第1話 肴としての敗戦
この前バイエルンが戦争に負けたときのことを覚えているのは、よほどの老人だけだった。1866年、プロイセンはドイツの覇権をかけてオーストリアに挑み、バイエルンはオーストリアとの古い関係によってオーストリア側についた。決戦らしい戦いをバイエルン軍が経験する前に、オーストリアも西方の同盟軍も破れて、重い賠償要求をはね返そうにも、もう元気な味方はいなかった。
そのときもミュンヘンの街はこんな風だったろうか……と思いながら、フランツ・ハルダー大尉はなじみの酒場の扉をくぐった。にぎわいの中で、ハルダーは店内を眺めわたして知己を探した。
「フランツ! ちびさんたちはどうしている」
すっかり出来上がった、もと同僚が声をかけてきた。ハルダーは軽く手を上げて応じると、ビールを注文しに行った。
ジョッキを手にして戻ってくると、飲んでいる友人はふたりだった。
「これだけか」
「お前さんだって昨日はいなかったろう。みんな厳しいんだ」
ハルダーは肩をすくめた。3人とも、ビールしか手にしていなかった。夕食は自宅か、もっと安いところで済ませてきたのだ。
憲政の建前上、すべてのドイツ帝国軍人は皇帝に忠誠を誓ったのであるが、プロイセン王国以外に3つの領邦が程度の差はあれ「自分の軍隊」を持ち、独立国のメンツを立てるような言い訳めいた制度を残していた。ドイツ帝国におけるプロイセンを徳川家になぞらえると、外様大名の筆頭はバイエルン王国であり、バイエルン軍人は戦時における皇帝への指揮権移譲を受け入れつつ、バイエルン国王に忠誠を誓った。
今となっては、それらはもはや関係がなかった。ドイツ皇帝への忠誠もバイエルン国王への忠誠も、どちらも君主が退位するのに合わせて、無効だと宣言された。だからといって士官たちが自動的に地位を失ったわけではないが、徴募兵たちの動員が解除されると軍は縮んでいくから、多くの士官がいったん軍を離れた。1919年に入ると、バイエルンの陸軍省は解体されて、ライヒスヴェーア(ドイツ国防軍)に統合された。
「どうだ、事務所の景気は」
「いいわけがないだろう。まあ、経済学の講義を聞いてるよりはましだ」
ハルダーはまじめくさった返事をした。ハルダーはライヒスヴェーアがミュンヘンに置いている復員事務所のひとつに就職していた。いったん民間人になろうとして大学の講義を受けたのだが、娘3人を抱えていてはそんな暮らしは長く続かなかったのである。
「フランツは得意そうなのにな。まあ鉄砲がうまくても、金になる時勢じゃないが」
もと士官の友人のひとりが、すっかり突き出た腹を揺らして言った。
ハルダーは砲兵だが、あちこちの司令部で便利がられて、ほとんど前線に出ないまま大戦を終えた。大尉になってやっともらった一級鉄十字章の勲記には、通信隊を指揮しただの、軍団の補給システムを差配しただの、後方任務のことばかり書かれていた。ロンメル中尉が戦場の手柄で最高勲章プール・ル・メリットを受章したのとは対照的なキャリアである。
「やっぱり上はつっかえてるのか」
もうひとりの友人に言われて、ハルダーは思わず首を回して周囲を確かめた。なにしろ地元だから誰が聞いているかわからない。そして小さな声で答えた。
「当たり前だ」
ふたりの爆笑は、酒場ではありふれたものだから、ハルダーの屈託はそれにうまく覆い隠されてしまった。1915年に大尉になったハルダーだったが、少佐になったのは1924年のことだった。
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「医学の講義を聞いてるよりはましだ。あれは完全に無駄だった」
アルフレート・ヨードル中尉は、酒場の喧騒に自嘲を溶かし終わると、ビールを大事そうに一口すすった。あと半分を少し割り込んでいた。子供はいないが、良家の娘に一目ぼれして口説き落として結婚した手前、うんと節約しなければならない。軍服は酒場では珍しくなかった。
「砲兵なのがまだ気楽だな。そう滅多に撃たされるものでもないだろう」
「まあ、そうだな」
ヨードルは砲兵士官としてごく普通に大戦を過ごした。そして戦後ほんのしばらく、医師になろうと勉強したのだが、すぐ挫折してしまった。そしてあらためてライヒスヴェーアに志願したのである。士官の息子とはいえ、有力な家の生まれでもないヨードルが軍に戻れたのは、国境紛争を抱えていないバイエルンで陸軍の仕事と言ったら治安出動くらいしかなさそうだ……という気の重い事情も働いたことだろう。
「上は本気で条約を守る気なのか。1500発と聞いたぞ」
友人の歩兵士官は声を潜めた。ヴェルサイユ条約第167条により、口径105ミリ以下の大砲については弾薬を1門当たり1500発までしか保有できず、さらに第168条は、補充の生産には連合国の許可が要ると定めていた。全力で射撃すれば、4時間経たずに費消する数である。
「俺に聞くな」
ヨードルは突き放した。それを知らされるほど偉くはない。戦中に中尉ながら参謀課程(陸軍大学校相当)を終えていたのは、軍容を強く制約されたこの時世でも出世の望みがないわけでもなく、幸運なことと言えたが、今のヨードルは平凡な実績の若手士官に過ぎなかった。
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「うまく行かんもんだなあ。俺はこんなに軍を辞めたいって言うのに、残りたい奴が残れない」
「まだ言ってるのか、ヴィルヘルム」
ハノーファーの酒場で、ヴィルヘルム・カイテル大尉は返事の代わりにピルスナービールをぐいぐいと減らした。一緒に飲んでいる弟のボーデヴィン・カイテルも士官である。
カイテル家はドイツの北西、ハノーファー王国で高級官僚などを出していた名家である。ハノーファーもバイエルン同様、1866年に負けた方についたのだが、その後の運命はバイエルンより悪く、すぐに国ごとプロイセンに呑まれてしまった。だいぶ後になって、最後の国王の孫に皇帝ヴィルヘルム2世の娘を嫁にやって、廃絶していた遠縁の公国を継がせてプロイセン陸軍で取り立てる融和策を取ったが、カイテルの父などはプロイセン軍服を着て実家に寄ったら、祖父に追い返されてしまったこともあった。
とはいえ名家だから、ヴィルヘルムは騎砲兵になれた。この兵種は事実上第1次大戦で絶えてしまったから、今の世ではイメージはわきにくい。ドイツ帝国期の砲兵にはふたつのタイプがあった。重砲兵は遠くから精密に弾を飛ばすのが仕事である。弾道計算が出来なければ家柄が良くても役に立たないから、平民士官を気にせず受け入れた。それに対して、危険な最前線へ馬で駆け入り、ささっと準備して決定的な火力を送り込む、ちょっと勇ましい連中が騎砲兵である。騎砲兵は騎兵と同じように、特にプロイセン陸軍では平民士官を採りたがらなかった。
もともと領主の家ではないが、祖父の代に農場を買って、父が経営していた。カイテルは馬も狩りも大好きだから、とっとと農場で暮らしたいのだが、誰もそうしろと言ってくれないのだった。
「いいじゃないか。騎兵学校で馬と暮らせるんだろう。こんなものも食える」
ボーデヴィンはウィルヘルムの皿から、ヴルスト(ソーセージ)の大きな一切れをつまんで食った。ボーデヴィンはもともと猟兵である。第1次大戦の初めまで、一般歩兵は戦列を組み、ときには横一線にザックザックと歩いて敵陣に迫るものだった。戦列を組みにくい地形で柔軟に戦う猟兵は様々な役割を期待されたが、ボーデヴィンは自転車部隊の指揮官として戦い、大戦末期に参謀本部で教育を受けてからはいろいろな部隊を器用に指揮していた。
ヴィルヘルムはギロっとした視線をボーデヴィンに投げたが、すぐそれは消えた。逆にボーデヴィンが短いため息をついた。我がことの諸事に淡泊、上の指示には勤勉。それがヴィルヘルム・カイテルであった。気弱と評する人もいた。要するに便利な奴と見なされていたし、必要になればいくらでも自分を滅することができたのだ。
「いいことがあるといいな」
「何がだ」
ボーデヴィンはもう答えずに、自分のジョッキを傾けた。弟からそう言われてしまう兄が、ボーデヴィンは嫌いではなかった。
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注がれたワインの銘柄を、ヘニング・フォン・トレスコウ退役少尉は知らなかった。ヴァルテンベルクの実家に出入りする商人が持ち込む銘柄はいくつかある。ターフェルヴァイン(食中酒として飲まれる辛口ワイン)の銘柄などわざわざ尋ねるほどのことでもなかった。享楽的な印象を父に与えてはたまらない。
「ヘニング、明日は農地の巡回に付き合え」
「はい、父上」
一緒に食卓を囲む父、ヘルマンの質問に、ヘニングは快活に答えた。ヘルマンは無表情に見えるが、老人の頬にはもう繊細なコントロールが及ばないようだった。ヘルマンが騎兵大将であり、その父(ヘニングの祖父)で同名のヘルマンが中尉どまりだったのは有能無能の問題ではない。祖父兄弟が農場経営をやっている間、父は長いこと軍務についていられたのである。トレスコウはヘルマンが52才の時に生まれた長男だった。ヘルマンは59才で引退して農場経営に専念したが、もう70才を越えた。
現在のところ、一介の法学部生に過ぎないヘニングにとってスポンサーの意向は大切である。そしていずれ家産を継ぐのは避けられないことだった。ヘルマンは続けた。
「どうだ。世界は面白いか」
「はい」
ヘニングは10万人陸軍にいったん残ったのだが、数か月で退役して大学に進み、法学を学んでいた。ついでに政治やら経済やらの講義を聞くのは、ヘルマンから見ても農場の継嗣として悪いことではないように思われ、それを許していた。何百年も代々プロイセン王に忠誠を誓ってきた軍人一家で、何に忠誠を誓っているのかわからないライヒスヴェーアを忌避して退役した士官は決して珍しくなかった。
「妙な考えを吹きこまれるのではないぞ」
「それは、もう」
左翼急進派のスパルタクス団が1918年に反乱を起こしたときは、退役前のヘニング少尉も鎮圧に加わった。政治的な無関心が許されない環境で、若いヘニングは過ごしていたのである。
給仕が静かに近づき、ヘニングのグラスを満たした。老齢の父はますます声がかけにくい存在になり、間が持たずグラスに手が伸びるから、ヘニングのグラスが早く空くのだ。ヘルマンはそれを若さの発露ととらえているようで、はっきりと苦笑があらわれた。そこに好意が含まれているのをヘニングは感じた。
知性はときに、人の寿命を縮める。だがそれは滅多にあることではない。ヘルマンにも、それを受けるヘニングの脳裏にも、そのことは浮かばなかった。
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カッセルに置かれた第2集団司令部は、ドイツ西部に広大な連合軍占領地域ができている当時としては、ライヒスヴェーアの西部方面軍司令部といった性格を持っていた。その参謀長をつとめるクルト・フォン・ハマーシュタイン=エクヴォルト男爵は、1920年10月にやっと中佐になったばかりである。まあ10万人陸軍の半分にも満たない第2集団としては、参謀長が中佐でも似つかわしくないとは言えなかった。
名字が二重なのは、名家であるハマーシュタイン家の系統が地名で区別されているのだが、末流となると男爵様でもビンボである。後世の歴史家から「生涯持ち家に住んだことはなかった」と書かれてしまった人物である。それでもまあ近郷近在の陸軍ナンバーツーとして重役出勤を決め込んだハマーシュタイン=エクヴォルトは、自宅で遅めの朝食を片付け、コーヒーと新聞を前にしていた。
「お父様から葉書が来ましたよ」
食器を下げに来たマリア夫人が言った。マリアと結婚したのは戦前のことで、まだ陸軍大学校も出ておらず、家産は乏しく、義父となるヴァルター・フォン・リュットヴィッツ大佐殿は露骨に嫌な顔をしたものだった。
「落ち着いたのかい」
「そうみたいね」
いまや出世したリュットヴィッツ大将閣下は、つい春先まで第1集団司令官を務めていた。ベルリン方面の陸軍をみんな指揮下に置いていたのである。だが同時に、多くのフライコーアもその下にいた。
士官も兵もどんどん動員解除されていったが、行くあてのない軍人たちがおり、その一方ではポーランドなどとの絶えない国境紛争、そして国内の騒乱があった。政権の主軸を占める社会民主党が陸軍と仲の良いわけもなく、陸軍も手は足りないし中古武器ならあるし……というわけで、曖昧な性格の部隊が数多くつくられた。それがフライコーアである。後になってもっと非公式な存在の民間団体がこの名前を勝手に使ったが、もともとは敗戦以降に作られ、共和国に忠誠を誓った部隊の総称である。本物の士官に率いられ、本物の武器を持っているが、正規軍ではないことになっていた。
さて、10万人陸軍の枠内に軍備を縮小する期限は1920年3月末だった。フライコーアを解散する話がこじれ、その親分格であったリュットヴィッツがベルリン占領を決意し、相談を受けた民族主義政党の有力者ヴォルフガング・カップがこれに乗った。陸軍は陸軍の一部であるフライコーアと撃ち合うのを拒否したが、社会民主党は労働者たちへのゼネスト指令でベルリン占領部隊に応じた。生活インフラを止められ、首都を占領したその先の展望もない部隊はゼークトの誘いに応じて降伏し、指導者たちは亡命した。そういうわけでリュットヴィッツ大将はいまハンガリーにいるのだった。
ドイツにいる誰を撃ってもヴェルサイユ条約をひっくり返すことはできない。軍人たちは結局そのことを認めるしかなかった。
「ヴェルサイユ条約を否定できるのはアメリカくらいなものだ。まったく奴らはどうするつもりなのかな」
「まだドイツと講和してないのよねえ」
「してない」
新聞にはウィルソン大統領の近況を伝える記事が載っていた。去年の10月から脳梗塞で半身不随である。アメリカの歴代大統領で辞職した人はまだいなかったし、公務に堪えないと自分で認めようとしない大統領を職から追うための規定が、このころは明確でなかった。そしてヴェルサイユ条約批准と国際連盟への参加はセットになっていたから、議会が国際連盟への参加を渋ると、ヴェルサイユ条約も批准できないまま、1920年が暮れようとしていた。
「かといって、我々もあいつらをどうこうできるわけじゃないがね。行ってくる」
新聞を畳んだハマーシュタイン=エクヴォルトは立ち上がった。結局アメリカは次のハーディング大統領が着任してから、1921年夏になってドイツ、オーストリア、ハンガリーと個別に講和条約を結ぶことになったのだった。
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パリには仕事があった。1871年に分捕られたアルザス・ロレーヌ地方はドイツから戻って来たし、壊れているものはいろいろあったし、男たちは減った。みんな、軍が脚光を浴びる時代はしばらく来ないと思っていた。だが、この静かで重々しい会議室には、そんなことを口に出せない雰囲気が漂っていた。
フランス陸軍最高会議は平時に陸軍の重要事項を審議するもので、議長は陸軍大臣であり、副議長は陸軍参謀総長か、別の陸軍将官だった。つまり出席者のほとんどが軍人であり、参謀総長が若手に見えるくらい重鎮の集まりだった。持っている権限のことを棚に上げて、集まる顔ぶれだけを見れば、日本陸軍なら元帥と軍事参議官(一部の中将・大将)がつどう軍事参議院にイメージが近いかもしれない。
第1次大戦前半の攻撃的なフランス陸軍を主導したジョッフル元帥はすでに軍組織からは引退していたが、会議には出ていた。今日の議題は、フランスの国境防衛だった。
「戦機はつかむものだ。決戦の場がそう都合よく我が要塞の上であってくれるなど考えられん。遊兵ができるだけだと考える」
「私も元帥に賛成です」
尻馬に乗ったフォッシュもいまや元帥だった。大戦序盤の独仏国境で、ジョッフル参謀総長の構想に乗って軍団を率い、攻撃をかけた将軍のひとりがフォッシュであり、それは損害ばかり出して失敗した。大戦半ばにしてジョッフルは失脚し、フォッシュは逆に連合軍総司令官という大役をつつがなくこなした。
「いくさは火力です。ひとが殺す数より、弾片が殺す数が多い。断片が降る所に敵を導くのもまた戦術の理」
口を挟むペタンもまた元帥だったが、彼こそが陸軍最高会議の副議長だった。そして大戦はフォッシュとペタンの間に因縁を作り出していた。ジョッフルとフォッシュがもたらした大戦序盤の大流血はフランス軍の戦力低下と厭戦気分を生み、それを工夫と忍耐で支えたのが大戦後半にフランス軍総司令官をつとめたペタンだった。しかし工場が吐き出すルノー戦車の大群を待ち、そして待ちに待ったアメリカ陸軍の戦力化を経て、さあこれからというところで、ペタンの上に連合軍総司令官としてフォッシュが据えられた。勝ったから両方英雄になって良かったね……とも言いづらいのが人の気持ちというものである。
「中国には万里の長城なるものがあると言うが、フランスにも必要だと言われるのかな。観光には良いだろう」
フォッシュの煽りにペタンが身を乗り出すところを、議長であるマジノ国防大臣は何も言わずにただ見ていた。わずかに上を向いた口ひげ、髪油でなでつけたセンター分けは当時の流行である。彼の故郷は普仏戦争でドイツに奪われなかった北部ロレーヌにあり、ヴェルダン攻略戦でドイツ軍はちょうどその村まで進出した。もういちどそこが村になるのに、まだしばらくかかりそうだった。
「ご高所のお話、軍曹の身としては理解が追い付きませんが」
マジノが足を引きずって入場したところはみな見ていたから、傷痍軍人の次の言葉を元帥たちは口を閉じて待った。
「この中で一番長く生き残る者が、フランスの運命を決めるのです。戦場の現実がどのようなものであれ、よりよい道を示していただきたい」
フランスの国土をもう侵略させるな。フランスを戦場にするな。その感情的な要求は、政府を通して国民から軍部にぶつけられているところだった。マジノはその「気分」を軍人たちが共有しようとしないので当惑していた。だがジョッフルが言うように、戦場の現実として、それは困難な望みだった。
それにしてもきつい冗談であった。マジノは40才を越えたばかりの気鋭の政治家で、元帥たちと余命を比べるのは野放図な言葉だった。若造にアドバイスを下さいと言う意味でマジノは言ったのだが、そのマジノが55才で不運にも病死してしまうとは、ペタン元帥には知る由もなかった。
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戦争に勝っても負けても、演習場の様子は変わらない。もっともここ第VI軍管区は、ドイツ北西海岸からルール工業地帯にかけてを範囲とするものの、ドイツ軍の進入を禁じられている国境地帯の割合が大きい。演習場の選定そのものに、いくらか不自由があった。
「どうだ、兵たちの様子は」
「悪くはありません」
1920年も暮れようとしていて、ベルリンよりずいぶんましとはいえ、それでも寒気は厳しかった。ドイツ第6師団のロスバーク師団長は、ゼークト軍務局長より年齢も任官も2~3年ほど下だから、下手に出ることに抵抗はなかった。ふたりとも双眼鏡を持って、少し離れて教練の様子を見ていた。
大戦中の武勲はそれぞれ文句のつけようがないところで、まああえて言えば、どちらも参謀としての働きだから庶民にはわかりにくいものだった。ロスバークは火消しのように危機に立つ軍司令部へ次々に派遣されて大戦中盤以降の防御戦を支え、ゼークトは1915年まで東部戦線で、マッケンゼン元帥の快進撃を支えた。司令官ではなく、参謀長としての手柄なのが共通していた。
ロスバークは中将に、ゼークトは大将になったばかりだった。昇任日付はどちらも10月1日までさかのぼることとされたが、ゼークトのほうは6月18日に中将になったばかりだった。3ヶ月半しか中将でなかったことになる。つまり、出世するはずの人ではなかったのに、大急ぎで大将に進められたということである。
事情はこうだった。大戦後半、高齢のヒンデンブルク参謀総長の代理者(首席参謀次長)として、ルーデンドルフ大将は首相の首を飛ばすほどの独裁者として振る舞った。当然こんな人がいると和平交渉の邪魔だから、皇帝に引導を渡され、ルーデンドルフは解任された。代わって、大戦前半の鉄道輸送を仕切った軍務官僚のグレーナー中将がやはり首席参謀次長となって終戦を仕切った。しかし何と言っても皇帝への裏切りだから風当たりが強く、戦後にほんのしばらく参謀総長をやってからグレーナーは軍を退いた。政治家に転じたグレーナーは、また物語に登場することになるだろう。
ゼークトが参謀総長にあたる軍務局長(Chef des Truppenamts)につき、その上に統帥部長(Chefs der Heeresleitung)というポストができた。ヴァルター・ラインハルト(第2次大戦を戦った同姓の将軍とは別人)はワイマール共和国政府を受け入れ、真剣にそれを守ろうとしたが、それゆえに1920年3月に起きたカップとリュットヴィッツの反乱で板挟みになってしまった。部下だったゼークトが「陸軍同士で撃ち合わない」ことを明確に押し通し、反乱部隊の中心になったフライコーアを平穏に(見物人にいら立って機関銃を乱射し死者12名というのを平穏と呼べばだが)ベルリンから退去させたのを見て、ゼークトに陸軍統帥部長を譲って自分は師団長に下りてしまった。そういうわけで、ゼークトは今年になってあわただしく2回昇進したのだった。
1000人近い兵士が大隊教練をしているはずだったが、視界に入っているのは一部だった。地形を利用して見つかりにくいところを通っているに違いない。そして兵士たちは、全体に退却しているようだった。審判団からの状況説明を持って、自転車の伝令が頻繁に走っていた。ときおり2~3人の兵士が地を這いながら前進しているのは、偵察をしているのだろう。
「状況はどのように与えている?」
ロスバークの目配せで、もっと若い参謀が地図を使ってゼークトに説明を始めた。
「1時間ほど前に、全般的な退却命令を出しております」
「赤軍(当時のドイツ軍の演習で、ふつう外敵側を指す)は奇襲を仕掛けて来ないのか」
「あと20分ほどで状況が変わります」
短い返答にゼークトは満足したようで、若い参謀が目に見えて安堵した。作業計画をなぞるだけの演習になっていないか、それがゼークトの関心事だったのだ。ゼークトはロスバークを向いた。
「さすがに抜け目がないな」
ロスバークは苦笑しただけで答えなかった。第1次大戦中盤以降にロスバークは地形を活用し、守りやすい場所・取り返しやすい場所を徹底的に利用した進退をして、最大限の損害を敵に与え、精いっぱい退却を遅らせた。若手士官たちが加わって体系化したドクトリンであるし、ロスバークと他の幕僚がいつも同意見だったわけでもないが、ドイツ陸軍で柔軟な防御の第一人者と言えばロスバークと見なされていた。
「これからしばらくは、撤退の技量もまた必要だ。なにしろ10万人だからな。フランスだけで本土と我が国への駐留軍で37個師団を維持すると言うのに、我が方は歩兵7個師団ときている」
「弾薬の劣化が進んでいきます。いつまでも大戦の備蓄というわけにもいきません」
「考えている」
ゼークトはロスバークの背中を軽くたたいた。武器と弾薬の新造には連合国の許可が要ることになっていたが、それを守るつもりはさらさらなかった。
参謀が伝令兵を呼び集めていた。「状況急変」の知らせを与えるためであった。側面からの奇襲だとか、通れるはずの橋が敵に落とされていたとか、そういう突発事態への即応を求めるのだろうとゼークトは考えた。
「どんな戦争になるかではない。どんな戦争にするかだ」
「塹壕戦の訓練は、させておりません」
「掘るなと言っているのではないのだぞ。最初から掘ると決めるなと言っている」
ロスバークはまた微笑で会話を結んだ。塹壕によって防御する訓練をゼークトが嫌っていることは、各師団の参謀同士でひそひそと広まっている事実だった。本人も広まっていることに気づくほどだった。
このころフランス軍では、大戦末期に自分たちが勝利した戦い方をそのまま陸軍の基本として採用していた。火力の優越がすべてを決するという考え方である。それに対してドイツは、全般的な火力の優越が得られない状況でどう戦うかを自らの課題としていた。ごく小さな地点での局所優勢を得るのがせいぜいだとしたら、その機会はうまく選ばねばならなかった。
ゼークトは馬の足音に振り向いた。50騎ばかりの騎兵が、歩兵の脇をすり抜けて進出しようとしている。背中でロスバークの声がした。
「赤軍砲兵の追随が遅れているとの情報を得た青軍師団長は、騎兵2個小隊の増援とともに、突出した赤軍歩兵への反撃を命じました。我が意図をあざむき、日没とともに退却を再開します」
ゼークトが再び顔を向けると、ロスバークは謹厳な顔に戻り、ぼそりと言った。
「現実は現実として、兵たちに勝つ感覚を覚えさせませんと」
ゼークトは声を上げて笑った。その笑いは幕僚たちに伝染した。
第1話へのヒストリカル・ノート
フランス陸軍最高会議でマジノ線のことが初めて話題になったのは、1920年5月22日のことでした。この小説では説明順序の都合上、半年くらい後にこの会議があったように描いています。それぞれの発言内容は史実通りではありませんが、ジョッフルとフォッシュが「国境防衛」の現実味に懐疑的であり、ペタンがどちらかというと前向きであったことは史実通りです。いずれにせよ、マジノ線は長い審議を経て構想が固まって行きました。
ルーデンドルフの肩書はErster Generalquartiermeisterでした。日本陸軍の場合陸軍参謀本部には参謀総長がいて、参謀次長がいて、その下となると課長です。課長はせいぜい大佐でしたが、ドイツ陸軍はその上に、数人の少将や中将がOberquartiermeisterとして、ひとつまたは複数の課を統括していました。つまり現場と後方をローテーションする人事を、少将になってもまだ続けていたので、それに対応するポストも必要だったのです。その中での階級順・昇進日付順の最上位者がGeneralquartiermeisterと呼ばれるルールでしたが、「首席(Erster)」となると最上位であることが固定され、参謀総長代理として振る舞っても良いわけでした。ここでは首席参謀次長と訳しておきます。1930年代にも同様のポストがあり、1935年には参謀総長と課長の間に5人のOberquartiermeisterがいました。
ドイツを真似する日本陸軍の場合、大戦中盤ですと第1部長(作戦)、第2部長(情報)、第3部長(輸送・通信)、第4部長(軍務・兵務)といった4つの部長ポストがあり、しばしば陸軍省のポストを併任していて、陸軍省の指示と参謀本部(大本営陸軍部)の指示に整合性が保たれるようにしていました。常設の参謀次長を置いていたのがドイツとの違いでしょうか。