第4話
「た〜くみぃっ!」
「たっちゃ〜んっ!」
翌朝、窓越しに莉子の思いきりの声が響く。
中学生の頃から学校のある日は毎日、彼女の声が彼に届けられる。最初の理由は遅刻が
激増したから、起こしてあげる人間がいなかったせいで。さすがにマズイとふんだ莉子が、
毎朝家まで起こしに来るようになった。
ただ今にいたっては状況が少し変わる、彼女も自分の意思でここに来ている。彼を起こ
さないといけない使命感もあるが、ここしか1日で彼と一緒にいられる時間がないからと
いうのが1番の割合を占めていた。
「こら〜っ、起きろ〜っ!」
インターホンの連弾、玄関の乱蹴り、いまだ毎朝恒例の平尾匠と北野莉子の間接決闘。
2分10秒、この日は早めに平尾艦隊は沈没する。
玄関を開くと勝者が「おはよう」と言って迎える、敗者も「おはよう」と言って答える。
勝者はリラックスした弾むような言葉、敗者は寝起きの沈むような言葉で。
匠も毎朝、莉子の「おはよう」に「おはよう」やら「うん」やらで返答してくれるよう
になった。
少しずつではあるが、2人の関係も近づいていっていた。
シャ〜ッ、シャ〜ッ、2台の自転車が田園を裂くように伸びる一本道を並んで走る。こ
れまでは匠が前を走り、莉子が後ろを見張るように着いていくのが当たり前になっていた
のが、今は対向する車や自転車がないかぎりは並んで走るようになっていた。
吹きつける春風は緩やかで温かみを帯びて、2人の前から吹き抜けていく。
莉子は春が好きだった、その季節の持つものが自分の恋愛観に似ているから。夏の蒸し
暑さでもなく、秋の儚さでもなく、冬の肌寒さでもなく、春の穏やかさ。そんな母なる優
しい愛情を捧げてあげたい、母親のいない匠には特に。
あとは彼が心扉をもっと開いてくれればいいのに、莉子はそう息をつく。彼が変に突っ
かかってしまうところがあるから、こっちも素直になれないところもある。
中学のときからそうだった、匠はつかみどころの難しい性格になってしまった。今の生
活になってから、彼のひねくれ加減は一層に強くなった。中学時代にはそれをつかむどこ
ろか、離れていく一方になる。
それで、彼を追いかけるように同じ高校に入ることに決めた。本当はもう1つ上の高校
を狙えたけど、家から近いという理由にかこつけて今の高校にした。
時間をかけて近づいていければいいと思ってたけど、一音から気合いを注入されて目が
覚めた。このままじゃいけないんだ、弱い気持ちでいたら。もっとスピードを上げないと、
気紛れな匠は捕まえていられない。
「ほい」
信号待ちをしていると、匠は無造作にポケットから紙切れを取り出す。
「なぁに、これ?」
そう言っても、彼からの返答はなかった。その違和感のある空気に莉子は理解する、そ
の紙切れにあるのであろうものを。
「書いてくれたの?」
「・・・・・・誰にも見せんなよ」
信号が青になると同時に、匠は自転車を走らせていく。
莉子は紙切れをポケットにしまい、「待ってよっ」と彼の背中を追っていく。
「はいっ、これ」
一音がそう右太に差し出したのは、キレイにラッピングもされた包みだった。
「なに、どうしたの?」
スクールバッグも提げたまま朝一番で4組まで来るなんて、普通の彼女ではない。普通
の彼女なら、荷物も置いて時間が経ってから莉子への用事のついでという意味合いにして
来るはずだ。顔色も健康的な笑顔を浮かべるのが普通だ、なのに今の彼女は目線も逸らし
ぎみで居所のなさそうな感じにしている。
「作ったの、りんごのタルト。せっかくだから4人で分けようと思って、おすそ分け。」
「おぉ、ありがとう」
その声音も普通より何音か低いものだった、右太が彼女の心持ちを察するには充分なく
らい。
「家に帰ったら食べるよ、一音の作ったやつなら美味いんだろうな」
「当たり前じゃない、残したらぶっ飛ばすからね」
精一杯の捨て台詞、そこから離れると教室にいつのまにか来ていた莉子に腕を組まれて
外に連れ出された。
「今の、もしかして右太にプレゼント?」
どうやら莉子は来たばかりで、2人の話の内容までは伝わってなかったようだ。
「違うよ。お菓子を作ったから4人で分けようと思って、それで莉子に届けようと思った
らいなかったから右太に先に渡してたの」
「っていう、筋書きなんだ?」
「バカ言わないでよ、ほらっ!」
スクールバッグに入っていた、包みを莉子に突き出す。
「これがそうなんだ〜、何作ったの?」
「りんごタルト」
「おぉ、右太はりんごが好きだからね〜」
完全に形勢逆転、毎度一音にああだこうだ言われてきたうっぷんを晴らすようにイジり
まくる。
「言ってる意味が分かんないんですけど、もおぉっ!」
「アハハハ、かわいいよ、一音ちゃん」
脱力しきった一音は本当に可愛らしかった、いつもの突っ張った彼女とは違うのがまた
新鮮に映って。
「じゃんじゃじゃ〜ん」
一通り一音を揺さぶると、莉子は宝地図のように大切そうに紙切れを見せる。
「何よ、それ」
当然、一音にとってはそれは紙切れにしか映らない。
「たっちゃんからの返事で〜す、また手紙書き出したって言ったでしょ?」
「うそっ、返事ってマジ?」
「返事欲しいみたいなことを間接的に書いたの、そしたらくれたのっ!」
莉子は飛び跳ねるようにあどけない笑顔をする。
「匠のガラじゃないねぇ、ゴーストライターとかじゃなくて?」
「ちょっと、怒るよ」
「はいはい、ごめんなさい」
ニヒヒッとニヤついた顔で莉子は紙切れを眺める。
「この前にやった身体測定、眠くてだるかった。
身長は173cm、体重は58kg、スリーサイズなんか聞いても気持ち悪いだけだろ。
勉強は下の中らしい、得意科目は数学、苦手科目は理科、基本的に全て苦手。
数学だけは毎回勝ってるけど、一つぐらい勝たしてくれ。
食べれるようになったものは特になし、食べれないものに無理にトライする気はない。
一流レストランででも食べたら違うんだろうけど、俺には無縁の話。
音楽はロックが大体、NIRVANAは文句なしでアガれるからよく聴いてる。
他には、ガンズとかレッチリとかリンキン・パークとか。
ヴァネッサ・カールトンの「サウザンド・マイルズ」っての、正直知らない。
そんな良いんなら借りてやるから、いつでもどうぞ。」
言葉遣いに問題があるのは大目にみよう。授業内容も必要最小限にしかノートに取らな
いんだから、こうやって誰かに文章を書くなんて滅多にないはずだ。なにより、こうやっ
て返事を書いてくれたことが喜ばしいことなんだから。
「ねぇ」
「んっ?」
紙切れにニマニマしていると、一音に現実に呼び戻される。
「それ、見せてくれるとかじゃないの?」
「いや、見せないけど」
「はっ? それを貰ったってことだけ言いに連れ出したの?」
「そうだけど、何か問題あった?」
「ちょっと待ってよ、そんなこと言われたら中味が気になるに決まってるでしょ」
ましてや匠が書いたものとなれば、どんな内容かは余計に気になる。
「ダメだよ、誰にも見せないように言われてるんだから」
「いまさら何言ってんの、いいから見せなさいよ」
一音は紙切れを奪おうと、莉子に攻め寄る。
「ヤダっ、これは見せないもん」
なにがなんでも見せない、これだけは。
匠に見せないと言われたからというより、この紙切れを匠と自分との2人だけのものに
したかった。
「はいっ、これ」
「んっ、何これ?」
別に、といった表情で一音は包みを匠へ差し出す。
「りんごのタルト、食べたきゃ食べていいよ」
まるで、愛情のない飼い犬にエサを与えるように言う。
「お前、凝ったもん作るよなぁ。タルトなんて、俺の人生で1回食ったことあるかどうか
だぞ」
「まぁ、そうでしょうね」
気持ちのない言葉、反発し合ってるわけではないけれど通じ合ってもいない。
「でっ、右太に作ってきたわけ?」
「うん」
匠は瞬間止まった、ここは「そんなんじゃないわよ」と否定が入るはずなのに。
「あれあれ、今日はやけに素直じゃない」
「悟ったのよ、あんたと無理に言い合いしたって何の得もないって」
「ふぅん、それはそれで寂しいんじゃない?」
「心配御無用、ちっっとも寂しくなんかないから」
一音の虚勢を見透かすように匠は笑みを見せる。
「莉子にも渡したの?」
「全員に作ったってことにしたからね、一応あんたにも渡しとかないと」
そうだ、一音は思い出す。
「あんた、莉子に手紙の返事書いたんだってね」
「・・・・・・見たんか?」
「見た、こっ恥ずかしいこと書いてんね〜」
ムフフ、わざと匠の不快に触れるように一音は笑う。
「あのバカ、見せんなって言ったのによぉ」
書かなきゃよかった、そう後悔する。
「うっそ〜ん、ホントは見てませ〜ん」
「ウソ?」
「うん、見せろって言ってんのに「見せない」の一点張りだったよ」
「なんだよ、おどかすなよ」
匠が崩れるように言う。
「どういう風の吹き回しよ、らしくないことして」
「知らねぇよ、書けみたいに言われたから書いただけだよ」
「何を書いたかは分かんないけど、莉子嬉しそうだったよ」
ふぅん、匠は関係ないといった態度で受け流す。
「ねぇ、よかったら莉子にこれからも返事書いてあげてよ」
「はぁっ? やだよ、そんなの」
「なんでよ、いいじゃない」
「苦手なんだよ、こういうの」
「でも、それで莉子は笑顔になれるんだよ」
「知らねぇ、って言ってんだろ」
「2行でもいいから、4行でもいいし」
「増えてんじゃねぇかよ」
また毎度の流れかと思ったところで、匠の手の甲に一音の手のひらが乗る。
「お願い、あの子ともっと向き合ってあげて」
真っすぐな瞳だった、彼女にそんな瞳で頼まれるのは初めてで違和感すら生じた。
「お願い」
そんなこと言われても、それが匠の本音だった。
「・・・・・・適度にな」
匠の負けだった、一音といえど女からの頼みごとには弱い。
「絶対だよ、嘘ついたら防具なしで莉子に竹刀で頭打ち抜いてもらうからね」
「脳震盪じゃねぇかよ」
そうは言いつつも、匠も少しずつ感じてる部分ではあった。
莉子が正面から向かってこようとしてくれてるなら、こっちだって考えないといけない。
ちぐはぐはするだろうけど、何かしら進めていく必要がある。
その日から、匠も1週間に1〜2回ほど返事を書くようになった。
といっても、莉子から送られる文章への返事ぐらいで、匠側から話題が出ることはほぼ
無かったけれど。
莉子のピンクの封筒に入ったものに対し、匠はノートのはだかの切れ端。莉子のカラフ
ルな便箋とカラーペンに対し、匠は鉛筆で適当に書いたようなもの。莉子が毎夜躍るよう
な心持ちで玄関ポストに入れるのに対し、匠は毎朝「ほらっ」と不躾といった感じで渡す。
両極端と思えるほど温度の差がみられるのに、そのやり取りは莉子の心を満ち足りたもの
にさせる。
「たっちゃん、こんばんは。
今日はなんだか涼しい日だったね、気温の変動が多いから体調には気をつけて。
たっちゃんの体は敏感だから、体の中は真逆なのに・・・プププ。
そうだ、一音のりんごタルトはもう食べた?
私はさっき食べたよ、味はいつもいつものはなまる。
ホントに毎回ハズレがないよね〜、右太は幸せ者だよ。
たっちゃんは食べれるようになったもの、ないのかぁ。
そういうの挑戦しないタイプだしね、石橋は叩いてから渡る匠くん。
まぁ、食べれなくたって日常生活に支障はないから問題はなし。
ヴァネッサ・カールトン、知らないんだね。
そんじゃ、聴いてやる匠くんに貸してやるとするか。
ロックバカのたっちゃんにこの繊細さが伝わるかは微妙なところですが。」
「一音のりんごタルト、夕食のときに食った。
甘ったるいけど、美味しいは美味しかった。
たまには甘いものもいいなと思った、あいつの性格もこんぐらい甘くなればなとも。
ヴァネッサ・カールトン、聴いた。
良かった、こういうのも結構好きだから。
ロックを聴いてる分、逆にこういうのも聴きたくなったりするし。
当分は借りとくわ、返さなかったらごめんな。」
「たっちゃん、こんばんは。
って、借りたもんは返さなきゃダメでしょうが!
昔っからそういうとこ緩いよね、被害を受ける方の身になってみなさい。
CDがなくなった、ゴムボールを林の中に入れちゃった、ヘッドフォンを泥水に落とし
た、数え出したらキリがない。
第一、どうやったらヘッドフォンを泥水に落とすっていうの?
逆に、ものすごく器用な人なんじゃ、って思いたくなっちゃったよ。
ゲームソフトなんか、私が貸したやつを他の人に貸して返ってこなかったでしょ。
他の人に貸すんなら、「貸していい?」の一つくらい言いなさい。
あっ、説教じみちゃってる・・・あんま長いと嫌がられそうだから、このへんで。
仕返しの先取りってゆうんじゃないけど、今日一音から叱られたでしょ?
バレちゃってると思うけど、たっちゃんの言ったこと一音に言っちゃいましたっ。
そう、「あいつの性格もこんぐらい甘くなればいい」ってところ。
違うの、「美味しいは美味しかった」ってのを伝えようと思ったら口が思わず・・・・・・。
私の口は案外すべりやすいようです、ナハハハハ、こうなったら開き直りなのだ。
冗談半分で言ったつもりなんだけど、彼女には冗談が通じなかったようで。
こと平尾匠に関しては、彼女は冗談を本気と感じ取るらしいです。
勉強になりましたね、ウンウン。
・・・・・・っていうか、ごめんなさい。」
「別にいいよ、あいつに怒られるのは慣れてるから。
面白いぐらいだし、「私がいつ怒ったっていうのよ!」って怒ってるんだから。
右太も大変なこった、これは言うなよ。
この前、水泳の授業でプールにいたの教室から見えた。
窓側の席だし、授業にも集中できなかったからボウッとしてて。
友達とやらの言ってたやつ、お前のスタイルが理想的だっての。
遠目からだからよく分かんなかったけど、まぁまぁってとこだな。」
「たっちゃん、こんばんは。
って、授業中に何を見てんの!
人の水着姿なんて見てないで、授業に集中しなさい!
それに、まぁまぁとか大きなお世話だよ!
一音のは言ってないよ、心配性だなぁ・・・誰のせいだ、って聞こえてきそうだけど。
滑り止めの薬を口に塗っておいたから、もう大丈夫。
一音はああだこうだ言うけれど、私はちゃんと知ってるよ。
たっちゃんが私たちの持ってないものをたくさん持ってるって。
一つ挙げるんなら、やっぱり家事かな。
その年齢で一軒家の家事を毎日こなしてるんだから拍手です。
学校が終わったら、スーパーに寄って、大きい袋を提げて帰宅。
家に帰ったら、洗濯、掃除、料理、女の子みたいに献身的にこなして。
あぐらかいて家計簿つけてるのも知ってるよ、多分数学好きはこういうとこにも表れて
るんだろうね。
簡単にまとめてゴメンだけど、私はたっちゃんのこと分かってるから。
・・・・・・そう、三度の飯よりエッチなことが大好きな変態くんってこともね。
さてさて、気分転換に今日は私しか知らないたっちゃんについて話してみましょう。
小学生のたっちゃん、一目散のことを「イチモクさん」と勘違い。
アニメを見てるときに「一目散に逃げた」ってナレーションがあったとき、「イチモクさ
んって誰?」と聞いたのを覚えてるでしょうか。
私はあなたの言ってる意味が分かりませんでした、今も分かりたくはありません。
中学生のたっちゃん、初ナンパが散々な結果に終わる。
クラスの友達5人ぐらいで夏のビーチにくり出したとき、片っぱしから見た目のいい大
人の女の人に声を掛けていって全敗に散ったのを覚えてるでしょうか。
覚えてるでしょうね、っていうか絶対に無理だって。
中坊の男の子に本気になってくれる女の人なんて、いないいない。
タイトルは「あわよくばツアー」だったっけ、張り切ってる分だけ悲しくなるよ。
高望みなんてするもんじゃないね、身の程を知りなさい。
高校生のたっちゃん、「一杯つきあって」に対して本当に一杯で帰る。
お正月に親戚一同が集まった席で大人の席に無礼講とたっちゃんも出席、ただ酔ってい
く大人たちに引いてしまったため、「一杯つきあってよ」と言われたのに本当にビール一杯
で子供たちのいる別室に移動したのを・・・覚えてるよね、まぁ。
がっしかし、普通「一杯つきあってよ」の一杯は一杯ではないわけです。
サラリーマンが上司に「一杯つきあって」と誘われ、一杯で帰ったら間違いなく怒られ
るわけで。
とは言いつつ、これに関してはたっちゃんが正解だと思います。
私もああいう席の大人の騒ぎっぷり、勘弁だから。
お年玉だけ貰ったら、逃げるように子供たちの席に行きます。
飲んだくれに愛想ふりまくより、従兄弟や甥っ子や姪っ子とたわむれる方が数倍楽しい
し。
意外なたっちゃんの弱点、玉子が食べれないこと。
苦手の理由は「意味が分からない」、私からすれば匠の言ってる意味が分からない。
あんな美味しいのに、私の人生の中でも玉子が食べれないのはあなただけです。
ケーキとか、分からないようになってればいいんだけどね。
玉子料理が全滅ってだけで、ずいぶん多くの料理を楽しめない現実。
オムライスは中味だけ、っていうかケチャップライス。
ハンバーグに目玉焼きも乗せられない、あんなベストマッチを。
親子丼、カツ丼、ロコモコ、かに玉、茶碗蒸し、おでん・・・挙げだせばキリがない卵
料理。
食べれるようになったほうがいいよ、と言っても聞かないのでしょうね。
それはたっちゃんの中の忌まわしい過去、ウィズ私。
小学生のときに玉子豆腐をまだ知らなかった匠少年に「これ、玉子入ってるけど美味し
いよ」と食べさせてしまった莉子少女。
結果、吐いてしまった匠少年・・・ホントにごめんなさい。
たっちゃんの玉子嫌いに、私もちょっと加担してると思うと心苦しいです。
案外イケるもんだろうと思った浅はかな私の考えです、騙されたと思って食べて騙され
た匠少年。
あぁ、可哀相な平尾匠くん・・・でも、さすがに変わってあげたくはありません。
私のことを恨んじゃダメだよ、恨むのは自分の味覚にしなさい。
本人も目にしてない癖、寝てるときに最低2回は寝返りをうつ。
伝えてはあるので知ってはいるけれど、本人は目にすることができない行動。
小さい頃はお互いの家に泊まったりしてたでしょ、月に1回ぐらいだっけ。
子供部屋で2人で寝てるとき、たっちゃんはよく寝返りをうってました。
寝苦しいんでしょうか、まさか霊的なものとか・・・・・・。
ひゅ〜、どろろろろろ・・・今日、たっちゃんは寝るときに怖くな〜る。」
莉子が思うような速度ではなかったが、確実に2人は距離を縮めていく。
思春期に離れていった距離を1つ1つ確かめながら紡いでいき、季節は夏を迎えた。
紡がれていった2人の距離は、ここで大きく変わることになる。
1学期の終業式、刺さるような射光を浴びながら雪崩れるように教室まで辿り着く。
自分の席が日陰になっていたのは好運だった、いくらか冷えてる机に顔をなするように
して涼む。机の中も有効に使う、手をそこに付けて冷やしているとカサカサと触れる音が
あった。
取り出すと、それは白の封筒に入った手紙だった。匠はすぐに莉子の顔が浮かぶ、ただ
それにしてはシチュエーションも封筒の色も違う。疑問符をともしながら封を開くと、周
りにバレないように中味を見た。
「終業式が終わったら英会話室に来てください 間村小鳥」
その名前を目にすると、本人の方へ視線を向けた。彼女は友人たちと談笑している、こ
っちを気にしている様子は見られない。
逆に匠の方が彼女を気になってしまう、終業式の間も何度か目線を向けていた。
式が終わると、手紙に書かれていたとおりに英会話室に匠は行った。扉を開けると彼女
はすでにそこにいて、こちらを見たり見なかったりを繰り返す。
「ごめんね、呼び出したりして」
「いや、いいけど」
そこから喉が詰まったように、言葉が止まった。匠の側から言い出すことはなかったし、
急かすこともしなかった。
「あのぉ・・・・・・」
目の前の間村小鳥が緊張してるのは簡単に察することができた。目線を合わせたり合わ
せなかったり、不定な間隔で息をついている。
なにか手の込んだイタズラなのかと踏んでいたのに違っていた。傍から誰かが2人を見
ていて自分の反応を面白がってるのだろう、というドッキリではなかった。
それに気づいた途端、匠も急に体が引き締まっていく。
夏休みに入ったばかりの学校は、それまでに比べると異質な雰囲気になる。校庭や体育
館、プールや柔道場や剣道場では朝から活気があふれている。野球部やサッカー部の張っ
た声や撒き上がる砂埃、バレー部やバスケ部の上靴が床と擦れる音やボールの弾む音、水
泳部のスタートとともに飛び込む音や舞い散る水しぶき、柔道部の威勢のよく畳に投げつ
ける音、剣道部のしなる竹刀で打ち抜く音。それぞれが青春の場面と音で流れていく、対
称的に誰もいない無音の教室には哀愁すら感じる。
「北野、ちょっといい?」
部活終わりに防具を片づけていると、莉子は先輩に呼ばれる。なんだろうと後を着いて
いくと、誰の姿もない剣道場の裏だった。やかましいくらいにセミの鳴き声がする、練習
中の剣道場にもBGMのように響くほど。
「どうしたんですか、先輩」
莉子から話し出すと、先輩は爽やかな顔をしていた。
「北野、実は・・・・・・」
あらたまったように顔色を変えた先輩に、莉子も何かを感じ取った。
公園を入ったすぐ右手には、ホウセンカの花々が鮮やかな赤色を放っていた。
レンガが敷き詰められて出来たいびつな道の先へ行くと、左右への選択権をせまる分岐
点を匠は右の道を選ぶ、それに続いて莉子も右へ曲がる。
左右の道に挟まれるように拡がる緑の草地では、子供たちが何をするということでもな
いのにキャアキャアはしゃいでる。それを見守るように、大人たちも近くのベンチで世間
話でも話している。
切り絵で描くハサミの切り取り線みたいに続く曲がりくねった道を歩いていると、段々
畑のように連なっている雲の間からさしこむ日差しが体に直にあたる。
この日の気温は28℃、もうじき梅雨が明ければ夏も本番になるだろう。夕暮れに差し
掛かる時間帯になり、セミの鳴く声もあちらこちらから聞こえてくる。今までの時間、家
の中でクーラーのある世界に慣れていた匠の体は違和感を憶える。それに対し、部活で稽
古をしていた莉子も運動で発汗作用がよくなっていたようだ。Tシャツにジーンズを着て
いた匠も、制服を着ていた莉子も汗がじわじわと滲んでくる。
白や灰色、ところどころの黒という色合いの連なっていく砂利道を歩き出して10分ほ
どになると、入口で左右に分かれていた2つの道が繋がる砂利道の終着点、公園の奥行き
も最後をむかえる。
その砂利道を抜け、ガサガサと行く手をさえぎるように木々が横一列にそびえている草
地に足を踏み入れていく。目の前の木々の隙間をかいくぐりながら先を行くと、その先の
別世界が今日も2人を待っていた。
一面の緑地、そこを貫流していく野川、川を挟むように伸びている紅葉の木々。心を動
かされるような、自然に彩られた景色が目の前に広がっている。
歩を進ませていくと、野川に差し掛かる傾斜に2人で座った。
夕暮れになって和らぐ射光、透き通る野川のせせらぎ、緑々と生い茂る草木。この季節
が1番その匂いを感じられる、それぞれが大きな力を発して生の力を強くさせている。艶
が見やれるぐらいの自然に心を清らかに洗ってもらい、新たな心持ちにさせてもらえた。
「あのさぁ」
2分ほどの沈黙の後、ほぼ同時に言がなされる。
どうぞ、どうぞ、決め事のようにお互いに譲り合ってから莉子が口を開く。
「今度、剣道の県大会があるの。来週の土曜日と日曜日なんだけど、私は個人も団体も出
ることになってて。そのぉ・・・要は、観に来てくれないかなぁってことなんだけど」
匠は少し悩む様子を見せ、
「いいけど」
と答えた。
その答えに、莉子は表情をやわらげる。
「よかった、ありがとうね」
「いや、別に」
その表情の柔らかさの分だけ、匠は胸を痛める。
「でっ、そっちのは?」
「んっ?」
「たっちゃんのだよ、なんか言うことあったんでしょ?」
「いや・・・特にないけど」
匠は決まりの悪そうな顔を浮かべている。
「なぁに、ちゃんと言ってよ」
「何でもない、ただ腹が減っただけだから」
「もう? まだ来たばっかりじゃんか」
「いいよ、帰りがけに何か食べれば」
そう言うと、匠は傾斜に寝転がって目をつむってしまった。
なぁんだ、莉子もそう息をついて寝転がる。
それから1時間、匠が目を覚ますまで莉子はその顔を見ていた。そこにいるだけで、そ
ばにいるだけで、温もりに触れられてる気がした。何を言うわけじゃなく、何をするわけ
じゃなく、横にいるだけで自然に顔が微笑んでる自分にも気づいていた。