脱出
「本当に、本当にそう……思いますか?」
泉川さんは、不安を湛えた目で僕を見る。
きっと、彼女にもわかってはいるんだろう。
あれは自分のせいではないって。
だけど、誰かにそう言って欲しいのかもしれない。
いじめっ子に対する自分の不満が、突然暴力的に解消された。
それをどこかで喜んでいる自分がいる。
そのことにきっと、罪悪感があるのだろう。
「当たり前だろ。あんな化け物、人間の思惑でどうこう出来るような相手じゃないよ」
「そう……です、よね」
どこかホッとしたような、その自分の心の動きを恐れているような、それはそんな表情だった。
「……うっ」
「先輩?」
泉川さんの悩みが一段落したことで、僕自身も気が抜けたのか、一瞬、貧血じみためまいを感じる。
いや、違う。
違和感が、ある。
僕は自分の両手を目の前に広げてじっと見た。
右手と左手、両方が目の前に揃っている。
だけど、それだけじゃない。
もうひとつ、手のようなものがある。
今まで存在しなかった、もう一本の手のような何か。
僕は、その感覚を感じることが出来た。
「え? どういうこと? 訳わかんないんだけど」
「先輩、どうしたんですか?」
泉川さんがすごく心配してくれる。
この子、いい子だなぁ。
突然倒れた僕をなんとか助けようとして、それが出来なくて涙を流してくれて、今も、自分の気持ちの整理がまだ出来ていないだろうに、僕の様子がおかしいことを気遣っている。
「いや、大丈夫。どこか悪いとかじゃないから」
そう言って、笑おうとしたときだった。
ガンッ! と、鉄製の頑丈な扉に何かがぶつかる音がした。
僕は、血の気の引く心地で、その音のほうを見る。
泉川さんも、真っ青な顔で、屋上へ続く扉を凝視していた。
ガンッ! ガンッ!
聞き間違えじゃない。
何かが外から激しくぶつかって来ている。
「いたっ」
腕を力一杯掴まれて、痛みを感じた。
見ると、ガタガタと震える泉川さんが、僕の腕を両手でがっしりと掴んでいた。
僕はその腕を、安心させるようにポンと叩く。
そして、泉川さんの制服が、濡れているのを感じる。
そう言えば、いじめっ子に水をかけられていたっけ。
視線を向けると、合服の白い上着が透けて、下着が見えていた。
僕は慌てて視線を扉に戻す。
いやいや、そんな場合じゃないから。
「何かが、いる?」
「アレ、でしょうか?」
今切実に、扉の向こうに何がいるのか、確かめたい。
出来れば、何でもない、風か何かだと安心したい。
僕がそう思ったときだった。
僕の影がするすると伸びて、扉の隙間をくぐった。
「へ?」
その途端、僕の視界に、二重映しのように、屋上の様子が見えた。
屋上には、さっきのド派手なイソギンチャクとは違う、化け物がいる。
身体だけを見ると、鶏に似ていた。
しかし、首から上には、女の顔が乗っている。
人間味のないその顔は、何かに似ていた。
「あ、マネキンか」
整ってはいるが、表情のないマネキンのような女の顔が乗った、これまたド派手な色合いの、デカい鶏。
ソレが、複数体、少なくとも、三体以上いる。
「くそっ!」
「せ、先輩」
僕は、カッと頭に血が昇るのを感じたが、僕にすがる泉川さんの声と、あたたかい手の感触で、冷静になれた。
もう一つの視界のほうに大写しになった、女の顔の鳥の化け物に対する恐怖と、恐怖とは別の、何か、怒りのようなもので、叫び出しそうになっていたのだけど、それで、やっと自分を取り戻す。
今のは……現実なのか?
わからない。
わからないが、未だに、凄い音を立て続けているこのドアの向こうが、危険であることは間違いないように思える。
「ここを離れよう!」
泉川さんは、無言で震えながらもうなずいた。
立とうとすると少しふらついたが、腹に力を込めて、気持ちを立て直す。
武道で言うところの、丹田という場所だ。
そうして、ようやく血が全身に巡り出したように感じた。
僕達は、急いで階段を降りる。
今の化け物のことを、教室で授業を受けている人達に知らせるべきかどうか迷ったが、まだあの化け物共が、現実か、幻か、確証が持てない。
そんな状態で他人を説得することなど出来ないだろうと考えて、やめることにした。
階段を下りて、教室が並ぶ廊下に出ると、悪夢から覚めたような心地になる。
少しだけ先の教室のなかには、いつもの日常があった。
「どうする?」
僕は泉川さんに尋ねる。
泉川さんは、震えている。
僕は慌てて、多少暑くても、まだ着ていたブレザーを脱いで、泉川さんに掛けた。
もっと早くこうするべきだった。
頭が全然回ってなかった。
そのことがひどく恥ずかしい。
「私、ここにいたくない。家に、帰りたい」
「そう、だよな」
僕も、全くの同意見だったのでうなずく。
咄嗟に、教室に置いたままのカバンをどうするべきかと考えたが、財布はズボンのポケットで、家の鍵は、ベルトにチェーンで付けている。
スマホは、学校に持ち込めないので、最初から持って来ていない。
つまり、教室のカバンと机のなかにあるのは、勉強道具だけということだ。
予習復習には困るが、どっちにしろ、今夜勉強に集中出来るとは思えなかったので、すっぱりと、置き去りにすることにした。
「カバンとか、取りに行く?」
とは言え、それは僕の決断であって、泉川さんにはまた別の考えがあるだろう。
一年の教室に行くのは勇気が必要だが、必要なら付き合う覚悟はある。
泉川さんは無言で首を横に振る。
「カバン、隠されちゃって。……探す気になれないから」
小学生かよ!
と、今は亡きいじめっ子達に怒りが湧いたが、彼女等はもう存在しない。
いない相手に怒ることは出来ないし、その最期を思えば、どちらかというと、気の毒さのほうが上回った。
「わかった。送るよ」
「……先輩、ありがとう」
また、か細い声でお礼を言われた。
もっと大きな声が出せるようになれば、泉川さんの世界も変わるかもしれない。
そんな風に思いながら、階段を下りる。
校舎の一階玄関には、下駄箱が並び、それぞれ学年で場所が違う。
僕は、まず、泉川さんの下駄箱に一緒に向かった。
周囲に気を配りながら、到着すると、下駄箱のなかの靴は、無事に揃って見つかる。
いじめっ子達は、下駄箱には手を出さなかったようだ。
化け物の姿もない。
二重の意味で安心して、次に僕のほう、二年の下駄箱に向かう。
だが、ここで異変が起こった。
ズルッ、ズルッ……という、音が聞こえた気がして、僕は泉川さんを押しとどめ、自分の口の前に指を立てて、静かにするように伝える。
泉川さんも、すぐに理解してうなずいた。
そして、足音を殺して近づき、覗き込んだ、すのこが並ぶ下駄箱の列の奥に、ソイツがいた。




