第1話
気持ちのいい朝だった。春陽は匠の髪に光沢を与えて撫でていく。その上では、きっと
この家も屋根という頭を撫でてもらってるんだろう。
さすり、さすり、こいつは気持ちいい。
穏やかな家、穏やかな自分、母親のお腹で温められてる子動物みたいだ。布団をかぶっ
ていた肩までも、朝陽をあびていた肩からも、抜群に彼を夢見心地にいざなっていく。
「た〜くみぃっ!」
「たっちゃ〜んっ!」
窓越しでも莉子の思いきりの声はよく響く。暖壁を破る冷凍風、やかましい近所の騒音
のようないらないものだ。
匠は現実から逃れるように布団を頭までかぶる、こんな温和な環境から抜け出したくな
いと。
「たくみ、こら〜っ!」
「遅れるぞ、起きろ〜っ!」
この温もりを残しておきたい匠の現状なんて無視にと、莉子はその殻を破っては飛び込
んでくる。
インターホンの連弾、玄関の乱蹴り、毎朝恒例の平尾匠と北野莉子の間接決闘。直接手
を加えることはなしに、嫌がらせに近いけたたましい音の数々でケリはつけられる。
5分12秒、今日はねばった方だが容赦なしの彼女の連続攻撃に平尾艦隊は沈没する。
やる気もないかまぼこ型の団子虫みたいに、ベッドから転げ落ちては這うように起きる。
消えかけた自分の胸の内のロウソクにマッチで火をつけるよう、洗面所で顔を洗って存在
を取り戻す。見えてないほど閉じた目のまま、教科書と文房具を平ったいスクールバッグ
に押し込んでいく。適当に制服に着替える、見てくれなんて特に気にはしない。どれだけ
寝癖がボサボサついてようが、見られて困るようなこともないから関係ない。
2階から1階までの木板の階段、さすがにここだけは落ちないように目を開く。下りき
った途端、その目は再度30%機能になる。その30%すら、きちんと働いてるかとなれ
ば疑問だ。
玄関で靴を履きながらアクビをかます。憂鬱、この一言につきる。
玄関扉を開くと勝者が「おはよう」と言って迎える、なんだか気高い雄叫びのような感
覚だったので返さなかった。弱者への余裕、苛々しさはないにしても好感は持てない。
「ったく〜、挨拶ぐらいできないのかなぁ」
確実に相手に聞こえる独り言、言ってるだけなので言わせておけばいい。こんな置き言
葉、気にしていたら2人は傷跡だらけの全身になってるはずだ。
足代わりの自転車に乗っかり、ペダルを漕ぎ出すと莉子も匠に続く。
前を緩く走る匠、それを監視するように後ろを続走する莉子。競馬場で見るような光景、
ジョッキーを莉子として馬は匠。自分勝手に我が道を暴走しがちな馬を軌道修正するジョ
ッキー。兄弟関係と表すのなら、面倒見のいい姉とわんぱくな弟といったところか。姉に
はそういう自覚があるが、弟にはそんなものは一切ない。むしろ、自分が弟と知ったら「な
んで、俺が弟なんだよ!」と頑として認めないはずだ。それがまた胸の内をくすぐったり
する、少々荒いぐらいの方が弟はかわいかったりするから。
シャ〜ッ、シャ〜ッ、2台の自転車が田園を裂くように伸びる一本道を走りゆく。
ガチャッ、ガチャッ、2台の自転車の一定でないペダルの未定間隔音。
春暖の陽の差し込む気候、それは1年で最も心地良い。野原で寝転びながらぐっすり眠
りでもすれば、この上ない幸せに包まれることだろう。ただ如何せん、平日の学生にはそ
の選択肢の執行は難しい。欠席で内申書がダウン、万が一にズル休みがバレようものなら
タダじゃあすまない。そんなリスクを冒してまでの幸せじゃあないだろう、天秤にかけれ
ば分かる。まぁいいや、後で授業中にでも眠ればいい。
チリリン、チリリン、陽光に表体温をもらっていると後ろのベルが鳴る。発言権を求め
る挙手の代わり、「話があるんですけど」という言葉の代わり。この行為は一方的であるこ
とが多い、匠の意思はなくとも莉子から言はなされる。
「たっちゃん、そんなペースじゃ遅れちゃうよっ!」
風の抵抗を受けながら届く声、あらかじめ大きめな発声にしてあるので単語一つ聞き逃
すことはない。それは分かってるのに匠から返答はない、それに莉子は顔をしかめる。
グッと足に力を入れると、一気に匠の左隣にまで自転車を並べる。自動車1台が走れる
ほどの道幅だ、自転車が2台も並ぶといっぱいいっぱいになる。前から自動車でも来よう
ものなら、さぁ大変。自転車を降りて、なんとかスレスレで互いを傷つけずにスルーする。
調子に乗って行って脇の小川に突っ込んだこともある。車は我関せずとさっさと走り去っ
ていく、人は冷たいもんだと現実を知る瞬間だった。
横にきた莉子は不快そうな顔つきをして、匠を見やっている。
「聞いてんの!?」
「・・・・・・聞きたくないけど、声がでかいから聞こえてる」
しょうがなく発したという言葉と、うっとおしそうにする匠の態度。それが余計に莉子
を苛立たせる、何様のつもりだとバロメーターが振れてくる。
「遅れるよ、いいの?」
「・・・・・・いいでしょ、別に」
顔も向けない素っ気ない匠に、莉子は息をつく。これまでに何度となくあった同様のシ
ーンを思い浮かべ、またかと嫌になる。
「言っとくけどね、たっちゃんが遅れるから私まで遅刻するんだよ」
「たっちゃんの遅刻の回数がイコールで私の遅刻の回数になるの、分かってる?」
「さぁ、俺バカだから分かんねぇ」
適当な返事に、莉子が匠の背中にバシッと一発くれる。
痛ってぇ、と自転車は一瞬よろめく。
「危ねぇ、お前、何すんだよ」
「何がよ、いつも起こしてあげてる恩を仇で返すからでしょ」
「あぁっ? 起こしてくれ、なんて一回も言ったことないだろうが」
「言われてもないのに起こしてるのよ。まぁ、なんて良い子なんでしょう」
右隣へ当てつけのように、わざと大げさに言ってみせる。
そんなもん知らねぇし、そう言いたげに匠は目元も口元もクッとしてみせてペダルを漕
ぐペースを上げていく。半ばやけくそで力を入れていく、眠気なんて最初からなかったぐ
らいに吹っ飛ばして。莉子も追いつこうとペースを上げるが、駄々っ子の弟はこんなとき
必要以上の根気を見せる。おもちゃを買ってもらえずに売り場で泣き散らす子供のように、
相手の予測をこえる行動をしたりするものだ。
「ねぇ、ちょっと待ってよ!」
莉子の言葉は知らんふりで、2台の自転車の距離はみるみる広がっていく。
もうっ、恩知らずな匠に怒りを憶えながら、発散させるように力を込める。い〜だっ、
離れてく背中に顔を崩して届かない気持ちばかりの仕返しをしてみせた。
遠くに行かないでよ、あんまり開くと手が届かなくなっちゃうでしょ、そう心内も本音
をこぼしていた。
「うっす、うっす、うっす」
8時40分、なんとか1時限目には間に合った。
1年4組の教室に入ると、匠は回復したテンションで気軽に振る舞っていく。
教室はそれぞれのグループに分かれ、それぞれの話題で盛り上がっている。今日の朝刊
のニュース、昨日のテレビ番組、今からの授業、などなど。その多くは内容の濃いもので
はない、ノリでなんとなく話してるものだ。高校1年生ならそんなものだろう、社会や未
来についてなんて漠然としたビジョンしかない者がほとんどだし。彼らにはまだまだ青の
時間を楽しむ余裕がある、後で嘆くくらいなら馬鹿がつくぐらい遊びほうけた方がいい。
「ういっ、おはようさん」
林部右太、彼の気の利いた江戸商人みたいな言葉回しは今日も健在だ。別に彼の先祖が
江戸商人なわけではない、多分。家系図で系統を確かめたことはないけど、ここが関東じ
ゃないという時点でおそらく違うだろう。流浪人、ヒッピー、説を考えれば可能性はある
にしろ、彼の感じからそれは窺えない。雰囲気はあるけれど、中味は案外男らしい。全国
や世界を行脚するより、自分のいるべき場所で同志と鍋をかこむことを選ぶはずだ。まぁ、
歴史ものの小説やら時代劇やらを見て影響を受けたクチなのだろうけど。
「ういっ、おはようサマンサ」
「おっ、今日も好調ですな、おいさん」
バチンッ、特に意味合いはない片手ハイタッチをすると、匠と右太も他の例外ではない
ように昨日のバラエティ番組のことを話す。若手芸人のネタ番組で、誰がよかったかを言
い合い、そのネタを実践してみたりする。素人がやったところで面白味は半減するに決ま
ってるが、2人はそれで爆笑できる。質は関係ない、そんなことは本物にまかせればいい。
やってるだけでいいんだ、それだけで面白いし、どれだけでも笑っていられる。
えてして、青春なんてそんなものだ。大したことなんかしてなくても、大きなことをし
ているような錯覚に自分をはめこむことが出来てしまう。簡単だし、単純だし、効率がい
い。奥は深いにしろ、青春時代の表面は得だ、難しいことなんかいらない。
「バカだね〜、あれは」
待井一音は、匠と右太の姿を遠目に見ながら首をかしげる。なんでまた、あんな内容の
かけらもないことで笑えるんだろうか。
高校に入ってから、よりいっそうバカに拍車がかかった。平尾匠だ、あいつが右太を底
辺に引きずり下ろしたんだ。
おかげで着いてけないじゃない、そう一音は息をつく。
「おはよっ、一音」
「あっ、おはよう」
匠から3分遅れて莉子が教室に着く、彼女もギリギリセーフだった。
「どうしたの?」
「あれだよ、見てみ」
そう一音は、遠くでふざける匠と右太を指さす。
「うわぁ、何やってんの、あれ」
「昨日のテレビのだよ、傍から見たら寒いの分かんないのかな」
「まぁいいんじゃない、本人たちがそれでいいんなら」
言い捨てるようにして、莉子も口角を上げて首をかしげる。この年代になると女子が男
子を精神年齢で上回ると言われるとおり、莉子と一音には匠と右太の底辺の行動は理解し
きれなかった。
でも羨ましくもなる、あそこまでバカをやってみたいとも思う。
「あれっ、そういえば匠と一緒じゃなかったの?」
「一緒だったよ、でも途中でぶっちぎられちゃった」
莉子は学校までの一連の流れを説明する。
「え〜っ、ひどいことするね」
「まったくだよ、私の恩は全然匠には伝わってないみたい」
「あぁあ、可哀相な莉子ちゃんだね〜」
そう一音は、莉子の髪をそっと撫でてあげる。女子は女子で悩みを共有し、それを知ら
ずに男子は日々を送る。
1時限目、春陽の誘いに負けて机に身を預けていた匠に、莉子はノートの1ページを切
り離して丸めた紙ボールを投げ当てて仕返しをしておいた。
5時限目、匠の瞳のフィルターに映る映像は脚線美の数多を追っていた。細い、ぷっく
り、普通、却下、品定めをするように眺める。
おっ、良いのがあった・・・なんだ、一音かよ。
「ちょいちょい、おいさん、何してんの?」
不審な行動を見つけた右太は、すかさず団体から外れてくる。
「決まってんだろ、女子のブルマー姿をこの目に焼きつけておくんだよ」
やっぱりか、あまりに素直な行動に右太はため息をもらす。
体育の時間に体操着を家に忘れてきた匠は見学にまわり、特別することもないので校庭
の右半分をつかってキックベースをしている女子に目をつけた。左半分では男子がサッカ
ーをしているが、そんなもの見ても何の得にもならない。
「ちなみに、あれをその目に焼きつけてどうするんですか?」
「今日あたり、どうかなって思って」
「マスですか、おいさん?」
「前が3日前だったから、そろそろイケるだろう」
「クラスメイトがおかずか、俺には無理かな〜」
「そういうんじゃないさ、あくまでブルマー姿の女子でってことだから」
「ほう。でっ、これっていうのはありましたか?」
「どうかな、どれも太めだからねぇ」
目に止まったのが一音だったことは伏せておく。
「いいじゃないですか、高校生はそれぐらいが健康的ってもんですよ」
「まぁね、そりゃそうだ」
談笑しながら女子を見ていると、外野にいた一音が2人の視線に気づいた。キックベー
スで女子の蹴る力では外野まで飛ぶことは少なく、暇にしてたせいで。
「そこっ、何を見てんの!」
「やべぇ!」
一音の大声で、女子の視線が一様に匠と右太の方へ向く。
授業の後で一音から注意が入るのかと思ったが、ここで思わぬ裏切りが入った。
「こいつ、お前のが太いって言ってたぞ!」
一音は自分の足を見てから、右太の言葉を理解する。一気に彼女の顔色が変わる、こう
いうことには人一倍は過敏に反応するタイプだから。
「たくみ〜っ!」
「右太、バカやろうっ!」
ダ〜ッ、怒気に満ちた一音がダッシュしてきたため、匠は一目散に逃げる。男と女の脚
力といえど、陸上部の一音に帰宅部の匠が敵うはずもない。巻き上げる砂埃の量が全てだ、
無駄に多い匠と均一な一音。フォームが雑なせいで動きがいやに多い匠に対し、整ったフ
ォームでブレのない一音。
校庭半周ほどで逃走劇はあっさり幕を閉じ、一音の平手が匠の頭を直撃した。
「お前、痛えなぁ」
「叩かれるようなことしたからでしょ、天誅よ」
バチンッ、自陣に戻っていく一音は途中で内野の莉子とハイタッチを交わす。
ダッシュした上に殴られるなんて最悪だ。まだ、普通にサッカーしてた方がマシだった。
結果、この日の彼のマスは中止となるのであった。
夜、台所で夕食の支度をしているとインターホンの音が響く。独りきりでいる一軒家で
は、これが大層にホラー要素を兼ね備えたものに感じる。これを考え出すとキリがない、
普通に生活してても誰かがいる気がするし、お風呂に入ってても誰かが後ろにいる気がす
るし、寝てても誰かが隣にいる気がする。心底の怖がりには無理なシチュエーションだろ
う、匠もまぁまぁの該当者ではあるが。
こんな時間に誰だ、そう思いながら玄関扉を開くと莉子の姿があった。部活終わりだっ
たため、その肩にかかる髪は汗でいくらか濡れている。スクールバッグは自転車に掛けた
ままで、ブラウスのポケットに手をつっこんで寒そうにしていた。
「おっす、変態くん」
「変態じゃねぇっつうの」
昼間の体育の時間の一連のことを皮肉ったのだろう。止めてくれ、そんなあだ名でも付
けられたら一生の汚点だ。高校生活の間で蔑むように言われ続け、その後も同窓会の度に
ツッコミが入るに違いない。
クスクック、そんな嫌そうな表情を浮かべる匠を莉子は愉快そうに笑う。彼はからかう
と面白い、性格とは逆にいやに素直にリアクションを見せてくれるから。
「何の用だよ?」
「別に、用はないけど」
「じゃ、帰れよ」
「なんでよ、用がないと来ちゃいけないの?」
「はい、こっちは忙しいんです」
なおざりに退けようとしても、莉子は食いさがる。この程度の退け、過去何度となく経
験してきてますからと言わんばかりに。
「良いニオイがするなぁって思って、今日のメニューは何?」
「ウソつけ、まだ作り始めたばっかだよ」
ニオイが外まで充満してるわけないだろ、そう匠は煙たげにする。
バレたか、そう莉子はベロを少し出してみせる。
「ちょっとお招きにあずかろうと思って、いいでしょ?」
「やなこった、俺の分が無くなるだろ」
「多めに作ればいいじゃん、これから作るんでしょ」
「お前に食わせるメシなんかない、いいから帰れ」
玄関扉を閉めたそうにして指図しようと、まだまだ莉子は食いさがる。そんなぐらいで
「ハイハイ、分かりました」と帰るような柔な心じゃございません、しつこく粘ってみせ
るんだからと。
「いつも面倒みてあげてるでしょ、たっちゃん」
「みてくれなんてお願いしたことはございません」
「あぁ、そういうこというんだ、ふ〜ん」
莉子は何か隠し玉でもしてそうな不定な顔色を見せる。
「そんなふうに言うんなら、もうこれからはたっちゃんのお世話はしないからね」
「はいはい、どうぞ、ご勝手に」
ないがしろな返しに、莉子はキッと目元を上げる。
「知らないよ、これから遅刻したって!」
「遅刻? 遅刻って何でしょう、ワタシ日本語トカ分カリマセ〜ンノデ」
「はぁ? もう信じられないバカですね、救いようがないわっ!」
「はいはい、失礼いたします」
バコッ、空返事で玄関扉を閉められ、頭にきた莉子は力いっぱいに扉に蹴りを入れる。
自転車に手をかけると、地団駄を踏むように足を踏みつけながら帰っていく。
なんだよ、手伝ってあげようと思ったのに。人の親切心を門前払いするなんて、最低。
人通りのないことを確認して、沸騰しそうな怒りを自分の中でぶつけていく。前はあん
なじゃなかったのに、自転車をひきながら口を尖らせて莉子は目を細める。
夜空を見上げてみる、今日の月のように少し欠けたような心持ちになった。
「俺のお世話はしねぇんじゃねえの?」
2分24秒、莉子の勢いが結果に出たように平尾艦隊はあっさり沈没した。
昨日の感情が静まりきってないのは、直視した瞳と少しムッと出た唇で分かりえる。
「うっさいな、起こしてあげてるんだから感謝しなさいよ」
「・・・・・・なんなんだ、一体」
フンッ、煩わしそうに息をつくと、匠は舌打ちをして自転車に乗っかる。ジョッキーの
ことなど知らないというように、馬は暴れん坊に走り出す。
「ちょっと、今の何よ!」
「たくみっ、待ちなさいよ!」
先をどんどん行く匠の自転車を追いかけ、莉子は怒り丸出しでペダルを漕いでいく。
昨日あんなふうに言われたのに、骨を折ってまで起こしに行ってあげたのに。あの性格
どうにかなんないのか、侵食するように体中がむかむかしてくる。
そうしてるうちに、目の前の自転車がなにやらスピードダウンしていく。何があったん
だろう、パンクか、体調不良か。
「どうしたの?」
「やべぇ、英語のレポート忘れてきた」
「取りに帰るの? 遅刻だよ」
「出さなかったら、放課後残って書かされるんだぜ。そっちの方がよっぽど嫌だろ」
そう言って、匠は自転車を持ち上げて反転させると、学校と逆方向へ出発する。
ヒュ〜ッ、残された莉子は急にそれまでのむかむかが体から脱げていく、遠ざかる背中
を見つめながら。
人や車が小粒ほどにしか見えない、田園地帯に囲まれた中で独りにされると孤独感があ
った。吹きつける風は寒さが残されていて、置き去りにされてしまったような感覚にも苛
まれる。
あぁ、匠はあのとき、こういう情感を受けたのかなと考える。
しばらくは匠の後ろ姿をあてもなく眺める、彼もまた小粒になっていった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、教室内の空気は一気に和らぐ。その前後で室内に何
があったわけではないのに、そこは公園の遊び場のようなレジャー空間になり、そこにい
る人たちは張りが抜けて解放される。みんな園児みたいにギャアギャア騒ぐし、思い思い
のことをして時間を過ごす。遠目からみれば、それは幼稚園でみる光景となんら変わりな
い。
匠は購買で買ったあんぱんとサンドイッチとコーヒー牛乳を食べる。
「おいさん、そんな質素なメニューで飽きないの?」
彼の昼ごはんは同じようなものしか並ばない、それを指摘する右太のお弁当は中々に張
り切ったメニューが揃えられている。
「いいんだよ、飯なんて食えりゃあ。世界には食べたくても食べれない子供がごまんとい
るのに贅沢言うもんじゃないよ」
と言いながら、右太のナゲットをいただく。
「うめぇな、これ。ったくよぉ、不公平なもんだよ。料理のできる母ちゃんがいると、ホ
ント得だよな」
「まぁな。ただ、こればっかりは俺らに選択権はないわけだから」
それを言われちゃおしまいだ、そう匠は息をつく。
彼の昼ごはんのおこずかいは300円、その中で自分なりにやりくりする。この日でい
えば、あんぱんは60円、サンドイッチは130円、コーヒー牛乳は70円。合計で26
0円、お釣りの40円は彼のもの。
その40円がささやかな幸せになる、ほんの微細といえるぐらいの。毎月のおこずかい
は別にもらってるが、40円といえど自分のものになれば嬉しいものだ。缶ジュースを飲
めるまでに3日、「安い・うまい・早い」の牛丼を食べるまでに10日もかかる。それでも
こんなに喜べるんだから、小銭と青春のありがたさを拝みたい。
「あの2人さぁ、なんか対称的だよね」
一音が遠巻きにして見物しながら、匠と右太のことを言う。
「そう? ずいぶん気が合ってるように見えるけど」
気が合ってるというか、同レベル。ここから見る光景は、入学当初から変化はみられな
い。
「片や母親の作るレパートリー豊富な上級弁当、片やパンとコーヒー牛乳。片や両親とも
仲良しの理想的な家庭、片や親とろくに顔も合わせない乾燥的な家庭。片や江戸商人みた
いな喋り方をする王子系、片や人の気持ちも顧みないひねくれ系。どこがどうなって、あ
の2人がコンビになるんだろう」
分からないわぁ、そう一音は首をかしげる。
「それ、なんか右太のこと持ち上げすぎじゃないの?」
莉子は言葉の裏を読んで、フフ〜ンと笑顔を見せる。
「ちっ、違うよ。バカなこと言わないでよ」
そう一音は横に顔を向ける、目を合わせてたら頬の色が変わってしまいそうで。
ツンツン、莉子はヨーグルトを食べていたスプーンの柄で一音の頬を突ついてからかう。
「うりうり、うりうり〜っ」
「ちょっ、やめてよっ」
彼女は実に分かりやすい、それだけ純でかわいらしい。
それが羨ましい、自分も一音みたいに素直になりたい。そうなれたら、匠との関係も今
より柔らかくなっているんだろうな。自分がつんけんしてる分、彼にも無愛想な態度を取
らせてしまってる。自分の変化は彼の変化と近似、なら彼にいちいち腹を立ててるのはお
門違いなのかも。それは自分への憤りで、彼に思ってる感情はそのまま自分への思いなの
かもしれない。
莉子は鼻で大きく息をする。コンコン、自分の心扉をノックしてみた。
夜、台所で夕食の支度をしているとインターホンの音が響く。昨日の今日だからなんと
なく予想がつく、そう思いながら玄関扉を開くとやはり莉子の姿があった。今日も部活終
わりだったため、その肩にかかる髪は汗でいくらか濡れている。
彼女は剣道で県下何位という強者らしい、同学年では一目おかれる存在だ。実際の試合
を見たことがないので、匠はそれがあまりピンとこないのだが。毎日の強気な彼女を浮か
べると想像は可能としても、競技となればまた違う話だろう。
「今日はどういった御用で?」
玄関扉は顔一つ分ほどしか開かれない、すぐに閉める気が満々といったように。
「ちょっとお招きにあずかろうと思って」
なんなんだ、昨日と同じ台詞で入れると思ってるのか。
第一、春に差し掛かるといっても、この時間はまだまだ冷える。こんなところで言い合
うより、早く家に入って暖房の効いてるリビングに行きたい。
「お腹が減ってるの、なんか食べさせて」
子供がおねだりするように、澄んだ笑みをする。
「自分ん家に帰ればいいだろ、すぐなんだから」
「いいの、たまには匠の手料理を食べてみたいの」
グ〜キュルル、お腹の虫はタイミングよく鳴いてくれた。えへへへへ、目が合わさると
莉子は頭をポリポリかきながら照れ笑いをしてみる。
匠は鼻で息をつき、諦めるように玄関扉を開く。
「何もありませんが、よかったらどうぞ」
言っただけの言葉、感情なしの降参。そんな音、目の前で鳴らされたら上げないわけに
いかないでしょと。
「んじゃあ、おじゃましまっす」
おじゃました家の中に変化は見られなかった、それに莉子は安心する。自分に対する態
度はよそよそしくなってるけれど、彼自身は変わってない。
リビングの額縁にある、家族写真に写ってる小さい頃の匠のままだ。いろいろな面で成
長したとしても、根底にある核になってる部分はそうは崩れない。バカでやんちゃ、頑固
で女好き、昔から自分の隣にいる平尾匠。
自然と顔はほころぶ、彼の後ろ姿を見ながら。
「今日のメニューはなんじゃらほい?」
台所にいる匠に近づくと、後ろから覗き込むように言う。
今日は勇気を出そうと決めて来た、積極的になろうと。
「あれっ、ミートソーススパゲティ?」
「そうだけど、なにか?」
莉子の喜びの灯火がともる。
「もしかして、私がいるから?」
「何言ってんの、元からそうだったに決まってるでしょう」
匠は構わずに料理を続ける、その後ろで莉子は静かに笑った。
ミートソーススパゲティは彼女の大好物。昔は2人で遊んでるとき、お互いの母親がよ
く作ってくれたものだ。ただ美味しいだけでなく、そこには彼との幾重もの思い出がある。
それを彼が作ってくれていることが嬉しかった、たとえ偶然だったとしても。あの頃の
思い出を忘れてないよ、また新しい思い出を生もう、そう言ってもらってるようで。
湧き上がる思いを押し込められず、莉子は匠の髪をくしゃくしゃに掻きまわした。
「お前、何すんだよ!」
「ふふ〜ん、そっちの方がいいんじゃない?」
乱れた髪形に言った、本当は全く似合ってなんかいない。
「なんだよ、怒ったり、笑ったり、訳分かんねぇ」
「乙女心は難しいんだよ、勉強しなさい」
素直な発散の仕方じゃなかったけれど、なんだか無性に匠とじゃれたくなってやった。
昔はよくやったもんだ、取っ組み合いのケンカだって日常茶飯事だったし。親には怒られ
たもんだけど、本人たちには「好きだからこそ」という気持ちの上でだった。
出来上がったミートスパゲティとゼリーがこの日の夕食だった。少食に見えるけど、意
図があってそうしてるわけでもない。
朝食はなし、昼食もパンとコーヒー牛乳、そして夕食がこれ。少ないとは思うが、その
間に彼はちょこちょこ間食を挟んでいる。夕食まで待てないから、という理由は実に匠ら
しい。
匠の夜ごはんのおこずかいは500円、その中で彼は彼なりにやりくりする。この日で
いえば、ミートスパゲティは300円、ゼリーは100円。合計で400円、お釣りの1
00円は彼のもの。その100円で間食時の空腹を満たす、ちなみに今日はコンビニの肉
まん。その他にも、家に帰って来てからおやつに手を伸ばしたりする。
だから、そう少食というわけじゃあない。量は少なく、回数を多く。
「食べ終わったら、さっさと帰ってくれよ」
そう言われたときには、もうゼリーを半分は食べてしまっていた。
そんな不意打ち、卑怯だ。このまま、なんとなくの空気で居ついてやろうと思ってたの
に。このゼリー半分じゃ、時間稼ぎにもならない。介護じゃあるまいし、普通に食べたら
30秒で終わる。30秒の余地、なんとか引き伸ばさないと。
「これ見たいから、これ終わったら帰る」
嘘をついた、罪悪感。今流れてるバラエティ番組がどうしても見たいことにした、実際
そんなに見たいわけじゃない。匠がこのチャンネルに合わせたから自分も見てるだけだっ
たのに。おかげで嘘笑いもするハメになる、そこまで面白いとは思わなかったのに。
それでもここにいたかった、2人きりのゆっくりした時間なんて最近はそうそう持てな
いし。何をするわけじゃないし、もがくこともしない。そこにある匠との空間に眠りたく
なるぐらいの安息を感じた。自分の気持ちはブレてないんだな、安息の中で莉子はそう憶
える。
ガララララ、玄関扉を開けると煮物の濃いめの匂いがしてきた。
「莉子? 今日は遅かったわね」
「うん、たっちゃんの家で夕食ごちそうしてもらった」
「あら、珍しいわね。最近、そんなことなかったのに」
「そう。だから、夕食はちょっとでいいからね」
そう言い残し、木製の艶のある階段を上がっていく。
莉子は自分の部屋に入ると、引き戸を閉めて机に向かう。引き出しからモンチッチのプ
リントされたかわいい便箋とピンクの封筒を取り出すと、息をついて口先をとがらせなが
らカラーペンを走らせる。
内容をどうしようか、字体はポップなのがいいか、語尾はかわいくしてみるか、気にな
ると細かいところまでいってしまう。いろいろと頭を悩ませては、結局シンプルなところ
に行き着くわけだけど。願望と現実は違う、そのことに気づいて。キュートに見せようと
頑張っても、「気持ち悪ぃ」とけなされるだけだ。
その現実にまた莉子は息をつく。本当はそんな関係を望んでるんじゃない、もっと近づ
きたい。
胸の内がシュンとした、自分の気持ちが深くなっていってるのが身に沁みた。すぼむ胸
に手を当てながら、目の前のCDデッキを再生する。明瞭なイントロが流れていく、I W
iSHの「明日への扉」。透明な歌声と琴線に届くメロディーと歌詞、1つ1つが彼女に響
いていく。
最近よくラブソングを聴くようになった、理由はいたって単純に。今までは感覚で聴い
ていたのが、深いところに手を伸ばせるようになった。歌詞の内容も情景も思い浮かべる
ことができて、それを自分にはめることもできる。
窓を開けてみる、身を乗り出すと遠くに匠の家を確かめられる。2階の明かりが点いて
いた、ちょうど彼の部屋だ。何をしてるんだろう、宿題でも嫌々にやってるんだろうか。
気になるとキリがなくなる、そこから何が生まれることもないのに。そして、考えること
を止めようと考える。まだ高校1年生、時間はたっぷりあるんだからと自分を落ち着かせ
て。
そうやって答えを出すことから逃げているところもあった、後から悔やむことになるこ
とに気づくはずもなく。
窓外の夜空を見上げる、星はまばらに淡々と光っていた。
「た〜くみぃっ!」
「たっちゃ〜んっ!」
また窓越しに莉子の思いきりの声が響く。窓をとおした方が響くんじゃないか、と思い
たくなるくらい。あの大声とこの窓の相性はどれだけいいんだ、と。
「ミートソース、こら〜っ!」
「スパゲティ、起きろ〜っ!」
こんなところで使われるなら作ってやらなきゃよかった、そう思っても後のまつり。
3分15秒、自分で作ったミートソーススパゲティで平尾艦隊は沈没することになった。
起ききらない頭のままで教科書と文房具を平ったいスクールバッグに押し込んでいくと、
昨日の帰りにはなかったはずのものがそこに入っていた。
玄関を開くと勝者が「おはよう」と言って迎える、なるべく明声になるように心掛けて。
「・・・・・・おはよう」
莉子の世界が止まった、その横を匠は通り抜けていく。
たっちゃん、たっちゃん、自転車に跨ろうとした匠の腕をつかんで丸くなった瞳で言う。
「今っ、今、おはようって言った?」
確かに聞こえたはずの声、聞き取れない距離でもない。だけど、ちゃんとした確信が欲
しくて訊いた。たかが「おはよう」、されど彼女の中では大きなことだった。
「言ったよね? 絶対言ったよ、聞いたもん」
匠が「それが?」と言葉なしにうなずくと、莉子は喜色で体を包まれた。どうしようか
迷ったけど思い切ってやってよかった、心からそう思った。
シャ〜ッ、シャ〜ッ、2台の自転車が田園を裂くように伸びる一本道を並んで走る。こ
の日の朝は寒かったが莉子はそれを感じなかった、それ以上の温かみがあったから。
「ねぇ、おはようって言ってくれたのっていつぶりかな?」
優顔の彼女からの言葉に彼からの返答はなかった。正解は1年半ぶり、2人が思春期に
差し掛かった頃。子供の頃のように馴れ合う関係に恥ずかしみを感じ、どちらからともな
くどちらもが距離を生んで。
「おはようって良い言葉だね、初めて実感した」
だって、こんなに暖かいものを届けてくれるんだから。
「これからも言ってこうよ、たっちゃん」
「悪いようにはしないからさぁ、ね〜え」
おねだりみたいにしてると、匠はバッグからピンクの封筒を取り出す。一昨日の夜に机
に向かって30分格闘して、昨日の夜に彼のバッグに完成品を入れたもの。2人が食べ終
えたミートスパゲティとゼリーの食器を匠が台所で洗ってる隙に、バラエティ番組を見て
るフリをして2階の彼の部屋にあるバッグまで特急で往復した。
「これのおかげでプリント忘れずにすみました、ありがとうございます」
よそよそしい言葉だった、匠なりに恥ずかしさを押し殺した結果で。
「どういたしまして」
莉子はフッと笑いながら言った。
雲の隙間から差し込んだ陽光は2人の背中を押すようにポンと触れる。
「北野莉子の明日のおしらせタ〜イムっ!
1時限目は日本史、話が退屈でも寝ちゃダメだよ。
2時限目は化学、苦手科目でも分かろうと努力しなさい。
3時限目は英会話、先週配られたプリントの続きだから忘れないように。
4時限目は数学一、私はもうお手上げです、たっちゃんはなんで分かるの〜?
5時限目は保健、昼休み明けで気持ちがたるんでる率ナンバーワン。
6時限目は英語、もうちょっとで終わるから集中です。
最近は温かくなったとか言ってるけど、まだまだ冷えるから風邪ひかないようにね。
たっちゃん、季節の変わり目で必ず体こわすから気をつけて。
まぁ、そんなこと言っておいても風邪ひくってパターンなんだろうけど、アハハ。
じゃあ、明日も布団大好きな匠くんを起こしに行ってあげるからね。バイバイ。」
ピンクの封筒の中にあったのは、水色で書かれた文字が並んだ、モンチッチのプリント
されたかわいい便箋。一昨日の夜、試行錯誤をかさねて書き上げた北野莉子から平尾匠へ
の2通目のラブレターだった。