目覚め
愛想笑いをし過ぎて頬が痛む。
今日の客の話はすごくつまんなかった。
頬をぐりぐりと指先でほぐし、半分酔った頭で軽くふらつきながら、行き交う車のヘッドライドが何度も照らす眩しさに目を細めて、細い脇道を曲がる。
街灯もろくにない暗い細道を、たらたらと歩いていると、チカチカと切れかけた街灯の横から影が現れた。
ろくに目も向けずに、そのままその人の横を通り過ぎる。
タッタッタッタッタ
後ろからこちらに向かって走ってくるような靴の音がして、思わず振り返ると、深くパーカーのフードを被ったジーパン姿の男がお腹の辺りで両手でがっちりと刃物を握りしめ、その刃先をわたしに向けて走って来るところだった。
「おまえみたいな女は世のため、人のために死ねええええっ!」
驚いて、叫び声をあげる暇すらなかった。
どんっ!
走って来た勢いで男がぶつかって来た。
その衝撃と同時に、腹部に熱い激痛が走る。
「な、に……」
「俺は……おまえの事が本当に好きだったんだ……」
わたしの胸に頭を埋めた形のまま、泣いているように声を震わせてそう言った。
「あ、んた……だ、れ」
喉から熱いものが込み上げて、苦しくなり吐き出すと、ごぽっと音を立てて血液が口から溢れた。
生暖かくて、鉄分の混じった変な味がする。
「ずっと、好きだったのに……」
フードに隠れて顔が見えない。
腹部から太ももにかけてだらだらと肌を伝い、生暖かいものが流れ落ち、お腹の痛みがだんだんと鈍くなる。
頭がぼやけて、視界が霞み、急激に熱を失って身体が震える。
男の肩越しに、遠くに見えるヘッドライトが視界いっぱいに広がった。
「日曜日に会えなくても、俺もすぐに玲奈に会いに行くから……待っててね……」
に、ち、よう、び……
ああ、そういえば同伴の約束してた男がいた。
あいつか……
ふっと目の前が暗くなり、その男の顔をぼんやりと思い浮かべながら、わたしの身体は男に寄り掛かるように崩れ落ちた。
◇
ふと目が覚めると、わたしはそこに横たわっていた。
目が開いた感覚はあるのに、何も見えない。
視覚を失ってしまったかのように、異常なまでの深い闇だけが周りに広がっている。
眼球を右へ左へ動かしても、光ひとつ、物影ひとつ、見つけられない。
死後の世界、とかそういうヤツなのかしら。
真っ暗闇って。これがわたしが男共にやってきた報い、とかそういうこと?
周囲の闇に意識まで呑み込まれるように、冷静にそんな事を思った。
ああ、そういえばあいつに刺されたんだっけ、とぼんやり思い出す。
あんのクソ野郎。何も刺すことないでしょう、そんなに貢いでもらったわけでもないのに。
どうせ初めてのキャバでその気にさせられて、どっぷりハマったバカなビギナーだ。
あーあ、今月の売り上げ結構良かったんだけどなあ。
腕で目を覆い、はあっとため息を漏らす。
「お目覚めでございますか、魔王様」
「えっ!?」
突如として静寂の中、すぐ隣から撫でるような声がして、心臓が跳ね上がった。
「だっ、だれっ!?」
声がした方を振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずのそこに、ひとりの男がわたしを上から見下ろしていた。
シルエットでしか捉えらえられなくて、暗闇に溶け込むように佇む男の顔はよく見えない。
その中で唯一銀色に輝く髪だけを目視できた。
「わたしはあなた様の腹心。これからあなた様だけの為に仕える者。サシャールとお呼びください」
「さ、さしゃーる?」
「はい。魔王様」
ま、魔王様……?
ディスられているようなセリフだけど、サシャールと名乗ったその男は真面目で落ち着き払った声でそう言った。
その声質から、バカにしているわけではないみたいだと感じる。なんなの、このひと。
未だ目が慣れない闇の中で自分の姿さえも確認できないまま、身体を起こす。
いつまでもこんな暗闇の中にいたら頭がおかしくなりそう。明るい所に行きたい。
「あの……とにかく、ここから出してもらえない」
「はい。魔王様」
静かにそう返事が返って来たと思ったら、すっと背中と太ももの後ろに何かが触れて、ふわり、と身体が浮き上がった。
「きゃああ」
驚きと恐怖が入り混じり、思わず悲鳴をあげてしまう。
両腕が宙に浮いて落ち着く場所を探し、わたわたとするとすぐそこに銀色の髪が見えて、必死にしがみつく。
男が歩き始め、その動きに同調して身体が上下に揺れる。
黙ってしがみついていると、きぃという金属音がして、細く開かれた空間から明かりが差し込み、空間が広くなるにつれて、差し込む明かりの量も増した。
眩しくて思わず目を細める。
その光に溢れた空間に男が一歩踏み出すと、徐々に眩しさに慣れた目でその場を見渡すことが出来た。
そこには、だだっ広い空間が広がっていた。
天井は信じられないほどに高く、高校の体育館なんてミニチュアのオモチャに見えるような、そんな空間が。
その手前に、何人かの人が頭を下げて跪いているのが見える。
サシャールはわたしを抱きかかえたまま、その人たちに近づくように歩みを進めた。
徐々に近づく彼らを凝視すると、そのうちのひとりから尻尾が見えた。
え。なにあれ。
思わず見入ると、ふさふさの太くて長い尻尾が、身体に巻き付けるように弧を描きながら床に乗っかっている。
その男と瞬時、目が合った。
切れ長の黄金色の目の中で紅い瞳孔が縦長にすっと伸びて、その口元からあごに向かって伸びるキバが覗いている。
その手足は銀色の長い毛で覆われ、そこから生えた爪は長く鋭く尖り、床に突き刺さりそうになっていた。
ごくり、と喉が鳴る。
ば、化け物……!
どうしようっ、なんなのここはっ!
目はその男に釘付けで頭は混乱し、動揺していたわたしの身体が、突如ふわりとした浮遊感と共に、すとん、と硬い何かの上に座る形で落ち着いた。
「え……? 」
きょろきょろと見ると、それは椅子だった。
背もたれが見上げるほどに高くて、光沢があり黒く光るその椅子は、とても細工が細かい、シンプルなのに豪華な椅子だ。
サシャールはわたしをその椅子に座らせると、壇上から下がり目の前で跪く人達の列に自分も並んですっと腰を下ろし、同様に跪いた。
「あ、あの……」
『魔王様、このたびのご生誕、心よりお祝い申し上げます。我ら一同、魔王様の腹心として真摯にお傍に仕えさせて頂きます』
動揺し狼狽えるわたしを他所に、彼らは声を揃えて頭を下げた。
一体どうしたらいいのか、どう反応しようか困り果てたわたしの瞳の端に、チカチカと光る何かが目に入った。
跪く彼らの背後に野球ボール程度のパチパチとしたプラズマの発光のような物が出現していて、思わず異形な姿かたちをする彼らよりも、その光に目が奪われる。
それは、バチバチと電力がぶつかり合うような音を立てながら、徐々に大きさを増して瞬時に爆発的な大きさに膨れ上がり、突風を巻き上げ、眩い稲光を幾筋も発しながら弾け、わたしの視野を塗りつぶした。
「きゃあああっ」
「これは……っ!!」
唸る突風と莫大な光量。わたしは思わず顔をそむけ、その異常事態に跪いていた彼らも、驚愕の声を上げながら振り返る。
____ 途端に音が消えた。
高周波による影響でも受けたように、その世界の音が無音と化す。
耳の中に栓でもされたかのような違和感と共に、莫大な光とプラズマ音は消え去り、光で塗りつぶされていたその場には、今や銀色に輝くフルプレートアーマーで全身を固めた大軍が姿を現していた。
一体どれほどの数がいるのか、見渡しても最奥の壁が見えなかったその空間目一杯に、びっしりと光を反射させながら鎧を身に纏い現れたその大軍は、目を細めて見ても最後尾すら見えない。
一体何が起きたっていうのよ……
ここはどこで、サシャール達は何者で、あの大軍はなんなのよ。全く状況が呑み込めずわたしは言葉を失い、呆然とする。
そんなわたしとは違い、その大軍に向き直った異形のものたちはそれの正体を即座に認識し、前屈みになりながらビキビキと音を立てて身体を強張らせ、ゆらゆらと揺れ動くベールのようなモノを身に纏い、それぞれの最終形態へと変化をとげ始めた。
メキメキ、ビキビキッと耳障りな音を立てて、己の皮を内側から打ち破り、一回り、二回りも身体は膨張しながら変化する。
今までかろうじて人に近い形をとっていた彼らのその変化は、とてもおぞましいもので、わたしはさらに目を大きく見開いて悲鳴を上げそうになるのをばっと手で強く抑えて堪えた。
背中の筋肉が盛り上がってその中からめりめりと音を立てて翼が生えたもの。
額のツノが大きく立ち上がって捻り上がり、全身に筋を浮き上がらせ筋骨隆々の大男になったもの。
そのうち、尻尾が生えていた男が全身を銀色の毛で覆い隠し、鼻から下を突き出した完全な狼男と化した。
肉食獣の獰猛な瞳に強い光を宿らせて立ち上がった狼男は、足を踏ん張り前傾姿勢を取ると、大きく口を開きそこからぎらつく牙を剥き出しにして、大軍に向かって怒りを露わにし、大気が震えるほどの大声で叫ぶように吠えた。
「人間どもがあああああっ!! 」