日常のなかの影
元来た道を戻ると、再び学校の前を通ることになってしまうので、僕は、少し遠回りになるけれど、南側の繁華街寄りのルートを選んだ。
平日の午後、子どもは学校に、大人は仕事に出払っているので、古い住宅街である今いる場所は人通りが少ない。
ときおり車が通り過ぎたり、お年寄りが散歩なのか、ゆっくりと歩いているのを見かけたりするぐらいだ。
「あれは、なんだったんだろう?」
改めて声に出してそう言うと、現実味を失っていた記憶が鮮やかによみがえり、グロテスクな化け物と、あまりにも惨い女生徒の死に直面することとなる。
さして暑くもないのに汗が吹き出し、荒くなる息を整えた。
幻覚だったという説明が、一番気が楽になる選択ではあったけれど、一緒にいた泉川さんも同じものを見たはずなので、その線は薄いのではないかと思われる。
いや、世の中には、集団幻覚というものがあるらしい。
だけど、それにしたって、あんなにはっきりと見えるものなのだろうか?
そう言えば、化け物の色が、揃いも揃って、自然のなかでは滅多に見かけないほど鮮やかな蛍光色だった。
あれは幻覚だったから、とか?
「じゃあ、これも幻覚?」
僕はゆっくりと歩く僕に付き従う影を見つめる。
屋上へと続く扉を影がくぐってから、三本目の腕のような感覚に焦点が合った。
僕は、これを自在に操れるという、不思議な確信がある。
それは、自前の腕を動かすぐらい、当たり前のこととして、認識出来ていた。
非日常がまだ続いている。
それがとてつもなく恐ろしい。
だから、僕はまだ、実際にその感覚を確かめることが出来なかった。
でも、誰も周囲にいない今、一人になった今だからこそ、ちょっとだけ試してみようという気持ちが沸き起こった。
本体に付き従う影を、少しだけ自由に動かしてみる。
影は足元から離れないまま、まるで自分の意思を持ったようにぐねぐねと踊り出した。
僕の心に浮かんだ恐怖と共に、それは、普通の影に戻る。
自分でやったことなのに、大きなショックを受けてしまった。
「何が起きてるんだ?」
自分のなかに残る非日常を確認したことで、にわかに学校の様子が気になりだした。
自分達だけ逃げ出してしまったけれど、あの後、みんなは大丈夫だったのだろうか?
まだ親しい友人は出来ていなかった。でも、クラスメイトの顔は覚えている。担任の先生の顔も。
彼等は、無事だろうか?
「くそっ!」
僕は方向転換して、再び学校へと向かった。
気になるなら、確かめればいい。
こんな気持ちのままで家に帰ったとしても、夜眠れるはずがない。
歩いていたのが、いつの間にかはや足になり、最後には全力疾走になった。
校舎が見える。
「はぁ、はぁっ……」
まず、屋上を見た。
特に何かが起こっている様子はない。
「僕は、何をしているんだ?」
自問自答しながら、なおも走る。
正門が見えて来た。
今は六限目の授業中だろうか?
二年のこの日の授業は六限目までなので、いまさら教室に戻っても意味がない。
それでも、確かめようと、思った。
正門をくぐり、前庭を通って、東校舎の正面玄関へと入る。
やはり授業中のようで、周囲は静まり返っている。
ただ、逃げ出したさっきと違い、この静けさが、ほかの生徒や先生が、異常に巻き込まれていない証拠だと確信出来ない。
時間にすれば、往復で三十分ほど。
たったそれだけなのだから、急に状況が変わるはずはないと思うのだけど、あの化け物達の存在を考えると、確信が持てないのだ。
僕はごくりと喉を鳴らすと、自分の下駄箱のある場所へと近づいた。
そっと列の奥を覗き込む。
そこにあったのは、バラバラになったすのこの断片と、消火器の入れ物のなれの果てらしき赤い金属片、そして、わずかに残るピンクの粉のようなもの。
僕達が見たはずの、スライムに似た化け物は、影も形もない。
「消えた? 死んだ……のか?」
あのときは、逃げ出すことが最優先だったので、どうなったのか確認することも出来なかった。
見ると、無事だったすのこの上に、自分の上履きが投げ出されたように転がっている。
僕は、その上履きを拾い、自分の下駄箱に脱いだスニーカーを納めた。
上履きを履いて、廊下を静かに進む。
一階は一年の教室が並んでいる。
最初の教室に近づくと、教師が落ち着いた声で説明をしながら、チョークで黒板に文字を書く音が聞こえた。
学校での日常。
平和な音だ。
僕は、階段を上がり、二年の教室を目指す。
さすがにあのトイレを覗く気持ちになれなかったので、あのトイレのある二階はスルーして、二年の教室が並ぶ三階に上がった。
とは言え、あと数分で終わる授業を混乱させる必要はない。
僕は、泉川さんに教わった場所に上り、屋上へと続く扉を見た。
扉は無事で、今はあの激しい激突音もない。
少しためらう心があったが、僕は影を伸ばして、屋上へと続く扉の隙間をくぐらせた。
影の見る風景が、今僕が見ている風景に重なる。
その二つの風景は、混ざり合うことはなく、二枚の画像が選択可能な光景として見えているという感じだった。
スマホでスライドして画像を見る感じに似ている。
待機している画像のほうもなんとなく認識出来てるような感じだ。
その、影の見た屋上の光景には、あの巨大な鶏にマネキンのような女の顔が乗っている化け物の姿はなかった。
薄汚れた、コンクリートむき出しの屋上の風景が見えているだけだ。
キーンコーンカーンコーンと、授業の終わりを告げるベルが鳴った。
ざわつく廊下に下りて、僕は何食わぬ顔で自分の教室に戻る。
何人かが不思議そうに僕を見たが、親しい友人がいないので、積極的に話しかけて来る相手もいない。
「ふう……」
学校に戻ったのはいいが、ますますあれが現実だったのか、幻だったのか、わからなくなってしまったのだった。




