第6話
綿雲が一つ一つと空に流れていく、なんだか手を伸ばせばパッとつかめそうにも思えた。
高校は2学期に入り、平尾匠には憂鬱といえる日々が戻ってくる。勉強はよく分からな
いし、学校生活にもこれといえる手応えもない。
なによりも、大きく変わったのは心を寄り添わせることのできる仲間との距離だった。
「おいさん、今日も遅刻したって?」
「なんで知ってんだよ」
「一音から聞いた、すげえ嫌そうに言ってたよ」
「あぁ、怒られてるときに目が合ったし」
授業の時間だったが、この日は右太に誘われて屋上に来ていた。誰もいない貸切の屋上
は変に静かで、砂利やごみも転がってるのに優雅な気分にさえなれた。2人で真ん中に寝
転がると、上を流れていく健やかな空の景色に見とれながら会話を続けていく。
「まったく、おいさんは莉子がケツたたかないと起きれもしないのか?」
「バカやろう、そんなんじゃねぇよ」
「じゃあ、莉子に起こしてもらえないのは淋しい?」
「せえせえだよ、ぐっすり眠れることったらないね」
「・・・・・・強がりだな、ホント」
強がらせたら学校でこいつの右に出るやつはいないだろうな、そう右太は匠の不器用さ
にククッと笑う。
あの日、匠と莉子の間に溝が出来てから、2人の毎朝の間接決闘はなくなった。莉子は
自宅から学校までの道のりを外れることなく通い、匠は当然のように遅刻続きの毎日を送
ることとなる。彼女からの手紙もなくなった、毎夜のように玄関ポストを確認してもピン
クの封筒は見当たらなかった。
一音も同じように匠と距離を置いた、あれだけ見られた2人の言い合いもすっかり影を
潜めている。
右太だけは彼から離れなかった、ただ彼だって匠に持っていた期待をなくしている。
「なぁ、どうしてか聞いてもいいかい?」
「んっ?」
「おいさん、なんで莉子じゃダメなんだよ」
しばし言葉はなく、匠が口を開く。
「・・・・・・俺じゃない方がいいだろ、あいつには」
「どういうことだよ」
「俺よりも剣道部の主将の方がいいはずだろ。勉強だって、見てくれだって、性格だって、
運動神経だって、大体は向こうが勝ってるんだし」
心が痛む、それぞれの言葉の角を尖らせて自分に刺してるような感覚で。
「それが理由か?」
「それだけじゃねぇけど、要は俺だと不十分ってことだよ。あいつみたいに何でも無難に
こなせる器用なやつに、俺みたいな何もやれない劣等なやつじゃ似合わないんだよ」
匠の素直な気持ちだった、彼は莉子といると時々そう感じてしまう。莉子がそつなく物
事をやってしまう様を目にすると、引け目を感じる。剣道は正にそれだった、彼女の美し
いほどの剣さばきを目の当たりにして。全国大会に進出するような逸材の彼女に対し、何
もない毎日を同じように過ごす自分に気後れが生じるのは自然といえた。
自分と莉子じゃ吊り合わない、そう彼は決断した。今まではなんとなく自分の中に隠し
てきた思いが、彼女の剣道の試合を見たことや見渡のような男が出てきたことで確実なも
のになった。
だから匠は莉子に別れを告げるような真似をした、本当の想いを内に込めたまま。
「それって違くないか?」
「なにが?」
「おいさんの中で、おいさんと剣道部の主将がどうこうってことは重要かな?」
「・・・・・・まぁ」
「莉子の中で、おいさんと剣道部の主将のどっちがってことじゃダメかい? 莉子がおい
さんを選ぶんなら、それで莉子は幸せなんじゃないのか? そんで莉子が幸せになること
で、おいさんも幸せにはなれないのかな?」
また言葉のない時間になる、匠は思い巡らす。
「・・・・・・さぁ、どうだろうな」
結論は出なかった、答えはいたってシンプルで果てしなく遠くに思えた。
「昨日ね、チョコレートプリンに挑戦したの」
「へぇ、成功したの?」
「初めてにしては合格点あげられるかな、って感じ」
「すごいじゃん、右太には食べさせたの?」
「朝渡してね、さっきメールで「美味かったよ」って来たんだ〜」
「ほぉ、やるなぁ一音ちゃん」
莉子がそう褒めると、一音は素直に照れる。
一音と右太はなんだかんだで着実に関係を進ませていた。一音も彼の前ではありのまま
を出せたし、右太も彼女の気持ちに応えようとしていた。この2人は放っておいても大丈
夫、そう安心できるぐらいになっていた。
「でっ、私の分は?」
「あっ、初めてだったから失敗の可能性も考えて2人分しか作ってない」
「え〜っ、さんざ聞かせといて食べれないの?」
「ごめんごめん、そのうちに作ってくるから」
プーッと意図的に頬をふくらます莉子の頭をそっと一音が撫でてあげる。
莉子をなだめるように何気ない会話を続けていると、呟くように彼女から言葉が出た。
「・・・・・・ねぇ、たっちゃんってどうしてる?」
まただ、そう思って一音は息をつく。
あの日以来、莉子は定期的にこの質問をしてくる。もう、「そんなに気になるんなら、直
接本人のところに行ってくればいいじゃん」と言ってやりたいくらいに。
「相変わらずの遅刻ざんまいだよ、今日なんか職員室に呼び出されて説教うけてたみたい
だし」
「・・・・・・そう」
これまでなら笑って話してたことなのに、莉子は淋しそうな瞳をしていた。目の前で話
してる一音ではなく、どこか遠くの方に視界は向いている。そこに誰を映してるのかは言
わずとも分かる、本当はまだ好きだということも。
「おはよう、平尾くん」
「あぁ、おはよう」
暑さもだんだん和らいできた季節の変わり目、夏の終わりと秋のはじまり。
週末の昼間、匠は間村小鳥と待ち合わせた駅前にいた。
「なんか、今日はいつもと違うね」
「うん、ちょっと頑張っちゃった」
間村はボーダーのワンピースにスキニーパンツという、言い方は悪いが彼女らしくない
衣装だった。彼女はメガネを掛けている印象通りの真面目な子で、制服のスカートの丈だ
って一切いじってはいない。そんな子がファッション雑誌の特集に載ってそうな衣装を着
てるのは違和感も生じる。きっと今日のために買ってきてくれたんだろう、それだけでグ
ッと揺れるものがあった。
「でも、平尾くんはいつもと同じだね」
「あぁ、俺こんなのしか持ってないんだよ。別に、洋服に執着してないし」
匠は詳細の分からないようなロゴの入ったジャンパーにジーンズという、実に彼らしい
衣装だった。もう何度かしているデートでも、彼の衣装には目立った変化は見られない。
「ねぇ、手つないでいい?」
「んっ、あぁ」
間村の促しで彼女の要望に気づくと、匠はジャンパーのポケットに入れていた右手を取
り出して彼女の左手を握る。
せっかくのデートだというのに、匠はどこ吹く風でいることが多い。それは間村にも伝
わっていた、隣にいるのに彼のことが掴めないことはしょっちゅうだ。匠自身が掴みどこ
ろのない性格ではあるけれど、彼女である自分の前でそうされるのは胸が痛む。
2人は映画を見て、ファミレスで食事をすると雑談を重ねる。ただ、ここでも匠はいく
らか時間が経つと、ボーッと窓の外を眺めていた。
「平尾くん、楽しくない?」
「んっ?」
「私と一緒にいると楽しくない?」
さっきまでの会話のときの間村の笑顔が消えていた。
「何言ってんの、めっちゃ楽しいよ」
「本当に?」
「本当だって、なに疑ってんのさ」
「そう、ならよかった」
そう間村は微笑む、合わせるように匠も同じ顔をした。
「たまに不安になるの、もしかしたら平尾くんは私のこと好きでもなんでもないんじゃな
いかなって」
「なに、どういうこと?」
「ホントは私なんかどうとも思ってないのに、わざわざ付き合ってくれてるんじゃないか
って」
「そんなわけないでしょ、それなら一緒になんかいないって」
自分の心底を見透かされたようで、匠は大きく否定する。
「平尾くん、学校でもあんまり話したりしてくれないし」
思い当たる節はあった、学校の休憩時間は基本的に男友達とつるんでいたから。それは
無意識だったとしても、間村からすれば当然学校でだって一緒にいたい。無意識だからの
罪かもしれない、それは意識をしないと間村のことを気にかけれないともいえたから。
「ごめん、これからは話すようにするよ」
「いいよ、案外それはそれでよかったりするから」
「んっ?」
言葉の意味がつかめなかった、蔑ろにされることを自ら選ぶなんて普通じゃない。
「傍から平尾くんが友達と喋ってるのを眺めてるのも結構好きなんだ。付き合う前は、ず
っとその状態だったし。ほら、片想いって実はすっごく楽しかったりするじゃん? その
ときの感覚に戻れて、それはそれでいいかなぁって思っちゃうの」
「ふぅん、そうなんだ」
「それに、他の女の子と喋ったりしないから安心できるし」
「・・・・・・なるほど」
片想いが楽しいという言葉は納得できるところもあり、納得できないところもあった。
確かに同意はできるけれど、それがどれだけ苦しいものかも匠には分かっていたから。
「でも、前はちょっとだけ不安なところもあったの」
「んっ、何が?」
「平尾くん、待井さんとはよく喋ってたでしょ。だから特別な人なのかなぁ、って思って
て」
「はっ? そんなの、ありえないでしょ」
「うん、それが分かって安心できたの」
「あんなのと付き合ったら、体がいくつあっても足りないって」
間村はフフフッと笑顔を見せる。
「そういえば、最近あんまり待井さんと喋ってないね」
「あぁ、なんか俺のことが嫌いみたい」
「そうなの?」
「そう、っていうか元からなんだけどね」
「ケンカしたとか?」
「まぁ、近いかな」
「それは仲直りしなくていいの?」
匠は言葉なしにうなずく。
「ふぅん」
仲直りをしたくないわけじゃないが、ここでそうとは言えなかった。彼女との仲直りに
は、自動的に莉子との関係の修復も付属されると思うから。
莉子と元通りになるということは、間村と一緒にはいられない。つまり、一音と仲直り
するためには間村との関係を切ることと近似する。だから、間村の前で一音と仲直りした
いとは言えなかった。
「おはよう、北野さん」
「おはようございます、先輩」
季節はすっかり秋色に染まっていた、街行く学生たちもブレザーを着るのに慣れてきた
頃合。
莉子は待ち合わせ場所の映画館の前にいた、そこに見渡が定刻通りにやってくる。
「今日はかわいいね」
「えへへ、ありがとうございます」
莉子はニットカーディガンとシャツとロングスカートという、学生服とは違う洗練した
印象の衣装でいた。
「じゃあ、中に入ろうか」
「はい」
2人は映画を見て、食事をとり、買物を楽しんだ。関係は順調といえた、周囲も羨むよ
うな2人と見立てられて。
同時にただ1つ、どうしても進められない壁があった。
「・・・・・・すいません」
その言葉で、近づいていた2人の顔が離れる。
「ごめんなさい、そういうの大事にしたいんです」
自責の念に駆られ、申し訳なく言う。
「あぁ・・・ごめん」
行動を早まったと思い、思わず見渡は謝る。
2人の中にある壁は、莉子が一歩的に築いてしまったものだった。見渡が唇を合わせよ
うとすると、莉子は顔をそむけた。恋人関係になって2〜3ヶ月になる、見渡がキスしよ
うとするのは何もおかしなことではない。
なのに、どうしても莉子は受け入れられなかった。抱きしめられてるときでさえ、匠に
対する自分の想いに心苦しさが生まれてくるぐらいに。
匠だって同じだった、彼も間村に対してキス以上の関係になることはなかった。
ただ、それにも限界は近づいてくる。季節は冬を迎えようとしていた、全ての決断が必
要とされる大きな冬だった。
珍しい時間にインターホンが鳴る、時刻は20時を越えたばかりだった。
「ごめん、ちょっといい?」
「あぁ、いいけど」
玄関扉を開くと莉子の姿があった、予期しない展開に匠に動揺が生じる。部活帰りの制
服姿の莉子、夕食の準備中で部屋着の匠。
「・・・・・・なんか、久しぶりだね」
溢れるように出た一言に、莉子は笑みを浮かべる。
「あぁ・・・まぁ」
こうやって面と向かって話すのはあの日以来、4〜5ヶ月ぶりになるだろうか。だから
こそ余計に気になった、どんな用で莉子はここに来たのだろうかと。
「最近さ、あんまこうやって喋ることなかったよね」
「あぁ」
一音が4組に、右太が2組に来ることはあるが、2人が行くことはなかった。一音と右
太が意図的に顔を合わせなくてもいいようにしていたのは分かっていたが。
「廊下ですれ違ったりしても目が合うだけで、なんか変に他人行儀だったりしてさ」
「あぁ」
それでも、お互いのことは誰より気にかけていた。莉子は一音からそれとなく近況を聞
き出し、匠には右太の方が気をつかって話してくれていた。
「・・・・・・寒いね、大丈夫?」
本題に行きづらく、クッションをはさむ。
「あぁ、そっちは部活帰り?」
「うん、今度また練習試合があるの」
「へぇ、そういえば部長になったんでしょ?」
「うん、なんか嫌だったんだけど周りに推されちゃって」
「そりゃそうだろ、全国大会に行くようなのがいんのに他のやつを推すかよ」
「まぁ、すぐ負けちゃうような子だけど」
そう笑みをこぼすと、匠も不器用な笑みを見せた。
8月に行われた剣道の全国大会、莉子は1回戦で2本先取されてあっさり敗れた。相手
も全国区の選手だから、そう思えば簡単だが彼女には割り切れなかった。匠との関係が離
れて、見渡との交際を始めたときだったからこそ、結果が欲しかったのに。匠が応援にい
なくても、見渡が側で見てくれたら県大会と同じように力が出るという証明のため。
だけど無理だった、相手の強さというよりも自分自身が原因だったことは本人がよく分
かった。匠が見てくれてると意気込んだ県大会のときのような湧き上がるものが出なかっ
たから。自分の中にある匠への想いを断ち切る機会だったのに、逆に彼がいてくれないと
自分が出せないことを思い知らされることになってしまった。
それからというもの、莉子の中から匠が消えることはなかった。自分に目をそむけるよ
うに見渡とデートを重ねてきたが、もう限界だった。
「たっちゃん、間村さんとはうまくいってる?」
「まぁ・・・まぁまぁね」
莉子は内心ホッとする、ここで決定的な言葉が出ていたら萎縮してしまったかもしれな
いから。
「そっちこそ、どうなんだよ」
「うん、まぁまぁ」
匠の言葉を使わせてもらった、莉子は徐々に鼓動が早まっていくのを感じた。
「オジさん、いるの?」
「あぁ、今日は帰って来てる」
中から物音が聞こえたので、莉子にはそれが分かった。
「そうか、たまにはオジさんにも会ってみたいな」
「じゃ、呼んでくる?」
「ううん、また今度でいい」
3人になって、話が変な方にいっても困る。
今日は言わなければならないことがある、今日じゃないといけないことが。
「オジさんには、いろいろ教えてもらったよね。小さい頃は3人で川原とか行ってザリガ
ニとかカエルとか捕ったり、森とか行ってカブトムシやクワガタとか捕ったりしたもんね」
「あぁ、懐かしいな」
10年も前の話だ、でも今でも鮮明に思い出すことができる。2人で毎日のように遊ん
で、意味もなく走り回ってた。何もなくても楽しかった、2人でいられれば。
「オバさんがいなくなってから、ちょっと遠くなっちゃったよね」
「あぁ・・・まぁ、あのときはオヤジも落ち込んでたから」
匠の母親は彼が中学生のときに事故に遭った。そのときに命は落とさなかったが、結果
そのときの傷によって数日後に亡くなった。
それまでは匠と莉子を通して家族ぐるみの仲だったのに、それからはどことなく距離が
置かれてしまった。匠の掴みどころのない性格も拍車がかかって、莉子とも少なからずの
距離が開いた。
ただ彼女はそのままにしなかった、彼との関係が薄まってしまうのは嫌だった。
それから匠に遅刻が増えたことをきっかけにした、口実は何でもよかったから。いなく
なった母親の代わりに莉子が毎朝匠を起こしに行くことになったのは、その次の日からだ
った。
「たっちゃんも偉いよね、あれからちゃんと家事をやってるんだから」
「まぁ・・・誰かやんないといけないし」
母親が亡くなってから、平尾家の家事は匠がこなしてきた。父親はトラックで運送業を
していたため、週の5〜6日は夜から深夜までが仕事だったから。夕方に出掛けて深夜ま
で仕事をこなし、朝方まで仕事仲間と飲んで匠が学校へ出掛けた後に家に帰ってきて夕方
まで寝るという毎日だ。
中学生の匠はゼロからスタートした家事に毎日追われながら過ごしてきた。部活をやる
こともなく、放課後に仲間と街に繰り出すことも滅多にない。両親のいない一軒家で1人
過ごす日がほとんどだった、近くにいた莉子にはそんな彼の様子は分かった。周りの人間
には匠はやる気のないように映るだろう、本当は感情が足りてないだけなのに。多感な青
春の時期にもらえる多くの感情が与えられず、他よりも不器用に形成されてしまっただけ
なのに。
だから、彼のことを分かってあげられる自分が側にいてあげたい。何度も突っぱねられ
てるけど、それが本心じゃないと信じたい。
「そういえばさ、あのときの約束って覚えてる?」
「約束?」
匠は憶えてないようだ、そんなことぐらいは分かってたけど。
「私のことをお嫁さんにしてくれる、って言ったじゃん」
思いもよらない言葉に匠は驚く、目の前の莉子には悟られないように内に隠したが。
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったじゃんか、幼稚園の年長のときに。たっちゃんのお嫁さんになりたいって言った
ら、いいよって言ってくれたでしょ」
匠は当時を思い返してみるが、漠然とした景色しか浮かばない。
「記憶にないんだけど」
「そっちにはなくても、こっちにはあるの!」
少し強めに言った、彼に怒ってるんじゃなくて自分を奮い立たせるために。
「っていうかそんなの時効でしょ、お互い恋人がいるんだし」
「・・・・・・そんなことないよ」
はぐらかそうとした匠の瞳に映ったのは、切なさに瞳を潤ませている莉子だった。
彼女は少しずつ彼に近づいていき、20cmほどの距離で止まる。匠は急に襲ってきた
緊張にやられ、莉子は高鳴る鼓動をおさえられなかった。すぐそこに恋先の顔があった、
愛しくさが込み上げてたまらなくなる。
「・・・好きだよ・・・たっちゃん・・・」
不意に莉子の顔に母親がだぶった、そこに無償の愛情を感じられた。
「・・・大好き・・・」
言葉の後で莉子の瞳から涙が一つ流れると、匠は莉子の体を抱き寄せた。そこにはいら
ない感情は何もなく、ただ反射的に体がそうしていた。
お互いの背中に腕を回し、莉子はそこで泣き続ける。優しかった、恋先の体も、腕を回
した背中も、背中に回されてる腕も、顔を添えた肩も、顔に少し触れる髪も、なにもかも。
そのまま同化してしまいそうなくらい、自分の体は恋先とぴったり合った。
「・・・たっちゃんは?・・・」
「んっ?」
「・・・私のこと、好き?・・・」
こうしてるんだから分かるだろ、その浮かんできた言葉は口にしなかった。
「好きだよ」
匠の言葉が体中に伝わる、どんな病気でもやっつけてしまいそうな大きな力に思えた。
「・・・聞こえないよ・・・」
「嘘をつけ」
「・・・じゃあ・・・もう一度言って・・・」
「もう言わねぇよ」
「・・・お願い・・・」
「ぜってぇ言わねぇ」
「・・・たっちゃんの意地悪・・・」
「どっちがだ」
そう言い合うと、2人でフフッと相手の肩で笑った。
そのまま、3分は抱き合っただろうか。体を離すと、お互いに見合って訳も分からずに
笑った。
「たっちゃん」
「んっ?」
「もう1回、聞いてもいいですか?」
「何が?」
また好きかどうかを聞かれると思い、匠ははぐらかす。
「私をたっちゃんのお嫁さんにしてくれませんか?」
匠の予想は外れた、答えはもっと言いにくいものだった。
「それ、前に言ったんでしょ」
「だって、さっき幼稚園のは時効だって言ったじゃん」
しまった、余計なこと言うんじゃなかった。
「ねぇ、たっちゃん」
「・・・・・・いいよ」
莉子は喜色をおさえきれずにハニかんだ。
限界点をとっくに超えてる嬉しさに押されるように、莉子は匠にキスをした。唇を合わ
せるだけのキス、それで心臓はどうにかなりそうになった。彼からしてくれるのを待とう
としたけど、きっと夜が明けてしまうだろう。
2人の気持ちは通じ合えた、時間は掛かってしまったけれど。
翌日のクリスマスイヴ、匠は間村小鳥と、莉子は見渡当真と会った。もちろんデートを
するためじゃなく、自分の本当の気持ちを告げるために。
別れを告げると、間村も見渡も驚きの表情を見せたが執着はしなかった。間村も見渡も、
匠や莉子が自分に気持ちを寄せていないだろうことは感じていたから。
本当にタイムアップのギリギリだった、もう1日もないところだった。
一昨日の夜に一音からの電話がなかったら、莉子はきっと迷ったまま答えを出せずに今
日を迎えていたことだろう。
「イヴ、見渡先輩と約束してる?」
「うん、まぁ」
悩んだが、一音はあの無性に腹の立つ男の加勢をすることに決めた。あんなやつのため
に動くのは気に障るけど、これ以上2人がダメになるのはもっと嫌だから。
「あんた、それでいいの?」
「・・・・・・それでいい、って?」
「ごまかさないの、匠のことよ」
それを言われると、莉子は黙ってしまう。
「あんたが先輩を選ぶんならいいけど、匠がいいんなら今しかないんだよ」
「今しかない、って?」
「あんた、先輩に何も許してないんでしょ。明後日はイブなんだから、もうそういうわけ
にはいかないんだからね」
一音の意見は尤もだった、さすがにイヴの日に断ることは無理だろう。今まで4〜5ヶ
月も何もさせなかったんだから、向こうだってイヴの日こそはと思ってるはずだ。残され
たイヴの前日に、莉子は匠への想いに決着をつけなければならなかった。
匠も右太から同じような電話をもらっていた、彼も莉子と立場は同じだった。時間いっ
ぱいで2人は気持ちを合わせることが出来た、一音や右太も「手間取らせて」と言いつつ
喜んでくれた。
その喜びは1日ともたなかった。
匠は高校の校門に自転車を並び置き、莉子の来るのを座って待っていた。お互いの用件
が済んだら、一緒にどこかに行こうとここで待ち合わせていた。
「たっちゃん、終わったから今から行くね」
30分前に彼女から届いたメール、もうすぐ彼女も着く頃だろうか。
吹きつける寒風に身を揺らせてると、携帯も揺れた。なんとなく着信の相手は分かった
が、やはり莉子からだった。もうそろそろという電話だろうか、匠は出る。
「もしもし」
「・・・たっ・・・ちゃん・・・」
すぐに彼女の異変に気づいた、不安定な声をしている。
「どうかした?」
「・・・よく・・・分かんない・・・」
ヒーフーと荒い鼻息が聞こえる、呼吸がおかしかった。
「どうした? 何があった?」
「・・・なんか・・・いっぱい・・・人が見てる・・・」
電話口の声が細くかすれてく、「うぅ」とか「ぅん」とか辛うじて聞き取れるような小さ
な声もいくつか発している。彼女になにか起こったのは明白だった、匠は立ち上がって声
を強くする。
「今どこにいる? すぐに行くから!」
「・・・ぼやけてて・・・よく見えない・・・」
視界もやられている、只事じゃない。
匠は自転車に飛び乗り、どこかも分からない目的地へ全力でペダルを漕ぎ出す。
「他の人に変われるか? 人いっぱいいるんだろ?」
変わった人間から場所を聞き出せば、目的地は分かる。
「・・・たっ・・・ちゃん・・・」
「喋らなくていい! 他の人に変わってくれ!」
匠の言葉が聞こえないように、莉子は先を続ける。
「・・・ごめんね・・・」
「無理して喋んな! 今から行くから!」
「・・・たっ・・・ちゃん・・・」
そう匠を呼ぶ声はどんどん芯がなくなっていく。
「・・・好き・・・だよ・・・」
嬉しいはずの言葉が痛々しかった。
「・・・たっ・・・ちゃん・・・は?・・・」
「あぁ、好きだよ、好きだ!」
だから、そんな無くなりそうな声を出さないでくれ。
「・・・あり・・・がとう・・・」
匠の自転車はこれでもかというスピードで走っていく。彼女が見渡と会っていた場所か
ら高校までのどこかにいるはずだ、そう信じて。
「・・・だい・・・すき・・・」
莉子の言葉はそこで途絶えた、匠がどんなに叫んでも応えはなかった。電話口からざわ
ざわと人の声がする、彼女の言っていた周りにいる人間のものだろう。そのまま通話状態
を続けていると、やがてサイレンの音が大きくなってくる。救急隊員と思われる人たちの
やり取りが聞こえる、彼女は救急車に乗せられて運ばれていく。救急隊員の懸命な対応を
ただ聞くことしかできず、匠は街中で呆然と電話を耳にあてていた。
10分ほどで大きい声が止んだ、電話口ではピーッと聞き覚えのある一定音がしている。
自転車はその場に音を立てて倒れ、匠は頭を抱えてしゃがみこんだ。初めて味わう感情
に覆われて、とめどない虚無感に発狂するぐらい泣き叫んだ。孤独をからませて吹く寒風
なんて、気にも留めることができなかった。
匠が病院を訪れたのは数時間後だった、空はオレンジになっている。
ただ座り込んでいただけの時間は無でしかなかった、莉子との思い出を思い起こすこと
もできず。
その間、莉子の母親、一音、右太の順で携帯に着信が入っていた。重い腰を上げたのは
いいが、病院に行くのが怖かった。莉子に会ったら、現実を受け入れなければならない。
それでも行かないとならない、このまま逃げるわけにもいかない。今日会おうと約束し
たんだ、ちゃんと守らないと莉子も怒るだろう。
「・・・匠・・・」
病院に行くと霊安室に通された、扉を開けると一音と右太がいた。莉子の家族は、もう
通夜の準備のために後にしたところらしい。
一音も右太もこちらを見ても何を言うことはしなかった。今自分はどんな顔をしてるだ
ろう、きっと時化た面なんだろうな。
そう思いながら莉子のところまで歩いた、息をついて彼女の姿を見る。これといった印
象のない表情、顔は死化粧で白みを帯びていた。そんな彼女の姿を、無表情にただ見るこ
としか出来なかった。
「匠、これ」
後ろから突かれて、右太から渡されたのは見覚えのあるピンクの封筒だった。
「莉子のバッグに入ってたって、あいつのオバさんから渡しておいてくれって頼まれて」
そう言うと、一音と右太は気をつかって霊安室から出ていった。
モンチッチのプリントされた薔薇色の便箋に松葉色の文字、クリスマスを意識しての色
使いなのはすぐに分かった。莉子からの最後のLOVE LETTER、目を通していく
と涙があふれてきた。温かい手紙だった、冷えた匠の体と心を和らげてくれるには充分に。
それなのに、莉子のささやかな願いは叶えられなかった。
なんで、こんなに分かり合えるまでに時間が掛かってしまったんだろう。もっと早く、
自分が素直になれていれば彼女のこんな姿を見なくてすんだはずなのに。後悔は次から次
へ押し寄せて、返ることもなく匠の中に留まっていった。
「たっちゃん、メリークリスマス。
今日はなんだかドキドキしてるよ、楽しいデートにしようね。
たくさん話して、いろんなところ行って、手をつないで・・・後はなりゆきで。
今まで素っ気なくされてきた分、たっぷり甘えてやるんだから。
言っときますが、たっちゃんに拒否権はないのでよろしく。
そうだ、プレゼントだけど一緒に選ぼうかなと思ってます。
どうせ、たっちゃんは事前に用意してくるなんてことしないだろうし。
2人で一緒のものがいいな、ちなみにこれも拒否権はないのでよろしく。
まぁなんにしても、これからは2人で幸せになろうねっていうのが私の1番の願いです。
たっちゃんとなら、きっと出来るはずだから。
私のことを幸せにしてね、私も幸せにしてあげるから。」
匠は莉子にキスした、冷たくて切なくて淋しい唇が合わさった。
今作の本編は今回で終了となります。
次回のエピローグでラストとなります。