第2話
この日の太陽はピーカンに元気だった、よっぽど楽しいことがあったんだろうな。学校
の周りには目立った建物もなく、日光は直射的に降り注ぐ。こんなときは窓側の席の匠が
羨ましい、中央寄りの莉子の席でも充分ではあるけれど。
そんな現状を知ることもなく、ワァワァうるさくしてる平尾匠は客観的に見ると実にバ
カに映る。なんも変わってないようだ、体だけが大きくなった子供みたいな印象。それで
いい、あのバカな感じが私の知ってるたっちゃんだから。
「よかったぁ、おいさんに感謝だよ」
林部右太が感謝の言葉を言う、北野莉子の読みは見事的中した。
「よく憶えてたね〜、匠くん」
「そりゃお前、同じ失敗をするなんてボンクラのすることだよ」
「いやぁ、持つべきものは友達だ」
しみじみと右太は匠の手を握る。
匠は莉子の方に目を向ける、彼女はムフフと笑みを浮かべていた。それに、彼は口角を
上げただけの不器用な笑みを浮かべる。この手柄は自分のものじゃない、その事実がある
ので素直には喜べなかったから。
「3時限目は日本史、先週はプリント忘れてたから持って来るように。
右太も一緒になって忘れたから、2人して隣の席の女の子に見せてもらってたよね。
机はピッタリ合ってるのに、体は遠慮がちに離れてて、傍から見てて不恰好すぎて笑い
そうになっちゃったよ。
あんな悲惨な姿を見られたくなかったら、ちゃんとプリント持って来なさいね。」
朝、これを見てなければ、匠は右太と同じ状況になっていた。先週と全く同じシチュエ
ーションに陥り、自分の不甲斐なさを責める1時間になっていたことだろう。
こればかりは彼女に感謝せざるをえない、そんな日々が続いていた。
莉子から匠への手紙は週5日、あの日から途切れることなく送られている。月曜から金
曜、学校がある前日の夜にピンクの封筒は平尾家の玄関ポストに投函される。翌日の時間
割に対する持ち物、それに簡単な言葉を添えてという内容。
この「簡単な言葉」が莉子にとっての重要部分だった、毎度ここで頭を悩ませる。何気
ないことを書けばいいんだけれど、それが難しくてたまらない。普通といっても、普通す
ぎてもつまらない。普通の中でも面白味のあるもの、そのハードルは思ったよりも高い。
なんとか平尾匠の心に少しでも響くものを、その試行錯誤がいつのまにか莉子の日課にな
った。
単なる連絡事項を知らせるための手紙、冷めて見ればそう映るかもしれない。実際、匠
の方からすれば、そういう捉え方で受け取っているのかもしれない。ただ莉子からすれば
それは違った、彼女にとっては想いを宿している大切な手紙。
純な想いを乗せたラブレター、そういう括りができた。
「あぁあ、誰のおかげで忘れ物が減ったと思ってるんだろうね〜」
ため息のように待井一音がつぶやく。彼女には、匠への毎日の手紙の存在を伝えてあっ
た。ここぞとばかりに、「ラブレター? にくいね〜、莉子ちゃん」と責められたけれど。
「いいの、いいの、これで少しは内申書もよくなるでしょ」
「健気だね〜、泣かせるよ」
「何言ってんのよ、お互い様でしょ」
「いっそのことさ、好きって書いちゃえばいいのに」
「だっ、ダメだって、そんなの」
「どうして? いつかは伝えなきゃいけないもんでしょ」
「でも・・・・・・」
そう莉子は声を小さくしてすぼんでしまう。下に視線を向けると、両頬を摘ままれて無
理やりグッと上げられた。
「伝えなきゃ伝わんないよ、あんなバカ。いつまでたっても平行線、そのまんま卒業にな
ってもいいんですか?」
ワイドショーのリポーターみたいに空マイクを向けられる。
そっちだって一緒でしょ、そう言ってやりたかったけどシッポを巻いて逃げるみたいに
思えてやめた。
「ん〜っ、時期だよ、時期。大事でしょ、タイミングって。ちょっとずつ、ちょっとずつ、
事を重ねていくもんだよ」
そう、パスを1つ1つつないでいけば、やがて相手のゴール前までいける。思い切った
ロングシュートだってアリはアリだけど、可能性が低い。堅実にいこう、そっちの方がき
っといい。匠みたいなひねくれ者、強引にしたって余計に閉ざすだけだ。
少しずつ、少しずつ。
夜、一日の家事を終えた匠は2階に上がる前に玄関に寄る。玄関ポストを開くと、いつ
ものようにピンクの封筒が1つあった。それを手にして自分の部屋に向かう、彼にとって
もこれが毎日の恒例となっていた。
部屋のベッドに倒れこむと、また起き直して封を開く。モンチッチのプリントされたか
わいい便箋、これと文字は日によって色味が変わる。今日は苗色の便箋に紫の文字、こう
いうところに気を遣うのは女の子だなと思う。
「明日からいよいよ学年末テストだね。
きっと、たっちゃんは最後の悪あがきという名の徹夜勉強に挑むんでしょう。
まぁ、途中で力尽きて泣きを見るっていうのがオチなんだろうけど。
右太に山勘はってもらってるだろうから、あとは暗記だけかな。
ちょっと離れたとこから応援してるから、せいぜい頑張ってね。」
「応援してんのか、してないのか、どっちだよ」
そう独り言をつぶやく。
窓を開けて外を見やる、遠目に見える北野家の莉子の部屋はまだ明かりが点いていた。
昔はこの距離を使って遊んだりしたもんだったな、と思い起こす。蛍光ペンはどんぐら
い光るのかって、「夜に蛍光ペンで紙に文字を書いて窓から出して相手の家から読めるか」
とか。読めるわけないってのに、子供だって分かる常識問題をアホみたいにやっていた。
懐かしいな、そう夜の街を眺めながら感慨にふける。
今だって充分に楽しい、それはそうだけど昔には敵いやしない。無条件で全てが楽しか
った、そんな時期はもう抜けてしまった。どんなに成績が悪くても、どんなに奇天烈な行
動をしても許される年じゃあない。そう思うと、ちょっぴり切なさを憶えた。
だんだんと自由は面積を失い、行き場を探して迷うようになってくる。何かを犠牲にし
てでも自分から取りに行かないと、差し伸べる手も届かなくなっていってしまうんじゃな
いか。そんな危惧も生じた、青春時代の特有の悩みは例外でなく匠にも降りかかる。
「いや〜、今回も見事なまでの撃沈ぶりでしたねぇ」
机で死んでる匠に、毎度おなじみの言葉が右太から掛けられる。
国語総合が56点、数学一が68点、数学Aが79点、英語一が39点、英会話が52
点、倫理が66点、地理が51点、化学が32点、理科総合が40点、保健が78点、平
尾匠の学年末テストの結果。
「期待を裏切らないという意味ではさすがですよ、おいさん」
「・・・・・・うっさい、死ね」
静かに毒づく匠に、ポンポンと右太が背中をたたく。
国語総合が89点、数学一が77点、数学Aが83点、英語一が86点、英会話が94
点、倫理が80点、地理が82点、化学が70点、理科総合が85点、保健が97点、ち
なみに林部右太の学年末テストの結果。
「でもよかったじゃないですか、今回はギリで赤点クリアしてるんだから」
「・・・・・・今、お前に何を言われてもムカつくので黙っててください」
一緒に学校でバカやってるはずなのに、歴然とつく大差。おそらく、右太は家に帰った
ら性格を変えたように勤勉家に変身するのだろう。仲むつまじい両親に勉励的な息子、絵
に描いたような一家だ。朝食は例にならったような和食、おやつはケーキと紅茶、夕食は
煮込みハンバーグ、そんなところか。
嫉妬したところで、朝起きたら家庭が入れ替わってるなんてドラマみたいなことにはな
りやしない。
現実だ、現実を見ろ、現実を生きろ、そう自分に発破をかける。
やれやれ、完全に自暴自棄におぼれる匠に、右太は莉子と一音に白旗を振る。
「まぁただよ、あの連戦連敗くん」
頬杖をついて冷静に見やる一音に閑散的な笑みを浮かべる莉子。
「どうして学習しないかねぇ、毎回毎回あんな生死の淵に立っておいて」
国語総合が78点、数学一が63点、数学Aが72点、英語一が82点、英会話が90
点、倫理が83点、地理が75点、化学が61点、理科総合が68点、保健が94点、ち
なみに待井一音の学年末テストの結果。
「いいんじゃないの、たっちゃんらしいし」
国語総合が92点、数学一が62点、数学Aが68点、英語一が84点、英会話が92
点、倫理が80点、地理が72点、化学が75点、理科総合が72点、保健が94点、北
尾莉子の学年末テストの結果。
「甘えないの、そんなんだから匠が育たないんでしょ」
「私のせい?」
「夫婦連帯責任、旦那のケツをたたくのも女房の仕事よ」
「夫婦じゃないし」
「例えでしょ、いいから勉強教えてあげるなりしてあげればいいじゃん」
「教えるって・・・どうやってよ」
「君は可哀相な子だね〜、お姉さんが家庭教師してあげるよ〜って」
「そんなん言ったら、100%キレるに決まってるでしょ」
「ウソ、ウソ、そうにしても良いきっかけになるかもしれないでしょ」
「きっかけ?」
「取っ掛かりになるじゃん、匠に近づく。勉強じゃなくてもいいよ、あんなの隙だらけな
んだからいくらでもあるでしょうに」
「取っ掛かりかぁ・・・・・・」
そういえば、もう明日からは授業がない。それはイコール匠に手紙を書く理由がなくな
るわけで、莉子は急に寂しくなった。
始業式まで辛抱しないと、そう思ったけれど間違いに気づく。2年生になってクラスが
別になったら、時間割も当然変わってくる。それこそ、手紙を書く理由がなくなってしま
う。
そのことが分かると、どっと心内に波が押し寄せるようになった。どうすればいいんだ、
せっかく匠と距離を縮められる要素ができたのに。
取っ掛かり、匠と自分を繋げられる何かがないだろうか。
夜、一日の家事を終えた匠は2階に上がる前に玄関に寄る。玄関ポストにあるピンクの
封筒を手にすると、自分の部屋に向かう。
「親父、電気消して、自分の部屋で寝ろよ」
「んっ、あぁよ」
リビングのこたつでチビチビと日本酒を飲む父親におやすみ代わりの言葉を言う。酔い
のせいで丸く縮こまった背中は小さく感じ、感応する部分はあった。自分もやがてはああ
なるのかな、今の自分だってその過程にいるんだろうな、そう思って。
部屋のベッドに倒れこむとピンクの封を開く、今日は蒲公英色の便箋にスカーレットの
文字だった。
「たっちゃん、学年末テストは散々だったみたいだね。
右太から聞いたけど、赤点はなかったみたいだからセーフちゃあせーフかな。
相変わらず数学だけは良かったみたいで、数学が苦手な私にはたっちゃんの頭の中の構
造が理解できません・・・なんつって、エヘヘ。
そんな傷心のところでゴメンだけど、今日は私からお願いがあります。
明快に言ってしまうと、私の剣道の試合を見に来てほしいんです。
たっちゃん、今まで1回も見に来てくれたことないでしょ。
家の事をやらなきゃいけないとか、友達と遊ぶ約束してるとかで。
もしかしたら、最近は余裕があるのに避けられてるのかもしれないけど・・・・・・。
今週の土曜日なんだけど、もうテスト休みに入ってるから多少は時間つくれるでしょ。
四校との練習試合で、私は個人も団体も出ることになってます。
たっちゃんがOKなら、詳しいことは後で教えるんで前向きに検討しておいてくださ
い。」
剣道の試合、そういえば1回も見に行ったことなかったな。小学校の習い事のときなら
ともかく、部活でやりはじめてからは意識もあった。思い込みかもしれないが、なんか女
のケツを追っかけてるみたいで応援は気が引けた。自分がそれに見合うぐらいの肩書きが
あるならいいが、帰宅部じゃ背中は丸まるばかりだ。
どうしようか、行くか行くまいか、匠は天井を向いて目をつむりながら考えた。
翌日、部活終わりで少し濡れた髪をなびかせながら、莉子は自転車を走らせる。
この時間になるともう辺りは暗くなり、その中を独りで進むのは正直怖かった。のどか
な街であるからこその静けさも、このときには敵になってしまう。正直どこかに蛙や虫が
いても分からないし、実際に小虫を潰してしまったこともある。ブッという僅かばかりな
のに確かな感触があり、何を踏んだのかと見てみると小虫の潰れた跡があった。夜の暗闇
に訳のわからない液を流した小虫の死骸、それはもう気色悪いことといったらない。
住宅地を分ける一本道を軽快に進んでいく、左に自宅がある曲がり道を右に折れると平
尾家はすぐそこにある。
表札の前に自転車を停めると、気持ち高鳴る鼓動を静ませて玄関に向かう。玄関扉の前
にくると扉に挟まれたノートの切れ端を見つけ、それを開く。開いた結果、どういう言葉
が待っていてもいいように覚悟は決めておいて。
中味を確認すると、莉子は電気の点いているリビングの方を見やって笑みをこぼした。
「しょうがねぇ、いってやるよ」
匠からの答え、恥ずかしさを隠してるのは文章から読み取れた。
すごく温かく感じた、なんてことない紙切れが。向こうにそんな気がなくても、彼女か
らしたら寒空の下で冷えきった両手を元通りにしてくれるホカロンぐらいに思えた。
莉子はその場にしゃがみこみ、手帳の切れ端にシャープペンを走らせていく。吐く息は
白く、手はかじかんでいるけれど、そんなことは大して気にならなかった。それよりも、
この匠からの一文への返答をしたためたくて心持ちと同様に手が先に動いていく。
書き終えると、それを2つに折って玄関ポストに入れる。
そこから自宅までの帰り道は自転車を引いていった。もうちょっと、この嬉しさの余韻
にひたっていたくて、はにかむ口元をマフラーで隠しながら歩いて帰った。
「来てくれるんだね、ありがとう。
たっちゃんに見てもらう初めての試合かぁ、なんとしてでも勝たないと。
負けたりなんかしたら、後で弱っちぃなとか言われそうだもん。
意地でも勝つから、褒め言葉でも用意しといて。
んじゃ、しょうがなく来てくれるたっちゃんへお知らせです。
試合は土曜日の13時半から、場所はウチの高校の剣道場。
来ると言ったからにはキャンセルは無効、寝坊などによる遅刻等は厳罰に処分します。」
気温は16℃、雲はまばらにしかない快晴の中、1人だけ心の晴れてない北野莉子がい
た。
なんで、なんで、なんでよ〜っ。
「莉子、莉子〜っ」
そう手を大きく振る一音のもとへ、あとは面を被るだけの剣道着に身を包ませた莉子が
近寄る。いつになっても全然姿を現す様子のない匠にしびれを切らし、一音と右太が捜索
にあたってくれていた。
「どうだった?」
「それがさ〜、右太が携帯かけまくったら「今、起きた」って。寝起き全開の声で「今か
ら行くから」だって、最悪だよ、ホントに」
13時25分、今からじゃ間に合うかどうか。
せっかくのまたとない機会なのに、私が起こさないと1人で起きれもしないのか。シュ
ンとしぼむような気持ちとムカムカと苛立つような気持ちとが対称的にぶつかりあう。
北野さん、剣道部のミーティングの輪に呼ばれると、「じゃあね」と一音から離れる。
その莉子よりも苛ついてたのが一音だった。あんのバッカやろう、匠の家まで行って学
校まで引きずってきたい気持ちでいっぱいになる。
「右太! 匠が来たら、コンマ1秒でも早く剣道場まで連れてくんのよ! いい?」
「・・・・・・はぁ」
「どんな手荒なことしてもいいから、担いででも連れてきなさいよ!」
ブチッ、自分の頭の線のように強めに携帯のボタンを押して切る。
なんなのよ、毎度ながら自分のペースで動く匠にじれったさが募る。その感情は、平尾
匠と北野莉子の関係に対しても同じといえる。彼女自身、莉子の今日までの表情の変化を
見てきてる分、余計にそうなってしまう。
「聞いて、聞いて、一音ちゃん♪」
数日前の電話越しの莉子の第一声、聞いたことないくらいのたるんだ声音。ベッドに寝
そべりながら、意味もなく毛布にくるまって右に左に回ったりしてそうな感じ。
「どうしたの、なんか嬉しそうじゃん」
「うっそ、なんで分かるの?」
心の中の「分かるって、そりゃ」というツッコミは閉まっておく。物事の全ての奥底に
ある欲を見抜こうとするような人間じゃないかぎり、誰が聞いても彼女が嬉しそうだと思
うだろう。第一、こっちのことを「ちゃん」付けで呼ぶなんて、お金を貸してほしいとか
裏がある場合ぐらいだし。今にかぎってはそれが感じられない、裏なんか一切なしの表だ
けといった声音をしてる。
だから彼女は嬉しいんだろう、言葉の色合いのとおりに。
「なに、なに、聞かせてよ」
「聞きたい? どうしようかな〜」
心の中の「悩んでないでしょ、それって」というツッコミは閉まっておく。
「いいじゃん、どうせ言うんでしょ」
「分かったよ、一音には特別に教えてあげちゃう」
何事があったんだろう、一音はまもなく答えの分かることを予想してみる。
あんな感じの喜びようは中々ない。もちろん彼女は毎日笑顔のたえない子なんだけれど、
それとはまた違うポケットに入ってる感情を取り出してるように感じれる。
「あのね、土曜日に試合があるって言ったでしょ」
「うん、うん、聞いた」
「それにね、たっちゃんが来てくれることになりましたっ」
「うっそ、マジで?」
あの匠が。親友の右太の野球部の試合ですら、「面倒くさい」って見に来ないやつが。
どういう風の吹き回しだ、もしかして2人になにか進展でもあったのだろうか。
「なんで? なんで、匠が来るの?」
「私がお願いしてみたの、試合があるから見に来てほしいって。そしたら、「しょうがねぇ、
いってやるよ」だって」
「・・・・・・匠らしい返事ね、それはまた」
「絶対に負けらんないよ、今度は。明日から猛特訓しないと、たっちゃんの前で変な試合
はできないもん」
「そうとう好きだね〜、あんた」
「えっ、何が?」
「・・・・・・剣道が」
「何言ってんのよ、やぁだっ」
ダメだ、完璧に乙女になってしまってる。
これは何を言ってもムダだろう、そう息をついてあきらめる。なんにしても良いことだ、
2人が少しでも近づいてくれたのなら。
あれから3〜4日しかなかったけど、莉子がその間でどれだけ頑張ったかは知ってる。
自分のバスケ部の練習の合間をぬって剣道場を訪れると、彼女の佇まいには気迫が宿って
いた。面を被ってるときの集中力は道着を通しても伝わるし、それ以外のときでも真剣な
眼差しで自分の剣道と向き合っていた。なんで匠の前でそれだけ素直に真っすぐになれな
いんだ、と考えると少し笑えたりした。
部活終わりで、途中まで一緒に帰ろうと自転車を引いているときの彼女は真逆になる。
「どうしよ〜、勝てるかなぁ」
「勝てるに決まってるでしょ、あんなに練習してるんだから」
「でもさぁ、相手だって練習してんだから同じじゃんか」
ホントにさっきまでの莉子か、そう疑いたくなるぐらいの弱気だ。きっと、匠が来るこ
とがプレッシャーになって、不安にさせてしまってるんだろう。
「あぁあ、もし負けたら立ち直れないかもしんないよ」
「もぉ、あんたさぁ、勝ちたいの? 負けたいの?」
「なによ、勝ちたいに決まってるじゃん」
「だったら、勝つことだけ考えなよ。負ける心配してるなんて、最初から気持ちで負けて
るからだよ」
ムスッと口をヘの字に曲げる莉子の頭を優しく撫でてあげる。
「いいとこ見せたいんでしょ、頑張んなよ」
「・・・・・・うん、ありがとう」
清顔でニッコリ微笑むと、莉子も砕けた笑みを見せた。
莉子に勝ってほしい、それを匠に見てほしい。
なのに、この大事なときに寝坊って、どんだけ枕が好きなんだよ。
「右太! もう次だよ、まだ来ないの?」
「俺に声張り上げられてもなぁ・・・あっ、来たっ!」
50m先の角を曲がって、自転車に乗った匠の姿が見えた。
「おいさん、何してんだよ!」
「悪い、寝過ごした」
校門の右手にある自転車置き場に行こうとする匠を引っ捕まえて、強引に走り出す。持
ち手のなくなった自転車は、そこにガッシャンと倒れて。
「おい! 自転車! 自転車!」
「大丈夫、壊れやしないって」
首根っこをつかんで引きずるぐらいに容赦なしに右太は匠を引っ張っていく。上靴にも
履き替えず、靴下のままで校内を一目散に駆ける。「廊下は左側を歩きましょう」の張り紙
の横を突っきり、剣道場に続く道に折れると遠くに大きく手招きする一音が見やれた。
「あんた何やってんの! ほら、早く見てっ!」
到着早々にお叱りが入ると、一音の示す指先の方に莉子の姿があった。もう試合は始ま
っている、開始から1分ほどが経っているらしい。
道場の手前側で男子の試合、奥側で女子の試合が行われているため、「北野」と大垂に付
けられた名前と「やぁっ」などの掛け声でしか彼女と判別はできなかった。正直、相手の
子と入れ替わっていたとしても気づきはしない。
だが、対戦相手と莉子とは明らかに違いがあった。初めて間近で剣道の試合を見る素人
が言えた義理ではないのは承知だけれど、2人はなんだか格が違うぐらいの差を感じる。
相手の子の動きは教えられたものを忠実にこなしてるような教科書どおりのもので、莉
子は1つ1つの動きがしなやかで浮かびながらやっているような跳ね方をしていた。最終
コーナーを過ぎた競走馬や名声のある新体操の選手のように。
県下何位ってのは本当だったんだな、そう実感する。
試合は莉子が小手で勝った、フェイクで開いた右の小手を見逃すことなく打って。試合
時間は2分28秒、匠が来てから1分半ほどで勝負はついた。
試合場を出て面を取った莉子の姿は、いつも近くにいるはずの彼女とは瑣末に合わない
気がした。同じ場所で同じ角度から撮影した、今の太陽と10分後の太陽の画を重ねたと
きに生じる誤差ぐらい。戦いに向かう剣士のように、楚々としながら力強いものを持ち合
わせて見えた。
そんな彼女に見とれているうちに、莉子の視線がこちらに向く。目があったまま、莉子
も匠も何をすることもなく、ただそれを逸らすようなこともなかった。
一音が手を振ると、ようやく莉子も笑顔を戻して手を振り返す。一音は次に匠を指差す、
「やっと来たよ」とでもジェスチャーしてるのだろう。
2人の通常のやり取りで我に返り、目線を外していると一音に腕をバシッと叩かれる。
何かリアクションでもしてあげなさいよ、そう無言で促される。何をしていいか分からな
いので適当に最小限の角度で手を振ると、莉子も口角を上げて手を振り返した。
「ホントにどうしようもないよね、匠って」
「うっせぇな、来たからいいじゃねぇかよ」
「来たって、私たちが起こしてギリギリにでしょ」
「まぁまぁ、結果来たんだからいいじゃない」
匠と一音の言い合いを右太がなだめる。
「莉子もビシッと言わないと、ほらっ」
2人の言い合いを笑いながら見ていた莉子は、急に怒りなさいと向けられてどうしよう
か悩む。
「・・・・・・いいよ、来てくれたんだから」
フフッと笑う、なんだか匠はそれに申し訳なさを感じた。
「ほらほら、もう一音だけだよ、怒ってるのは」
「・・・・・・ちぇっ、なんか腑に落ちないなぁ」
形成の変化に、一音もしょうがなく手を上げる。
個人戦が一段落し、団体戦が始まるまで10分の休憩が設けられた。その間に莉子は3
人のところへ来て、個人戦の緊張と疲れをほぐす。
「どうだった? たっちゃん」
私の剣道姿、そう聞くと匠はどう返していいか分からずに考える。
「どうって、別に」
一度、はぐらかしてみる。
「あんたねぇ、なんか感想とかないわけ?」
予想どおり、一音からの横入りがくる。
「まぁ・・・よかったんじゃないの?」
疑問形の返答に疑問系。
「うん」
莉子にはそれで充分だった、精一杯の照れ隠しであるのは読み取れたから。匠がここに
来てくれてるだけで、彼女にとっては嬉しすぎることだった。
「今の感じだったら、調子いいから団体もいけそうじゃない?」
「そんなことないよ、団体はお互い良い選手をそろえてくるんだし」
「いいや、もう負ける気がしないよ、莉子の力なら」
「でも、団体の相手は2年生だから。1年違うだけで、結構レベルも変わってくるんだよ」
素人目にしたら何人来ようと返り討ちにしてしまいそうな莉子の腕だったが、本人はい
たって冷静に次の試合を見ている。
北野さん、剣道部のミーティングの輪に呼ばれる。
「おいさん、お前からも何か言ってやんなよ」
右太に促され、「何か気の利いたことでも言わないといけない」空気が流れる。
「まぁ、頑張れよ・・・お前なら勝てるよ」
「うん、ありがとう」
匠からの気持ちの入ってるか分からない励ましに、莉子の締まっていた顔が崩れて笑み
になる。結局はこれが1番の特効薬になる、「頑張れ」と言ってもらいたい人に「頑張れ」
と言ってもらうことが。
それは結果に如実に現れた、これ以上はないというほど。
先鋒・北野莉子、その合図で試合場に向かう姿は邪気を打ち消した凛としたものだった。
試合時間わずか17秒、接近したところからの引きの面が見事に入った。
試合場を出て面を取った莉子は、会心の勝利で得た会心の笑みを匠たちの方へ振り撒く。
あまりにものスピード勝負に匠はおろか、毎回彼女の試合を見ている一音でさえ口が開い
ていた。
「すごいわ、なんとかの力ってやつは」
「んっ?」
「いや、なんでもない」
耳にしたことはあっても目にしたことはない、その力を目の当たりにして一音は首をか
しげて匠を見やる。
「おいさん、きっとこれから毎回来さされる運命になるぞ」
ポン、そう悟った右太が匠の方に手を置く。
「んっ?」
「いや、なんでもない」
この勝利は莉子本人の実力によるもの、そう感じてたのは匠だけだ。周囲の心内を知る
こともなく、彼は彼女への見る目のランクを上げていた。
その日の夕暮れ、黄昏時に右から左へ流れる風は莉子の体を少し暖める。いくらか濡れ
たその髪を気持ち程度になびかせ、風は未来の方へ流れていく。
練習試合を終えて、帰路につこうとすると自転車置き場に見慣れた姿を確かめる。ふて
ぶてしいオーラを出して、両手をポケットに突っこむ姿は幾度と見てきたものだった。
「たっちゃん」
「おうっ」
莉子は驚く、もうとっくに彼は帰ったものだと思っていたから。
「どうしたの、こんなところで」
「んっ、いや・・・・・・」
はっきりしない返事、その空白に莉子は感じ取る。
「もしかして、今まで待ってくれてたの?」
「まぁ・・・そんなとこ」
後頭部をポリポリかきながら、キャラじゃない自分に匠はこしょばゆさを感じる。
「なんだ、待ってるなら言ってくれれば早くしたのに」
莉子の試合が終わってから1時間半は経っている、その間ここで待っててくれたのか。
「いや、さっきまで右太と一音とだべってたし」
莉子はフフッと顔を下に向けて笑う。
言い訳してるみたいな言葉回し、ホントに匠はこういうシチュエーションがダメなんだ
な。そんな彼が愛おしくなる、その不器用さに胸の内をつかまれて。
「なに笑ってんだよ」
「ううん、何でもないよ、帰ろう」
自分の自転車を取り出すと、その2台はオレンジに染まる夕焼けに向かって走り出す。
莉 子はスピードが上がりぎみになる、意識的というよりは速めになっている鼓動と連動
するように。
右隣を走る匠にバレないように、何度もチラチラと右に視線を向ける。今日の心はすご
く素直だった、匠を見るといやに反応をして。
昨日の匠よりも今日の方が好き、だから明日はもっと好きになってるんだろうなと。