いじめと異変
その日、僕が、校内の普段通らないような場所を歩いていたのは、昼休みに暇を持て余した結果だった。
未だ友達と言えるような間柄のクラスメイトもいない状況だと、親しい仲間同士で固まって昼食を食べる昼休みは、気まずい。
とは言っても、まだ教室と体育館と運動場、それに職員室、その程度しか場所を覚えていないため、適当な逃げ込み先もなかった。
せめて図書室とか中庭とか、ぼっちに優しい場所を早急に見つける必要を感じた僕は、手早く自分の席で、コンビニパンの昼食を済ませると、校内の探索を開始したのだ。
その途中に問題に遭遇した。
問題が発生した場所は、二年生と一年生の階の間にある、特殊な教室が立ち並ぶ階だ。
廊下の端っこにある情報処理室の隣、階段との間には女子トイレがある。
女子トイレという場所は、男にとっては近寄ると災いしかない場所なので、当然僕も、階段を逆側に曲がって、スルーする予定でいた。
だけど、そのとき、ちょうど悲鳴のようなものが聞こえて来たのだ。
悲鳴というものには、人の気持ちをざわつかせる効果がある。
僕はつい、その悲鳴の発生源と思われる女子トイレへと近寄ってしまった。
学校のトイレの入り口なんて、扉の役割をあまり果たしてはいない。
だから、近くに寄れば、なかで何が起こっているのかすぐにわかった。
「いやっ! やめて!」
「お前こそ、男子に媚び売るのやめろよ」
「苦労してますって、顔してさ。女子はシカトするし」
「誤解です。私……」
「誤解です! だってさ!」
ゲラゲラと笑い声が響く。
これはもう間違いないだろう。
内容は、まるでヤクザが因縁でもつけているようだが、声は若い女の子のものだ。
「いじめか……」
げっそりする。
まさか、高校にもなって、いじめをするような生徒がいるなんて信じられないような気持ちだった。
しかもこの学校は、割と有名な進学校なのに、ヤクザのような言葉遣いをする女子がいるのも信じたくない事実だ。
女子のいじめって、もっとこう、仲間外れとか、ネチネチしたものじゃないの?
「いやっ!」
「私達が親切に顔を洗ってやろうっていうんだから、感謝するのが筋だろ?」
「ヤバ」
突然の事態に固まっている場合じゃなかった。
トイレでは、いじめの度合いがエスカレートしているっぽい。
「なにしているんだ!」
僕は覚悟を決めて、トイレの外の廊下から、なるべく威厳のある声に聞こえるように怒鳴った。
先生の声に聞こえればいいなと考えていたが、いかんせん、僕はまだ声変わりをしていない。
いまいち野太さに欠ける、迫力のない声だったのは仕方がないだろう。
「ちっ!」
なかから舌打ちが聞こえたかと思うと、ドン! と、扉が開かれた。
スイングドアタイプの入り口は、人が押すことでかんたんに開く。
やや乱暴に開かれた扉を片手で支えるようにした、一見、上品そうな女子と目が合う。
彼女は、髪を染めていたり、服装が乱れていたりということは、一切なかった。
「あん? あんた生徒じゃない。男子が女子トイレで何してるんだよ? 言い訳出来ないよ?」
「あんた明日から痴漢野郎ってあだ名になって影でひそひそ言われるからね? 覚悟は出来てんの?」
その、わずかに開いた扉から視線を向けると、なかにいたのは女子四人。
そのうち三人がいじめっ子側のようだった。
全員見た目は不良生徒とは対極で、きちんとした女子って感じだ。
クラスにいたら、絶対近寄らない系の、きれいで頭のよさそうなグループ感がある。
女子トイレというものは、男の僕には、まず縁がないものだけど、覗い見た内部は、淡いピンクのタイル張りで、清潔感があった。
個室が両側に並んでいて通路は狭めだ。
手前の洗面台は二台で、その上に鏡が壁に埋め込んであった。
個室が並ぶ奥のほうに、一人だけ座り込んでいる女子がいる。
その隣には、座り込んだ彼女を、入り口から隠すように立つ、いじめっ子の仲間らしき女子。
どう見ても、座り込んでいるのが、いじめられている女子だよな。
顔を伏せているので、彼女が今どんな状態なのかはよくわからない。
あ、いや、うわっ! ずぶ濡れじゃないか。
髪からポタポタ水が垂れているよ。あれでどう言い訳するつもりだったんだ? 明らかにいじめられてたって感じだぞ。
「へー、二年の先輩なんだ」
「なんだすごいじゃん。もう二年の先輩までたらしこんでたんだ? いやらしい」
扉を押さえている女子が、僕の校章を見て二年であることを確かめると、個室の列の入り口近くに立っていた女子が揶揄するように座り込んだ女子に言った。
ここで、いじめられていたらしい、座り込んでいた女子が、顔を上げて僕を見る。
お、眼鏡っ子だ。
最近は、目が悪い女子はコンタクトにする子が多いのか、眼鏡っ子って見ないよね。
僕はちらっとそんなバカなことを考えたが、さすがにそういうのは場違いだった。
こちらに向けた彼女の顔には、いくつかの気持ちが浮かんでは消えたのが見て取れる。
怒り、苦痛、希望、否定。
僕に助けてと叫べばいいのに、助けを求めて裏切られることを恐れている。そんな顔だった。
僕はなんだか腹が立った。
「知ってる? いじめってとても醜い行為だろ? だからやっている人も醜くなるんだ。君達さ、自分の顔を鏡で見てみた?」
僕がそう言った途端に、いじめていた女子達の顔に朱が差した。
羞恥のため、ならよかったんだけど、おそらくは僕への怒りゆえだ。
「ならあんたは最低の痴漢野郎になれよ!」
「私らが口を揃えて先生に訴えたら、あんたがいくら否定しようと無駄だからね!」
「前科持ちになりな!」
凄い。
ほんと、女子って頭が回るよね。
こんな短い間に、僕を決定的に貶める方法を思いつくなんて、驚きだ。
確かに、一年生の女子三人に、痴漢で訴えられたら、僕の人生は詰んでしまうかもしれない。
だけどさ、僕だって一つ下の女子に脅されてオタオタする訳にはいかないんだよ。
「なら一緒に職員室に行こうか?」
僕が静かにそう言うと、いじめっ子の一年女子達は一瞬ひるんだようだった。
口ではどう言っても、まだ覚悟は出来ていなかったのかもしれない。
「やめてください!」
そんななかで、一番激しい反応を見せたのは、いじめられていた眼鏡っ子だった。
「先輩は関係ないでしょ! もう行って、放っておいてください!」
おお、凄い声だ。
もしかすると声楽向きかもしれないよ?
それだけの声が出せるなら、いじめから逃げ出すことも出来たのでは? とも思うけど、ことはそう単純な話ではないのだろう。
ずっと同じクラスにいる相手がいじめて来るなら、毎日顔を合わすんだしな。
「うるさい! いい子ぶりやがって」
何が癇に障ったのか、眼鏡っ子の横にいたいじめ女子が、眼鏡っ子を蹴っ飛ばした。
うずくまるようにトイレの床に座り込んでいた眼鏡っ子は、たまらず倒れ込む。
そのときだ。
ふと、トイレの個室のドアが続くその一番奥で、何かが蠢いたように見えた。
「ん?」
場所もわきまえず、スイングドアをいじめ女子ごと押しのけて、眼鏡っ子を助けに入ることを考えて、さすがに女子トイレだから、とためらっていた僕は、その場で最初にソレを見た人間だろう。
それは、グネグネとうごめく軟体の触手のように見えた。
緑っぽい色だけど、どぎつい蛍光色で、淡いピンクで落ち着いたトーンの、女子トイレに似つかわしくない。
蛍光グリーンの触手は、すぐ近くにいた、眼鏡っ子を蹴っ飛ばした女子に襲い掛かった。
「え?」
ゴンッ! という、激しい音が響き、僕に目を向けていた、リーダーっぽい女子が振り向く。
「なに?」
倒れていた眼鏡っ子は、落ちた眼鏡を拾ったところだった。
もう一人は、洗面台の前に来ていて、僕に対抗するつもりだったのか、モップか何かを手にしている。
そのモップを持った女子も、気配を感じたのか、振り向いた。
「いやあああああっ!」
「なんなの? どうしたの?」
スイングドアの扉を開けたままにしていた、いじめっ子のリーダーらしき女子が、扉から離れて、悲鳴を上げた仲間に歩み寄る。
その間に眼鏡を装着したいじめられ女子は、奥に目を向け、座り込んだまま、ズルズルと出口のほう、つまり僕のいる方へと後退しようとしていた。
そして、今、眼鏡っ子の様子を見咎める余裕が、いじめっ子達にはない。
蛍光グリーンの触手は、再び伸びて、今度は洗面台の前にいた、モップを持った女子を攫う。
またもガコン! という激しい衝突音が響き、天井を見ると、べっとりと血がついていた。
僕は、いじめ女子のリーダーが離れたせいで、揺れて、視界を塞ぎにかかる扉を押さえて、再び開く。
触手が女子を掴んだ後に、何が起こっているのかが見えない。
だけど、天井にぶつかる瞬間だけは見えたので、予測はつく。
おそらくは、とんでもないスピードで、掴まれた子達を天井まで持ち上げて、そのまま引っ張って行ったのだ。
「え? ちょっと真由、愛、何? 二人して冗談? かくれんぼとか……」
ひくりと、いじめのリーダーらしき子の口元が、笑みを浮かべようとして失敗した形で固まった。
その瞬間、バァン! と、激しい音と共に、個室の奥の扉が吹っ飛んだ。
血まみれの何かが散らばり、いじめのリーダーらしき女子に、跳ね返って飛んで来た木材か何かがぶつかる。
僕は、あまりの衝撃的な光景に、半分開けた状態だった入り口の扉から手を離してしまった。
そのせいで、扉が閉まって、一瞬、なかの様子がわからなくなる。
僕は慌てて、ためらいも忘れて、今度は扉を開いてなかに押し入った。
「あ、あ……」
いじめられていた眼鏡っ子は、背後を見ながら必死で這いずって、もうすぐ出口というところまで来ていた。
そこで、ようやく、僕は何かとんでもないことが目前で起きていることを理解した。
いや、遅いだろ、と思うかもしれない。
だけどさ、学校の日常のなかで、いじめという異常はまだ許容範囲だ。
しかし、蛍光グリーンの触手は、あまりにもぶっ飛び過ぎていた。
僕の脳が、それを現実と受け入れるまでに時間がかかったのは許して欲しい。
「た、たすけ……」
いじめのリーダーらしき女子は、片腕に触手が巻き付いた状態で、必死に個室のドアノブを掴んで抗っていた。
どうも、ほかの子と違い、天井にぶつけられる前に、そこまで引きずられていって、ドアノブにしがみついたらしい。
個室の奥の破壊された場所は用具入れだったようで、バケツや雑巾やモップなどが一面に散らばっていた。
その合間に、人の、手のようなものが見える。
いじめのリーダーらしき女子は、自分の行く末である、その用具入れのほうを見て、真っ青を通り越して真っ白になっていた。
「待ってろ! もう少しだけがんばれ!」
僕はがむしゃらに奥へと突き進んだ。
何か助ける手立てを思いついた訳じゃない。
でも、今、必死で助けを求めている人が目前にいる。
その絶望の目を見た瞬間に、助けなければならないという気持ちになっていたのだ。
ベリッという音がして、いじめのリーダーらしき女子の掴んでいた、個室のドアが破壊された。
そして、彼女もまた、激しい音と共に、天井に叩きつけられる。
もしかしたら、ああやって、獲物の抵抗を奪っているのかもしれない。
僕は咄嗟に、落ちていたモップを掴むと、用具入れに駆け寄って、そのなかに柄の先を槍のように突き入れた。
ブシュッ! と、酷い臭いの液体が飛び出て、思わず後ずさる。
そこにあったのは、巨大なイソギンチャクのような見た目をした、蛍光色の何かだった。