばただの人になるところ、名誉ある勇退の形を整えたつもりであった。シュライヒャーは自分なりに謀略の道に生きた男であり、恩人に謀略で花道を作ったのである。


--------


「俺はフランスの首相の名前を覚えるだけで十分に仕事をしていると言うのに、今度はドイツか」


 スティムソンの面白くない冗談を、下僚たちは心から愉快そうに笑って見せた。彼らは鍛え抜かれ、選び抜かれたステイツマン(米国官僚)である。


「フォン・パーペンは中央党で……ちょっと待て。こいつは……」


「はい。大戦前はアメリカ駐在武官で、謀略担当でした」


「言い切るのか」


「バレておりましたので」


 パーペンは英領カナダやインドで騒ぎを起こし、また破壊活動をしようと企んでイギリス情報機関からアメリカ政府に通報され、アメリカ参戦を待たずに国外退去処分にされてしまっていた。


 パーペン家はヴェストファリアの名家で、岩塩鉱脈から塩を地下水ごと(あるいは注水して)汲み出すのが生業だった。古来重要産業であったため重税を掛けられ、引き換えに貴族扱いされた。妻の実家も極めて太く、持参金代わりに農場がひとつついてきた。地元の名士で騎兵大佐でもあった父が皇帝ヴィルヘルム2世に口をきいてくれて、アメリカ駐在武官という顕職につけてもらったのだが、人の運不運は誠にわからないものである。戦後は働かずに食えたのだが、家そのものが代々カトリック教会と縁が深く、Z(中央党)から政界入りした。そして若手士官のころ知遇を得たシュライヒャーから、操り人形として好適とみられてしまったのだった。


「政治家として実績らしい実績がないな。rank and file(陣笠議員)というやつか」


「そうであればまだ良いのですが、党の方針が決まる前に、自分の意見を好きなように言う人のようです。ヒンデンブルク大統領閣下としては、SPDの悪口を言う者は好ましいと言うことでしょうが」


「働かずに食える人間が議員をやったら、そんなものか」


 名家の三男坊として終始身に余る保護を与えられ、栄誉さえ与えておけば余計なことを考えない人物……ということであろう。


 ドアがノックされた。スティムソンは物憂げに言った。


「入れ」


「フランスの新しい首相が決まりました」


 スティムソンが沈黙したので、下僚たちは礼儀正しく上司の発言を待った。彼らは鍛え抜かれ、選び抜かれたステイツマンである。


第10話へのヒストリカルノート


 ある研究によると、第1次大戦直前の期間、フランスの軍事雑誌に載った戦史に関する論文を集計すると、日露戦争に関するものが大きな割合を占めました。日露戦争と言えば、ロシア軍の機関銃に悩まされた日本軍が、あの手この手で不利を補い、特に突撃をうまく使って勝った(ように見えた)戦争でした。フランス軍首脳はこの件について、「日露戦争の戦訓を重視しない」と言っている人も、「日露戦争で攻勢重視に士官たちの流れが変わった」と回想している例もあり、ぴったり割り切れるものではありません。


 ともあれ兵士の指導において敢闘精神が強調され、また軍部の要求で徴兵制が3年に引き延ばされ、鍛え抜かれた若者のプールを持っていたのが第1次大戦序盤のフランス陸軍でした。それを使って攻勢に出た結果が、人口構成をゆがめるほどの甚大な損害でした。ただし、第1次大戦中に子作りが滞り、出生率が落ちたことによる人口伸び悩みは、戦死者数そのものに匹敵する大きさであったとも言われます。


 大正時代の日本にも軍縮で不況業種と化した軍人を嘲笑する気分がありましたが、フランスはフランスで、「プロフェッショナルな軍人たちの言うことを聞いて損をした」という気分がありました。ド・ゴールの若いころの著書『職業軍の建設を!』には日本語訳もありますが、この本はそうした気分に反論し、まさにナチス・ドイツのような軍事的恫喝者に対応できる、小規模で練度の高い部隊を置こうと主張したものでした。



 ドイツ軍は公式には大砲の光景をmmではなくcmで書いていたので、ドイツ人の台詞だけはそれに合わせます。グデーリアンの下で交通兵総監部の参謀をしていたネーリングによると、50mm戦車砲KwK38が42口径(砲身長2.1m)なのは、砲塔を回転させた時に田園地帯の植え込みなどに砲身が引っかかることを懸念して、グデーリアンがその長さに抑えたそうです。つまりそれは(グデーリアンが『電撃戦』に書いているように、当分は37mmでゆくことを納得させられてのことでしたが)50mm戦車砲KwK38の基本仕様は実際に生産が始まる1938年よりずっと前、グデーリアンがルッツの参謀長をしている間に決まっていたことを示します。



 スティムソンの滞在時期や下僚との会話は、1932年の色々な時期に行われた交渉をまとめたやりとりで、必ずしもタイミングや順序は正しくありません。「軍用航空機と主力艦と重砲と戦車の全面禁止」は(当時の)ボールドウィンの持論でした。



 フォン・パーペンのスパイとしてのダメっぷりとバレっぷりについては、英語版Wikipedia「Franz von Papen」に詳しく書かれています。小説と言えどもこれ以上ダメには書けませんので、本編ではネタにしないことにしました。パーペンがアメリカにいたころ、並行するように謀略に手を染めていたリンテレン(Franz von Rintelen)という士官はパーペンに意地悪をされ、こちらは実家が太くなかったので戦間期にイギリスに渡り、パーペンのことも含んだ暴露本を書きました。



 パーペン首相は1932年6月1日就任、フランスのエリオ首相は1932年6月3日就任でした。


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